学位論文要旨



No 213023
著者(漢字) 田添,京二
著者(英字)
著者(カナ) タゾエ,キョウジ
標題(和) サー・ジェイムズ・スチュアートの経済学
標題(洋)
報告番号 213023
報告番号 乙13023
学位授与日 1996.09.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第13023号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小幡,道昭
 東京大学 教授 伊藤,誠
 東京大学 教授 二瓶,剛男
 東京大学 教授 杉浦,克己
 東京大学 助教授 丸山,眞人
内容要旨

 ヨーロッパにおける経済学の流れを大観したとき,十八世紀後半期をもって経済学史上の最も決定的な画期のひとつと見ることについては-少なくとも今日では-大方の同意が得られるであろう。フランソワ・ケネー『経済表範式』(1767),サー・ジェイムズ・ステュアート『経済の原理』(1767),アダム・スミス『国富論』(1776)と三個の巨大な経済学体系が,あい前後してこの時期に聳え立ったからである。

 だが実は一見自明に等しいとさえ思えるこの定言の背後には,重大な二つの課題がひそんでいて,我々に真摯な考察を迫っていると申請者には思われた。

 第一の課題,あるいは謎とはこうである。三大体系がフランスとグレイト・ブリテンという当時の両超大国を地盤として成立したことはなんら驚くには当るまい。しかし後の二体系を生んだのは,グレイト・ブリテンとはいうものの最先進の経済大国イングランドではなく,ついこのあいだまで封建以前的なクラン制をハイランドに遺し,経済的にはイングランドの内国植民地に近く,政治的にもイングランドに従属していたスコットランドであった。

 経済学体系の成立という形に引きしぼるのでなしに,より広く一般的に十八世紀スコットランドの文芸復興を歴史の謎として意識した例ならば,すでに同時代人のD.ヒュームがG.エリオットに宛てた有名な手紙とか,イタリーの史家C.デニーナのエッセイに見ることができる。しかし彼らは謎を解こうとはしなかったし,答えも持ちあわせていなかった。

 それ以降この謎解きがどのような経過を辿ったかは,申請者の論文『サー・ジェイムズ・ステュアート・の経済学』(以下『論文』と略記)後篇第二章「十八世紀末における経済学の体系化とスコットランド」の前半で述べた。そこで知り得たことをやや強引に要約すると,スコットランド文芸復興の根拠いかんという広く一般的な-悪く言えば散漫にもなりかねない-形でのとり上げ方が圧倒的に多く,「スコットランド歴史学派」というカテゴリーを打出したR・パスカルからR・ミークやA・スキナーに至る一連の精鋭の研究さえ,客体的条件の羅列にとどまる。

 申請者は,なぜ経済学の体系がはじめてスコットランドで成立したかという根底的な問の形にまずしぼって謎に取り組むべきだと考え,ひとつの試論を提示してみた。前出の『論文』第二章後半部である。一般的な歴史の背景としてこの期はJ.シーリーの言うとおり英佛「第二の百年戦争」の時代で,初期帝国主義型の七年戦争はその一頂点であった。こうした戦争と体制的危機の時代を深く全面的に理論化すべき経済学は体系的でなければならなかった。だが最先進のイングランドは,人類がはじめて直面する経済・社会問題を次々に認識し,対策を樹て,その場その場でいわばピース・ミール式に解決したり-時には失敗したり-して発展してきた。イングランドは新たな課題が提起されても発展史の出発点に立戻って自分史をもう一度総括してみないと新課題に対応できないなどと考える筈はなかった。だがそれでは体系的経済学を発想することさえできない。事実1756年にスミスその人が率直適確に断言したように「学問において一流の地位には手が届かず,そうかといって二流の地位に留まるようなケチなこともかなわず,学問研究を全く放棄してしまったように見えます」という状況に陥入った。

 後発のスコットランドは,世界史のなかで,もしかするとこれ一回かと思いたくなるほど特異な・また切羽詰った位置に置かれていた。もがきながらも発展しはじめたスコットランドが心底欲したのは,イングランドやフランスのような先進経済に追いつき追いこすには,両国がどういうコースを辿り,ある段階ではどんな経済問題に遭遇し,それをどう解いたか,時には失敗して廻り途を選んだかなどなどを示してくれる市民社会形成地図であり,経済問題群連鎖の見取図であった。歴史知識の寄せ集めでも,単なる経済認識の蓄積でもなく,市民社会発生史の観点を自覚的方法意識にこめて諸範疇を検出し編成する,つまり体系をつくり出す-それこそが今求められている当のものだった。体系の中で形成史をどの位置に据えるかで相異を見せながらも,ステュアートとスミスはまさしくそういう体系を創出した。後進国の経済学は一般に歴史・形成史への傾斜を強める。しかしスコットランドの場合をその一般的傾向に解消してはならない。スコットランドは1707年の「合邦」によって最先進国民経済のうちに抱えこまれ,以後一体となり,世界商業戦において他の後進諸国を圧服してゆくという史上稀有の役割を果すのだから。

 スコットランド人の経済学者A.L.マクフィーは『社会における個人』でせっかく「経済思想におけるスコットランドの伝統」を論じ,前出のヒューム書簡を引用したにもかかわらず,その謎に答えるのはhopeless of answerとする。碩学マクフィーにして回答不能とした謎に申請者の試論がどこまで迫りえたかは,当初自信がなかったが,その後スミス自身の『エディンバラ評論』第二号の学界展望が拙論をかなりの局面で裏付けていることを知った。『参考論文』第二章IV「アダム・スミスの方法をめぐって」がそれである。

 第二の課題に移ろう。文頭で三大体系が鼎立したことを述べた際に「すくなくとも今日なら-大方の同意が得られるであろう」と条件づきの表現をした。ステュアートの評価と学史上の位置づけについては,長い亡却と時には黙殺の時代があったからである。

 申請者がステュアートを研究対象として選んだ時,まず手がけたのは過去に彼がどのように研究され・評価・批判されたかを知ることであった。『論文』後篇第一章「ステュアート研究の動向について」がその概観であり,後篇第三・四・五章はステュアートの主著『経済の原理』発刊当時における批評界の反応を探った特殊研究である。

 彼に対する評価は始めから低かったわけでは決してない。批評誌二種とも異例のスペースを割き,その包括性と豊かな学識に注目した。1768年から刊行されたエンサイクロペディア・ブリタニカ初版の経済関連項目の記述はほとんど『原理』を下敷にして書かれている。その発生史的方法の故であろうかヨーロッパ大陸諸国や北アメリカ植民地には相当広く『原理』が流布した。

 それにもかかわらず早くも書評は彼のジャコバイト(ステュアート朝復位運動家)としての過去を『原理』のあれこれの文章にこじつけて,それが為政者(ステイツマン)の経済干渉を目論む保守的,いな反動的文書だと読者に印象つけようとし,大陸の遅れた国やスコットランドならいざ知らず,イングランドのように豊かで自由な国にはあてはまらないとさえ言った。

 経済学史におけるいわばステュアートの日蝕を動機づけた大きな要因がこうしたウイッグ型の政治的批難だったとしても,学問上彼の足許を揺るがしたのは『原理』に九年おくれて世に出た『国富論』であった。その理論が指向する経済的自由は時代の趨勢によりよく沿ってもいたし,具体的で身近な例証を折り込んだ平明な良い英文で書かれていた。晦渋な論歩と重たい文章の大冊『原理』は普及性の点ではるかに不利であった。

 ただし以上の経緯は表面上の話であって,ことは通例伝えられるほど単純ではない。スミスが親友のW.ポールトネーに宛てた手紙にはこうある。「ステュアートの著書については,私は貴方と同じ意見を持っています。私はそれについて一度も言及しようとしたことはありませんが,その著書のなかの誤った原理はそのどれも私の著書のなかで明白かつ的確な反駁にあうはずだという自信を持っています」。ポールトネーの手紙を読まない限り断定はしにくいけれども,非の打ちどころのないフェア・プレーと賞める気にはなれない。凡人は黙殺路線の口あけだと勘ぐる。この路線の上塗りをつとめたのは『人口論』マルサス(モールサス)であった。ステュアートのプレイジアリズムとさえ言われながら学恩への言及は第二版でやっと実行された。

 義憤を発してステュアートを亡却の彼方から救い出し,スミス・リカードウと並べて「古典経済学」に位置づけたのはマルクスであった。しかし同時にマルクスは時に自からの立脚点に引きつけ過ぎた裁断をステュアートに加えもした。ステュアート自身の論理にできるだけ内在するとともに彼の生きた時代的背景にも目配りしながらステュアートの偉さを押出したいというのが申請者の四十年にわたる研究の一貫した主題となった。その最初の試みが前述した「ステュアート研究の動向について」(『経済学論集』19巻3号・1950年3月)で,奇しくも小林昇氏のステュアート論を含む「重商主義の貨幣理論」と同年同月に公表され,わが国戦後のステュアート復興運動のスタート・ラインを画する結果となった。その後世界の学史学界には陸続とステュアート研究者が輩出し,学史上におけるステュアートの古典的地位は確立した。今や十八世紀後半期における経済学体系の鼎立という表現に異議を唱える学史家はいないであろう。

審査要旨

 本論文は、ジェイムズ・ステュアートの経済学についての論文筆者の多年にわたる理論的・学説史的研究を、単行本(『サー・ジェイムス・ステュアートの経済学』1990年,八朔社,A5版、はしがき15頁、本文404頁、索引16頁)のかたちにとりまとめたものである。その全体は、6章からなる前篇「『経済学原理』の理論構造」と、7章からなる後篇「ステュアート経済学の背景」の2篇に大きく分けられている。まず、それぞれの篇の内容を簡単に要約して示そう。

 まず、前篇では、ステュアートの経済学を新たに形成されつつある近代市民社会の経済構造を歴史的な視角から「経済学原理」としてはじめて体系化したものとして位置づけ、これに対して「流通主義的観点からする生産過程把握」を示すものという独自の解釈が加えられている。このような解釈の基礎をなすのは、農業が人口を支えるという歴史を貫く物質代謝の一般的原理に対して、近代市民社会では逆に有効需要の担い手となるフリー・ハンズの人口が農業を規制するという特殊歴史的形態が重合して進展するというステュアート経済学の基本構造に関する理解である。本論文では、このような基本構造が、『経済学原理』の第一篇と第二篇との関係のうちに解読されている。それゆえ本論文は、ステュアートの場合、近代市民社会の発展のためには、物質代謝の要素としての単なる労働labourの増大ではなく、新たな有効需要を形成する勤労industryに携わる人口を拡大する必要があることになり、為政者Statesmanもその方向に誘導しなくてはならないとされている。論文筆者は、この発展過程の総体を自ら「ステュアートの『人口表』」とよぶ生産の拡大と人口の動態の表式のうちに展開している。

 以上のような近代市民社会の形成という観点をふまえ、『原理』の第二篇「商業と工業について」における経済理論に対する一貫した解明が試みられゆく。その際、『原理』では、(A)ひとりのワークマンを中心とした分析と(B)歴史的発展段階を基礎とした理論化、という二つの視点がつねに前提となっているとし、この確認のもとに、ステュアートに独自な実質価値real valueが分析され、賃金および利潤という範疇が画定されてゆく。

 (1)実質価値に関してステュアートは、それが(i)ひとりあたり一定期間の生産量、(ii)ワークマンにより支出されたexpended部分(生活手段と道具)の価値、(iii)前貸しされるadvanced原料の価値、を知ることによって計算可能となるという。この点をめぐって、論文筆者は(iii)が内在的価値intrinsic valueをなすのに対して、(i)および(ii)には利潤profitないし利得gainが含まれるという解釈を提示する。ステュアートでは多くの場合、商品の価格は実質価値と譲渡利潤によって構成されるとみなされているが、本論文のポイントは流通過程から生じる譲渡利潤だけではく、ワークマンのもとで生産過程に基礎をもつ利潤という規定も同時に存在しているという解釈にある。その意味で、市場の浸透のもとでワークマンの労働過程と生活様式のうちに利潤を生み出す本源的な力が潜んでいる点が、事実上ステュアートにおいても独自に察知されていたのだというのである。

 (2)また賃金に関してステュアートは、生活資料の価値額がワークマンの手にする賃金を規制するのではなく、その労働の成果である生産物の価値のほうが逆に賃金を規制するとしているという。そして、長期的には穀物価格が賃金に影響することはあっても、基本的には賃金が生活資料である穀物価格の水準を規制するとしている。この点に関して論文筆者は、必需の概念の検討を通じ、賃金が生理的必需に止まらない社会的必需をともなう関係が明確にされる点に着目する。ステュアートでは、古典派に広くみられる実物的な生活資料をベースとした賃金理論とは異なり、生活水準も価値量をベースに捉えられているという。そして、これによって支出部分の弾力性の基礎が明らかにされ、また、穀物価格が最大多数を占める下層労働者の支払い能力を超えるような水準に上昇することはないという有効需要の理論も根拠づけられているとしている。

 (3)さらにステュアートの利潤規定に関しても、ひとりのワークマンに着目する方法によって、それが賃金と密接に結びつけられており、広義の利潤として括られているという解釈が示されている。そして、ステュアートには論文筆者が第I規定と第II規定とよぶ二つの利潤規定が併存する点に着目する。このうち第I規定というのは、生産力が上昇するなかで、単に生産物の量が増大するだけではなく、同時にまた価値量の増大が進むもとで形成される利潤規定である。事実上、優等な生産条件は追加的な価値を形成するものとされ、その点で競争を貫いて形成される利潤規定として捉えられ、競争の制限がもたらす利潤の第II規定と区別されるとしている。さらにこの第II規定のうちの第5項では、競争制限とはいえない「節約」がもたらす利潤という、ワークマンを基礎とした分析に特有な規定も含まれている点が指摘されている。ステュアートの利潤概念には「譲渡利潤」だけではく、奢侈による有効需要を基礎として、流通過程が生産過程に浸透するなかで形成される独自の利潤範疇が蔵されているという主張が展開されてゆくのである。

 つぎに本論文の後篇では、ステュアートの経済学が形成されていった背景が、次のような諸側面から多角的に検討されてゆく。

 ここではまず、ステュアート研究の動向に関するサーベイが与えられている。イギリスではA.スミスを起点とする古典派経済学の勃興のなかで、ステュアートの経済学は事実上黙殺されて、その研究はむしろ大陸、とくに後進国ドイツに引き継がれ、歴史学派を中心に評価されていった経緯が紹介されている。しかし、今世紀に入ってケインズ理論の普及につれて、ステュアートの経済学が英米において再認識されていった点が指摘され、この流れを代表するS.R.SenおよびW.F.Stettnerなどの業績が検討されている。

 ついで、さらに視野を広げ、18世紀末のスコットランドにおいて、なぜ経済学の体系化がはじめて進んだのか、という問題が提起され、それに答えるかたちでステュアートの経済学の特質が背後から照射される。この問題に対する、R.Pascal,R.Meek,A.S.Skinnerたちの一連の見解が紹介され、それをふまえ次のような主張が展開されている。すなわち、イングランドに隣接する後進国スコットランドでは急速な市民社会の形成が進むなかで、部分的で漸進的な問題の解決をこえ、さらに市民社会の形成史全体を総括・反省し、意識的に新たな社会を構想するための基礎として、経済学の体系化が強く要請されたのだというのである。

 さらに、ステュアートの『経済学原理』が当時の社会に与えた影響の一端を探るために、当時の文芸誌の一般的傾向をおさえたうえで、そこでの『原理』に対する評価に検討が加えられている。すなわち、『マンスリー・リヴュー』にのった、W.Bewleyによると推定される書評、および『クリティカル・リヴュー』にのった匿名執筆者の書評の内容が詳解される。さらにこの『クリティカル・リヴュー』の書評に対しては、その執筆者がA.スミスの可能性があるとして、この点を追求したW.R.Scottの一連の調査も紹介されている。

 また、ステュアートの経済学の特徴を把握するため、1769年のパンフレット『ラナーク州の利害に関する諸考察』にも考察が及ぼされている。その詳細な紹介をふまえて、このパンフレットのねらいが、急速な商工業の発展と遅れて始まった農業革命の進展の過程において、商工業者と地主との間の利害対立に由来する穀物高価問題を『原理』で確立された理論をもとに考察したものであったことが示される。そこでは、『原理』第1篇および第2篇において明らかにされた、近代市民社会の発展の考察をめぐる一般論と特殊論の問題が、政策論として展開されている点が明確にされている。

 最後に、ステュアートの学生時代の状況から、その学問形成の特徴が考察されている。とくにこの時代、ステュアートが学んだエディンバラ大学では「新哲学」としてニュートン理論が導入され、それに基づいて教育体系の刷新が進められており、こうしたなかでステュアートに強い影響を及ぼしたと思われる一般史Universal Historyの教授C.Machieの学問にも論及されている。これによって、『原理』の基礎となっている、実証的な歴史過程をふまえた理論的考察の基盤がどのように培われていったのかが、独自の資料に基づいて解明されている。

 以上のように要約される本論文に対し、審査委員会は次のような意義が認められると判定した。

 第1にあげられるのは、「流通主義的観点からする生産過程把握」という一貫した視点に基づいて、複雑で難解なステュアート経済学の骨格が内在的に解明されている点である。これによって、たとえば単なる貿易差額によって国富を増大させるといった従来の重商主義の経済理論に対するステュアート経済学の独自性が明確にされている。この点は、前篇におけるステュアートの実質価値の詳細な分析を通じて、『原理』における利潤範疇に対する内在的な考究が展開され、それを通じてステュアートの利潤規定が、単なる流通過程から発生する利潤だけではなく、生産過程にすでに基礎をもつ利潤規定を同時に含んでいるという解釈となって結実している。この独自の解釈は、その後の一連の論争を惹起したものであり、賛否はともかく重要な問題提起であったと評価される。

 第2に、ステュアート経済学が内包する、歴史的な発展過程を基礎とした近代市民社会の理論的な把握という特質が明確にされている点も高く評価される。これは、『原理』第1篇をあらゆる社会に通じる社会的物質代謝の解析とし、第2篇以降はそれを基礎とした近代市民社会に特有な経済的諸範疇、諸法則の解明として位置づけるという『原理』全体の構成に関する解釈を基礎とし、本論文前篇におけるステュアートの賃金、利潤範疇に対する内在的な検討のうちに深化されている。さらにこの点は、ステュアートの『原理』の検討を通じて、本論文後編における重要なテーマ、すなわち経済学の体系がなぜスコットランドではじめて成立したのか、というさらに広い問題へと展開されている。そして、それに対しても、さまざまな資料を駆使し多角的な視点から検討が加えられるなかで、後進国における理論的な歴史の総体的な再把握の必要性という独自の解答が提示されている点も重要な意義をもつ。

 第3に、ステュアートにおける有効需要の観点が社会的な発展の原動力として把握されている点も無視できない。その意味を探るため、古典派経済学における生活資料の価値が賃金を決定するという立場に対して、ステュアートでは逆に賃金が生活資料の価値を規制するという立場が貫かれていることをめぐって詳細な検討が試みられている。本論文では、このようなステュアートの立場が、理論的な精緻さはともかく、有効需要を基礎とした蓄積=経済発展の理論と政策という彼の経済学の課題から不可避となる点が明確に析出されて、有効需要と経済発展の経済学の先駆の発掘として、学説史研究の観点からも注目すべき成果をもたらしている。

 第4に、本論文は戦後の日本におけるステュアート研究の草創をなす業績が基礎となっているという点でも注目される。その際、内外において過去にステュアートがどのように研究され、評価・批判されていったか、という研究史の詳細な検討の蓄積のうえに、論文筆者の独自な見解がそれに対置され、また近年急速に発展しつつあるステュアートの研究の新たな成果をふまえた自説に対するたえざる反省が含まれている点も、学問研究にとって当然であるとはいえ、高く評価されてしかるべきである。

 他方、本論文に対してつぎのような問題点が審査委員会のなかで提示された。

 第1に、論文筆者は、『原理』第2篇第4章の実質価値を構成する三項目が合算しうるものだとする独自の解釈を提示している。これは、ステュアートの利潤ないし利得という範疇が、流通過程における譲渡利潤をこえた、生産過程に基礎をもつ部分を含むとする理解の重要な根拠となっている。しかし、このような解釈は『原理』の必ずしも自然な読解のうちに生まれるものとはいいがたく、その点で論文筆者の独自の理解にはなお疑問が残る。

 第2に、本論文ではステュアートを普通に読めば自ずと了解される革新に対する報酬としての利潤という側面が軽視されている。ワークマンの場合、節約とつつましい生活が利潤拡大の原因の一つであるというのも、その内実はその創意工夫を意味していると考えられる点が充分明確にされているとはいえず、また、商人があらたな商品をもちこむことで生活様式を変革し、それによって交換に提供する商品を獲得するための勤労を増大させるなかで利潤の拡大をはかるといった、動態的な過程も必ずしも充分に捉えられているとはいえない。論文筆者が、スミスやリカードに対してステュアートの経済学のもつ独自性を強調する試みを他に先駆けて進めてきたことは評価されるべきであるが、この点に関してはなお、スミスやリカードの鋳型にとらわれている面がないとはいえない。

 第3に、本論文では「流通主義的観点からする生産過程把握」という視角から、ステュアートの利潤規定の基礎に労働を見いだす方向に傾斜しており、そのもう一つの重要な要因たる譲渡利潤に関する考察が充分展開されているとはいえない。この考察は、『原理』の基本的性格を捉えるという意味で本来欠かせないところであり、こうした観点を含めたステュアートの利潤規定の全体像があらためて検討されるべきである。

 第4に、ステュアートが重視した、経済発展のなかで発現するさまざまなアンバランスや過剰生産の問題が、本論文では充分考察されているとはいえない。このことは本論文が、資本-賃労働関係が未分化なワークマンという観点に傾斜するあまり、ステュアートを特徴づける商人の活動というもう一つの観点を軽視する傾向にあることに対応する面がある。またそれは、『原理』後半における貨幣・信用論をめぐる独自の研究が本論文におさめられていないということにも深く関連する。こうした点で本論文には、ステュアートの経済学に固有な歴史的な発展過程におけるアンバランスやそこから生ずる経済危機の考察についての学説史的検討が、補足されるべき重要な課題としてなお残されている。

 このような問題点は残されているが、本論文は前記のような成果によって、博士(経済学)の学位を授与するに充分な研究であることについて、審査員全員の評価は一致した。

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