1988年(昭和六十三年)五月、いわゆる「冷戦」は終り、世界平和も束の間、その直後から世界のいずれかの地に、以前よりも一層執拗で熾烈な民族戦争、ないし宗教戦争が、終息の見込もなく続発している。戦争の原因は何か。それを人間の闘争欲、征服欲、あるいは物質欲などに求めるのは易いが、その真の原因はもっと別のところにあると考えられる。 第二次世界大戦後間もなく、長期の悲惨な大戦争に間の飽いて再び元に戻った世界の良心は宣言した、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」(国連憲章)と。これは当時の全世界の偽らぬ心境であった。しかし、それ以後世界のいずこかに戦争は続いて現在に至っている。なぜであろうか。筆者はそれを「人の心」の問題として捕らえ、「平和のとりで」を築くヒントを、アリストテレス哲学の批判に求める。それが本論文の研究である。 アリストテレス哲学の中心的思想は一言で言って理性主義である。ギリシア人の民族的優越感は、自分たちが他民族と異なって元来理知的であるという自信である。それはペリクレスの弔い演説によって明白に示されるギリシヤ民族の伝統的な文化性に対する自負である。すなわち「美を愛し」「知を愛し」、「言論」を尊び、「熟慮」をもって事に当たるという、他民族に誇るべき民族性への自信である。アリストテレスの理性主義も、この民族的自信に無関係ではない。 アリストテレス哲学は、この自信におのずから則るごとく、理性を絶対確実なる認識力として、曖昧不確実なる認識力である感覚の上位におく。これは単なる認識論の問題ではなく、倫理論および政治論の遥かに大きな問題に関わる。その代表的なものが対異民族政策であった。すなわち異民族を理性を持たない民族であるとして、これを支配することは自然のこととし、これを当然の原則とし、異民族をいわゆると呼んで蔑視することとなった。 端的に言って、この蔑視の態度が異民族を支配する口実を与え、それが他民族や他国家に対する侵略や征服を引き起こし、結局は戦争の根源的原因となる。それは対外的のみならず同一民族、同一国家内の内紛ないし内乱の遠因でもある。 要は、これらあらゆる紛争の初源的原因と見なされる「理性」とは一体何であるかということが究極の疑問となる。この解明がアリストテレス哲学の再検討となり批判の動機となる。その検討の順序として、まずアリストテレス『霊魂論』の調査から出発し、続いて同『倫理学』、更に同『政治学』を再検討することによって、彼の「理性」の本質が如何なる意味を持つものであり、かつそれを感覚に優位するものと考える彼の理性主義が、如何に機能し、如何なることに活用されているかを、全三部に分けて解明し、それによってアリストテレス哲学を批判することとなる。 まず第一部において、アリストテレスの霊魂観を以下のごとくに理解する。すなわち彼は古今の幾多の霊魂説をつぶさに考察検証した末に、霊魂をすなわち理性であると結論付ける。いわゆる「能動理性」である。そしてこれを霊魂の最高確実な認識力と論証する一方、霊魂の他の認識力である感覚による認識力を、前者とは別種の、しかも不確実な機能として、正に理性優位の下位にあるものとして扱うことになる。 かくしてアリストテレスは認識の初源的対象である個物、すなわち(具体的合一体)に対する認識を、理性による認識と感覚による認識の二つに分け、そのおのおのの認識対象を形相と質料とに分離し、形相に対する理性認識を異常なまでに高揚し、終にはそれを純粋理性認識という最も快であり善であるとする「現実態」に達せしめ、その状態にあるのが「神」であるとして、結局理性認識を神のものとする形而上学の理論を立てることによって、理性の優位を最高度に論証することになる。 しかし、この独断とも思われる議論を展開したアリストテレスには、彼の理性認識を高揚せざるを得なかった大きな原因があった。それは彼の理性主義に真っ向から反対する感覚主義に応戦しなければならない事情があったからである。すなわちアリストテレスからすれば正に詭弁論者であるソフィストたちへの論戦である。彼らは個々人を正しい認識の尺度として、感覚の自由をこっけいなまでに当て付けに、理性主義に挑戦する『打倒論』(プロタゴラスの「人間尺度論」)の感覚論者たちであった。しかし、この論戦の背後には、それをなさしめた原因があった。それは端的に言って当時の支配者階級であった君主制ないし貴族制(寡頭制)論者の保守的体制派と、それに対してペルシア戦争以降徐々に勢力を増大しつつあった被支配者層の民主制派が、体制派を滅ぼして政権の座を奪うべくねらっていた、その民主制論者との間の、文字通りの死闘であった。アリストテレスにとっては、自らの属する政治体制派の思想的最高指導者として、言わばその体制の生き残りを賭けての理論闘争であったと言えよう。その事実を如実に物語っているものが、彼のほとんど全著作にうかがえる静かな学問的情熱と、学的全体系を構成する精密無比の、難攻不落の城塞のごとき緻密強靭な論理である。 一般的に言って、哲学は「知への愛」である。しかし、その「知」は単なる理論知でも純粋知でもない。ギリシア哲学は一言を持ってすれば、政治知への愛である。つまり国家ないし政治の学であり国制を如何に運営するかの政治の技術・技能に帰する。従って、時代的政治状況を同時に合わせ考えねば、アリストテレスの理性主義をも正しく論考したことにはならない。同時に、その反対論である「詭弁」をも公平り扱うことが正当である。当時のソフィストたちが死罪、追放、焚書など生命的迫害に会いながらも、また当時としても当然であった授業料徴収を一部から非難されつつも、多種多様な新知識を教授し民衆化した功績も埋没されてはならない。以来二千数百年間今日まで、悪評冷遇の中にあったソフィストは、今こそ復権されねばならない。彼らの主義主張も新しい立場から客観的に公平に再評価されるべきである。この意味からもアカデメイア・ペリパトス哲学を中心とするギリシア哲学史は、それら体制的哲学に反抗する自由主義的・批判主義的哲学をも重視して、書き変えられねばならぬ。 次に第二部は、理性の優位を真とするアリストテレスの幸福論である。幸福とは結局、純粋理性認識にいる状態のことである。その論証の証拠を終局的には、予め予定されていたと思われる前述のごとき「神」を、あたかも「機械仕掛けの神」のごとく、最終的な切り札として独断的に最高度に利用することとなる。しかしこれも、前述のごとき時代的政治状況を合わせ考えつつ批判されねばならぬ。 本第二部の他の重要な批判点は、アリストテレスの「中庸説」の幾何学的原理に従う矛盾であるが、拙論は「上極論」をもってそれを検討批判する。更にもう一つの批判点は、実践的徳と理論的徳との連関の曖昧さ、およびその結合への突然変異的な急変への疑問である。 最後の第三部も、もちろん理性の優位を真とし、感覚主義を排するという原則には変わりないが、しかし問題の主舞台は、個人生活よりもむしろ現実の国家生活である。第二部のごとき個人倫理の場ではない。倫理においては自作の絶対者を堂々と表示することも出来たが、国家生活においては、その統合の現実の支配者の倫理が必要となり、理想として、神ではなく、すべてに優れた現実の政治家が強く要望されることになる。それが現実に存在するならば、それを支配者として国家の全権力を無条件に委託してもよい。しかし、そのような理想的支配者を現実に見つけることが不可能と見たアリストテレスにとっては、彼の理性主義に則る政治体制の新しい政治理念の確立と、そのような理性的支配者を出現させるべき政治教育の絶対的必要性とを主張することであった。しかし、その原動力である理性主義が、果してどこまで成功したか、あるいは理想を描くことに終わったのか、それに対する本筆者の批判的見解は、第三部の終了後において総括的に結論づけられる。(以上) |