学位論文要旨



No 213114
著者(漢字) 井手,隆文
著者(英字)
著者(カナ) イデ,タカフミ
標題(和) 砂ネズミの一過性前脳虚血後の海馬におけるユビキチン免疫原性の変化について
標題(洋)
報告番号 213114
報告番号 乙13114
学位授与日 1996.12.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第13114号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石川,隆俊
 東京大学 教授 芳賀,達也
 東京大学 教授 柴田,洋一
 東京大学 助教授 貫名,信行
 東京大学 助教授 森田,寛
内容要旨

 ユビキチンは、すべての真核細胞に普遍的に存在する小さなタンパクで、ATP依存性のlysosomeを介さない細胞内タンパク分解過程において主要な役割を果たしている。

 一方、短時間の虚血負荷に選択的に脆弱な海馬CA1の錐体細胞は、砂ネズミなどの齧歯類の前脳虚血モデルにおいて、虚血後48時間までは形態学的な変化はなく、エネルギー代謝も回復し、電気生理学的にも回復しているにもかかわらず、虚血後3〜4日目にはほとんどが細胞死に至る。このような細胞死は遅発性神経細胞死と呼ばれている。1989年にMagnussonとWielochがラットの15分間の前脳虚血において、神経細胞死に至る前に海馬CA1の神経細胞においてユビキチンの免疫原性が消失した後、回復しないことを報告した。この現象は、虚血によってユビキチンが破壊された後、CA1の神経細胞がストレス応答できずユビキチンが産生されなかったと解釈された。本研究では、砂ネズミの前脳虚血後の海馬CA1領域におけるユビキチンの免疫原性の変化とタンパクのユビキチン化について、4種類の抗ユビキチン抗体による組織免疫染色、イムノブロッティング、免疫沈降試験、免疫吸収試験、およびELISAによる遊離ユビキチンと結合型ユビキチンの定量的分析を用いて検討し、虚血後のCA1の神経細胞では、ユビキチンの総量が減少したのではなく、ユビキチンの存在様式に変化をきたしたことを明らかにした。

方法I.虚血負荷

 雄の砂ネズミを体温(直腸温)と側頭筋温を37.5±0.4℃にコントロールし、5分間の前脳虚血を負荷した。再灌流3,6,12,24,48時間後に4%パラフォルムアルデヒドで灌流固定し、背側海馬を含む冠状断の切片(50m)を作成し下記の4種類の抗体で免疫染色を施行した。

II.抗体

 使用した4種類の抗ユビキチン抗体は、U-5379、DF2、MAB1510、5-25である。U-5379はウサギ抗ユビキチン抗血清(Sigma)、DF2はラットモノクローナル抗体(IgM)、MAB1510はマウスモノクローナル抗体(IgG1;Chemicon)である。5-25はマウスモノクローナル抗体で、DF2とともにアルツハイマー病におけるpaired helical filament(PHF)を抗原として作成され、PHFに結合しているユビキチンを認識することが知られている

III.免疫組織化学

 組織免疫染色は、Vectastain ABCキット(Vector Laboratories)を用いて施行した。内因性ペルオキシダーゼの抑制、ブロッキングののち上記の一次抗体と室温で30分間、4℃で一晩、インキュベートした。さらにビオチン化二次抗体、アビジンおよびビオチン化ワサビペルオキシダーゼ複合液とインキユベートし、発色は、ジアミノベンチジンにて行った。

IV.イムノブロッティング

 雄の砂ネズミの正常脳をホモジェネートし、TBS可溶分画、トリトンX-100可溶分画、尿素可溶分画、尿素不溶分画をそれぞれ抽出した。各分画を17.5%ポリアクリルアミドゲル上で電気泳動し、PVDF膜(Immobilon)に転写した後、膜を上記の4種類の抗体、ビオチン化二次抗体、アビジン-ビオチン化ワサビペルオキシダーゼcomplexと順次反応させた。発色は、4-クロロ1ナフトールにて施行した。

V.免疫沈降試験

 雄の砂ネズミの正常脳のホモジェネートのTBS可溶分画で、非特異的にプロテインGと結合するタンパクを除去し、上清を上記の4種類の抗体のうちU-5379、DF2、MAB1510と4℃で一晩混合したものを10%immobilizedプロテインGで沈降させ、煮沸、電気泳動、転写しブロットをDF2で免疫染色した。

VI.免疫吸収試験

 遊離ユビキチンに対するU-5379、DF2、MAB1510の各抗体の免疫吸収試験を施行した。

VII.ELISAによる遊離ユビキチンと結合型ユビキチンの定量的分析

 雄の砂ネズミの5分間の前脳虚血負荷後、再灌流3,6,12,24,48時間後に、直ちに脳を取り出し、55mの凍結切片を作製し、乾燥させた。実体顕微鏡下に海馬CA1とCA3および歯状回などのその他の海馬に分別して削り取り、TBS溶液に回収した。これらのTBS、尿素抽出分画を遊離ユビキチンのradioimmunoassayと結合型ユビキチンのenzyme-immunoassayにて定量した。

結果I.免疫組織化学

 U5379による組織免疫染色では、虚血後海馬全体で染色性が消失した後、CA1領域では48時間までは、回復しないままであったのに対して、DF2およびMAB1510による組織免疫染色では虚血後も海馬全体で免疫原性は大きくは変化しなかった。5-25は染色性が全体に弱かったが、虚血後48時間で海馬CA1で免疫原性が消失した。

II.イムノブロッテイング

 U-5379は、TBS、Triton X-100、尿素可溶分画で約5.5kDで遊離ユビキチンを認識し高分子領域でもスメア状にユビキチン化タンパクを認識した。一方、DF2はU-5379と同様にTBS、Triton X-100、尿素可溶分画で遊離ユビキチンを認識し、高分子量のユビキチン化タンパクも多くのバンドとして認識した。MAB1510も、TBS、Triton X-100、尿素可溶分画で遊離ユビキチンを認識し、DF2と同様に多くの高分子量のユビキチン化タンパクのバンドも認識した。5-25は他の3種類の抗体と異なり、尿素不溶性分画でユビキチン化ヒストンH2Aのみを認識し、この抗体はいわゆるモノユビキチンに特異的と思われた。

III.免疫沈降試験

 変性していないタンパクにおいて、U-5379は主に遊離ユビキチンを沈降したが、高分子量のユビキチン結合タンパクは少なかった。一方、DF2、MAB1510はともに、遊離ユビキチンをあまり沈降せず、逆に高分子量のユビキチン結合タンパクを多く沈降した。

IV.免疫吸収試験

 U-5379はDF2やMAB1510よりも、遊離ユビキチンを吸収した。すなわち、タンパクの変性がない条件下では、U-5379はDF2、MAB1510よりも遊離ユビキチンに対する特異性が高いことが再確認された。

V.ELISAによる遊離ユビキチンと結合型ユビキチンの定量的分析

 遊離ユビキチンはほとんどがTBS可溶分画に存在していた。虚血後の海馬のTBS可溶分画における遊離ユビキチンは、CA1領域もその他の領域も減少した。しかし、CA1領域では遊離ユビキチンは減少したままなのに対して、その他の海馬の領域では48時間までに徐々に虚血前のレベルに回復した。

 結合型ユビキチンはTBS可溶分画より尿素可溶分画に多く存在していた。尿素可溶分画の結合型ユビキチンは、虚血後海馬全体で増加し、CA1領域では増加したままであるのに対して海馬のその他の領域は徐々に虚血前に回復していった。

考察

 免疫沈降試験、免疫吸収試験による各抗体の特異性から、U-5379による組織免疫染色では遊離ユビキチンが虚血後海馬CA1領域では著減したままであることが示され、定量的分析でこれを再確認できた。一方、DF2およびMAB1510による組織免疫染色では結合型ユビキチンは虚血後の海馬全体で少なくとも著減しないことが示され、さらに定量的分析では結合型ユビキチンは海馬CA1では虚血後増加したままであるのに対してその他の海馬領域では増加後に、次第に減少して虚血前に回復していくことが明らかになった。すなわち、前脳虚血後の砂ネズミの海馬では、虚血に対して特に脆弱であるCA1領域の神経細胞は虚血後に遊離ユビキチンが結合型ユビキチンに変化して著明に減少した後、回復しないまま細胞死に至るのに対して、細胞死に至らない海馬CA3や歯状回領域の神経細胞では遊離ユビキチンが減少した後、次第に虚血前の遊離ユビキチンレベルに回復することが、今回の研究で明らかになった。同時に、結合型ユビキチンは虚血後の海馬全体で増加した後、CA1領域では増加したままなのに対して、CA3や歯状回領域などでは遊離ユビキチンの回復に逆相関して徐々に減少し、48時間後には虚血前のレベル近くにまで減少することが示された。海馬CA1の神経細胞で遊離ユビキチンが回復してこないのは、遊離ユビキチンが虚血後増加した変性タンパク処理のためのユビキチン化に消費された後、タンパク処理が進行せず、また、おそらくは遊離ユビキチンの合成も行われないためと考えられる。このように、虚血後生じた変性タンパクの処理のために遊離ユビキチンが消費しつくされて枯渇すると、その後の異常タンパクのユビキチン化が障害され、その結果、異常タンパクが細胞内に蓄積し重大な代謝の異常をきたし、最終的には神経細胞死に至る過程に大きな影響を与えると思われる。このように、虚血後の海馬全体で遊離ユビキチンがタンパク処理のためのユビキチン化のために消費され、その後の遊離ユビキチンの回収されていく過程が進行するか否かで神経細胞死に至るかどうかが規定されることが示唆された。

結論

 前脳虚血後の砂ネズミの海馬において、虚血に対して特に脆弱であるCA1領域の神経細胞と細胞死に陥らないその他の領域の神経細胞では遊離ユビキチンと結合型ユビキチンの変化にきわだった差異を示した。すなわち、前脳虚血後の海馬CA1領域の神経細胞では遊離ユビキチンが著減し、結合型ユビキチンが増加したままであった。

審査要旨

 本研究は虚血に対して選択的に脆弱な海馬CA1神経細胞が、短時間の虚血後にいわゆる遅発性神経細胞死に至る過程において、ATP依存性のlysosomeを介さない細胞内タンパク分解過程の主要な役割を果たしているユビキチンが、どのように変化しているのかを明らかにしたものであり、下記の結果を得ている。

 1.砂ネズミの5分間前脳虚血モデルにおいて、海馬CA1神経細胞は虚血再灌流後3〜4日目に遅発性神経細胞死に至るが、5分間前脳虚血再灌流後48時間までの4種類の抗ユビキチン抗体による海馬の組織免疫染色の結果から、虚血再灌流早期より海馬全体で遊離ユビキチンが著明に減少し、海馬CA1領域では減少したままであることが示された。一方、種々の大きさの高分子量のタンパクに結合した結合型ユビキチンは組織免疫染色上、遊離ユビキチンと異なり虚血後の海馬では著明には変化しないことが示された。

 2.砂ネズミの5分間前脳虚血再灌流後の海馬に対して、ELISAによる遊離ユビキチンと結合型ユビキチンの定量分析を行ったところ、遊離ユビキチンはほとんどがTBS可溶分画に存在し、虚血後早期の海馬で著明に減少し、海馬CA1領域では遊離ユビキチンは減少したままなのに対してその他の海馬の領域では48時間までに徐々に虚血前のレベルに回復することが示された。さらに、結合型ユビキチンはTBS可溶分画よりも尿素可溶分画に多く存在し、尿素可溶分画の結合型ユビキチンは、虚血後海馬全体で増加し、CA1領域では増加したままであるのに対して海馬のその他の領域は徐々に虚血前に回復していくことが示された。

 3.海馬CA1の神経細胞で前脳虚血後に遊離ユビキチンが減少して回復してこないのは、遊離ユビキチンが虚血後増加した変性タンパク処理のためのユビキチン化に消費された後、タンパク処理が進行せず、また、おそらくは遊離ユビキチンの合成も行われないためと考えられる。このように、虚血後生じた変性タンパクの処理のために遊離ユビキチンが消費しつくされて枯渇すると、その後の異常タンパクのユビキチン化が障害され、その結果、異常タンパクが細胞内に蓄積し重大な代謝の異常をきたし、最終的には神経細胞死に至る過程に大きな影響を与えると考えられた。

 以上、本論文は砂ネズミ前脳虚血後の海馬CA1神経細胞において、遊離ユビキチンが結合型ユビキチンに変化し、減少したまま回復しないことを明らかにした。本研究は、虚血後の神経細胞において遊離型と結合型のユビキチンのそれぞれの変化を組織免疫染色とELISAによる定量分析の両面からはじめて明らかにしたもので、本手法は今後ユビキチンが関連する虚血および虚血以外の様々な病態の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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