学位論文要旨



No 213073
著者(漢字) 伊西,洋二
著者(英字)
著者(カナ) イニシ,ヨウジ
標題(和) インスリンのメサンギウム細胞における収縮抑制作用と高血圧自然発症ラットでの欠落
標題(洋)
報告番号 213073
報告番号 乙13073
学位授与日 1996.11.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第13073号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤田,敏郎
 東京大学 教授 大内,尉義
 東京大学 助教授 多久和,陽
 東京大学 講師 平田,恭信
 東京大学 講師 上原,誉志夫
内容要旨 【研究の背景】インスリンの血管系機能に及ぼす作用

 近年、肥満、高血圧、およびインスリン抵抗性を呈する患者群の存在が認知されるようになり、Syndrome Xとして注目されている。このような病態の存在は血圧とインスリン作用との関連を想定させる。実際にこのような観点から血管系の機能に及ぼすインスリンの効果についての検討が進められ、インスリンが血管系に対して収縮抑制作用を有することが明らかとなった。

腎糸球体メサンギウム細胞

 メサンギウム細胞は腎糸球体内で糸球体毛細血管係蹄の間、いわゆるメサンギウム領域に存在する細胞である。機能については長いこと明らかでなかったが、近年におけるさまざまな検討により従来は単なる支持組織と考えられていたメサンギウム細胞が収縮能、増殖能、貪食能、種々の生理的活性物質の産生および分泌などさまざまな機能を有し、これらがお互いに密接に関連し合って糸球体機能の生理的調節に関与していることが明らかとなってきた。中でも収縮能はメサンギウム細胞を特徴づける最も重要な働きの一つであり、メサンギウム細胞の収縮変化により糸球体濾過面積および糸球体濾過係数(Kf)が変化し、これにより腎糸球体内の血行動態が変化すると考えられている。

メサンギウム細胞と高血圧

 高血圧発症モデルラットの腎臓を摘出し、代わりに各々のコントロールラットの腎臓を移植すると高血圧が発症しなくなるという腎交叉移植の実験により、腎臓に内在する異常が一次的に高血圧の発症に重要な意義を持つ可能性が提唱されている。これに関連して、高血圧の発症と腎臓の異常との関わりについての検討がさまざまな高血圧モデル動物を用いて行われているが、そのうちメサンギウム細胞の機能についての検討はほとんどなされていない。しかしながら、先に述べた通りメサンギウム細胞の収縮変化はKfの変化を通じて腎糸球体内の血行動態の調節に関与していると考えられており、したがってメサンギウム細胞の収縮およびその調節機構の異常はGFRの変化を通じて細胞外液量の調節異常を導き、その結果として高血圧が発症する可能性が推測される。すなわち、メサンギウム細胞の収縮機能の異常は糸球体血行動態の変化を通じて高血圧発症の一因と成りうるものと考えられる。

【研究目的】

 本研究の目的は、メサンギウム細胞の収縮機能に及ぼすインスリンの効果を明らかにし、さらにこのメサンギウム細胞に対するインスリンの効果がSHRメサンギウム細胞で異なっているか比較検討することである。

【研究方法】細胞培養

 メサンギウム細胞は8週齢の雄Wistarラット、4週齢および8週齢の雄SHR、およびSHRと同週齢の雄Wistay Kyotoラット(WKY)、各々の単離糸球体を培養することにより得られた。本研究において、細胞内Ca2+濃度の実験および[125I]-IGF-I受容体結合実験では第3〜8継代の細胞を用い、細胞収縮実験では第1および2継代の細胞を用いた。

細胞内Ca2+濃度の測定

 細胞内Ca2+濃度はfura-2法を用いて測定した。

細胞収縮

 細胞収縮実験は半定量分析法を用いて行った。

[125I]-IGF-I受容体結合実験

 30pM[125I]-IGF-Iおよびラベルしていないさまざまな濃度(0.01〜30nM)のIGF-Iを用いて受容体競合結合実験を行った。

【実験結果】細胞内Ca2+濃度に及ぼすインスリンの効果

 正常のメサンギウム細胞の収縮機能に及ぼすインスリンの効果を調べる目的で、Wistarラットより単離培養したメサンギウム細胞を用いて実験を行った。5g/mlのインスリンまたはvehicleで2時間前処置したメサンギウム細胞のPAF100nM投与による細胞内Ca2+濃度変化を測定した。基礎値に関してはインスリン投与による差を認めないが、PAF投与によるピーク値および持続相の細胞内Ca2+濃度はインスリン投与により有意に抑制された。

インスリンの投与時間とその効果

 このPAFによる細胞内Ca2+濃度上昇に及ぼすインスリンの効果に関して、インスリンの投与時間について検討を行った。5g/mlのインスリンで各々0、5、30、120分間前処置したときのPAF100nMによる細胞内Ca2+濃度変化を測定した。PAFによる細胞内Ca2+濃度上昇へのインスリンの効果はインスリン投与30分後より認められ、かつ時間依存性であった。

インスリンの濃度とその効果

 インスリンの濃度について検討を行った。各々0.05、0.5、5g/mlの濃度のインスリンおよびvehicleで2時間前処置したときのPAF100nMによる細胞内Ca2+濃度変化を測定した。インスリンの効果は0.5g/mlより認められ、かつ用量依存性であった。

AngIIおよびET-1による細胞内Ca2+濃度上昇に及ぼすインスリンの効果

 インスリンの効果はPAF以外の血管作動性物質でも認められた。PAFと同様にインスリンはAngIIおよびET-1による細胞内カルシウム濃度上昇を有意に抑制した。

インスリン効果と細胞外Ca2+濃度

 インスリンの効果の機序を調べる目的で、細胞外Ca2+を除いたときのPAFによる細胞内Ca2+濃度上昇へのインスリンの効果について検討した。これまでと同様に5g/mlのインスリンまたはvehicleで2時間前処置したメサンギウム細胞のPAF100nM投与による細胞内Ca2+濃度変化を測定した。細胞外Ca2+を除くことにより持続相は認められなくなった。細胞外Ca2+存在下で認められた細胞内Ca2+濃度上昇へのインスリンによる抑制効果が細胞外Ca2+が除かれた状態では全く認められなかった。以上の結果より、細胞内Ca2+濃度上昇に及ぼすインスリンの抑制効果に細胞外から細胞内へのCa2+流入の抑制が関与している可能性が示唆された。

細胞内Ca2+濃度に及ぼすIGF-Iの効果

 インスリンの効果は0.5g/ml以上の濃度で認められたが、これはインスリンの生理的濃度と比べ約100〜1000倍高い。そこでこのメサンギウム細胞におけるインスリンの効果がIGF-I受容体を介して発現している可能性を考え、IGF-Iを用いて同様の検討を行った。50ng/mlという生理的濃度のIGF-Iまたはvehicleで2時間前処置したメサンギウム細胞のPAFによる細胞内Ca2+濃度変化を測定した。高濃度のインスリン同様、生理的濃度のIGF-IはPAFによる細胞内Ca2+濃度上昇を有意に抑制した。以上の結果より、インスリンによる細胞内Ca2+濃度上昇抑制効果はIGF-I受容体を介して発現している可能性が示唆された。

細胞収縮に及ぼすインスリンおよびIGF-Iの効果

 メサンギウム細胞の細胞収縮に及ぼすインスリンおよびIGF-Iの効果について検討を行った。細胞を高濃度のインスリン(5g/ml)、生理的濃度のIGF-I(50ng/ml)、またはそれぞれのvehicleで30分間前処置し、AngII100nMによる細胞収縮を検討した。細胞内Ca2+濃度上昇への効果と同様、高濃度のインスリンおよび生理的濃度のIGF-IはいずれもAngIIによる細胞収縮を有意に抑制した。

SHRメサンギウム細胞の細胞内Ca2+濃度に及ぼすインスリンの効果

 SHRおよびそのコントロールであるWKYのメサンギウム細胞を用いてインスリンの効果を検討した。これまでと同様に5g/mlのインスリンまたはvehicleで2時間前処置したメサンギウム細胞の100nM PAF、AngII、ET-1による細胞内Ca2+濃度変化を測定した。WKYではこれまでと同様、血管作動性物質による細胞内Ca2+濃度上昇へのインスリンによる抑制効果を認めたが、SHRでは4週齢、8週齢いずれのメサンギウム細胞においてもインスリンによる効果を全く認めなかった。

SHRメサンギウム細胞の細胞内Ca2+濃度に及ぼすIGF-Iの効果

 IGF-Iを用いた検討でもインスリンと同様の結果が得られた。WKYメサンギウム細胞ではPAFによる細胞内Ca2+濃度上昇へのIGF-Iによる抑制効果を認めたが、SHRではIGF-Iによる効果を認めなかった。

SHRメサンギウム細胞の細胞収縮に及ぼすインスリンの効果

 細胞収縮に及ぼすインスリンの効果についても同様であった。WKYメサンギウム細胞ではAngIIによる細胞収縮へのインスリンによる抑制効果を認めたが、SHRでは4週齢、8週齢いずれのメサンギウム細胞においてもインスリンによる効果を認めなかった。

SHRメサンギウム細胞のIGF-I受容体

 SHRメサンギウム細胞のIGF-I受容体がWKYと異なっているか検討する目的で[125I]-IGF-I受容体結合実験を行った。細胞はWKY、SHRいずれも4週齢のものを用いた。WKY、SHRともに単一の結合様式からなるIGF-I受容体の存在が示唆された。WKYおよびSHRメサンギウム細胞ではIGF-Iの受容体数および解離定数に明らかな相違を認めなかった。以上の結果より、SHRメサンギウム細胞ではIGF-I受容体より後の細胞内シグナル伝達に何か異常が存在している可能性が示唆された。

【考察】

 本実験結果はインスリンがメサンギウム細胞の血管作動性物質による細胞内Ca2+濃度上昇や細胞収縮を抑制することを示している。このインスリンによる抑制効果は時間および用量依存性に認められた。しかしながらこの効果の発現に必要なインスリンの濃度は生体におけるインスリンの生理的濃度と比べると100〜1000倍高い。したがって本研究で認められたインスリンの効果はIGF-I受容体を介して発現している可能性が考えられる。実際に生理的濃度のIGF-Iを用いた実験において、IGF-Iは血管作動性物質による細胞内Ca2+濃度上昇や細胞収縮を高濃度のインスリンと同程度に抑制しており、この結果は先の推論を裏付けている。

 本研究においいて、細胞外Ca2+が除かれた状態では血管作動性物質投与による細胞内Ca2+濃度変化におけるピーク後の持続相が認められず、さらに細胞内Ca2+濃度のピーク値へのインスリンによる抑制効果についても細胞外Ca2+の除去により全く認められなくなったことから、その作用機序の一つとして細胞外から細胞内へのCa2+流入の抑制が考えられる。

 メサンギウム細胞の収縮変化は糸球体濾過面積およびKfを変化させ、これにより腎糸球体内の血行動態が変化することがさまざまな検討により想定されている。このことと本実験結果から、IGF-Iがメサンギウム細胞の収縮変化を通じて腎糸球体内の血行動態に影響を及ぼす可能性が推測される。さらにIGF-Iはメサンギウム細胞においても産生、分泌されることから、メサンギウム細胞の収縮、ひいては腎糸球体内の血行動態の調節にIGF-Iがオートクリン因子あるいはパラクリン因子として関与している可能性が示唆される。

 一方、SHRメサンギウム細胞では血管作動性物質による細胞内Ca2+濃度上昇や細胞収縮に及ぼす高濃度のインスリンや生理的濃度のIGF-Iの効果が全く認められなかった。これらの結果はSHRメサンギウム細胞の血管作動性物質に対する感受性の亢進を導くとともに、SHRにおける腎血行動態およびその調節の異常を想定させる。これに関して、実際にSHRの腎臓ではAngIIに対する感受性が亢進していることが示されており、またSHRにおける圧-利尿曲線の右へのシフトや尿細管糸球体フィードバック機構の亢進といった腎の血行動態に関する機能の調節異常についても本実験結果と一部関連する可能性があると思われる。

 このような腎血行動態およびその調節の異常は生体における水、電解質の調節異常を導き、その結果として高血圧が発症する可能性が推測される。すなわちSHRメサンギウム細胞におけるIGF-I受容体を介した効果の欠落がSHRにおける高血圧発症の一因となっている可能性が考えられる。さらにこの効果の欠落は高血圧が既に発症している8週齢のSHRメサンギウム細胞のみならず、高血圧発症前と考えられる4週齢のSHRメサンギウム細胞でも認められた。この結果はSHRメサンギウム細胞におけるIGF-I受容体を介した効果の欠落が一次的にSHRにおける高血圧発症に関与している可能性を示唆している。

 本研究で認められたSHRメサンギウム細胞の異常がIGF-I受容体の異常によるものかどうかを検討する目的で〔125I〕-IGF-I受容体結合実験を行った。その結果WKYおよびSHRメサンギウム細胞ではIGF-Iの受容体数および解離定数に明らかな相違を認めなかった。したがってSHRメサンギウム細胞におけるIGF-I受容体を介した効果の欠落の機序としては、IGF-I受容体より後の細胞内刺激伝達系における異常の存在が示唆された。

【結論】

 腎糸球体内の血行動態に関与していると考えられるメサンギウム細胞の収縮がIGF-I受容体を介した作用により抑制されることが明らかとなった。さらにSHRメサンギウム細胞ではこのIGF-I受容体を介した効果が欠落していることが確かめられた。このSHRにおけるメサンギウム細胞の異常が一次的にSHRの高血圧発症に関与しているかもしれない。

審査要旨

 近年、インスリンの血管系機能に及ぼす効果が注目されている。本研究は腎糸球体における重要な血管系細胞であるメサンギウム細胞の収縮機能に及ぼすインスリンの効果を明らかにするとともに、このインスリンの効果が高血圧モデルラットの一つである高血圧自然発症ラット(SHR)のメサンギウム細胞で異なっているかどうか検討することを目的とし、培養メサンギウム細胞を用いて実験を行い、下記の結果を得た。

 1.インスリンはメサンギウム細胞の血管作動性物質による細胞内カルシウム濃度上昇を時間および用量依存性に抑制した。

 2.効果の発現に必要なインスリンの濃度は生理的濃度と比べ100〜1000倍高濃度であり、さらに生理的濃度のインスリン様成長因子-I(IGF-I)でも同様の効果が認められ、インスリンの効果はIGF-I受容体を介して発現している可能性が示唆された。

 3.細胞外カルシウムが除かれた状態ではインスリンの効果が全く認められず、血管作動性物質による細胞内カルシウム濃度上昇へのインスリンの効果の作用機序の一つとして細胞外から細胞内へのカルシウム流入の抑制が考えられた。

 4.高濃度のインスリンおよび生理的濃度のIGF-IはアンジオテンシンIIによるメサンギウム細胞収縮を抑制した。

 5.4週齢および8週齢のSHRメサンギウム細胞では、血管作動性物質による細胞内カルシウム濃度上昇および細胞収縮へのインスリンの効果が全く認められなかった。

 6.[125I]-IGF-I受容体結合実験を行ってSHRメサンギウム細胞のIGF-I受容体について検討したが、受容体数、解離定数いずれもコントロールであるWistar Kyotoラットと明らかな相違を認めず、SHRメサンギウム細胞におけるIGF-I受容体を介した効果の欠落の機序としてIGF-I受容体より後の細胞内刺激伝達系における異常の存在が示唆された。

 以上、本論文はメサンギウム細胞の収縮機能に及ぼすIGF-I受容体を介した効果を明らかにし、生体におけるIGF-Iのメサンギウム細胞収縮への関与、ひいては腎糸球体内血行動態への関与の可能性を提示している。さらに本論文ではこのIGF-I受容体を介したメサンギウム細胞機能の修飾がSHRでは欠落しているという、これまでにない新たな知見を見出しており、これが一次的にSHRにおける高血圧発症に一部関与している可能性も提示している。このように本論文は腎の生理機能ならびにSHRの腎の病態生理機能の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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