学位論文要旨



No 213048
著者(漢字) 信,立祥
著者(英字)
著者(カナ) シン,リシャン
標題(和) 中国漢代画像石の研究
標題(洋)
報告番号 213048
報告番号 乙13048
学位授与日 1996.11.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第13048号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤本,強
 東京大学 教授 今村,啓爾
 東京大学 教授 尾形,勇
 東京大学 教授 池田,知久
 東京大学 助教授 大貫,静夫
内容要旨

 この論文は、本人が現在まで中国全域で発見された一万石以上の画像石を考察対象として多年にわたって総合的研究を行なった結果である。全文は七章からなり、計23万字である。

 第一章は簡単に漢代画像石の研究史を述べており、それを金石学的研究時期(北宋時代から今世紀初期まで)、考古学的資料の収集時期(今世紀初期から60年代まで)、総合的研究の時期(60年代から今まで)という三つの段階に整理している。本研究は、先哲の研究成果を踏まえて、考古形式学と図像学と文献資料とを結び付ける方法を採用して、漢代画像石の諸特徴に対して考察した試みである。

 先ず、第二章には、漢画像石の分布の密集度から、漢画像石の分布区域を山東、江蘇北部、安徽北部、河南東部、河北東南部の区域、南陽市を中心とする河南省南西部から湖北省北部にかけての区域、陜西省北部から山西省西部にかけての区域、四川省と雲南省北部の区域、河南省の洛陽市周辺の区域など五つの分布区に分けている。そして、両漢時代の社会経済、文化の繁栄と儒教の主張した厚葬は漢代画像石が盛んに流行した二大の原因であったと指摘される。

 第三章には、漢画像石の制作過程や彫刻技法や構図方式及び題材への分析を通じて、全面的に漢画像石の芸術表現手法が考察される。漢画像石の芸術風格を決めた最も重要な要素は、彫刻技法であった。漢画像石には、二大類計六種の彫刻技法、つまり線刻類に属した陰線刻、凹面刻、凸面刻と浮き彫り類に属した浅浮き彫り、高浮き彫り、透かし彫りという彫刻技法が存在している。構図方法の面では、漢画像石は広汎に等距離散点透視法を採用したばかりではなく、焦点透視法を発明し使用した。漢画像石の題材については、個人の印象ではなく、漢代人の宇宙観によって、上帝と諸神の天上世界を表す内容、西王母と東王公の住んでいる崑崙山によって代表される仙人世界を表現する内容、人間現実世界を表す内容、死者の霊魂が住んでいる地下世界を表現する内容という四種類に分類される。

 漢代画像石のほとんどは、もともとは地下墓室と墓地祠堂の構成材であった。第四章は祠堂の画像石に対して詳しく考察が行なわれる。先ずは漢代の墓地祠堂とその画像は宗廟とその壁画に由来したもので、漢代の石造祠堂は四種が存在していたことが証明される。祠堂の画像のなかに最も重要な図像は、祠堂後壁に配された楼閣拝礼図と車馬出行図である。その内、楼閣拝礼図中の被拝礼者は祠堂の主人公で、彼に平伏する者は祠堂の主人公の孝行な子孫である。祠堂の車馬出行図については、祠堂の主人公の生前の経歴を表すものと、祠堂の主人公が地下世界から祠堂へ孝行な子孫からの祭祀を受けに行くことを表すものという二種が存在している。前者は、楼閣拝礼図と関係もない可変内容の図像で、後者は楼閣拝礼図と密接な関係のある不変内容の図像である。ほかの内容の図像は、漢代人の宇宙観によって、高いところから低いところまでの順に従って配置される。上帝と諸神の天上世界を表す図像は天井に、西王母と東王公の崑崙山仙界を表す図像は左右側壁の最上部に、人間現実世界を表現する歴史故事や祠堂の主人公の生前の経歴についての図像は後壁の上部と左右側壁の中部に配されるのは普通である。またこの章には、祠堂の主要な図像の由来、変化に対して逐一考察を加えていた。

 第五章には、先ずは祠堂の画像の由来と違って、地下墓室の画像は前漢前期までの木槨墓中の帛画に由来したことが証明される。次は、墓形と図像の発展、変化を踏まえて、それぞれ出現期と成熟期の墓室画像石の特徴を考察分析している。祠堂の画像の配置と同じく、地下墓室は漢代の人々に完全無欠の宇宙世界と見做された。後室には墓主の日常生活を表す図像、中室或いは前室に天井に上帝と諸神の図像、立柱と門柱の上部に西王母と東王公の仙人世界の図像、横梁に墓主車馬出行図と祠堂祭祀図が配置されるのが普通である。その内、中室或いは前室の横梁に配置された墓主車馬出行図と祠堂祭祀図が、不変内容の図像として最も重要な墓室画像である。また本章には強烈な地方的特色を持った四川省の画像崖墓と画像石棺を考察したときには、四川省で発見された石棺の"天門"画像は、実際には西王母と東王公の崑崙山仙界を表す図像であることが証明される。

 第四章、第五章の考察を通じて、祠堂画像と地下墓室とりわけその中室或いは前室の画像とは、図像の内容の面でも図像の配置の面でも大変類似していることを見出すことができる。第六章には、この類似点は決して偶然的な現象ではなく二種の建築の性格上の類似によって決められたことが証明される。つまり、祠堂の前身であった宗廟と地下墓室は、いずれも人間の住宅を模倣して造られたからである。古代の中国建築の特徴からすれば、両者はみんな地下墓室の"堂"である。このため、両者の図像は大変類似しているばかりか、その間には必然の係わりがあるはずである。墓室画像と祠堂画像とを繋ぐ絆として、墓主車馬出行図は、墓室の場合に墓主出行の行く先が地下世界より位置の高い墓地の祠堂であることを表明するために、一般には位置のやや高い中室或いは前室の横梁と墓門の門額に配置されており、祠堂の場合にはその車馬出行図は、位置の低い地下世界からやってくることを表明するために、一般には後壁と左右側壁の最下部に配置されていた。この墓主車馬出行図は常に密接に結びついて、漢画像石の最も重要な内容であった墓主への祭祀の内容を構成している。

 第七章には、各分布区域の画像石の彫刻技法の異同によって、各分布区域の画像石の間の交流と影響が考察される。後漢中期までの漢画像石の早期発展段階には、河南南陽と湖北北部の分布区域は、画像石の最も発達した地区であった。後漢晩期になると、山東、江蘇北部、安徽北部、河南東部の分布区域は画像石の最も発達した地区になり、陜西北部と山西西部の分布区域の影響力は、洛陽周辺地区の画像石に影響していた。四川分布区域は、南陽と湖北北部の区域の影響の下で出現し発展してきたのである。このような各区域の問の画像石技術の伝播と影響は、漢代画像石芸術の発展を促進した重要な原因でもあった。

審査要旨

 本論文は、中国の漢代を中心にして広く行われた「画像石」の資料を集め、その持つ意味を具体的な「画像石」資料と絵画資料・文献史料と対比しつつ、総合的に考察したものである。多くの新たな視点からの分析が試みられ、「画像石」研究に新しい方法と視野を拓いた論文として注目される内容を持っている。

 全体は7章の構成である。第一章では、「画像石」の研究史が著者なりの時代区分と問題意識により述べられる。第二章は「画像石」の分布の問題が地域の経済と社会の在り方および地域の文化状況と関係づけ記述される。それぞれの地域の「画像石」の在り方から5地区に分けて記載され、「画像石」の盛行の原因についての推察がなされる。

 第三章では「画像石」のさまざまな制作技法・構図・題材の問題が取り上げられる。具体例を引きつつ、資料の持つ意味に迫る幅広い分析が特徴である。多くの「画像石」の実例を観察している筆者ならではの叙述が印象的である。題材も新たな観点から内容を分析し、「画像石」の意味を明らかにする努力がなされている。主要な題材が4種類あり、それぞれの様相と特徴が検討されている。

 第四章、第五章がこの論文の白眉である。漢代「画像石」のほとんどが使用されているのは、墓地の祀堂と地下の墓室である。両者を分け、第四章では祀堂の「画像石」が、第五章では墓室の「画像石」が技法・題材・その位置などの諸要素を勘案して詳細に分析される。ここには第三章で明らかにされた技法・構図・題材についての特徴が分析の基礎におかれるとともに、その解釈にあたり、広範な文献、絵画資料が駆使されている。多くの新しい観点からの推察と示唆が含まれており、読むものを引き込む内容を持っている。文献の読み取り、図像学的な解釈などに問題がないわけではないが、「画像石」の持つ意味をこれだけ幅広いさまざまな史資料を駆使して語った論文はこれまでには見られない。

 第六章、第七章では資料の分析で抽出された問題をさらに掘り下げた解析がなされる。第六章では祀堂の「画像石」と墓室の「画像石」の様相の異同が主要なテーマであり、両者が密接な関係にあることが明らかにされている。第七章では地域ごとの「画像石」の様相が、主として彫刻技法の詳細な検討から解析される。これを通して、地域間の交流の実態が明らかにされている。第六章と第七章は第三〜第五章の内容を受けてはいるが、これらの章の分析に比べると解析に若干精彩を欠く部分が散見されるのは惜しまれる。将来の課題ということができよう。

 本論文には、将来の他の視点からの解析により証明が必要な点も、若干ではあるがないわけではない。しかし、「画像石」をめぐるさまざまな問題に画期的な分析方法と解釈をもたらした点で高く評価できる。今後の「画像石」研究の出発点をなす論文ということができよう。博士(文学)の学位の授与に十分に値する論文であると認めることができる。

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