学位論文要旨



No 213099
著者(漢字) 池上,努
著者(英字) Ikegami,Tsutomu
著者(カナ) イケガミ,ツトム
標題(和) アルゴンクラスターイオンの断熱・非断熱過程の理論的研究
標題(洋) Theoretical study on adiabatic and non-adiabatic dynamics of argon cluster ions
報告番号 213099
報告番号 乙13099
学位授与日 1996.12.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第13099号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 近藤,保
 東京大学 教授 田隅,三生
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 塚田,捷
内容要旨

 実験技術の進歩に伴い、クラスターに関して得られる情報の質および量は近年、飛躍的に向上した。これらの研究を通じて、クラスターは単なる巨大分子/微小結晶としての面だけでなく、クラスター独自の少数多体系としての面を持つことが明らかになってきた。ここで取り上げるアルゴンクラスターイオンは、クラスターの中では比較的、単純なものである。しかし、その電子状態や動力学は、クラスターの特徴のひとつである多自由度性を反映して、かなり複雑である。電子基底状態だけを取っても、そこには無数の構造異性体が存在し、各異性体のクラスター内振動は強い非調和性を示す。このため、クラスターの性質を調べるには、クラスター内振動の取込みが不可欠である。さらに光学的な励起を考えると、基底状態から可視光で励起できる範囲に電子励起状態が密に分布しており、これらが非断熱的に結合して複雑な様相を呈している。本研究では、主に分子論的な立場に基づいて、アルゴンクラスターの電子状態および動力学を取り扱う手法を開発し、その性質について考察を加えた。

 アルゴンクラスターイオンは、クラスター科学の黎明期より研究されてきたが、1988年にLevingerらによって可視部の光解離スペクトルが測定されて以来、その電子構造への関心が高まった。このクラスターは、アルゴン中性クラスターの3pバンドに正孔が空いた状態に相当し、せまいエネルギー範囲に多数の電子状態が存在する。これら全ての電子状態を同精度で求めるため、Diatomics in Molecules(DIM)法を用いてクラスターの電子ハミルトニアンを構築した。DIM法は、系の全ハミルトニアンを系に含まれる原子および2原子分子のハミルトニアンから構築する手法である。ab initio法と異なり、近似を改良する系統的な手段がない反面、クラスターのような大きな系に対しても適用できる。アルゴンクラスターの系におけるDIM法の精度を確認するため、3量体についてDIM法とab initio法の結果を比較した。どちらの計算結果でも、の最安定構造は、3個のアルゴン原子が化学結合した直線対称形(D∞h)の分子イオンとなった。両者は、特にポテンシャル面の引力部分において、定量的にも良い一致を示した。光励起の遷移確率を計算する上で必要となる遷移双極子の大きさも、DIM法の結果はab initio法と良い一致を示した。

図1: (n=3,8,13,14,19,25)の最安定構造。原子に付けた陰影は電荷密度を反映しており、の中心原子で0.5,両端の原子で0.25となっている。

 DIMハミルトニアンはその構造上、行列要素の原子核座標に対する微分を容易に計算できる。アルゴンクラスターイオンの系では、等温的な基底関数系を採用したので、このハミルトニアン行列の微分より、ポテンシャル面の勾配が得られる。ここから原子核に働く力が求まるので、これを構造最適化や動力学計算に利用した。電子基底状態について求めた最安定構造を、,,,,,およびについて、図1に示す。クラスター内で、正電荷は中心に位置する3原子に集中しており、3量体イオンコアを形成する。高温での動力学計算においても3量体イオンコアは安定に存在し、アルゴンクラスターイオンの基本構造が、中性アルゴン原子によって溶媒和されたであることを確認した。

 裸のイオンコアであるは、に大きな光学遷移確率を持ち、可視領域に強い吸収が観測されている。大きなクラスターでも、可視領域に吸収帯が観測されているが、3量体の場合と違い、励起状態は複数の電子状態に分散しており、光励起状態を特定することはできない。このような光学遷移の性質を調べるため、イオンコアの溶媒和モデルに基づいた解析を行った。このモデルでは、イオンコアの光励起状態としてcoreを、溶媒の電子状態を代表するものとしてsolvをそれぞれ仮定し、coreに対する溶媒和の効果をsolvとの相互作用Hint=(core|Hel|solv)で記述する。また、coresolvのエネルギー準位を対角要素、Hintを非対角要素として持つ2×2行列を対角化すると、coresolvが相互作用した結果、生成する2つの擬似的な断熱状態highlowが得られる。最安定構造において求めたcoresolv,high,およびlowのエネルギー準位を、Hintと合わせて図2に示す。図より明らかなように、coreのエネルギー準位は殆ど変化しないが、solvのエネルギー準位はクラスターサイズの増大と共に上昇する。10量体以降でcoresolvよりもエネルギー的に下に位置するようになり、相互作用の結果、coreは押し下げられる。Hintは、14量体からイオンコアの軸方向に溶媒原子が配位しはじめると急速に大きくなり、これを反映してlowの準位が低くなる。coreは遷移確率を担う電子状態なので、10量体以降ではcoreの成分を多く含むlowへの遷移が主体となる。

図2: (a)イオンコアの励起状態core(○)と溶媒状態solv(□)のエネルギー準位、および、両者が相互作用した結果、生成する2つの断熱状態high(×)とlowのエネルギー準位。電子基底状態のエネルギー準位を縦軸の原点にとっている。(b)coresolvの間の相互作用エネルギーHinto

 吸収スペクトルのサイズ依存性をさらに詳しく調べるため、分子動力学法を用いて電子基底状態におけるクラスターの内部運動の効果を取り入れた。古典軌道より採取した構造から光吸収断面積を計算する式を新たに導出し、複数の内部エネルギーに対して吸収スペクトルを計算した。得られたスペクトルについて、500nmより長波長側にあるピークの位置を求め、図3にHaberlandらによる実験結果と共にプロットした。実験値との定量的な一致は得られなかったが、低い内部エネルギーにおいて、実験で観測されている2段階の長波長側へのシフトが再現できた。10Kで計算した古典軌道を、イオンコアの溶媒和モデルを用いて解析したところ、吸収帯の幅に対してcoresolvのエネルギー準位の分布は狭く、また、分布のピークの位置はほぼ、図2に沿っていた。したがって、n=7-9で見られるシフトは、solvのエネルギー準位がクラスターサイズの増大とともに上昇し、coreのエネルギー準位を追い越したことを、n=14-16で見られるシフトは、イオンコアの軸方向の位置に溶媒原子が配位し、Hintが大きくなったことを、それぞれ反映していると考えられる。

図3: 500nm以長における最初の吸収ピークの位置。比較のため、Haberlandらによる実験結果を菱形のシンボルで示した。

 アルゴンクラスターイオンを光励起すると、クラスターはアルゴン原子を何個か蒸発させながら緩和してゆき、最終的に小さな娘クラスターを生成する。娘クラスターは電子基底状態に生成するため、光解離の途中で必ず、電子状態間の遷移がおきる。アルゴンクラスターイオンの場合、光解離ははやい過程であるため、輻射的な脱励起の確率は低く、非断熱遷移が重要な役割を果たす。この非断熱過程を無矛盾に扱うには、全系を量子論的に取り扱う必要があるが、このような大きな系を量子論的に扱うのは、まだ不可能である。そこで、電子状態に関してのみ、量子論的な取り扱いをし、原子核の運動に関しては古典的な運動方程式で取り扱う手法を採用した。

 一般に、電子状態が変化すると核に働く力も大きく変化するので、原子核の軌道は、電子状態間の遷移が起きるタイミングや場所に強く依存する。その一方で、電子状態の時間発展は電子ハミルトニアンによって支配されるが、これは核座標の関数となっているため、電子遷移のタイミングは、原子核の軌道によって決定される。このため、電子状態の時間発展と原子核の古典的な運動を連立させて解く必要がある。ここでは、Schrodinger方程式によって時間発展する電子状態の情報を使って原子核の運動を支配する断熱状態を適宜、切り替えていくTullyの方法を基に、大自由度系に対して効率の良い方法を開発した。

 状態に励起すると、直線対称形を保ったまま、直接解離する。実験では、Ar+解離生成物として高速な成分と低速な成分が観測されており、低速な成分の割合は励起エネルギーの上昇と共に大きくなる。中央のAr原子から低速な成分が、両端のAr原子から高速な成分が生成すると考えられるが、状態では中央のAr原子に電荷は存在しないので、のポテンシャル面上で直接解離を考える限り、低速なAr+の生成は説明できない。そこで、非断熱遷移をとりこんだ動力学計算を実行し、低速な成分の比率を求めた。結果を図4に示す。非断熱効果を取り込んだことにより、低速なAr+フラグメントの生成が再現された。また、励起エネルギーの上昇とともに非断熱効果が大きくなる、すなわち、低速なAr+フラグメントの比率が高くなることも確認できる。についても同様の動力学計算を実行し、大きなクラスターでは非断熱遷移の効果がより顕著に現れることを示した。

図4: 高速なAr+解離生成物にたいする、低速な成分の比。計算値を菱形で、永田およびBowersによる実験結果を四角と十字で示した。
審査要旨

 本論文は5章から成り、クラスターの電子構造と動力学に関する理論的な取り扱いについて、アルゴンクラスターイオンを例にあげて論述している。

 第1章では、クラスターを理論的に取扱う上での諸問題について簡単に論じたあと、本論文の概要が述べられている。

 第2章では、本論文で取りあげるアルゴンクラスターイオンの電子ハミルトニアンについて述べている。電子基底状態だけでなく、多くの励起状態をも同一精度で求めるため、標準的な分子軌道法ではなく、DIM(Diatomics In Molecules)法を用いて、電子ハミルトニアンを構築している。DIM法は、2原子分子のポテンシャル曲線や原子のイオン化エネルギーなどの情報から、全ハミルトニアンを構築する手法である。本論文では、DIMハミルトニアンの構造に着目し、ポテンシャル面の勾配や電子状態間の非断熱結合ベクトルなどの解析的な表式を導出している。3量体イオンのポテンシャル面の形状や双極子遷移確率について、DIM法と分子軌道法の結果を比較し、DIM法の有効性を明らかにした。

 第3章では、アルゴンクラスターイオンの静的な特性について論じている。電子基底状態のポテンシャル面の勾配を利用してクラスターの最安定構造を求め、アルゴンクラスターイオンは3量体イオンが溶媒和した構造を取ることを明らかにした。また、実験で観測されている、光吸収波長のクラスターサイズの増大に伴う長波長シフトを、3量体イオンの励起状態に対する溶媒和効果から説明し、溶媒和エネルギーを定量的に見積る手法を提案している。

 第4章では、アルゴンクラスターイオンの動的挙動について論じている。一般にクラスターには無数の構造異性体が存在し、実験で生成されるクラスターはこれら異性体の混合物と考えられる。光吸収スペクトルに対する異性体の効果を考慮するため、古典軌道を基に吸収スペクトルを計算する表式を新たに導出し、ポテンシャル面の勾配を利用して、電子基底状態における分子動力学計算を実行している。得られたスペクトルより、実験で観測されている2段階の吸収波長のシフトを、溶媒和の概念(前章で提唱)を用いて説明している。

 第5章では、アルゴンクラスターイオンの光解離過程を例にとり、電子状態間の非断熱遷移を取り込んだ分子動力学法について述べている。クラスターの光解離過程では、光励起状態から出発して、電子基底状態にある娘クラスターを生成するため、解離の途中でおきる電子状態の緩和が本質的である。アルゴンクラスターイオンの光解離過程では、この電子状態の緩和は主に非断熱遷移を通じて進む。この光解離過程を分子動力学の枠内で効率良く取り扱うため、Tullyによって提唱された方法を改良して用いている。この手法は3量体と7量体の光解離過程に対して適用され、光解離生成物の速度分布や角度分布などについて、実験との比較を通じて論じられている。

 以上まとめたように、論文提出者はアルゴンクラスターイオンの断熱・非断熱過程の本質を探る理論的研究に成功しており、本論文は博士(理学)の学位論文として充分な内容を持つと判断される。なお、本論文第3章および第5章の一部は近藤保・岩田末廣両氏との共同研究であり、第4章および第5章の一部は岩田末廣氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究したもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50686