学位論文要旨



No 213101
著者(漢字) 伊藤,文之
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,フミユキ
標題(和) 高温分子の高分解能FTIR分光法による研究
標題(洋) High-Resolution FTIR Studies of High-Temperature Molecules
報告番号 213101
報告番号 乙13101
学位授与日 1996.12.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第13101号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 遠藤,泰樹
 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 助教授 永田,敬
 東京大学 助教授 山内,薫
 城西大学 教授 上原,博通
 国立天文台 助教授 川口,健太郎
内容要旨

 高温条件でのみ気相中に存在する分子は一般に高温分子と呼ばれ、金属水素化物や金属酸化物の2原子分子がその代表例として知られている。これらの分子は高温における物理化学的過程を研究する上で基本的重要性を持つため、分光学的研究が数多くなされてきた。多くの高温分子について、観測された遷移周波数から分光学的定数(分子定数)が決定されているが、未だ電子基底状態における精密な情報が得られていない分子もあり、分子の双極子能率関数に関する知見に至ってはほとんど研究例が報告されていない。

 本研究では、高温分子AlH1),GaH1),InH2)(X1+)およびAsO3)(X2II)を取り上げ、その高分解能FTIR分光の結果について報告する。これらはIIIb、Vb族の元素を含み、III-V化合物半導体の製造プロセスにおいて生成する可能性のある分子である。AlHについてはFTIR発光分光による倍音遷移(v=2)の観測が、GaH,InHおよびAsOについては半導体レーザ分光法(TDL)による基音遷移(v=1)の観測がなされており、電子基底状態の分子定数の値が得られていた。本研究の目的と内容は以下の通りである。

 (1)上記すべての分子について、FTIRにより基音遷移の観測と帰属を拡張し、電子基底状態におけるより精密な分子定数を決定する。

 (2)AlH,GaH,InHは慣性質量が小さく、回転定数が大きい。このような分子においては遠心力歪みによる摂動が基音遷移の振動回転強度の副次的なJ-依存性として現れるHerman-Wallis効果4)が大きいことが期待される。この効果は分子の双極子能率関数(DMF)に依存するため、スペクトルの強度解析から実験的にDMFの情報を得ることが可能になる。

 金属元素を含む不安定分子についてはこのような研究例がほとんどない。本研究では、AlH,GaH,InHについてHerman-Wallis効果4)の解析を行い、個々の分子における電子双極子能率関数に関する知見を得る。

 (3)AsOは本研究で取り上げた分子の中で唯一開殻系である。基底状態の分子定数には、不対電子によるスピン-軌道相互作用の核間距離依存性A(r)の情報が含まれており、電子基底状態の性質を理解する上で興味深い。A(r)の系統的研究はほとんど行われていないため、本研究ではAsOのA(r)を求め、同族元素を含むNO,POとの比較を行う。

実験

 AlH,GaH,InH

 アルミナ管を用いて高温セルを製作した。セル中に金属片を挿入し、真空排気した後SiCヒータで1200〜1600℃に昇温する。セル内に水素ガスをゆっくりとフローさせ、金属蒸気と水素分子の反応により上記の分子を発生させた。BOMEM DA3.36 FTIR分光計から赤外光を取り出し、セル内を通過させた後液体窒素冷却HgCdTe検出器で検出を行った。InHの場合は感度向上のためWhite型多重反射光学系を用い、AlH,GaHについてはone pathで吸収スペクトルを測定した。検出器の前にはオリフィスと赤外ローパスフィルタ(v<1900cm-1)をおき高温セルからの背景光を除いた。測定条件は表1に示した。InHについて、測定したスペクトルの一部を図1に示した。

 AsO

 AlH等の場合と同様な高温セルを組み立て、放電電極を両端に追加した。真空排気した後、内部にAs2O3を挿入し、アルゴンをゆっくりフローさせた。ニクロム線で昇温して生成したAs4O6蒸気を高周波放電(f=12kHz,I=300mAp-p)で分解し、AsOを発生させた。BOMEM DA3.36 FTIR分光計から赤外光を収り出し、セル内を一回往復させた後液体窒素冷却HgCdTe検出器で検出を行った。赤外ローパスフィルタ(v<1900cm-1)と電気的ローパスフィルタ(<2kHz)を用いて、高温セルからの背景光と放電によるノイズを取り除いた。測定条件は表1に、スペクトルの一部を図2に示した。

スペクトルの解析

 AlH,GaH,InH

 帰属は既存の分光定数(半導体レーザ分光、FTIR発光分光による)を用いて行った。帰属した振動回転遷移を既存のデータと同時解析し、Dunham係数を精密化した。AlHに対しては、高次の係数を決定できた。

 各分子について、振動回転強度をフィッティングで求め基音振動回転遷移におけるHerman-Wallis効果を調べた。最小自乗法で決定したHerman-Wallis係数から、双極子能率と双極子微分の比を求めた。得られた値を表2に示す。

 AsO

 帰属は半導体レーザ分光の結果を援用して行ったが、=3/2-3/2遷移におけるホットバンドの帰属に誤りを見つけ修正を行った。合計で約1000本の振動回転遷移(△=0)を帰属し、Hundのcase(a)基底の2IIハミルトニアンを用いてフィッティングを行い、電子基底状態における分子定数を再決定した。スピン-軌道相互作用のv-依存項A,Aからスピン-軌道相互作用定数の核間距離依存性A(r)を決定した。得られた値を表3に示す。

結果と議論

 AlH,GaH,InH

 表2に実験的に得られたと量子化学計算の結果を比較のため示した。InHの場合は双極子微分の計算が報告されていないため比較はできなかった。AlH,GaHともに実験値と計算値の符号は一致し、平衡核間距離近傍での双極子能率関数の振る舞いは計算と一致するといえる。AlHの場合は実験値と計算値は誤差内で一致する。一方、GaHの場合は実験値が計算値の4倍程度と隔たりが大きい。実験値相互で比較すると、の値はAlH<<GaH<InHの傾向を示すことがわかる。

 AsO

 再帰属により分子定数はより精度よくかつreasonableに決定された。表3に示したように、AsOのA(r)はの2次の項が大きく、re近傍(≡rmax)で極値をとることがわかった。また、分子定数の間のself-consistencyを保証するためにはこの2次の項が必要であることが明らかになった。類似分子のNO,POと比較した場合、の絶対値はNO>PO>AsOの順に小さくなり、A(r)におけるの2次の項の重要性はこの順に大きくなると考えられる。(表4参照)このA(r)の振る舞いは、(1)電子励起配置のミキシング(2)各電子配置におけるHOMOの性質の変化、の2つにより決定されるが、AsOの場合実験的に個々の効果の寄与を定量的に評価することはできず、精度の高い量子化学計算との比較研究が必要であると考えられる。

謝辞

 本研究はドイツのウルム大学との共同研究として行われたものである。

参考文献1)J.Mol.Spectrosc.,164,379-389(1994).2)ibid.,169,421-426(1995).3)ibid.,174,417-424(1995).4)J.Chem.Phys.,23,637-646(1955).図1 InHのP枝領域のスペクトル図2 AsOのR枝領域のスペクトル表1 スペクトルの測定条件表2 Herman-Wallis効果の解析結果と双極子能率関数表3 スピン-軌道相互作用定数のr-依存性
審査要旨

 高温条件でのみ気相中に存在できる分子の高分解能分光は、適切な生成条件を見出すとともに実験装置を高温の条件に最適化する必要があり、安定な気相分子に比べ実験が困難である。近年、高分解能分光の実験技術の進歩もあり、様々な金属元素を含む水素化物や酸化物などが、高温における物理化学的過程を理解するために盛んに取り上げられるようになってきている。本研究は、III-V族半導体の製造プロセス中の元素のモニタリングなどで重要と考えられるIIIb族金属の水素化物、AlH、GaH、InH、及びVb族元素の酸化物AsOを取り上げ、その高分解能フーリエ変換赤外分光を行ったものである。

 論文は全部で3章からなっている。第1章はこれら高温中でのみ気相分子として存在できる分子の高分解能分光の意義、現在の研究状況などを概観したものである。

 第2章は、IIIb族金属の水素化物、AlH、GaH、InHの分光結果について論じている。これらの分子は、すでに赤外半導体レーザー分光の報告があったが、より広い範囲のスペクトルを総括的に観測できるフーリエ変換赤外分光法の利点を生かして、これまで報告されていたものより精度の高い分子定数を決定した。特に新しい結果として注目されるのは、観測されたスペクトル線の強度から、Hermann-Wallis効果の解析を行い、永久双極子能率と、その核間距離依存項の比を決定したことである。双極子能率の核間距離依存項は赤外の遷移強度を見積もる上で重要な量であり、これらの分子の赤外スペクトルを分子のモニタリングなどに応用する場合に不可欠である。AlH、GaHに関してはこれまで量子化学計算による双極子モーメント、及びその核間距離依存性項の見積もりがあったが、特にGaHに関しては、この見積もりに疑問を投げかける結果を得ている。実験的に求められた今回の結果は、今後これら分子種をスペクトル強度から定量する際の基本データとなると考えられる。

 第3章は、Vb族元素を含む酸化物2原子分子、AsOの赤外分光を取り扱っている。この系列に属する分子としては、NO、POが知られており、様々な分光法による研究が報告されている。また、これらの分子種はいずれも開殻の2重項を基底状態とするラジカル種である。本研究では、AsOに関し論文提出者らが以前に行った赤外半導体レーザー分光の結果を発展させたものである。フーリエ変換赤外分光法により約1000本の赤外遷移を帰属し、詳しい分子定数を決定した。とくに、振動量子数v=4までの遷移を帰属・解析できたことで、様々な分子定数の振動量子数依存性が求められ、これからこの分子のポテンシャル曲線、平衡構造などを精度良く決定した。更に、スピン-軌道相互作用定数の核間距離依存性も決定した。この定数がAsOでは平衡核間距離よりわずかに長い距離で極大を持つことを見いだし、これを同族分子NO、POと比較した。この結果は、開殻ラジカルである一連の分子NO、PO、AsOの電子構造を系統的に論じる上での基礎的なデータとなる。

 以上、本論文は、AlH、GaH、InH、AsOの4種の高温分子を、生成法を工夫して高分解能フーリエ変換赤外分光法により観測することで、これら分子に関する基本データを精度良く決定し、これから様々な新しい知見を得たものである。本論文の研究は、すべて論文提出者が中心となって遂行されたもので、すでに3報の論文として本人を筆頭著者として学術誌に印刷公表されている。よって審査員全員は、論文提出者が博士(学術)の学位を授与されるにふさわしいと認定した。

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