学位論文要旨



No 213076
著者(漢字) 吉田,邦彦
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,クニヒコ
標題(和) 債権侵害論再考
標題(洋)
報告番号 213076
報告番号 乙13076
学位授与日 1996.11.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 第13076号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平井,宜雄
 東京大学 教授 田端,博邦
 東京大学 教授 能見,善久
 東京大学 教授 樋口,範雄
 東京大学 教授 内田,貴
内容要旨

 1.本研究は,「第三者による債権侵害」の不法行為の問題について,従来等閑視されていた,契約の対第三者保護という観点に光を当てて,これまでの厳格な要件論〔原則として,債権侵害についての害意(通謀・教唆)及び良俗違反の態様が要求された〕に批判的検討を加えて,それは緩和されるべきことを主張したものである〔後述するように,事案類型毎の考察が必要であるが,原則として債権を認識しての侵害で足りると考える〕。この問題は,比較法的に見ても19世紀半ばから登場した現代的課題と言える。各国近代法典(及び判例法理)では,契約ないし債権の相対性原理が唱われ(フランス民法1165条,ドイツ民法241条参照),その克服後に登場する新たな法現象であるが,今日では比較法的にも定着している(比較法的検討は第2〜第4章参照)。ところが,わが国における状況は,かなり立ち遅れており,その問題状況及び経緯を-いわゆる民法学史的手法によって,日本民法学の構造的批判とリンクさせることを通じて-浮き彫りにすることを試みた(第1章)。

 そして,その結果得られた帰結の第1は,「学説継受」以来比較法的にも,債権の相対性原理が根強いドイツ法の圧倒的で,かつ部分的な影響の下に(「部分的」と言うのは,ドイツ民法823条1項をめぐる議論のみ継受され,823条2項,826条の影響は,表面的・抽象的なそれであり,事例(判例)の紹介は不充分であった),この問題に関するわが国の学説が形成されていったということである。すなわち,わが国の債権侵害法理の展開において重要な役割を演じた,末弘博士の「排他性否定論」,我妻博士の「相関関係理論」及び「債権者平等の原則」,あるいは川島博士の「近代的債権論」は,いずれもドイツ法の影響を受けて提唱されたものであることを論証し,それがひいては債権侵害の原則的容認という「通説」を導いていることを示した。しかし本章における興味深い知見の第2として,叙上のドイツ法的状況とは「断絶」する形で,旧民法ないし現行民法起草時の頃には,本問題についてはイギリス法(判例法)の影響がかなり広く見られたことも指摘した(同様のことは,例えば民法416条について既に平井教授が指摘する)。イギリスのリーディングケースLumley v.Gye(1853)(「引抜き」に関する)などは,1880年代に既に紹介,検討されており,当時の学者のほとんどが,債権の対世効を肯定して,第三者の債権侵害の不法行為を肯定していたことが,-その後の状況との対比で-注目されるのであり,わが国のリーディングケースとされる大正4年判決もその延長線上で捉えうるものであった(その後の民法学界の構造的変化により,本判決が充分に発展させられなかったことは,債権侵害法理の展開にとって不幸なことであった)。そこで私は,このようなわが国の状況を再考する素材を提供するために,比較法的に見て同法理に積極的なイギリス法及びフランス法の判例法理の検討(さらには,従来手薄であったドイツ法の判例研究)を行うこととした(第2章,第3章参照)。

 2.この問題提起の法理論的意義を述べるならば,それは「近代法理論」の再検討の一環をなしており,ドイツ的な-早い者勝ち的な-「自由競争」観に再考を促し,「私的自治」の倫理的前提たる取引倫理,道徳に光を当てることを意味している(イギリスにおけるJ.S.Millなどの叙述にも示唆を得た)。従って,このような考え方自体は,ある意味で伝統的理念に基づくとも言えるが,現代的には「近代法」期に過度に契約の自由,債権の相対性,ならびに市場放任原理が強調されたことに対して批判的な考察を加えることを意味している。従って,市場主義ないし自由放任的私的自治への司法的規制を強めるという方向性を持っており,この点で公序良俗規定(民法90条)をめぐる近年の議論とも相通ずるものがあるわけである。

 3.(1)ところで,本研究では,債権侵害の個別類型的考察を行うことを主眼の一つとした。と言うのは,従来の通説的分類論(例えば我妻博士のそれ)は観念的にすぎ,債権侵害の具体的事例のほとんどは「給付侵害で債権が消滅しない場合」に該当することとなっており(そして,その場合には例外的場合(害意で良俗違反の場合)に限って不法行為が認められた),これでは類型化されていないに等しいからである。そこで私は,起草者たちも影響を受けており,その後事例も蓄積されているイギリス法に立ち返り,そこから事案類型を析出するという作業を試みた(その類型作りの軸としたのは,被侵害契約の種類及び侵害行為の態様であり,その各々の側面における本研究の理論的意義は後述する。なお,因みに,このような作業は,イングランド本国でもあまりなされていない)(第2章)。そしてその上で,大陸法(フランス法,ドイツ法)の事例分析を通じて,同様の類型が見られることを検証した(第3章)。そして,この考察から得られた類型としては,第1に,二重譲渡的ケース,第2に,労働契約に関する引抜き(競業避止義務違反,守秘義務違反の誘致)のケース,第3に,同契約に関する労働争議のケース(イギリス法では,多数の事例,立法の蓄積が見られる),第4に,不正競争的ケースがあり,またさらに第5に,間接損害(企業損害),第6に,取引義務が―契約外の第三者との関係でも―課されるような場合などが挙げられる。

 (2)(1)これらの類型について,債権侵害の不法行為の特質を,まず侵害行為の側面から述べるならば,まず第1点として,意図的不法行為(「故意」の不法行為)(前掲「第1」〜「第4」の類型)と過失不法行為(「第5」「第6」の類型)とに大別でき,両者では帰責構造も異なり,債権侵害においては前者がクローズアップされるのであり(過失では足りないとされるのは,ここでは考量因子として,取引活動の自由(取引の安全)が顧慮されるためであるが,それに対する因子としては,被侵害契約の保護の必要性〔不可侵性〕があり,さらに,各事案類型特殊の因子-例えば,争議権の保障,転職の自由,登記制度との調和,競争制限的契約のチェック(これは,先の要保護性の検討でなされる)など―がある),全体として前述の如くその要件の拡大を説いた(例外的には「第3」の場合には,ストの違法性の判断が重要となり(労組法8条参照),また「第4」で,被侵害契約自体に競争阻害性がある場合には,害意ないしはそれに準ずる態様を要求した。なお,過失不法行為については,従来説かれている理論の応用で足りると考えるが,「第5」については,ドイツ的な近時の学説の立場よりも,判例の立場の方が民法709条の構造に則した構成であると考える)(以上第4章参照)。さらに留意すべき第2点としては,侵害態様は取引行為と物理的・事実的行為とに分けられるが,本問題においては(とくに前述の意図的債権侵害においては)取引行為による不法行為が重要と考えられることが指摘できる。この点でも,従来取引行為は契約法(契約責任)の問題と考えられがちであったが,不法行為法は取引行為(それによる取引的損害)の場面においても,無視できない役割を演ずることも,本研究で得られた帰結である。

 (2)さらに,被侵害契約の観点から眺めると,各国の債権侵害の判例法理で保護されているのは,不動産などの特定物の引渡債務及び行為債務という,給付内容に個性,特異性(idiosyncracy)のある-従って,代替性(fungibility)のない-契約が主であり,その意味で関係的契約-そして多くは継続的契約である-が保護対象と言える。アメリカ法では,効率的契約違反と契約侵害(債権侵害)法理との相克という形での議論があるが(これについては第5章参照),ここでも類型的に見る必要がある。

 この問題は,理論的には,古典的市場モデル的スキームがどこまで妥当しうるのか,という取引費用分析を通じての制度学派的アプローチ,さらには非功利主義的な・商品化の限界論(decommodification論)による財産権の基礎づけとも関わってくるのであり,近年アメリカ法学で,古典的モデルのアンチ・テーゼとして出されている関係的契約理論(Macneil理論),人格的所有権〔財産権〕理論(Radin理論)にも,債権侵害の問題は発展させうると考えられる。

 (3)(1)最後に,各類型について留意すべきことを述べておく。まず,二重譲渡ケースについては,歴史的には「jus ad remの近代法典における消滅」という問題もあり,また不動産公示制度とも関連して独自の地位を占めている。そして,ここでも私は,従来の要件の拡大(原則として第1売買の認識で足りると考える)を説いたが,さらに損害賠償に止まらず,諸外国と同様に引渡債務の履行強制による保護も必要と考えた(民法177条の「第三者」の解釈問題となる)。ここでは,物権変動システム(民法176,177条),債権者取消権(民法424条)の転用,留置権(民法295条)なども視野に入れた総合的検討が必要となる。もっとも,手付,クーリング・オフなどの制度との関連では(二重譲受ケースとでもいうべきもの),消費者保護の見地からの特別の考量が必要となり,不法行為の認定は慎重となろう(害意その他の背信的態様が求められよう)。

 (2)また,不正競争類型の場合には,公正取引委員会の不公正な取引方法(競争阻害性)についての法政策的(「目的=手段」的)判断と,裁判所の不法行為の成否についての法解釈論との調和をどのようにはかるか,という理論的問題が控えている。歴史的には,このような観点からの,被侵害契約の合理性の批判的検討が弱い時期(戦間期におけるドイツ法,フランス法。今でもフランスでは,このような視点はやや弱い。第3章参照)もあったが,今日では,両者の調和,統合が必要であることも言おうとした。

 (3)さらに,労働争議について,争議権保障の考慮は必要だが,同情スト,二次的ストにおいては,債権侵害的考慮も必要となるのに,従来はやや稀薄であった。この点で,労働法学と民法学とは同一平面上で議論がなされる(「市民法」と「社会法」という形で峻別しない)ことが求められ,また労働法においても従来はドイツ法の影響力が強いので,それへのアンチ・テーゼとしてイギリス法的な解釈論を試みた(第4章第1節第5款)。

 その他,労働契約に関しては,引抜き,営業秘密保持の問題もあるが,情報化時代の今日,契約保護の視点はもはや抜きにはできないものとなりつつあると言ってよいであろう。

審査要旨

 契約当事者以外の者(第三者)が契約から生じた債権を侵害した場合にその第三者に不法行為責任を負わせるべきか、という問題(「第三者の債権[または契約]侵害」)は、わが国の民法学において一時期大いに争われた問題であるが、現在では、これについて通説と目すべきものが形成されている。本論文は、詳細な学説史的研究及び比較法的研究に基づいてこの通説に疑問を提起し、それに代わる新たな解釈論を提示しようとするものである。

 本論文は五つの章に分かれ、中核を成すのは第1章から第4章までの叙述である。第5章は、中核部分の主題とは関連するけれども、その付論と言うべき地位を占める。

 第1章「日本法の問題状況--学説の系譜的考察」では、著者の問題意識の提示と学説史の検討とが行われる。著者はまず通説を次のように要約する。(1)第三者の債権侵害による不法行為の成立には、過失では足りず、故意、しかも債務者との教唆・通謀及び公序良俗違反の行為であることが要求される場合がある。(2)債権侵害の態様は、債権の帰属自体の侵害と債権の目的たる給付の侵害とに分かれ、後者は債権が消滅する場合としない場合とに分かれる。(1)における加重された要件が要求される典型的な場合は、上記の最後のもの(給付侵害でかつ債権不消滅のとき)である。(3)このように一般の不法行為の要件と異なって解すべき根拠は、債権の相対性・債務者の自由意思の尊重・自由競争の保障等にある。

 以上の通説に対する著者の問題提起はこうである。--(1)及び(2)は、類型に応じて要件が異なる理論的根拠を説明し得ていない。また、二重の契約による先行契約の侵害を原則として適法とするという帰結を承認しており、契約の第三者に対する保護の観点を欠落させている。そうだとすれば、(3)の根拠についても再検討する必要がある。(2)の類型論は、抽象的・概念的であって、もっと具体的な類型論に置き換える必要がある。--こうして著者は、通説の再検討の必要性を説き、まずその形成過程を明らかにするために、債権侵害に関するわが国の学説史を網羅的に検討する作業を行う。そこから得られた結論は、概ね次のとおりである。

 民法起草者の間では、第三者による契約侵害が不法行為となることには異論が無く、その根拠として、契約違反を誘致させた者の責任に関する,イギリス(イングランド)の判例法理が挙げられていた。ところが、わが国の民法学がドイツ民法学の強い影響を受けるようになると、不法行為の一般的要件を定める民法709条はドイツ民法の不法行為の要件の一つである823条1項と等しいと解されるようになった。ドイツ民法同項に列挙される諸権利は、「絶対権」を意味し、「相対権」である債権を含まないと解するのがドイツの通説・判例である。その結果、709条にいわゆる「権利」には相対権である債権は含まれないという解釈論がわが国で有力となった。しかし、ドイツ民法はこのほかに823条2項(保護法規違反)及び826条(故意の良俗違反)の二つの不法行為の要件を持ち、826条によって債権侵害が不法行為となる場合があるのに、当時の学説はこの点を看過し、債権侵害による不法行為の成立する可能性をおよそ否定するという極端な立場を採った。大正4年に大審院は、債権の「不可侵性」を根拠として不法行為の成立を肯定したが、これは実務家の間になお見られたイギリス法学の影響によるものと推測される。学界ではこれを契機に否定説・肯定説の間で激しい論争が行われたが、709条の「権利」の意味を拡大する解釈が力を得ると共に肯定説が有力になり、前述の通説がほぼ定着した。通説が不法行為の成立を限定的にしか認めないのは、このような学説史的伝統によるものであり、その内容には前述したドイツ民法の規定の解釈の影響の大きいことが看てとれる。

 ほぼ以上のようにわが国の学説史を概観した著者は、民法起草者に既に知られていながら、ドイツ法の圧倒的影響下に忘れ去られたかに見えるイギリス法上の契約侵害論すなわち「契約違反誘致の法理」に目を向け、それを研究することによって、債権侵害論の再検討の手掛かりを求めようとする。

 第2章「イギリス法の類型的考察」は、契約違反誘致の法理の生成・発展を、時代毎に、また判例の類型毎に、追跡するものであり、この法理の根拠及び要件の提示とそれらに相関する類型論の抽出とが、著者の主な関心である。労働争議を中心とする膨大な判例が紹介され・分析された後、次のような結論が示される。

 契約違反誘致の法理の根拠は、自由競争の前提を成す取引活動の保護、すなわち取引の基礎たる契約の保護であって、その要件は、先行する契約の存在の認識及び契約侵害の意図(前者が存在すれば後者は推定される)をもって足り、害意や通謀などそれ以上の要件は必要でない。この法理が適用されるのは、判例から抽出された類型に従うと、「労働争議型(例:ストライキを指令した労働組合や組合役員に対し使用者が責任を追及する場合)」・「引き抜き型(例:事業者が同種の事業者の被用者を引き抜く場合)」・「条件付取引違反型(例:排他的供給契約に違反して供給を受けた者の責任が問題となる場合)」「不動産・動産二重取引型」(例:同一不動産の二重売買における買主の一方が他方に対し責任を追及する場合)である。これに対して、「間接損害型(例:第三者が契約当事者の身体・財産等を物理的に侵害した場合)・「特殊取引義務違反型(例:物理的侵害が存在しない契約侵害で、不実の情報提供により契約上の利益が侵害された場合)」は、同じく第三者による契約侵害に属するけれども、過失(negligence)不法行為の要件をもって足りるというのが判例法である。こうして、契約違反誘致の法理は、意図的(intentional)不法行為に位置付けられる。

 第3章「比較法的考察--大陸法の概観」は、イギリス判例法から抽出された上記の類型論に比較法的裏付けを与えることを主な目的として、フランス法及びドイツ法を考察する。その要旨は、ほぼ次の如くである。

 まず、フランス法においては、契約(合意)は当事者間でなければ効果を有しないという規定(「相対効の原則」--フランス民法1165条)の存在にもかかわらず、学説・判例上契約を侵害した第三者の不法行為責任(同法1382条の一般的要件による)が認められている。これを可能にしたのは、契約の効力に強制力と対抗力との二種があり、相対効の原則は前者に関するだけであって、先行する契約の存在を認識している第三者に対し後者を主張し不法行為責任を追及するのを妨げない、という解釈論である。したがって、契約侵害による不法行為成立の要件は、イギリス法と同じく、契約の存在を認識しつつこれを侵害したことに尽きる。相対効の原則がこのように解釈されるようになったのは、それを支える個人主義・自由主義・意思自治の思想に疑問が投じられ、契約の社会化や社会連帯の思想が有力になったことによるものである。そして、契約侵害による不法行為に関する判例法が「二重譲渡」・「予約違反」・「引抜き」・「取引制限条項違反」・「間接損害」の諸類型に分けて分析され、例えば「二重譲渡型」に関連して、当初第二買主と売主との共謀を要求していた判例法が、不法行為法理を適用した結果、契約の認識(悪意)で足りることに変わった点などが指摘される。

 次いで、ドイツ法の検討が行われる。ドイツ民法823条1項に関する通説判例及びそれらが採る解釈の沿革と現在の学説の分布状況とが少数説を含めて紹介される(なお、これら少数説又は異説の中には、債権の帰属の侵害については823条1項の不法行為の成立を認めるものがあり、これが日本の学説に影響を与えたと推測される旨の指摘がある)。通説判例が同条の「権利」に債権を含めない以上、債権侵害に対する債権者の保護は、主として826条(またはそれと類似する不正競争防止法1条)によることになる。そこで、これらの規定に関する判例法が、「二重売買」・「価格拘束・販売拘束違反(再販売価格維持に対応する)」・「引抜き及び競業避止義務違反」等に分類して説明される。そして、ドイツ法は債権と物権とを峻別し、債権の相対権としての性格を強調する結果、第三者の債権侵害による不法行為の成立は極めて制限されている、と論結される。

 本章の最後で、著者は以上の比較法的考察を要約し、フランス法が契約の相対効の原則の存在にも拘らずイギリス法とほぼ同じ要件のもとに契約侵害から債権者を手厚く保護するのに対し、ドイツ法は債権の相対性の原則に拘束されて限定された範囲でしか債権侵害を保護せず、比較法的に見て特異であると指摘する。

 第4章「日本法の再検討」は、これまでの考察に基づいて日本民法の解釈論を提示する部分である。著者はまず、わが国の通説が、ドイツ民法823条1項及び826条の解釈論の強い影響を受けたために、債権の相対性という観念をドイツ法以上に純化して受け継ぎ、その結果、比較法上特異なまでに、債権侵害による不法行為の成立を認めるのに消極的な解釈を主張したことを指摘する。そして、通説がこのような解釈の根拠として挙げる、債権の相対性・債務者の自由意思の尊重・自由競争の保障等々の観念もイギリス・フランス両法の考察の結果確かな根拠となりうるものではなく、そのことが明らかとなった以上、両法が示すように契約の対第三者保護という観点を徹底すべきであると説き、この観点から日本法の解釈論を提示する。

 著者は、まず判例を検討するが、それを行うに当たり、通説のような類型論を抽象的・観念的であるとして退け、イギリス法の研究から抽出した具体的な類型論(それはフランス・ドイツ法における類型をも包摂する)を基礎として判例を類型化する。すなわち、I「不動産・動産二重取引型(二重譲渡型)」、II「条件付取引違反誘致型」、III「引抜き型(守秘義務・競業避止義務違反型)」、IV「労働争議型」、V「間接損害型」、VI「特殊取引義務違反型」に分けて判例を紹介し、上記の観点から分析及び批判を加えている。例えば、Iの類型では、判例は登記制度の趣旨を根拠とするかあるいは第二買主に強度の不法性を要求することにより不法行為の成立を否定しているが、著者は、フランス法の示唆に基づいて、第二買主が悪意であれば登記を得ていても不法行為責任を認めるべき旨を説く。また、Vの類型については、これをドイツ法的に債権侵害として扱うのではなく、イギリス法やフランズ法に見られるように、過失不法行為における損害賠償の範囲の問題として扱うべきだと主張して、同様の立場に立つ判例を支持している。最後に著者は、第三者の債権侵害の要件について、通説よりも不法行為の成立を容易に認めて契約の対第三者保護を計るための解釈論を提示し、これをもって通説に代えるべきことを主張する。それによれば、第三者の債権侵害は、(1)原則として、契約の存在を認識しつつ侵害したことを要件とする(かつそれで足りる)意図的不法行為と、一般的要件である過失で足りる過失不法行為との二種に区別されるべきであって、(2)上記I〜IVの類型が前者に当たり、V・VIが後者に当たると解すべきである、というのである。

 第5章は、契約違反が契約の履行よりも多くの便益を社会にもたらすときには契約違反は許されるべきだと説くアメリカの近時の考え方(「効率的契約違反」の理論)を扱うものである。契約の対第三者保護を主張する著者には、これを扱う必要が感じられたからである。著者は、第三者の契約侵害についてのアメリカ判例法理もイギリスとほぼ同様であることを示した後、これに反する帰結を導く効率的契約違反の理論の内容とそれをめぐる賛否の議論とを紹介し、この理論を批判的に検討している。

 以上が本論文の要旨である。以下は、本論文の中核を成す第1章から第4章までの部分を対象として評価を加える。

 本論文の長所として第一に挙げるべきなのは、その革新的な内容である。第三者の債権侵害に関する通説はかなり古い時代に形成され、若干の反対説に遭ったものの、最近に至るまでいわば安定した地位を享受してきた。本論文はこれに鋭い疑問を呈し、根本的な批判を加えて、学説の水準を一挙に高め、以後の学説の展開の方向を決定づけたものと評価できる。特に、比較法的考察を基礎とする、契約の対第三者保護という視点を明確に打ち出した要件論の構成、債権不消滅の給付侵害として一括されてきた類型の重要性を指摘してこれを細分化した作業などは、高い評価に値する。また、これに関連して、通説の根拠となっていた「自由競争」の概念とは異なる、「イギリス的自由競争」の概念を析出した点も、多くの示唆を与えるものである。

 第二の長所は、伝統的な債権侵害論の視野を著しく拡大させたことである。広範な分野をカバーする新たな類型論の提示がその例であるが、特に、民法学者がほとんど扱ってこなかった「労働争議型」に着目した点を挙げることができる。しかも、この類型におけるイギリスの判例法理の展開過程を詳細に跡づけた仕事は、労働法学に対しても貢献するところが少なくない。

 第三に、民法起草者の間でイギリス判例法理が知られていたという事実を発掘して(なお、著者はこれをもってイギリス法がわが国に「継受」されていたと解するが、この表現は適切でない)新たな知見を加えたこと、さらにそれを梃にイギリス法を軸とする比較法的考察を行い、ドイツ法の地位を相対化するとともに、その圧倒的影響下にあるわが国の学説の特殊性を明らかにしたことも、長所に数えられる。このような手法は、近時の民法学においては方法論的に目新しいとは言えないけれども、それを債権侵害論に応用して叙述を迫力あるものとしたところに、著者の着眼点の良さと能力とを窺うことができる。

 しかし、本論文には次のような短所も見出だされる。

 第一に、本論文はイギリスにおける「契約違反誘致」の法理を重要な論拠として組み立てられているが、なぜイギリスで早くからこの法理が展開したのか、そこには法内在的また社会的な理由があったのではないかという問題意識を欠いていることである。例えば、イギリスでは契約違反による責任が限定されていたことがこの法理を発展させたのではないか、という問いを発する必要があったと考えられるし、「労働争議型」の類型がフランス・ドイツには見られない理由も問われるべきであったであろう。

 第二に、類型論と要件論とが一体となって主張されているために、解釈論としての主張がやや不明確となっていることである。新たな類型論の構築を試みた努力は評価すべきであるが、類型は事件の集積によって常に変化しうるものであるから、解釈論としては、要件は、類型論とは独立に、明確な言語的表現を与えられるべきであろう。

 第三に、本論文には繰り返しや重複する記述が少なくない。このことは、700ページを超える分量と相俟って、やや冗長という感を抱かせる。膨大な文献・資料を盛り込もうとする意欲は理解でき、またそれらを探索した労は多とすべきであるが、整理・要約能力に欠ける憾みなしとしない。

 しかし、以上の短所は、本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は近時の民法学の大きな収穫の一つであり、将来においても、債権侵害の問題が論じられるときには必ず参照されるべき業績としての地位を占め続けるであろう。したがって、本論文は博士(法学)の学位にふさわしい内容と認められる。

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