暖地と寒地において水稲の生育相に差異のあることは周知の事実であり,暖地水稲に特異な生育相として栄養生長停滞期間が存在する.暖地水稲の生育相に着目した施肥法については多くの基礎的な知見が与えられている.しかし,これまでの研究が対象とした水稲の大半は成苗移植水稲であり,現在暖地で遍く普及している稚苗移植水稲については十分な検討がなされていない.苗質を異にすると生育相が異なることから,稚苗移植水稲に対する検討は意義が大きいと考えられ,本研究を行った. 研究の手法は暖地水稲の収量性が停滞している実態について,収量構成要素に着目して統計的な解析を行い,得られた結果から改善すべき方策について実験の仮説を立て,圃場実験によって検証を行う方法をとり,特に窒素追肥の効果の検討において作物学および植物栄養学の両面からアプローチを行った.圃場実験では最少の実験規模で最多の情報量を効率的に獲得する観点から「多因子計画」を採用し,本研究の主題である窒素追肥の効果について,基肥窒素量との相互関係を明らかにするための工夫を行った. 論文は5章から構成されている. 第1章(暖地稚苗移植水稲の生育相および収量成立の特徴)では暖地鳥取県における1975年から1982年までの水稲作況試験データを用い,稚苗移植水稲の生育相および収量構成要素の特徴について,成苗移植水稲を対象にして解析し,次の結果を得た. 1)栄養生長停滞期間は栽培法間において最も特徴的な差異のみられる生育相であり,稚苗移植水稲のほうが成苗移植水稲よりも長く,稚苗の早植えによってこの期間は一層長期化した. 2)栄養生長停滞期間の長短は稚苗移植水稲,成苗移植水稲のいずれも移植期〜最高分げつ期間の変動に支配され,移植期〜最高分げつ期間の短い年次では栄養生長停滞期間は長くなる傾向が認められた.移植期〜最高分げつ期間はいずれもこの期間の出葉速度の影響力が特に強く,出葉速度の早い年次ではこの期間が短くなることが推定された. 3)稚苗移植水稲の単位面積当たり穂数は成苗移植水稲に比べて多いが,相反的に1穂穎花数が減少し,単位面積当たり穎花数は両者間に差がなかった. 第2章(暖地鳥取県における収量成立に関する統計的解析)では暖地鳥取県における水稲収量成立の実態について,収量の年次変動の大きかった1970年から1976年までの県下9地域の水稲作況標本筆調査成績票を用いて検討し,次の結果を得た. 1)玄米収量の年次変動は単位面積当たり穎花数と登熟要素の指標である千穎花当たり収量の2変数を用いた重回帰式でよく説明できた.回帰係数の符号はいずれも正であり,玄米収量の向上はSinkとしての単位面積当たり穎花数の増加が重要であることがわかった. 2)単位面積当たり穂数の増加のみによる単位面積当たり穎花数の増加には一定の限界があり,穎花数を約31,000粒m-2以上確保するときには穂数の増加のみではなく1穂穎花数の増加を考慮する必要が示唆された. 第3章(暖地稚苗移植水稲の単位面積当たり穎花数の成立過程)では暖地水稲における収量成立上,単位面積当たり穎花数は大きな意義をもつと考えられたので,単位面積当たり穎花数の成立過程について圃場実験(1977)によるデータを用いて重回帰分析を行い,次の結果を得た. 1)栄養生長停滞期間および穎花分化期〜穂揃期間の窒素吸収量の増加は有効茎歩合の向上に関与していることから,栄養生長停滞期間以降も窒素栄養が穂数の成立に影響を及ぼしていることがわかった. 2)1穂穎花数の減少,いわゆる「短穂化」現象は偏穂重型品種に比べて偏穂数型品種で顕著であるが,この現象は栄養生長停滞期間における乾物重の増大に基づく1穂当たり栄養生長停滞期間窒素吸収量の低下する条件でより顕著となり,栄養生長停滞期間における乾物増加量と窒素吸収量のバランスの重要性が示唆された. 第4章(暖地稚苗移植水稲の生育,収量成立に及ぼす窒素追肥の効果)では特に第2章の解析結果から,収量の向上と密接な関係のある単位面積当たり穎花数を確保する様式として,穂数のみではなく1穂穎花数の増加が重要と考えられたので,短稈品種ヤマヒカリ,日本晴を用いて移植時期,基肥窒素量,穂首分化期追肥窒素量,穂肥窒素量などの因子を取上げて多因子計画による圃場実験(1984,1985)を行い,生育,収量成立に及ぼす窒素追肥の効果について検討した. 1)穂首分化期の追肥窒素は分げつを有効化させる効果が認められ,単位面積当たり穂数の決定される期間は少なくとも穎花分化期まであるとみられた. 2)単位面積当たり穎花数を構成する穂数,1穂穎花数に対しては穂首分化期における窒素施用の効果が高かった.また,穎花分化期以降の穂肥窒素と相補的に作用して両者を増加させるために,従来多くの指摘がある両者間に存在する負の相関関係を打破する要因となった. 3)1穂穎花数の減少について穂相面からみると,二次枝梗あるいは穎花の分化数の少ないことに起因しており,穎花の退化によるものではなかった. 4)栄養生長停滞期間における稲体の窒素吸収速度と二次枝梗分化数との間には高い正の相関があるが,成苗移植水稲に比べて栄養生長停滞期間の長い稚苗移植水稲はこの期間における窒素吸収速度が低下し,1穂穎花数の増加に対しては不利な条件とみられた.穂首分化期の追肥窒素は栄養生長停滞期間における窒素吸収速度を促進する要因となり,二次枝梗の分化数の増加に基づく穎花の分化数の増加に寄与していることがわかった. 5)このことから,暖地水稲において一般的に施用される穎花分化期以降の窒素追肥,いわゆる「穂肥」は二次枝梗数あるいは1穂穎花数を積極的に増加させるには時期を失した追肥であることがうかがわれた. 6)多因子計画による実験結果の解析から,基肥窒素量,穂首分化期追肥窒素量.穂肥窒素量との間には最適な組合せ条件が存在し,穂首分化期の追肥窒素が登熟を低下させる要因になるとはいえないことがわかった. 7)穂首分化期の追肥窒素は従来指摘されているような下部節間長を伸長させる要因とはならず,むしろ穂肥窒素の増施と相補して上部3節間長を伸長させる要因となった.これは穂首分化期(出穂前28〜31日)の追肥後12〜18日はN2節間(上から3番目の節間)の主要伸長始期以降にあったとみられ,下部節間の伸長が生じなかったと考えられる. 8)倒伏は多量の穂首分化期追肥窒素量(4〜6m-2)や穂肥窒素量の増施(6m-2)と組合せたときに大きくなった.しかし,この場合の倒伏程度は1.5(0〜4表示)であり,収量性を阻害する程度には至らなかった. 9)収量,品質の両面を考慮した最適な栽培条件は5月25日に移植したヤマヒカリ,日本晴で,いずれも鳥取県の慣行施肥体系における標準的な基肥窒素5gm-2に穂首分化期追肥窒素2gm-2を付加し,5〜6gm-2の穂肥窒素(穎花分化期とその7日後に半量ずつ分施)を組合せた条件であると考えられた.この体系による増収効果は8〜30%を示し,増収要因は1穂穎花数および穂数の増加による単位面積当たり穎花数の確保に基づいていた. 第5章(玄米収量の向上に対する穂首分化期の窒素追肥の有効性)では第4章までの解析で得られた結果をもとに,単位面積当たり穎花数の増加により多収を得るための具体的な方策を実証試験で明らかにしようとした.結果は次のように要約される. 1)短稈品種日本晴に対して最適栽培条件を適用した実証試験(1981〜85)の結果,玄米収量は562〜686gm-2を記録したが,平均玄米収量は617±45gm-2であり,慣行追肥に比べて単位面積当たり穎花数を約24%多く確保し,約15%増収した.また,ヤマヒカリにおいても同様な結果が得られた.いずれの品種においても,慣行追肥に比べた単位面積当たり穎花数の顕著な増加は主として1穂穎花数の増加に起因していた. 2)穂首分化期追肥法は暖地稚苗移植水稲の栽培改善の一つの方向性を示唆すると考えられる.本研究から,穂首分化期追肥の適用の目安は穂首分化期における稲体葉身窒素濃度が1.86〜2.29%の範囲にあることが帰納された. |