化学療法剤を始めとする近代医薬品の進歩が人間の寿命を著しく延ばした結果今までマイナーであった疾病、例えば高齢化に伴う疾病等が勢いをつけ、重大な社会問題となってきた。これらの疾病は病因・病態が今までの疾病とまったく異なり、かつ複雑なため、その予防・治療薬の開発には今までの医薬品の開発法を根底から改めなければならない。老人性痴呆症はその代表的な疾病である。老人性痴呆症は成人期以降に見られる後天的知的機能障害で、記憶・認知・判断等の知的機能が減退し日常生活や社会生活を営めない状態をいう。天然物由来の薬物は一般に毒性が少なく、長期的(すなわち予防的)に服用できるという特徴があり、生薬や漢方薬から老年痴呆症の予防薬と改善薬を開発する戦略が近年注目されている。このような状況下で著者は、実験動物の学習・記憶能力に対するサフラン、ニンニク、伝統的な漢方処方(開心散)、および開心散の構成生薬である茯苓の作用について新たな実験方法を開発・発展しつつ検討を行ったことは注目に値する。 まず第一に、学習記憶に対するサフランの作用が検討された。サフランにはうつ、恍惚などに対する効能が知られていた。そこで記憶・学習課題の一つである受動回避反応(ST及びSD試験)を用い、サフランのエキス(CSE)の急性作用を検討したところ、正常マウスの学習反応に対してはCSEは影響を与えないことを明らかにした。すなわち、正常な動物には安全であることを確認したわけである。次いで、記憶障害モデルマウスの学習反応に対するCSEの作用を検討したところ、エタノール誘発性の記憶獲得障害及び記憶再現障害を顕著に改善することを見いだした。本研究により、長期間放置されてきたサフランの薬理活性が再確認されたことは意義深いものと思われる。 老化に伴う免疫機能の低下が学習障害を惹起し、また神経内分泌免疫トライアングル(NIM)の均衡失調が逆に老化を促進するとの仮説が提唱されている。熟成ニンニクエキス(AGE)はin vitroで細胞免疫機能を増強し、in vivoの長期投与で老化促進モデルマウス(SAM)の学習記憶を改善することが報告されている。著者はこのAGEの作用メカニズムを解明するため、SAMと胸腺摘出マウス(Tx)の免疫反応、およびddy-TxとSAM-Txマウスの学習能力に対するAGE慢性経口投与の作用を検討した。AGE長期投与群ではCon AまたはLPS誘発の脾細胞増殖が顕著に促され、AGEの慢性投与によりSAMとddy-Txマウスの抗体産生能も有意に促進された。以上より、AGEはin vivoにおいても免疫機能低下を改善することが明らかとなった。さらに、4週齢雄性ddyマウスに胸腺摘出術を行い、10ヶ月間AGEを経口投与した。受動回避反応実験では、胸腺摘出群の顕著な学習能低下に対してAGEは有意な改善作用を示した。空間学習実験のモリス式水迷路について、AGEはゴールまでの回避潜時を短縮し、ゴールを見つけるまでの遊泳距離と時間を減少させた。以上の結果より、AGEが胸腺摘出により誘発される記憶障害を改善する可能性が示唆された。胸腺摘出により視床下部のモノアミン含量とアセチルコリン合成能が増加したが、AGE投与によりこれらの変化は消失した。また、他の脳部位では変化が見られなかった。視床下部はNIMで中心的役割を果たすと考えられており、今回の結果は興味深い。4週齢雄性SAMP8マウスの胸腺を摘出し、AGE含有飼料で5ヶ月間飼育した。AGE投与によりSD試験でのエラー数が顕著に減少し、条件回避反応試験及び水迷路試験でも改善する傾向を示した。これらの結果は上記の結果をさらに支持するものと考えられる。さらに、記憶のシナプスモデルである海馬長期増強(LTP)に対するAGEの作用も検討したが、AGEは単独でもLTP発生に影響せず、エタノールによるLTP発生の抑制に拮抗することもなかった。従って、AGEは海馬のシナプス伝達には直接的な影響を及ぼさず、免疫機能の増強を介して学習能力を改善することが示唆された。 開心散(DX)は人参、遠志、石菖蒲と茯苓が1:1:25:50の比率で含まれる漢方処方であり、健忘症に対する効能が記載されている。構成成分の人参には学習改善作用が、人参と茯苓には内分泌・免疫調節機能が報告されている。そこで、著者は開心散の作用を検討したところ、まずその抗老化作用が明らかとなった。次いで、ddy-Txマウスの学習障害モデルを用いた検討で、DXもAGEと同様に胸腺摘出により誘発された学習障害を改善することが示された。しかし、AGEとは異なり、DXの長期投与は抗体産生反応を促進しなかった。そこで、ラット海馬歯状回のLTP発生に対するDXの作用を検討したところ、DXは閾下刺激による長期増強の発生を有意に増強し、エタノール(経口投与及び脳室内投与)による長期増強の抑制がDX投与により有意に拮抗された。以上の結果、行動実験で認められたDXの学習改善作用のメカニズムの少なくとも一部にはLTP発生促進作用が関与するものと考えられた。さらに、著者はLTP実験を用いて、DX中の有効成分の同定も試み、茯苓の水溶性画分H8と小分子量画分H11にLTP発生促進活性を認めた。 著者の研究は、その問題設定、解決手法、解析結果何れにおいても優秀であり、博士(薬学)を授与するに値するものと認定する。 |