学位論文要旨



No 213031
著者(漢字) 曲,景平
著者(英字)
著者(カナ) キョク,ケイヘイ
標題(和) パラジウムおよびルテニウス錯体の合成とその触媒作用に関する研究
標題(洋)
報告番号 213031
報告番号 乙13031
学位授与日 1996.10.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13031号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 干鯛,眞信
 東京大学 教授 西郷,和彦
 東京大学 助教授 荒木,孝二
 東京大学 助教授 溝部,裕司
 東京大学 助教授 八代,盛夫
内容要旨

 遷移金属錯体を触媒として用いる反応は現代の有機合成化学において最も有力な方法の一つである。本論文は遷移金属錯体触媒としてパラジウム-二座配位ビス(ホスフィン)系ならびにチオラート架橋二核ルテニウム錯体に着目し,これらの錯体触媒を用いた新規な触媒反応の開発と,その基礎となるべき新規錯体の合成ならびに反応性の研究に関するものである。すなわち,まずパラジウム-二座配位ホスフィン系触媒を用い,中性条件下でアリルアルコールをアリル源として,アンモニア,ジエチルアミン,カルボン酸アミド類,スルホン酸アミド類,イミド類およびアルコール類などの化合物を効率よく直接N-アリル化またはO-アリル化する反応を開発することに初めて成功し,これらの反応に関する各種の反応条件,二座配位ホスフィンの効果や反応速度論および反応機構についての検討を行った。従来よりアリルエステル,アリルハライドを用いたアリル化反応は良く知られているが,アリルアルコールを用いた効率的なアリル化反応としては本研究が最初の例である。また本反応は副生成物が水のみであることも大きな特徴であり,工業的にもきわめて価値が高いと言える。次いで,架橋チオラート配位子を有するカチオン性二核ルテニウム錯体を触媒として用いると,アルデヒドとヒドロシランの反応において,通常のルテニウム錯体の場合と異なり芳香族アルデヒド類のシリル化を伴う二量化反応が選択的に進行することを見出した。また,カルコゲノラート架橋二核ルテニウム錯体の反応性に関してこれまで研究の進んでいないオレフィン類との反応を検討し,二分子の電子吸引性基を持つオレフィンまたはs-trans型ブタジエンを配位子として含む一連の新規な複核ルテニウム錯体が生成することなどを見出し,その構造を明らかにした。これらの知見は最近注目されているカルコゲン架橋多核錯体の反応性として基礎的かつ重要なものであると考えている。

 本論文の各章の内容は以下の通りである。

 第1章では本研究の目的である,パラジウムを始めとする単核遷移金属錯体を用いたアリルアルコールのC-O結合の活性化を経るアリル化反応と,複核金属錯体サイト上での基質の特異な化学変換ならびに触媒反応について,これまでの研究状況および関連する知見を概観した。

 第2章ではPd(OAc)2-ビス(ジフェニルホスフィノ)アルカン系触媒の存在下にアリルアルコールとジエチルアミンおよびアンモニアの反応を検討した結果を述べた。Pd(OAc)2-dppb(dppb=1,4-ビス(ジフェニルホスフィノ)ブタン)またはPd(OAc)2-dpppe(dpppe=1,5-ビス(ジフェニルホスフィノ)ペンタン)触媒を用いた場合に反応は最も速く進行し,溶媒としてはプロピレングリコールが最も適していた。また,この触媒系は種々のアリル型アルコールとジエチルアミンとの反応にも有効であり,その際の生成物分布などから本反応はアリルアルコールのパラジウム(0)錯体への酸化的付加により生成する3-アリルパラジウム中間体を経由して進行していると考えられる。アリルアルコールのC-OH結合の酸化的付加を含む触媒反応は従来きわめて例の少ない反応である。反応速度論的検討を行った結果,反応速度はアリルアルコール,ジエチルアミンおよびパラジウム触媒にそれぞれ一次であり,アリルアルコールとジエチルアミンの反応における見かけの活性化エネルギー66kJ/molであった。

 第3章ではパラジウム触媒を用いたアリルアルコールによるアミドまたはスルホンアミド化合物のN-アリル化反応を検討した。カルボン酸アミドの反応では触媒量のPhONaの存在下,Pd(OAc)2-dppb系触媒が有効であり,対応するN-アリルアミドおよびN,N-ジアリルアミドを中程度〜高収率で与えた。一方,スルホンアミドとアリルアルコールの反応ではPhONaなどの添加は必要なく,Pd(OAc)2-dppb系触媒を用いることによりN-アリルスルホンアミドおよびN,N-ジアリルスルホンアミドが高収率で得られた。

 第4章ではパラジウム-二座配位ビス(ホスフィン)系触媒を用いたアリルアルコールによるイミド化合物のN-アリル化反応について論じた。反応は中性条件下,反応温度110〜140℃で高収率で進行し,たとえば1,3,5-トリアジン-2,4,6(1H,3H,5H)-トリオンとアリルアルコールからほぼ定量的にトリアリル-1,3,5-トリアジン-2,4,6(1H,3H,5H)-トリオンが合成できることを見い出した。触媒としてはPd(OAc)2-dppb系触媒が最も高い触媒活性を示し,また反応はキシレン,トルエンなどの低極性溶媒中でより速やかに進行した。スクシンイミド,フタルイミド,ヒダントインなど各種のイミド化合物とアリルアルコールの反応でも同様に高収率でN-アリル化生成物が得られた。さらに,種々の置換アリルアルコールとスクシンイミドとの反応も円滑に進行することを示した。

 第5章ではPd(OAc)2-二座配位ビス(ホスフィン)系触媒を用いるアリルアルコールと各種アルコールとの反応をアリルエーテルの合成という観点から検討した結果を述べた。すなわち,Pd(OAc)2-dppb系触媒は,キシレンおよびトルエン溶媒中,中性条件下に高い活性でアリルエーテルを選択的に与えた。アリルアルコールとエタノールの反応の場合,生成物としてアリルエチルエーテルの収率はエタノールとアリルアルコールとのモル比([Ethyl alcohol]/[Allyl alcohol])を1から3まで増大させることにより52%から89%まで向上した。エタノールに1当量のアリルアルコールが反応する初期過程ではアリルエチルエーテルに対する選択性は低いが,反応時間を長くすることによりアリルエチルエーテルの選択性はしだいに上昇した。さらに,本触媒系はエタノールに限らず,種々のアルコール類のアリルアルコールによるO-アリル化に対しても有効であり,高収率で対応するアリルエーテルを与えた。

 第6章では[Cp*Ru(Cl)(-SPri)2RuCp*][OTf](Cp*=C5Me5,OTf=OSO2CF3)を触媒とする芳香族アルデヒドのシリル化を伴う二量化反応を論じた。すなわち,[Cp*Ru(Cl)(-SPri)2RuCp*][OTf]触媒存在下,芳香族アルデヒドと1.5当量のHSiEt3をCH3CN溶媒中,120℃の条件下で反応させることにより,良好な収率で選択的に1,2-ジアリール-1,2-ジシロキシエタンが得られることを見出した。この際,ベンジルシリルエーテルの生成はごく少量である。また二量体生成物とほぼ等モルの水素の生成も確認された。一方,類似のチオラート架橋ルテニウム錯体でも[Cp*Ru(-SPh)3RuCp*]Cl,[Cp*Ru(-SPri)3RuCp*]を用いた場合や単核ルテニウム錯体を触媒とした場合は通常のヒドロシリル化によりベンジルシリルエーテルのみを生成することから,[Cp*Ru(Cl)(-SPri)2RuCp*][OTf]はヒドロシリル化反応に対して特異な触媒活性を持つことが明らかとなった。現在のところ本反応に対して,複核錯体上でアルデヒドとヒドロシランから生成する-シロキシベンジル基がラジカル的脱離し,二量化して生成物を与える反応機構を推定している。

 第7章では,電子吸引性基を持つオレフィンと各種の二核ルテニウム錯体との反応により得られる二分子の2配位オレフィンを含む一連の新規な複核ルテニウム錯体の合成と構造について述べた。すなわち,二核ルテニウム錯体[Cp*Ru(-SPri)2RuCp*],[Cp*Ru(-SPri)3RuCp*]および[Cp*Ru(H)(-SPri)2Ru(H)Cp*]に対し過剰のアクリロニトリルをエーテルまたはベンゼン溶媒中で加えることにより,二分子の2配位アクリロニトリルを含む新規な二核錯体[Cp*Ru(2-CH2=CHCN)(-SPri)2Ru(2-CH2=CHCN)Cp*]を70%の収率で単離した。この錯体の構造は最終的にX線結晶構造解析により決定し,二分子のアクリロニトリルがオレフィン部分で配位した構造を確認した。また,他の二核ルテニウム錯体[Cp*Ru(-SEt)3RuCp*],[Cp*Ru(-SC6H3-2,6-Me2)2RuCp*]および,[Cp*Ru(-SC6H2-2,4,6-Me3)2RuCP*]を用いても,類似の構造と考えられるアクリロニトリル錯体が得られること,アレーンチオラート配位子を含むものはベンゼンに再溶解するとアクリロニトリルをほぼ完全に解離することを見出した。さらに,アクリル酸メチルやアクロレインなどのオレフィン類を用いてもやはりアクリロニトリルと類似な錯体が得られることを示し,これらの錯体の構造および特性を併せて検討した。

 第8章ではフェロセンカルコゲノラート架橋配位子を有する二核ルテニウム錯体[Cp*Ru(Cl)(-EFc)2Ru-(Cl)Cp*](E=S,Se,Te;Fc=Ferrocenyl)の反応性についての検討結果を示す。すなわち,まずこれらの錯体がナトリウムアマルガム還元条件下で1,3-ブタジエンと反応し,一分子のブタジエンをs-trans型で二核ルテニウム(II)サイト上に取り込んだ新規な錯体を生成することを見いだし,その構造を明らかにした。また,フェロセンカルコゲノラート架橋配位子を有するカチオン性二核ルテニウム錯体の合成および分光学的挙動についても検討を加えた。

 第9章は以上の成果についての総括である。

審査要旨

 遷移金属錯体を触媒として用いる反応は現代の有機合成化学において最も有力な方法の一つであるが,本論文は遷移金属錯体触媒としてパラジウム-二座配位ビス(ホスフィン)系ならびにチオラート架橋二核ルテニウム錯体に着目し,これらの錯体を用いた新規な触媒反応の開発と,その基礎となるべき新規錯体の合成ならびに反応性の研究に関するものである。本論文は9章より構成されている。

 第1章は序論であり,本論文の主題であるパラジウム錯体触媒によるアリルアルコールを利用したアリル化反応と,多核金属錯体サイト上での基質の特異な化学変換ならびに触媒反応について,従来の研究状況を概観し,本研究の目的と意義を述べている。

 第2章ではパラジウム触媒を用いたアリルアルコールの炭素-酸素結合の活性化を経るアリル化反応の開発に関する研究として,アリルアルコールとアミンおよびアンモニアの反応を検討した結果を述べている。配位子,反応条件などの検討の結果,酢酸パラジウム-dppb(1,4-ビス(ジフェニルホスフィノ)ブタン)または酢酸パラジウム-dpppe(1,5-ビス(ジフェニルホスフィノ)ペンタン)触媒を用いた場合に反応が最も効率的に進行しすることを見出し,アリルアルコールからアリルアミン類を直接合成する反応の開発に成功した。また,その際の生成物分布などからアリルアルコールの炭素-酸素結合のパラジウム錯体への酸化的付加を含む反応機構を明らかにした。

 第3章ではアリルアルコールによるアミドおよびスルホンアミド化合物のN-アリル化反応を検討した結果が述べられている。この場合にも酢酸パラジウム-dppb系触媒が有効であり,対応するN-アリルアミドおよびN,N-ジアリルアミドが良好な収率で得られることが明らかにされている。

 第4章ではアリルアルコールによるイミド化合物のN-アリル化反応について述べられている。反応は酢酸パラジウム-dppb系触媒の存在下中性条件で進行し,各種イミド化合物から高収率でN-アリル化生成物を得られることが示された。

 第5章ではアリルアルコールと各種アルコールとの反応をアリルエーテルの合成という観点から検討した結果を述べている。すなわち,酢酸パラジウム-dppb系触媒の存在下,中性条件で各種アルコールとアリルアルコールを反応させることにより対応するアリルエーテルを選択的に合成できることを見出した。また,アリルアルコールとエタノールの反応を詳細に追跡し,ジアリルエーテルのエーテル交換を含む反応過程を明らかにしている。2〜5章に述べられているアリルアルコールの炭素-酸素結合の酸化的付加を含む触媒反応は従来きわめて例の少ない反応であり,また塩を副生しないアリル化反応の開発に成功した点で有機工業化学の面からも意義深い。

 第6章では多核錯体の特徴を活かした新規な触媒反応の開発に関する研究として,チオラート架橋二核ルテニウム錯体を触媒とする芳香族アルデヒドのシリル化を伴う二量化反応について述べている。すなわち,架橋2-プロパンチオラート配位子を持つカチオン性二核ルテニウム錯体の存在下,芳香族アルデヒドとトリエチルシランの反応により選択的に1,2-ジアリール-1,2-ジシロキシエタンが得られることを見出した。アルデヒドとヒドロシランの反応により二量体生成物を与える例はわずかしかなく,チオラート架橋カチオン性二核ルテニウム錯体が二核構造に由来する特異な触媒活性を持つことが示されている。

 第7章では,2つの2-オレフィン配位子を含む新規なチオラート架橋二核ルテニウム錯体の合成と構造について述べている。チオラート架橋二核ルテニウム錯体は興味深い反応性を持つにもかかわらず,オレフィンとの反応はこれまでほとんど知られていない。本研究では,二核ルテニウム中心上に,アクリロニトリルなどのオレフィン二分子を2配位で取り込んだ一連の新規錯体を合成しその構造を決定するとともに,溶液中でのオレフィン配位子の解離挙動を検討している。

 第8章では架橋チオラート配位子に代えて架橋フェロセンカルコゲノラート配位子を有する二核ルテニウム錯体へと対象を展開し,その反応性について検討した結果を述べている。まずこれらの錯体がナトリウムアマルガム還元条件下で一分子のブタジエンをs-trans型で二核ルテニウムサイト上に取り込んだ新規錯体を生成することを見いだし,その構造を明らかにした。次いで,フェロセンカルコゲノラート架橋カチオン性二核ルテニウム錯体の合成とその分光学的挙動についても検討を加えた。これら二核ルテニウム錯体の合成と反応に関する検討結果は,多核錯体の反応性に関する基礎的な知見であり,さらに新しい触媒反応の開発に向けて有用な情報となるものと期待される。

 第9章は総括であり,本研究で見出した反応の有用性と展望について述べている。

 以上のように,本論文ではパラジウム-二座配位ホスフィン系触媒を用いることにより,中性条件下でアリルアルコールをアリル源として各種化合物を効率よく直接アリル化する反応を開発することに成功するとともに,新しい多核錯体群として興味の持たれるカルコゲノラート架橋二核ルテニウム錯体の合成,反応性,触媒活性について多くの新しい知見を得ており,その成果は有機合成化学および有機工業化学の進展に寄与するところ大である。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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