学位論文要旨



No 213081
著者(漢字) 張,永祥
著者(英字)
著者(カナ) ザン,ユンシャン
標題(和) 天然物由来の記憶学習改善薬に関する薬理学研究
標題(洋) Pharmacological Studies of the Cognitive Enhancers from Natural Resources
報告番号 213081
報告番号 乙13081
学位授与日 1996.12.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第13081号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 齋藤,洋
 東京大学 教授 長尾,拓
 東京大学 教授 井上,圭三
 東京大学 教授 武藤,誠
 東京大学 助教授 松木,則夫
内容要旨

 記憶障害は、健常範囲内(いわゆるボケ)であろうと真性疾患(アルツハイマー病など)であろうと、老化に伴う現象の一つと考えられる。生活水準の向上と社会環境の整備により、老人数が増加し、高齢化社会は目前に迫っている。記憶障害を予防し改善する薬物の開発が焦眉の急であることは言を新たにする必要もない。天然物由来の薬物は一般に毒性が少なく、長期的(すなわち予防的)に服用できるという特徴があり、生薬や漢方薬から老年痴呆症の予防薬と改善薬を開発する戦略が近年注目されている。本研究では、実験動物の学習・記憶に対するサフラン、ニンニク、伝統的な漢方処方(開心散)、および開心散の構成生薬である茯苓の作用について検討を行った。

第1章学習記憶に対するサフランの作用

 サフランにはうつ、恍惚などに対する効能が知られている。そこで記憶・学習課題の一つである受動回避反応(ST及びSD試験)を用い、サフランのエキス(CSE)の急性作用を検討した。

1.1正常マウスの学習反応に対するCSEの作用

 CSEは正常マウスの記憶過程に影響を与えなかった。

1.2正常マウスの運動量とヘキソバルビタール誘発睡眠に対するCSEの作用

 CSEの投与により運動量が顕著に減少し、ヘキソバルビタール誘発睡眠も延長した。

1.3記憶障害モデルマウスの学習反応に対するCSEの作用

 CSEはスコポラミンや電撃痙攣による記憶障害には影響を与えなかったものの、エタノール誘発性の記憶獲得障害及び記憶再現障害を顕著に改善した。

 これらの結果により、CSEは軽度の鎮静作用をもち、エタノール性記憶障害を改善する作用をもつことが明らかとなった。

第2章免疫応答と胸腺摘出による学習障害に対するニンニクの作用

 熟成ニンニクエキス(AGE)はin vitroで細胞免疫機能を増強し、in vivoの長期投与で老化促進モデルマウス(SAM)の学習記憶を改善することが報告されている。老化に伴う免疫機能低下が学習障害を惹起し、また神経内分泌免疫トライアングル(NIM)の均衡失調が逆に老化を促進するとの仮説が提唱されている。そこで上記のAGEの作用メカニズムを解明するため、SAMと胸腺摘出マウス(Tx)の免疫反応、およびddy-TxとSAM-Txマウスの学習能力に対するAGE慢性経口投与の作用を検討した。さらに、記憶のシナプスモデルである海馬長期増強(LTP)に対するAGEの作用も検討した。

2.1SAMとddy-Txマウスの免疫応答に対するAGEの作用

 AGE含有飼料(2%,w/w)でマウスを5-10ヶ月飼育した。AGE飼育群ではCon AまたはLPS誘発の脾細胞増殖が顕著に促された(Fig.1)。また、AGEの慢性投与によりSAMとddy-Txマウスの抗体産生能も有意に促進された。以上より、AGEはin vivoにおいても免疫機能低下を改善することが示唆された。

Fig.1 Effect of AGE Con A-induced splenocyte proliferation in SAM
2.2ddy-Txマウスの学習障害に対するAGEの作用

 4週齢雄性ddyマウスに胸腺摘出術を行い、10ヶ月間AGEを経口投与した。受動回避反応実験では、胸腺摘出群の顕著な学習能低下に対してAGEは有意な改善作用を示した(Fig.2)。空間学習実験のモリス式水迷路について、AGEはゴールまでの回避潜時を短縮し、ゴールを見つけるまでの遊泳距離と時間を減少させた。以上の結果より、AGEが胸腺摘出により誘発される記憶障害を改善する可能性が示唆された。

Fig.2 Effect of AGE on learning behavior in step-down test in thymectomized mice
2.3モノアミン含量とアセチルコリン合成能に対するAGEの作用

 胸腺摘出により視床下部のモノアミン含量とアセチルコリン合成能が増加したが、AGE投与によりこれらの変化は消失した。また、他の脳部位では変化が見られなかった。視床下部はNIMで中心的役割を果たすと考えられており、今回の結果は興味深い。

2.4SAM-Txマウスの学習障害に対するAGEの作用

 4週齢雄性SAMP8マウスの胸腺を摘出し、AGE含有飼料で5ヶ月間飼育した。AGE投与によりSD試験でのエラー数が顕著に減少し、条件回避反応試験及び水迷路試験でも改善する傾向を示した。これらの結果は上記2.2の結果をさらに支持するものと考えられる。

2.5ラット海馬歯状回のLTP発生に対するAGEの作用

 AGEは単独でもLTP発生に影響せず、エタノールによるLTP発生の抑制に拮抗することもなかった。従って、AGEは海馬のシナプス伝達には直接的な影響を及ぼさないと考えられた。

第3章胸腺摘出による学習障害に対する開心散の作用

 開心散(DX)は人参、遠志、石菖蒲と茯苓が1:1:25:50の比率で含まれる漢方処方であり、健忘症に対する効能が記載されている。構成成分の人参には学習改善作用が、人参と茯苓には内分泌・免疫調節機能が報告されている。そこで、開心散の作用を検討した。

3.1DXの抗老化作用

 2月齢から15月齢までDX含有飼料(1%,w/w)で飼育したところ、SAMP8の自然寿命は延長し、老化程度を示す指数も著しく改善した。さらにDXはddy-Txマウスの生存率も上昇させた。以上の結果より、DXが抗老化作用を持つことが示唆された。

3.2ddy-Txマウスの学習障害に対するDXの作用

 DXは受動回避学習及び空間学習障害を有意に改善した(Fig.3)。従って、AGEと同様DXも胸腺摘出により誘発された学習障害を改善するものと考えられた。

Fig.3 Effect of DX on spatial memory in Morris water maze test in thymectomized mice (testing phase)
3.3免疫応答に対するDXの作用

 AGEと異なり、SAMとddy-Txにおいて、DXの長期投与は抗体産生反応を促進しなかった。

3.4モノアミン含量とアセチルコリン合成能に対するDXの作用

 脳のモノアミン含量とアセチルコリン合成能に対するDXの作用はAGEと同様であり、神経内分泌免疫機能の調節に影響を与えると考えられた。

3.5ラット海馬歯状回のLTP発生に対するDXの作用

 DXは閾上刺激による誘発電位、短期増強、長期増強のいずれにも影響しなかったものの、閾下刺激による長期増強の発生を有意に増強した(Fig.4)。また、エタノール(経口投与及び脳室内投与)による長期増強の抑制がDX投与により有意に拮抗された。以上の結果、行動実験で認められたDXの学習改善作用のメカニズムの少なくとも一部にはLTP発生促進作用が関与するものと考えられた。

Fig.4 Effect of DX on LTP formation induced by subthreshold tetanus in rats
第4章ラット歯状回のLTP発生に対する茯苓の作用

 開心散処方の中でLTPの発生を促進する生薬を検討した。茯苓の水抽出物H2は閾下刺激誘発のLTPを増強し、その作用はDXと類似していた。そこでこのH2をLTP試験を指標にさらに分画した。その結果、水溶性画分H8と小分子量画分H11にLTP発生促進活性が認められた。

第5章結論

 結果をまとめる。

 1.CSE、AGEそしてDXに学習改善作用が認められたが、その作用機序はそれぞれ異なるものと考えられた。

 2.CSEはエタノールによる学習障害を改善した。

 3.胸腺を摘出することによって顕著な学習障害が惹起された。

 4.AGEは老化あるいは胸腺摘出による抗体産生能低下と拮抗し、胸腺摘出により誘発される学習障害を改善したが、歯状回のLTP発生には影響しなかった。このことより、AGEは海馬のシナプス伝達には直接影響せず、NIMを調整して免疫機能を向上させることにより間接的に学習能を改善するものと考えられた。

 5.AGEとは異なり、DXは免疫機能には影響せず、LTP発生を促進する作用を示した。このことより、DXの学習改善作用は海馬のシナプス伝達の直接的な調節によるものであると考えられた。

 6.LTP発生増強に関して、茯苓はDXの有効成分の一つであり、水溶性画分H8と小分子量画分H11に主活性が認められた。

審査要旨

 化学療法剤を始めとする近代医薬品の進歩が人間の寿命を著しく延ばした結果今までマイナーであった疾病、例えば高齢化に伴う疾病等が勢いをつけ、重大な社会問題となってきた。これらの疾病は病因・病態が今までの疾病とまったく異なり、かつ複雑なため、その予防・治療薬の開発には今までの医薬品の開発法を根底から改めなければならない。老人性痴呆症はその代表的な疾病である。老人性痴呆症は成人期以降に見られる後天的知的機能障害で、記憶・認知・判断等の知的機能が減退し日常生活や社会生活を営めない状態をいう。天然物由来の薬物は一般に毒性が少なく、長期的(すなわち予防的)に服用できるという特徴があり、生薬や漢方薬から老年痴呆症の予防薬と改善薬を開発する戦略が近年注目されている。このような状況下で著者は、実験動物の学習・記憶能力に対するサフラン、ニンニク、伝統的な漢方処方(開心散)、および開心散の構成生薬である茯苓の作用について新たな実験方法を開発・発展しつつ検討を行ったことは注目に値する。

 まず第一に、学習記憶に対するサフランの作用が検討された。サフランにはうつ、恍惚などに対する効能が知られていた。そこで記憶・学習課題の一つである受動回避反応(ST及びSD試験)を用い、サフランのエキス(CSE)の急性作用を検討したところ、正常マウスの学習反応に対してはCSEは影響を与えないことを明らかにした。すなわち、正常な動物には安全であることを確認したわけである。次いで、記憶障害モデルマウスの学習反応に対するCSEの作用を検討したところ、エタノール誘発性の記憶獲得障害及び記憶再現障害を顕著に改善することを見いだした。本研究により、長期間放置されてきたサフランの薬理活性が再確認されたことは意義深いものと思われる。

 老化に伴う免疫機能の低下が学習障害を惹起し、また神経内分泌免疫トライアングル(NIM)の均衡失調が逆に老化を促進するとの仮説が提唱されている。熟成ニンニクエキス(AGE)はin vitroで細胞免疫機能を増強し、in vivoの長期投与で老化促進モデルマウス(SAM)の学習記憶を改善することが報告されている。著者はこのAGEの作用メカニズムを解明するため、SAMと胸腺摘出マウス(Tx)の免疫反応、およびddy-TxとSAM-Txマウスの学習能力に対するAGE慢性経口投与の作用を検討した。AGE長期投与群ではCon AまたはLPS誘発の脾細胞増殖が顕著に促され、AGEの慢性投与によりSAMとddy-Txマウスの抗体産生能も有意に促進された。以上より、AGEはin vivoにおいても免疫機能低下を改善することが明らかとなった。さらに、4週齢雄性ddyマウスに胸腺摘出術を行い、10ヶ月間AGEを経口投与した。受動回避反応実験では、胸腺摘出群の顕著な学習能低下に対してAGEは有意な改善作用を示した。空間学習実験のモリス式水迷路について、AGEはゴールまでの回避潜時を短縮し、ゴールを見つけるまでの遊泳距離と時間を減少させた。以上の結果より、AGEが胸腺摘出により誘発される記憶障害を改善する可能性が示唆された。胸腺摘出により視床下部のモノアミン含量とアセチルコリン合成能が増加したが、AGE投与によりこれらの変化は消失した。また、他の脳部位では変化が見られなかった。視床下部はNIMで中心的役割を果たすと考えられており、今回の結果は興味深い。4週齢雄性SAMP8マウスの胸腺を摘出し、AGE含有飼料で5ヶ月間飼育した。AGE投与によりSD試験でのエラー数が顕著に減少し、条件回避反応試験及び水迷路試験でも改善する傾向を示した。これらの結果は上記の結果をさらに支持するものと考えられる。さらに、記憶のシナプスモデルである海馬長期増強(LTP)に対するAGEの作用も検討したが、AGEは単独でもLTP発生に影響せず、エタノールによるLTP発生の抑制に拮抗することもなかった。従って、AGEは海馬のシナプス伝達には直接的な影響を及ぼさず、免疫機能の増強を介して学習能力を改善することが示唆された。

 開心散(DX)は人参、遠志、石菖蒲と茯苓が1:1:25:50の比率で含まれる漢方処方であり、健忘症に対する効能が記載されている。構成成分の人参には学習改善作用が、人参と茯苓には内分泌・免疫調節機能が報告されている。そこで、著者は開心散の作用を検討したところ、まずその抗老化作用が明らかとなった。次いで、ddy-Txマウスの学習障害モデルを用いた検討で、DXもAGEと同様に胸腺摘出により誘発された学習障害を改善することが示された。しかし、AGEとは異なり、DXの長期投与は抗体産生反応を促進しなかった。そこで、ラット海馬歯状回のLTP発生に対するDXの作用を検討したところ、DXは閾下刺激による長期増強の発生を有意に増強し、エタノール(経口投与及び脳室内投与)による長期増強の抑制がDX投与により有意に拮抗された。以上の結果、行動実験で認められたDXの学習改善作用のメカニズムの少なくとも一部にはLTP発生促進作用が関与するものと考えられた。さらに、著者はLTP実験を用いて、DX中の有効成分の同定も試み、茯苓の水溶性画分H8と小分子量画分H11にLTP発生促進活性を認めた。

 著者の研究は、その問題設定、解決手法、解析結果何れにおいても優秀であり、博士(薬学)を授与するに値するものと認定する。

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