赤血球の代替となり臓器、組織に十分な酸素を供給することが可能な人工酸素運搬体の臨床応用に対する期待は大きく、通常の医療のみならず災害時の緊急医療においてもその利益は計り知れないものがある。このような観点から、過去数十年にわたって人工酸素運搬体の素材として十分な酸素運搬能を有し、しかも生体にとって毒性のない物質を求めて多くの研究がなされてきた。中でもヘモグロビンは生体内に存在する物質であり、人工酸素運搬体として最も有力な物質と考えられてきた。しかしながら、ヘモグロビンは、分子そのものが高い酸素親和性を持ち、精製上の問題のため、生体に投与するとショック、腎毒性の発現、血圧上昇などの毒性あるいは副作用などが見られてきた。このようなヘモグロビン分子の人工酸素運搬体としての欠点を克服するため、様々なヘモグロビンを利用した人工酸素運搬体が開発されて、現在、高純度に精製したヘモグロビン分子をピリドキシル化し、ポリオキシエチレンを結合させたヘモグロビン重合体(PHP)のほか、いくつかの高分子ヘモグロビン、重合ヘモグロビンおよび架橋ヘモグロビンが開発されている。 本研究では、1983年に岩下、等によって開発されたピリドキシル化ヘモグロビン-ポリオキシエチレン重合体(PHP)の安全性と循環器系に対する作用を薬理学的に検討することを目的として、イヌ脱血ショックモデル実験系、イヌ下肢定流潅流実験系、摘出血管張力実験系、ラット下肢定流潅流実験系、各種実験動物生体位血圧心拍測定系などのモデル実験を行った。PHPは、ヒト赤血球を溶血し、精製したヘモグロビンにピリドキサール-5’-リン酸(PLP)を結合させて、酸素との親和性を赤血球とほぼ同等に低下させ、さらに、ポリオキシエチレン(POE)を結合させることにより、分子量を約86,000とし、生体内半減期を約24時間まで延長させた化学修飾重合型ヘモグロビンである。投与に際しては、6%のPHP溶液に電解質を補充し、血漿とほぼ同じ組成になるように調整して用いた。得られた結果は下記の通りである。 1)イヌ脱血ショックモデル実験系 脱血ショック状態の犬にPHPを投与したところ、血圧と心拍数はすみやかに正常化し、心電図にも異常は見られず、心肺などの循環器系に対して重篤な有害作用がないこと、さらに、PHPは既存の血漿増量剤であるヒドロキシエチルスターチ溶液と同程度の循環血液量維持作用を有することが明らかとなった。 2)イヌ下肢定流潅流実験系 ラットの交換輸血の実験で、PHPの酸素運搬能は赤血球と差はないことが報告されているが、PHPの酸素運搬能をより直接的に証明するため、イヌ下肢定流潅流実験系を用い、PHPを潅流した末梢組織の酸素分圧の変化を直接的に測定した。その結果、PPHによる潅流で、十分な潅流量を維持することにより、PHPは組織酸素分圧を上昇させるという結果が得られた。また、PHP潅流時には末梢血管抵抗が小さくなることが明らかとなった。 3)摘出血管張力測定実験系 ヘモグロビンは、血管内皮細胞から産生される血管弛緩因子であるEDRF/NOと相互作用することや脳底動脈や冠動脈を直接的に収縮させることが知られている。従って、PHPがこのようなヘモグロビンの薬理学的作用を有するとすれば、PHPによる血圧上昇の一因になると考えられる。本研究ではPHPとEDRF/NOとの相互作用に関して、摘出血管を用いた実験系で検討を行った。その結果、PHPおよび精製SFHは、ラットの大動脈において、直接的な収縮作用は示さないが、アセチルコリン(ACh)により放出されるEDRF/NOの作用を抑制することが明らかとなった。一方、イヌの脳底動脈では、PHPおよび精製SFHは、直接的な収縮作用を示した。これらの結果は、従来報告されているヘモグロビン分子の薬理学的性質と一致するものであった。このことはヘモグロビン分子の薬理学的性質は化学修飾による影響は受けないことを示している。 4)ラット下肢定流潅流実験系 in vitroの実験系で示されたヘモグロビンの薬理学的性質が、PHP生体内投与時に血圧や血管作動物質に対する反応に対してどのような影響を及ぼすかを調べるため、ラット下肢潅流の実験系を用いて検討した。PHPもしくはHESを交換輸血し、血圧、潅流圧の変化と、交換輸血前後の血管作動物質による血圧と潅流圧の変化を調べた結果、PHP交換輸血後、アセチルコリンおよびニトログリセリンによる血管の弛緩反応、セロトニンおよびアンギオテンシン-IIによる血管収縮反応は影響を受けなかったが、PHP交換輸血に伴い全身血圧の有意な上昇とノルエピネフリンに対する反応性の亢進が見られた。 5)各種実験動物生体位血圧心拍測定系 PHPの血圧上昇作用には、EDRF/NOの阻害作用以外の機序も関与している可能性が考えられる。そこで、in vivoの各種実験系を用いて、PHPよる血圧上昇の機序を詳細に検討した。その結果、(1)EDRF/NO合成阻害物質(L-NMMA)処置で血圧上昇が抑制されること、(2)EDRF/NOとの相互作用がないとされているMet-PHPでは血圧上昇が小さいこと、(3)EDRF/NOの保護作用のあるSOD処置でPHPによる血圧上昇が増強されること、および(4)PHPは、in vivo系ではAChにより産生されるEDRF/NOの作用を阻害しないことが明らかとなった。これらの結果より、PHPによる血圧上昇には、血管内皮細胞より自然に放出されているEDRF/NOに対する阻害作用が一部関与しているものの、PHPの極少量でも昇圧が起こることから、血管平滑筋緊張を調節する末梢神経系におけるEDRF/NOの阻害の可能性が高いと考えられる。さらに、L-NMMA処置後でも、PHPによる昇圧が起きることから、EDRF/NO阻害以外の機序による可能性も否定出来ない。 ラット、ウサギ、モルモットおよびイヌを用いた実験で、PHP投与による昇圧には、種差があることが明らかになった。このことは、ヒトにおいてもPHP投与により昇圧が起こる可能性があることを示唆している。しかし、PHPの臨床応用の目的が、大量出血時の循環血液量の確保と組織への酸素供給であるとすれば、PHPのもつ昇圧作用は、その程度が危険でないかぎり、臨床的には好ましい結果を示すとも考えられる。 上述のごとく、PHPは小さい粘性と十分な循環血液量維持作用と酸素運搬能を有し、重篤な毒性を持たない人工酸素運搬体であることが本研究で明らかにされ、今後、人工酸素運搬体として臨床応用が大いに期待される。ただし、PHPはヘモグロビンの薬理学的性質としてEDRF/NOの阻害作用を示すことから、PHP投与によりEDRF/NOの生体内での様々な生理作用にも影響を与える可能性がある。この点に関しては、臨床応用に至る前に検討すべき課題であると思われる。 |