本論文は、研究上の空白期になっていた1950年代の米韓関係について、日本との関係を考慮しながらアメリカの対韓政策の展開を解明したものである。資料の面ではアメリカ政府の公刊された外交文書の他にも、国立公文書館やアイゼンハワー大統領図書館所蔵の未公刊文書、また韓国政府の外交文書等も調査している。 まず第1章では1950年代の米韓関係を再構成するために、2つの視座を導入している。第一は地域的な連関の視座であり、従来の研究と違って米韓関係を二国間関係として捉えるのではなく、アメリカのアジア政策全般の中に位置づけている。特にアメリカの対日政策が、対韓政策にも大きな影響を及ぼしていたことを明らかにすることに力点を置いている。第二は1950年代を前後の時期の過渡期と捉える視点であり、冷戦が1950年代半ば以降「政治経済戦争」という性格を帯びていったことに着目している。 このような視点の設定は、アイゼンハワー政権の対外政策の研究における修正主義を、批判的に再評価することも目的にしている。修正主義の解釈には、アイゼンハワー政権の対外政策を合理的であったと評価する傾向が強いが、それはアメリカの軍事費の削減や、日本の吉田路線の国際的条件として成果を挙げたことなど、対外政策の主たる側面に焦点を当てているからである。しかし、対韓政策はいわばそのような成果の「陰」の部分であり、本論文ではアイゼンハワー政権の対外政策を評価する場合には、そのような「陰」の部分も含めて総合的に行なう必要のあることを指摘している。 次いで第2章では、アイゼンハワー政権の前期、すなわち1953年の朝鮮戦争の休戦から1956年頃までの、アメリカの対韓政策における安全保障政策を検討している。第1節ではその前提として、ニュールック戦略が考察される。アイゼンハワー政権のニュールック戦略は、朝鮮戦争による軍事費の膨張でアメリカ経済が脅かされていると感じたアイゼンハワー大統領が、健全な経済の回復に腐心した財政的な関心に根ざしていた。軍事戦略としては、核戦略や同盟の重視などを特徴としており、アメリカの安全保障を確保したうえで比較的短期間に軍事費の削減を実現した点で、成功したと評価しうる。しかし、それは同盟国の通常兵力の増強を前提にしており、その点で著者は矛盾を内包していたとみている。 そのニュールック戦略に内在する矛盾が最も顕著に現れたのが、アジア政策であった。スターリンの死後ソ連が対外政策を修正したことによって、アメリカではソ連の脅威が次第に政治経済的な性格のものと考えられるようになっていった。その反面、アジアではもともと局地紛争の発生する可能性が高かったのに加えて、朝鮮戦争以降中国脅威論が新たに浮上したことによって、中国の軍事的脅威は直接かつ切迫したものと認識されるに至った。こうしてアイゼンハワー政権は、強大な地上兵力を持つ中国の脅威に対抗するために、アジアの反共同盟諸国の通常兵力を増強して地域的安全保障体制の構築を推進していったのである。 当初は日本の軍事力を増強することが、その中核として期待された。しかし、1954年に日本の中立化への危惧が高まり、対日政策を軍事優先から経済重視へと転換していくにつれて、韓国や台湾など冷戦の「前哨国家」の戦略的重要性が相対的に高まっていった。つまり、ニュールック戦略がアジア政策に適用されていく過程で、日本での「健全な経済」と韓国や台湾での軍事力の増強とが、ある種の戦略的分業体制という形を取ることになったのである。 第2章第2節から第4節では、朝鮮戦争後の米韓関係で主要な争点となった、米韓相互防衛条約、在韓米軍の配置転換問題、韓国軍の兵力水準問題の3つを、それぞれ中国脅威論や日本との関連で検討している。 第2節では、アメリカが朝鮮戦争の休戦を達成する過程で米韓相互防衛条約を締結し、在韓米軍として二個師団を残留させ、韓国軍を増強する決定を行なった経緯が考察される。従来それは、李承晩大統領の抵抗や脅しなど交渉テクニックの成果だったと評価されてきたが、それ以上に中国脅威論を背景にしてアイゼンハワー政権が行なったアジア政策の再検討から強い影響を受けていた。すなわち、これらの政策はラドフォード統合参謀本部議長やヴァンフリート在韓米軍司令官などの軍部や、ロバートソン極東問題担当国務次官補ら共和党右派からなる巻き返し派が、アイゼンハワー政権内部で発言力を増大させた結果だった。また李承晩の強硬な「北進統一」論も、必ずしも「盲目的」な反共意識の現れだったのではなく、アメリカの巻き返し派と連携することが念願の南北朝鮮の統一を成し遂げ、日本というもう一つの脅威に対抗する唯一の道だと考える判断に基づいていたのである。 第3節では極東米軍の配置転換をめぐって、アイゼンハワー政権内部に生じた対立が取り上げられ、その争点が配備の拠点を日本にするか韓国にするかにあったことが指摘される。リッジウェイ陸軍参謀総長やハル極東軍司令官ら陸軍中枢は、アジア大陸部への関与に消極的で韓国には象徴的な兵力だけを残留させることを主張した。それに対して、ラドフォードやヴァンフリートら巻き返し派は、中国脅威論の下で韓国へのアメリカ軍の駐留継続を主張して対立した。日本における基地反対運動の激化も、巻き返し派の立場に加勢したのである。 第4節で取り上げる韓国軍の兵力水準問題でも、同じ形の対立が生じていた。李承晩との提携の下でヴァンフリートは1954年に中国を攻撃できるようにするために、韓国軍を30個師団にほぼ倍増することを提案した。これに対して、ハルらは日本中心の戦略体制の構築を重視しており、韓国の過重な経済的負担などを指摘して、同じ30個師団でありながら、師団規模を縮小し、現役師団を1958年までに9個師団に削減する方針を建議して対立した。1954年5月のヴェトナムのディエンビエンフー陥落から年末までの間、両者の激しい論議が繰り広げられ、最終的にはハルらの段階的縮小案が国家安全保障会議で決定された。しかし、ラドフォードや李承晩らはなおも執拗に抵抗することによって、段階的縮小案を骨抜きにしていったのである。 第3章では朝鮮戦争後の対韓復興援助問題が取り上げられ、第1節ではその背景として、1947年以来「地域統合」構想がアメリカのアジア政策の一つの柱になっていたことが指摘される。この地域統合構想とは、日本の経済復興を中心に据えて、日本の工業力とアジア諸国の原料および市場を結びつける、ある種の垂直的分業体制を構築しようとするものであった。 第2節で李承晩政権の工業化を目指す経済政策を概観したうえで、第3節ではそれがアメリカが韓国で達成を目指した自由主義的資本主義体制への再編と、相容れないものであったことが示される。次いで第4節では、アイゼンハワー政権が韓国への援助を朝鮮特需後の日本に対する「復興特需」と位置づけて、日本からの調達を図ろうとしたのに対して、自立的な工業化の基盤形成を目指した韓国側が、もともと反日感情が強かったことから激しく反発したことが明らかにされる。こうしたアメリカの対日政策は韓国の工業化に消極的であり、その意味で韓国の工業化にとって制約的な条件ともなっていた。 第5節では李承晩がアメリカのアジア政策の動向を察知して、インドシナへの派兵を提案する一方、休戦協定の破棄や北朝鮮への攻撃を唱え、また強硬な反日政策を打ち出した経緯が考察される。著者によれば、そのような李承晩の動きや、それに対抗してアメリカ側が韓国軍を主体とした李承晩の排除計画を立てたのも、援助問題をめぐる米韓の対立に密接に関連していた。日本を調達地域から排除しようとする韓国側の策動は、アメリカ側の承認を正式には得られなかったものの、李承晩が激しく抵抗したことでアメリカ側も韓国の工業化にある程度援助せざるをえなくなったのである。 第4章では、冷戦の政治経済戦争への変容が本格化する1956年以降の時期に繰り広げられた、対韓政策の転換をめぐる論議が検討される。第1節でアイゼンハワー政権の方針が政治経済戦争へと変容していった経緯を明らかにしたうえで、第2節ではニュールック戦略がタイムラッグを伴いながらも、対韓政策に他の地域と同じように適用されていったことが示される。すなわち、中ソ両国の平和・経済攻勢が一層活発になり、朝鮮戦争の廃墟から逸早く復興を成し遂げた北朝鮮も対南平和攻勢を活発化していく中で、アメリカの対韓政策も転換を余儀なくされた。そのニュールック戦略の適用は、具体的には在韓米軍への核兵器導入と引き換えに韓国軍を削減し、長期計画に基づく経済援助に政策の比重を移すことを目標にしていた。 第3節ではダレスやロバートソンに代わって国務省の実務担当者が発言力を強め、韓国の新しい官僚層との提携の下で、対日関係の改善や長期経済開発計画の作成に当たり、二大政党制を含む政治体制の刷新などを推進したことが考察される。しかし、その前提条件であった膨大な軍事力の削減が李承晩やラドフォードらの反対にあって挫折したことから、政策転換の試みも失敗に終わったのであった。 むすびでは、アイゼンハワー政権で巻き返し派が発言力の強かった時期には、韓国の戦略的地位を高めようとする李承晩の戦術も相応の国際的基盤があったことが確認される。しかし、1954年以降アイゼンハワー政権で巻き返し政策が否定されたことで、李承晩の戦術も効力を失った。著者は、それに代わって李承晩政権自体経済開発に力点を移していくことによって、1960年代以降の米韓関係の基礎を準備していたことを指摘して、本論文を結んでいる。 以上が本論文の要旨である。 本論文の長所としては次の諸点があげられる。 第一は、アメリカのアイゼンハワー政権による対韓政策を、アメリカ政府の第一次史料を駆使して分析した、本格的な実証研究である点である。アメリカでもこの時期の対韓政策については本格的な研究がまだあまり発表されておらず、本論文は国際的にみても先駆的な業績になっている。しかも、アメリカ政府の第一次史料を博捜し、特に経済援助をめぐる米韓交渉に関しては多くの新しい史料を発見している。 第二は、対韓政策を対象としているものの、アイゼンハワー政権の基本方針であるニュールック戦略の中に位置づけ、基本方針がそのまま適用されずに「地域的ねじれ」や「時間的ズレ」があったことを指摘するなど、独創的な見解が示されている点である。またアジア政策全般との関連で検討していることによって、アメリカの対韓政策に対日政策からの影響が強くみられたことも明らかにしており、第二次世界大戦後の日米関係の研究に対してもアプローチの妥当性に関して疑問を投げかけ、貢献するところが大きい。 第三は、部分的であるとはいえ、日本の学界ではそれほど紹介されていない1950年代の韓国政治についても検討を加えている点である。特に李承晩のナショナリズムや交渉テクニックは、「盲目的」なものでなくアメリカ側にも支持する勢力があったとみる見解は、李承晩の再評価として注目されている。 第四は、文章が平明で、複雑な過程を分析しているにもかかわらず、よく整理されていて論旨の展開が明快な点である。 もとより、本論文にも短所がないわけではない。 第一は、アイゼンハワー政権の基本方針との整合性に焦点を当てている反面、対韓政策の具体的な立案や現地の情勢との関係が十分解明されていないきらいがある点である。 第二は、1950年代が朝鮮戦争休戦までと1960年以降との過渡期とみて、この時期に論議がいかに展開されたのかが解明されているものの、方針の転換がいかになされたのかが明確に確定されずに終わっている点である。 第三は、アイゼンハワー政権の対欧政策や連邦議会との関係、また日本政府の対応などについて、十分解明されていない面がある点である。 このような問題点がないわけではないが、これらは本論文の学術的価値を必ずしも損なうものではない。本論文の打ち出した視点は、アメリカの対日政策も含めたアジア政策の研究に新しい地平を開くものであり、学界に対して重要な貢献をなすものと評価することができる。したがって、本論文は、博士(法学)の学位にふさわしい内容と認められる。 |