学位論文要旨



No 213055
著者(漢字) 木下,潔
著者(英字)
著者(カナ) キノシタ,キヨシ
標題(和) TRHおよびその新規類縁体TA-0910の運動失調改善作用に関する薬理学的研究
標題(洋)
報告番号 213055
報告番号 乙13055
学位授与日 1996.11.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第13055号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長尾,拓
 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 助教授 岩坪,威
 東京大学 助教授 松木,則夫
 東京大学 助教授 漆谷,徹郎
内容要旨

 脊髄小脳変性症は脊髄または小脳に病変の主座を有する,遺伝性あるいは非遺伝性の原発性変性疾患の総称である.患者は歩行障害および構音障害などの運動失調症状を示し,末期には寝たきりとなり死亡する.脊髄小脳変性症の発症およびその進行機序が不明であること,日本における患者数は1万人から2万人と少ないことから,これまで積極的に治療薬の開発が行われておらず,現在でも本症に対しては後述するTRH投与以外の治療法は無い.そのため,脊髄小脳変性症の運動失調を改善あるいは軽減しうるより良い薬剤の開発が強く望まれている.

 脊髄小脳変性症のモデル動物とされるローリングマウスナゴヤ(RMN)の運動機能障害が,thyrotropin-releasing hormone(TRH:L-pyroglutamyl-L-histidyl-L-prolineamide)の投与により改善されるとの報告が行われたことに端を発し,一部の患者に対してTRHの反復静脈内投与(TRH療法)が行われている.しかし,TRHは運動機能障害のある患者にとって通院の負担および投与時の苦痛の大きい注射剤としてのみ有効なこと,体内で急速に代謝されるためその効果が一過性で非常にすることが問題となっている.現在のところ,他に有効な薬剤が存在しないため,TRHが脊髄小脳変性症の運動失調に対して使用されているが,その満足度は極めて低い.

 本研究では,脊髄小脳変性症の運動失調に対するより有効な薬剤の創製を目的とした.我々は新規TRH類縁体の創製を目指す中で,中枢作用がTRHの10-30倍強く,逆に内分泌作用が約1/10と弱いTA-0910((-)-N-[(S)-hexahydro-1-methyl-2,6-deoxo-4-pyrimidinyl-carbonyl]-L-histidyl-L-prolineamide tetrahydrate)を見出した(図1).本研究では,まず,運動失調に対するTA-0910の有効性を評価する目的で,種々の運動機能障害に対するTA-0910の作用を経口投与により検討し,TRHのそれと比較した.次に,これまでほとんど不明であった運動失調に対するTRHの改善作用の機序を探る目的で,RMNを用いてTA-0910の中枢神経系への移行性を検討し,本モデルにおける神経活動低下部位およびTRH受容体の分布を検索すると共に,これらに対する両薬の影響も検討した.さらに,脊髄運動系における作用を探るため,最も単純な運動制御系であり,脊髓小脳変性症および運動ニューロン病(筋萎縮性側索硬化症)で機能の低下が認められる脊髄反射系に対する両薬の作用を検討した.

図1構造式1)運動失調モデルにおけるTA-0910およびTRHの改善作用

 遺伝性の小脳性運動失調モデルのローリングマウスナゴヤ(RMN),オリーブ橋小脳萎縮症のモデルの3-アセチルピリジン(3-AP)処置ラットおよび脊髄性運動失調モデルの脊髄圧迫ラットの運動機能障害に対するTA-0910の作用を経口投与でTRHと比較した.TA-0910はRMNの転倒指数(転倒回数/自発運動量)を減少させ,その効果は2週間の反復投与後の休薬2週間後においても認められた.また,TA-0910は3-AP処置ラットの後肢の歩行トレースから計測した歩行パラメータを正常値に近づけ,脊髄圧迫ラットの神経症状スコアを改善し,運動失調からの回復促進作用を示した.一方,TRHはTA-0910より高用量でRMNおよび3-AP処置ラットの運動失調を改善し,脊髄圧迫ラットの運動失調の改善傾向を示した.TA-0910は小脳あるいは脊髄の機能障害に基づく運動失調を,経口投与により明らかに改善し,その作用はTRHより100-300倍強かった.これらの結果より,脊髄小脳変性症および運動ニューロン病(筋萎縮性側索硬化症)等に伴われる運動機能障害に対する本薬の経口剤としての有効性が示唆された.

2)RMNにおけるTA-0910の改善作用およびその脳内濃度との関連

 RMNの運動失調に対するTA-0910の改善作用が,本薬の中枢神経系への移行に基づくか否かを薬物動態学的に検討し,単回投与時後TA-0910による改善作用は本薬の中枢神経系への移行に従い発現することを示した.また,休薬後TA-0910が作用を示す時点(3週後)での脳内濃度は,初回投与後の薬効発現時の約1/50-1/100であった.休薬時においても改善作用が持続して認められる現象は,将来本薬物の投与法にも影響するものであるとともに,本薬の反復投与後のTRH受容体-作用発現の関係についても多くの問題が存在することを提起するものである.

3)RMNの局所脳グルコース利用率に対するTRHおよびTA-0910の影響

 RMNでは正常マウスと比較して,橋の腹側被蓋野および小脳における局所脳グルコース利用率(LCGU)の有意な低下が認められ,運動失調改善作用を発現する用量のTRHおよびTA-0910は,これらの神経活動の低下部位のうち腹側被蓋野のLCGUを正常レベルにまで回復させた.小脳は運動の制御中枢であり,一方,腹側被蓋野は楔状核(いわゆる歩行中枢)より線維連絡を受ける筋トーヌス促通系の中枢であることから,これらの運動制御系での神経活動の低下がRMNの運動失調に関与していると考えられた.TRHおよびTA-0910は,RMNにおいて機能低下の見られる筋トーヌス促通系の中枢である腹側被蓋野の神経活動を正常レベルにまで回復させることにより,本モデルの運動失調を改善すると推察された.

4)RMNでの中枢TRH受容体の分布

 TRH受容体は腹側被蓋野,楔状核および小脳のすべてに存在したが,その密度は,楔状核>腹側被蓋野>小脳の順に高かった.また,これらすべてのTRH受容体に対するTA-0910の結合が認められた.これより,TRHおよびTA-0910はRMNの腹側被蓋野のTRH受容体を介して直接的に,また,楔状核のTRH受容体を介して間接的に腹側被蓋野の神経活動を回復させると推測された.さらに,TA-0910ならびにTRHが小脳の神経活動に影響を及ぼさなかったことについては,本部位のTRH受容体数が腹側被蓋野および楔状核に比べて少ないことが寄与している可能性が考えられた.

5)脊髄運動系におけるTRHおよびTA-0910の作用

 TRHおよびTA-0910は静脈内投与で用量依存的に屈曲反射および脊髄反射電位を増強し,TA-0910による増強はTRHより強くかつ持続性であった.TA-0910は十二指腸内投与でも屈曲反射増強作用を示したが,TRHは用いた用量では作用を示さなかった.さらに,両薬による脊髄反射電位増強作用はドパミン系,ノルアドレナリン系,アセチルコリン系,セロトニン系拮抗薬の前処置により影響を受けなかったことから,TRHおよびTA-0910による作用はこれらの神経伝達物質を介さず,TRH受容体を介した直接作用であることが推測された.TA-0910が強い脊髄反射増強作用を示したことから,脊髄反射系の機能低下を伴う運動失調に対しても有効であることが示唆された.

 本研究では,TA-0910がTRHと比較して,遺伝性,薬物誘発および物理的損傷誘発による運動機能障害に対し,経口投与で強力かつ持続的な改善作用を示すことを明らかにした.また,TRHの改善作用の機序の一部が,腹側被蓋野および楔状核のTRH受容体を介した腹側被蓋野の機能回復に基づくことをRMNで明らかにした.さらに,脊髄反射増強作用も関与するとの成績を得た.

 これらの知見より,TA-0910は現在使用されているTRHと比較して,より有効な,経口投与可能な脊髄小脳変性症治療薬になりうると考えられた.本研究に基づき,脊髄小脳変性症に対するTA-0910経口剤の二重盲検法による比較試験(フェーズII試験)が行われた結果,改善作用が認められた.

審査要旨

 この論文は,新規に開発した運動失調改善薬に関する研究成績をまとめたものである.

 脊髄小脳変性症は脊髄または小脳に病変の主座を有する,運動失調を主症候とした原発性変性疾患である.現在,本疾病の運動失調に対する唯一の薬物治療法としてthyrotropin-releasinghormone(TRH)の反復静脈内投与が行われている.しかし,その有効性,安全性およびQOLの面から,TRHによる治療の満足度は極めて低い.この問題を解決するために,新規TRH類縁体TA-0910(-)-N-[(S)-hexahydro-1-methyl-2,6-deoxo-4-pyrimidinyl-carbonyl]-L-histidyl-L-prolineamide tetrahydrate(図)が見出され,開発中である.

 本研究では,TA-0910の運動失調に対する作用を経口投与でTRHの作用と比較し,その運動失調改善薬としての有効性を検討すると共に,これまでほとんど不明であったTRHの運動失調改善作用の機序を探ることを目的としている.

図TA-0910の化学構造

 以下にその主な内容を示す.

1)各種運動失調に対する有効性の検討

 TA-0910が遺伝性小脳性運動失調モデルのローリングマウスナゴヤ,オリーブ橋小脳萎縮症モデルの3-アセチルピリジン処置ラットおよび脊髄性運動失調モデルの脊髄圧迫ラットの運動機能障害を,TRHより経口投与で100-300倍強くかつ持続的に改善し,長期投与でも有効であることを明らかにした.

2)作用機序の検討

 TA-0910が中枢神経系へ移行して作用発現することをローリングマウスナゴヤを用いて薬物動態学的に明らかにした.ついで本モデルマウスを用いて局所脳グルコース利用率を指標に神経活動を観察し,(1)本モデルマウスでは筋トーヌス促通系の中枢である腹側被蓋野および小脳の神経活動が低下していること,(2)TA-0910およびTRHが腹側被蓋野の神経活動を正常レベルにまで回復させることを初めて明らかにした.また,本モデルマウスでの脳内TRH受容体分布の検索より,両薬による上述の回復が腹側被蓋野のTRH受容体を介して直接的に,また,楔状核のTRH受容体を介して間接的に発現することを示す結果を得た.さらに,脊髄ラットにおいてTA-0910およびTRHの脊髄運動系に対する作用を検討し,両薬の改善作用に脊髄反射増強作用も関与するとの成績を得た.

 これらの結果により,TA-0910が現在使用されているTRHと比較してより有効で,経口投与可能な脊髄小脳変性症治療薬になる可能性を実験薬理学的に示した.また,TA-0910の改善作用の機序の一部が歩行中枢関連部位の一つである腹側被蓋野の機能回復によることを明らかにしたことは,これまで不明であったTRHによる運動失調改善作用の機序の一部を解明するものである.

 以上,本研究は新規TRH類縁体のTA-0910がTRHより強い運動失調改善作用を持つことを実験薬理学的に示したことに加えて,モデル動物を用いてTA-0910ならびにTRHの運動失調改善作用の機序の一部を解明したことにより,今後の運動失調の研究および治療に寄与することが多大であると考えられ,博士(薬学)の学位を授与するに値するものと認めた.

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