学位論文要旨



No 213018
著者(漢字) 土屋,健太郎
著者(英字)
著者(カナ) ツチヤ,ケンタロウ
標題(和) S(3P)原子の反応性およびH2Sの高温酸化反応に関する実験的研究
標題(洋)
報告番号 213018
報告番号 乙13018
学位授与日 1996.09.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13018号
研究科 工学系研究科
専攻 化学システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 越,光男
 東京大学 教授 松為,宏幸
 東京大学 教授 幸田,清一郎
 東京大学 教授 定方,正毅
 東京大学 助教授 山下,晃一
 東京大学 講師 三好,明
内容要旨

 燃焼に関連したS原子の化学は、大気環境におけるS原子の化学と同様に興味深い。最近、Woikiら(1994年),Olschewskiら(1994年),Shiinaら(1996年)の研究によって、H2Sの熱分解反応は従来考えられていたようなS-H結合の単純な解裂ではなく、H2が脱離する分子機構によって進行することが明らかとなった。この結果は、S(3P)原子とH2あるいはアルカンの反応がO(3P)+H2あるいはアルカンの反応にみられるような単純な水素原子の引き抜き反応ではない可能性があることを示唆する。また、H2Sの酸化過程は石炭や石油などの有機硫黄を含む化石燃料を燃焼させた場合に大気汚染物質の1つであるSO2を生成する点からも興味をもたれるが、その詳細な反応機構はこれまで明らかとなっていない。

 本研究では、S(3P)原子とアルカンの反応性を調べ、O(3P)原子の反応性と比較するとともに、H2Sの高温における酸化過程を明らかにすることを目的とした。そのために、レーザー閃光分解-衝撃波管法と原子共鳴吸収法を用いた。レーザー閃光分解-衝撃波管法は、ある特定のラジカルを系内に瞬時に生成することができ、燃焼反応の素過程を追いかける上で優れた道具である。ほぼ同一速度の衝撃波を射出することのできる無隔膜型衝撃波管を用いて、Arに大希釈した試料を反射衝撃波を用いて加熱し、その背後に、管端に取り付けた石英窓を介して、ArF(193nm)あるいはKrF(248nm)エキシマーレーザーを照射した。O(3P)原子の前駆体にはSO2を、S(3P)原子のそれにはCOSを用いた。O(3P)原子、S(3P)原子またはH(2S)原子の濃度の時間変化を、それぞれ130.5,182.6,121.6nmの波長の原子共鳴吸収法を用いて測定した。Heに希釈した1%O2,0.1%SO2あるいは1%H2をマイクロ波放電して得られた共鳴光をMgF2窓を介して衝撃波管内に通し、反対側のMgF2窓から出てきた透過光の強度を真空紫外分光器を用いて分光し、光電子増倍管を用いて吸収量の時間変化を測定した。O(3P)原子濃度の検量線にはN2Oの熱分解を、S(3P)原子のそれにはCOSの熱分解を利用した。H(2S)原子の検量線は、O(3P)原子の検量線を基とし、SO2のArFレーザー閃光分解によって生成したO(3P)原子を大量のH2と反応させることによって2倍量のH(2S)原子に変換することによって作成した。

 はじめに、S(3P)原子とH2,D2,CH4,C2H6,C3H8,n-C4H10,i-C4H10の反応速度について調べた。その結果、S(3P)+アルカンの反応速度定数については、O(3P)+アルカンの反応と同様に、近似的に反応速度の部分加成則が成立することが明らかとなった。また、これらの反応速度の活性化エネルギーの大きさは反応のエンタルピー変化量にほぼ等しいことが判明した。この結果は、O(3P)+H2およびアルカンの反応が大きな活性化エネルギーを有するのとは対照的であり、S(3P)+H2およびアルカンの反応が後期障壁の反応であることを示唆する。

 次に、H2Sの燃焼あるいは酸化過程の初期における重要な素反応の1つであると考えられるO(3P)+H2Sの反応について調べた。この反応は、水素原子の引き抜き反応の経路(OH+HS)と直接的な置換反応の経路(H+HSO)があることが知られているが、これらの経路の分岐比および500K以上の温度における速度定数はほとんど知られていない。本実験では、SO2のレーザー閃光分解によって生成したO(3P)原子のH2Sとの反応による減少速度から本反応の総括反応速度を求め、また、H原子の濃度プロファイルからこ反応経路の分岐比を求めた。得られたO(3P)+H2Sの総括反応速度定数の値は1100〜2000Kの温度範囲で次式で表された。

 

 H+HSOの経路の分岐比の値については1520〜1820Kの温度範囲で0.2±0.1の値を得た。また、これらの結果について量子化学計算の結果を基に遷移状態理論を用いて検討した。

 さらに、S原子を含む化合物の酸化あるいは燃焼過程を明らかにする上で重要な反応であるS(3P)+O2およびSO+O2の反応について調べた。Arに希釈したCOSとO2の混合試料を反射衝撃波を用いて980〜1610Kに加熱し、COSのKrF(248nm)レーザー閃光分解とそれに引き続く衝突緩和によって生成したS(3P)原子の擬一次反応条件下における減少速度を測定し、S+O2の反応の速度定数を求めた。

 

 また、O(3P)原子濃度のプロファイルから、この反応の生成物はO+SOであることを確認した。この反応の速度定数は室温から400Kまでの温度範囲で一定であり、活性化エネルギーは、ほぼゼロであるのに対し、Woikiら(1994年)とFujii(1994年)は高温領域でかなり大きな活性化エネルギーの値(それぞれ1220〜3460Kで26kJmol-1と2200〜2700Kで41kJmol-1)を報告している。本実験はWoikiらの温度範囲よりやや低温側の980〜1610Kの温度領域で行い、15kJmol-1の活性化エネルギーが得られた。これらの結果を総合すると、S+O2の反応の生成経路は室温から3500Kの高温までの温度範囲にわたってO+SOであるにもかかわらず、その速度定数は特異な非Arrhenius的な温度依存性を示すといえる。SO+O2の反応については、Arに希釈したSO2とO2の混合試料を反射衝撃波を用いて加熱し、SO2のKrF(248nm)レーザー閃光分解によって生成したSOがO2と反応して生じるO(3P)原子の生成速度からその速度定数を決定した。得られたSO+O2の反応の速度定数は1130〜1640Kの温度範囲で次式で表された。

 

 この反応の速度定数に関しては既に、Goedeら(1983年),Blackら(1982年),Homannら(1968年),Woikiら(1995年)の実験があり、本実験はこれまで測定例がない温度領域で速度定数の値を与えた。本実験および彼らの結果のArrheniusプロットは、この反応の速度定数もわずかに非Arrhenius的な温度依存性があることを示唆している。

 これまでのS原子を含む化学種の反応の速度定数の直接的な測定結果を基に、H2Sの高温における酸化反応機構について調べた。HS+O2の反応は、H2Sの酸化反応過程中の連鎖分岐過程を担う重要な素反応の一つと考えられるが、その反応経路と速度定数のいずれも知られていない。本研究では、この反応について検討するために、H2S/O2/Ar系を反射衝撃波加熱しArF(193nm)レーザーを照射することによってH2Sを閃光分解して系内にHSを生成し、O原子およびH原子濃度の時間変化を原子共鳴吸収法を用いて測定した。得られたOおよびH原子の濃度プロファイルからHS+O2の反応の経路および速度定数を調べるためにH2Sの酸化反応機構モデルを構築した。このモデルは30個の素反応から成り、そのうち17個の素反応はSを含む化学種の反応であり、残りの13個の素反応はよく知られたH2-O2系の反応である。HとSのみからなる化学種の素反応:H2S+Ar→H2+S+Ar,H+H2S→H2+HS,S+H2S→2HS,S+H2→HS+HについてはYoshimuraら(1994年),Shiinaら(1996年)の研究によって得られた値を用いた。H2Sの一連の酸化反応:O+H2S→OH+HS,O+H2S→H+HSO,O+HS→H+SO,S+O2→SO+O,SO+O2→SO2+Oについては本研究の結果を用いた。これらの反応の速度定数の値は主にレーザー閃光分解-衝撃波管法による直接的な測定によって精度よく求められたものであり、このような数値計算を行うにあたって十分な信頼性があるものと考えられる。このH2Sの酸化反応機構モデルに基づく数値計算の結果を実験で得られたOおよびH原子の濃度プロファイルと比較した。その結果、いくつか考えられるOH+O2の反応の経路のうち、O+HSOの経路が実験的に得られたOおよびH原子の濃度プロファイルをもっともよく説明することができ、主にO原子の濃度プロファイルとの比較によってHS+O2→O+HSOの反応速度を求めた。BradleyとDobson(1967年)はH2S/O2/Ar系におけるSO2生成の誘導期間の測定を1300〜2500Kの温度範囲において行っている。そこで、構築した反応機構モデルおよび本実験の結果得られたHS+O2の経路と速度定数の値を基に、Bradleyらの実験のシミュレーションを行った。その結果、彼らの測定したSO2の生成誘導時間をよく説明することができた。本反応モデルに基づく数値計算と実験データの比較はSO2生成の誘導期間についてのみ行われたにすぎないが、SO2はH2Sの高温における酸化過程の最終生成物の1つであり、その誘導期間の値はH2Sの酸化過程全体を表すよい指標といえる。したがって、H2Sの高温における酸化反応機構のモデルは概ね妥当であることが期待できる。

審査要旨

 本論文は「S(3P)原子の反応性およびH2Sの高温酸化反応に関する実験的研究」と題し、大気中や燃焼系における硫黄化合物の挙動を理解するために重要な、S原子を含むラジカルの反応素過程の速度論的解明を試みたものである。特にS原子とアルカンの反応性を調べ、O原子の反応性と比較するとともに、H2Sの高温における酸化過程を明らかにしている。

 本論文は6章よりなる。第1章は序論で、既往の研究についてまとめ、硫黄化合物の気相反応素過程に関しては速度論的データが不足していることを述べている。S原子と炭化水素の反応についてはこれまでに殆どデータがなく、燃焼系におけるH2SからSO2への酸化反応機構についても明らかになっていない。

 第2章では用いた実験手法の詳細を論じている。本研究ではレーザ閃光分解法と衝撃波管法を組み合わせた装置を用いて、S原子の反応を調べているが、COSを高温下でエキシマーレーザにより光分解することで効率よくS原子が生成することを見いだした。生成したS原子を原子共鳴吸収法により高感度で検出しているが、その光源の特性や本研究で開発したS原子の定量法について述べている。

 第3章では、S原子及びO原子と、H2、D2、CH4、C2H6、C3H8、n-C4H10、i-C4H10、H2Sとの反応の速度定数の測定結果が述べられている。S原子とアルカンの反応については反応速度の部分加成則が近似的に成立すること、O原子とH2、アルカンの反応が大きな活性化エネルギーを有するのとは対照的に、活性化エネルギーの大きさは反応のエンタルピー変化量にほぼ等しいことを明らかにしている。O原子とH2Sの反応については、H原子の引き抜き反応の経路(OH+HS)と直接的な置換反応の経路(H+HSO)があることが知られているが、これらの経路の分岐比および500K以上の温度における速度定数はほとんど知られていない。SO2のレーザー閃光分解によって生成したO原子の減少速度から総括反応速度を求め、H原子の濃度プロファイルからこれらの経路の分岐比を求めている。

 第4章ではS原子及びSOラジカルとO2の反応についての結果が述べられている。S原子の減少速度からS+O2の反応の速度定数を求め、また、O原子濃度のプロファイルから、この反応の生成物はO+SOであることを確認した。この反応の速度定数は室温から400Kまでの温度範囲で一定であり、活性化エネルギーはほぼゼロであるのに対し、1200K以上の高温では15kJ/molの活性化エネルギーが得られ、特異な非Arrhenius的な温度依存性を示すことが明らかにされた。SO+O2の反応については、SO2のKrFレーザー閃光分解によって生成したSOがO2と反応して生じるO原子の生成速度から1130-1640Kの温度における速度定数を決定した。

 第5章では、これまでのS原子を含む化学種の反応の速度定数の直接的な測定結果を基に、H2Sの高温における酸化反応機構について調べている。HS+O2の反応はH2Sの酸化反応過程中の連鎖分岐過程を担う重要な素反応の一つであるが、この反応について検討するために、H2Sをレーザ光分解してHSラジカルを生成し、反応生成物であるO原子およびH原子濃度の時間変化を、30個の素反応からなるH2Sの酸化反応機構モデルによるシミュレーション結果と比較して反応機構を検討した。O+HSOの経路が実験的に得られたOおよびH原子の濃度プロファイルをもっともよく説明することができ、主にO原子の濃度プロファイルとの比較によってHS+O2=HSO+Oの反応速度を求めた。このH2Sの酸化反応機構は、H2Sの燃焼におけるSO2生成の誘導期に関する既存のデータをもよく説明できる。

 第6章は研究の総括であるが、得られた速度定数を整理し、これらのデータによりどのようにH2Sの酸化反応機構が明らかになったかを述べると共に、いくつかの反応速度定数の異常な温度依存性の解釈が、未解明の問題として残されている事を指摘している。

 以上要するに、本論分は硫黄を含むラジカルの多くの気相反応素過程の速度定数を初めて直接的にかつ系統的に測定し、硫化水素の酸化反応機構、燃焼系における硫黄化合物の挙動を明らかにしたものであり、化学システム工学の発展に寄与するところが大きい。

 よって本論分は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/51020