学位論文要旨



No 213130
著者(漢字) 耿,美玉
著者(英字)
著者(カナ) ゲン,メイユ
標題(和) チアミン、ビタミンB6の培養脳神経細胞に対する栄養および保護作用
標題(洋) Neurotrophic and Neuroprotective Effects of Thiamin and Vitamin B6 in Cultured Brain Neurons
報告番号 213130
報告番号 乙13130
学位授与日 1997.01.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第13130号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 齋藤,洋
 東京大学 教授 武藤,誠
 東京大学 助教授 岩坪,威
 東京大学 助教授 鈴木,利治
 東京大学 助教授 松木,則夫
内容要旨

 チアミンは補酵素としてエネルギー代謝系に関与しているだけでなく、神経の機能を維持する上で重要な役割を演じていることが近年わかってきた。Pyridoxal phosphate(PLP)はビタミンB6系に属し、脳内の炭水化物、脂肪、蛋白質、核酸などの合成を調節することが知られている。神経機能の維持においてPLPは神経伝達物質、すなわちドーパミン、ノルエピネフリン、-アミノ酪酸(GABA)、セロトニン、タウリン等の合成にPLP依存性酵素を介して作用すると考えられている。そこで本研究では、培養脳神経細胞の生存、突起伸展およびglucose欠乏によって生じる障害に対するビタミンB群の作用について検討を行った。

1.培養神経細胞の生存および突起伸展に対するチアミンの作用

 Wistar系ラット胎生18日齢の脳各部位の単離細胞を用いて、神経細胞の生存に対するチアミンの作用を検討した。チアミンは、高密度培養での海馬細胞についてのみ、100-300Mの濃度で有意に生存を促進した。しかし、その他の部位の高密度および海馬細胞の低密度の培養系では何ら作用を示さなかった。チアミンの拮抗薬であるオキシチアミンは、単独適用では生存に影響を示さないものの、チアミンの生存促進作用を用量依存的に阻害した。一方、突起伸展に対してチアミンは、最長突起長、突起の合計の長さ、最長突起の分岐数ならびに細胞体からの突起数の全ての項目において全く作用を示さなかった。

2.培養神経細胞の生存および突起伸展に対するビタミンB6とその関連化合物の作用

 脳各部位の単離神経細胞の高密度培養および海馬細胞の低密度培養系を用いて、ピリドキシンならびにPLPの生存に対する作用を検討した。ピリドキシンとPLPは全ての部位の高密度培養において有意に生存促進作用を示し、その作用は海馬、大脳皮質で特に顕著であった(Fig.1)。しかし、海馬細胞の低密度培養条件では両化合物共に何ら作用を示さなかった。さらに海馬細胞の高密度培養を用いてPLP依存性酵素阻害剤の生存に対する作用を検討したところ、代表的な酵素阻害薬であるaminooxyacetic acid(AOAA)は十分にPLP依存性酵素を阻害する濃度(5mM)でPLPによる生存神経細胞数の上昇を著しく減少させた(Fig.2)。PLPは、神経保護作用を示すGABAの生合成反応の重要な補酵素としても知られている。そこでPLPの生存促進作用におけるGABAの関与を明確にするために、GABAA受容体の拮抗薬であるpicrotoxinを用いてPLPの作用を検討したところ、picrotoxinは単独で海馬神経細胞の生存に影響を与えない濃度でPLPの生存促進作用を顕著に抑制した。また神経細胞の生存に関与が報告されているポリアミンの拮抗薬のifenprodilによってもPLPの生存促進作用は有意に阻害された。以上のことより、PLPの生存促進作用はPLPによって上昇調節されたGABAおよびポリアミンを介している可能性が示唆された。一方、突起伸展に対してPLPは、総突起長、最長突起の分岐数および細胞体からの突起数には有意な作用を示さないものの、最長突起長を有意に促進させた。

Fig.1 Effect of PLP on Neuronal SurvivalFig.2 Effect of Co-application of PLP and Aminooxyaceticacid on Neuronal Survial
3.培養海馬細胞のglucose欠乏によって生じる障害に対するPLPの保護作用

 前章でPLPが通常の培養条件下において様々な脳部位の神経細胞に対して栄養効果を持つことが示された。そこで次に、培養神経細胞に障害性の負荷を与えて疾患時の状態を模倣する実験系を作成し、これに対するPLPの薬理学的効果を検討した。周知の通り神経細胞はグリコーゲンを持たないので、中枢神経細胞が生存し、さらに正常な神経機能が維持されるためには持続的なglucose供給が不可欠である。glucose欠乏状態では、神経細胞内のエネルギー枯渇のため静止膜電位を維持できなくなり、興奮性アミノ酸を細胞外に遊離され、イオンバランスに破綻を来たし、ついには神経細胞死に至る。そこで7日間培養した海馬細胞を用いてglucose欠乏状態におけるPLPの作用について検討した。通常の培地は17mMのglucoseを含有していることを考慮してglucose欠乏負荷を行い、薬物はglucose欠乏負荷の24時間前に添加した。glucose欠乏ならびに低glucose状態(1.7mM)で培養すると6時間目以降に著しいlactate dehydrogenase(LDH)の漏出が観察され、PLP添加はこの細胞外LDHの上昇を有意に減少させた(Fig.3)。またPLPが、糖質生合成反応の補酵素であるところから、細胞内のピルビン酸に影響を与えている可能性が考えられたため、細胞内のピルビン酸に対するPLPの影響を検討した。glucose欠乏状態において細胞内ピルビン酸は顕著に低下したが、PLPはglucose欠乏負荷によるLDHの上昇を抑制した濃度(1および10M)でその低下を有意に抑えた(Fig.4)。さらにglucose欠乏負荷6時間後に細胞内ATP含量の顕著な減少が観察されたが、PLPは濃度依存的にATP濃度を回復させ、glucose欠乏状態による障害を改善した。これらの作用は、単独では影響のない濃度のAOAA併用によって全て阻害された。一方、細胞内のエネルギーの枯渇が、細胞外のグルタミン酸濃度の上昇を引き起こすことが知られているところから、培養神経細胞におけるグルタミン酸毒性がglucose欠乏状態によるLDH上昇までの過程に関与している可能性が考えられる。そこでNMDA受容体の競合的拮抗剤であるDL-2-amino-5-phosphonovalerate(DL-APV)を用いてglucose欠乏負荷によるLDH上昇への影響を検討したところ、DL-APVはglucose欠乏状態によるLDHの上昇を濃度依存的に抑制した。このことはNMDA受容体の活性化がglucose欠乏による神経細胞死の必須の過程であることを示唆する。最近の臨床研究で、てんかん患者の脳脊髄液のグルタミン酸レベルがビタミンB6処理によって正常化したという報告がなされている。そこでglucose欠乏におけるグルタミン酸とその他のアミノ酸の細胞外濃度について検討したところ、7倍のグルタミン酸上昇(Fig.5)と若干のアラニンの上昇が認められた。PLP処理はこれらの変化を明らかに抑制した。その他のアミノ酸についてはglucose欠乏およびPLP併用に関わらず変化しなかった。以上のことより、PLPはglucose欠乏によるenergy crisisを抑制することにより、強い神経細胞毒性を持つグルタミン酸の遊離を事前に防ぎ、神経細胞保護効果を示すものと考えられた。

Fig.3 Effect of PLP on LDH ReleaseFig.4 Effect of PLP on Pyruvate ProductionFig.5 Effect of PLP on Extracellular Glutamate
4.培養海馬細胞のglucose欠乏によって生じる障害に対するifenprodilの保護作用

 第2章で正常glucose濃度での培養系においてifenoprodilがPLPによる生存促進作用を阻害することを示したが、近年ifenprodilはNMDA型グルタミン酸受容体のポリアミン調節部位における拮抗作用を介して、グルタミン酸過剰によると考えられる脳虚血状態を改選しうることが示されている。そこでglucose欠乏による神経細胞障害に対するifenprodilの作用を検討した。Ifenprodilはglucose欠乏によるLDHの上昇を有意に抑制し、この抑制作用はポリアミンによって顕著に拮抗された。また、ポリアミンの単独適用ではLDH上昇には変化が認められなかった。このことより、ifenprodilの有用性がさらに確認された。

 チアミンは脳の特定の部位に神経栄養作用を持つことが明らかになった。ピリドキシンとPLPは様々な部位の神経細胞に対して栄養効果を示し、またglucose欠乏状態においても、海馬培養神経細胞に対し保護的な効果を持つことが本研究によりはじめて示された。このPLPの神経保護作用はenergy産生過程を活性化することによるものと考えられた。ビタミンB群の神経栄養効果はその安全性の高さから考えて、種々の神経疾患の予防および治療に際し有用なツールとなるものと期待される。

審査要旨

 ビタミンはおのおのの欠乏症に対する栄養学上不可欠因子として発見され、その構造決定から生理機能の解明に至る研究の進展は、今世紀前半の生物学の一つの大きな流れとなっていた。1948年のビタミンB12を最後に新しいビタミンの発見はみられなくなり、栄養学的観点からのビタミン研究はほぼ終結したかに見える。しかしながら近年になり、ビタミンA、Dなどの脂溶性ビタミンが細胞の増殖・分化、器官の構築に深く関わっていること、またその受容体機構が明らかになるに従い、作用機構としてむしろホルモンに類似した面を持つという新たな局面が展開されつつある。また、単なる栄養学的レベルを超えて、生理活性物質としての臨床的応用も模索されつつある。一方、ビタミンB群をはじめとする水溶性ビタミンは、補酵素として細胞の基本的エネルギー代謝に関連することの他には作用(機能)の特異性が乏しいとみなされ、新たな研究の流れを形成するには至っていない。しかし、ごく最近の研究により、チアミン(ビタミンB1)関連物質が中枢神経細胞の神経伝達を促進することが報告されるなど、中枢神経機能における水溶性ビタミン(特にB群)の作用が突破口となる可能性が浮上している。このような状況下で著者は、培養脳神経細胞の生存、突起伸展およびグルコース欠乏によって生じる障害に対するビタミンB群の作用について検討を行い、興味深い知見を得た。

1.培養神経細胞の生存および突起伸展に対するチアミンの作用

 著者はまずウィスター系ラット胎生18日齢の脳の各部位の単離細胞を用いて、生存に対するチアミンの作用を検討した。チアミンは、高密度培養での海馬細胞についてのみ、100-300Mの濃度で有意に生存を促進した。しかし、その他の部位の高密度および海馬細胞の低密度の培養系では何ら作用を示さなかった。チアミンの拮抗薬であるオキシチアミンは、単独適用では生存に影響を示さないものの、チアミンの生存促進作用を用量依存的に阻害した。一方、突起伸展に対してチアミンは、最長突起長、突起の合計の長さ、最長突起の分岐数と細胞体からの突起数の全ての項目において全く作用を示さなかった。

2.培養神経細胞の生存および突起伸展に対するビタミンB6とその関連化合物の作用

 次いで著者は、脳の5部位の単離細胞の高密度培養ならびに海馬細胞の低密度培養において生存に対するピリドキシンならびにピリドキサルリン酸(PLP)の作用を検討した。ピリドキシンとPLPは全ての部位の高密度培養において有意に生存促進作用を示し、その作用は海馬、大脳皮質で特に顕著であった。しかし、海馬細胞の低密度条件では両化合物共に何ら作用を示さなかった。さらに海馬細胞の高密度培養において代表的なPLP依存性酵素拮抗薬であるアミノオキシ酢酸(AOAA)は、十分にPLP依存性酵素を阻害する濃度(5mM)でPLPによる生存細胞数の上昇を著しく減少させた。PLPは、神経保護作用を示すGABAの生合成において重要な補酵素としても知られている。そこで著者はPLPの生存促進作用におけるGABAの関与を明確にするために、GABAA受容体の拮抗薬であるピクロトキシンを用いてPLPの作用を検討した。単独で海馬細胞の生存に影響を与えない濃度でピクロトキシンはPLPの生存促進作用を顕著に抑えた。また神経細胞の生存に関与が報告されているポリアミンの拮抗薬のイフェンプロジルもPLPの生存促進作用を有意に阻害した。このことからPLPの生存促進作用はPLPによって調節されたポリアミンを介していると考えられた。一方、突起伸展に対してPLPは、突起の合計の長さ、最長突起の分岐数と細胞体からの突起数の項目において作用を示さないものの、最長突起長を有意に促進させた。

3.培養海馬細胞のグルコース欠乏によって生じる障害に対するPLPの保護作用

 著者のここまでの研究でPLPが脳の異なる部位の神経細胞に対して栄養効果を示す結果が得られた。このことから、PLPが神経細胞の衰退に有効に作用し、脳の代謝や興奮毒性に対して改善作用を示す可能性が考えられた。周知の通り中枢神経細胞の生存さらに正常機能の維持ためには持続的なグルコースの供給が必須である。グルコース欠乏状態が持続すると、細胞内エネルギーが枯渇し、興奮性アミノ酸が細胞外に蓄積してイオンバランスに破綻を来たし、ついには神経細胞死に至ると考えられている。そこで著者は7日間培養した海馬細胞を用いてグルコース欠乏状態におけるPLPの作用について検討した。培地は17mM含有しているため、これらを考慮してグルコース欠乏負荷を行い、薬物はグルコース欠乏負荷の24時間前に添加した。グルコース欠乏ならびに低グルコース状態(1.7mM)で培養して6時間目以降に著しい乳酸脱水素酵素(LDH)の上昇が観察され、PLP添加はこのLDHの上昇を有意に減少させた。またPLPは、糖質生合成の補酵素であるところから、細胞内のピルビン酸に影響を与えている可能性が考えられたため、細胞内のピルビン酸に対するPLPの影響を検討したところ、PLPはグルコース欠乏負荷によるLDHの上昇を減少させた濃度(1および10M)でピルビン酸の低下を有意に抑えた。さらにグルコース欠乏負荷6時間後に細胞内ATP含量の顕著な減少が観察されたが、PLPは濃度依存的にATP濃度を上昇させ、グルコース欠乏状態による障害を保護した。これらの作用は、単独では影響のない濃度のAOAA併用によって全て阻害された。一方、細胞内のエネルギーの枯渇が、細胞外のグルタミン酸濃度の上昇を引き起こすことが知られているところから、培養神経細胞におけるグルタミン酸毒性がグルコース欠乏状態によるLDH上昇までの過程に関与している可能性が考えられた。そこでNMDA受容体の競合的拮抗剤であるDL-2-amino-5-phosphonovalerate(DL-APV)を用いてグルコース欠乏負荷によるLDH上昇への影響を検討したところ、DL-APVはグルコース欠乏状態によるLDHの上昇を濃度依存的に抑制した。このことからNMDA受容体の活性化がグルコース欠乏による神経細胞死の必須の過程であることを確認した。最近の臨床研究で、てんかん患者の脳脊髄液のグルタミン酸レベルがビタミンB6処理によって正常化できたという報告がなされている。そこでグルコース欠乏におけるグルタミン酸とその他のアミノ酸の細胞外濃度について検討したところ、7倍のグルタミン酸と若干のアラニンの上昇が認められた。PLP処理はこれらの変化を明らかに抑制した。その他のアミノ酸についてはグルコース欠乏およびPLP併用に関わらず変化しなかった。

4.培養海馬細胞のグルコース欠乏によって生じる障害に対するイフェンプロジルの保護作用

 著者の上記の研究の過程で、正常グルコース濃度での培養系においてイフェンプロジルがPLPによる生存促進作用を阻害することが明らかとなった。近年、イフェンプロジルはNMDAの受容体のポリアミン類の調節部位において、グルタミン酸の過剰反応に対して拮抗作用をもたらす抗脳虚血因子として評価を受けている。そこで著者はグルコース欠乏状態でのイフェンプロジルの作用を検討した。その結果、イフェンプロジルがグルコース欠乏による神経細胞障害を抑制することが明らかとなった。また、このイフェンプロジルの作用はポリアミンの添加によって拮抗された。この研究により、イフェンプロジルの抗脳虚血因子としての薬理作用がさらに確実なものとなった。

 以上の研究の結果、著者はチアミンが補酵素あるいは特別な役割により脳の特定の部位に神経栄養作用を持つことを明らかとした。ピリドキシンとPLPは多数な部位の神経細胞に対して栄養効果を示し、またグルコース欠乏状態において、PLPが海馬培養神経細胞を保護する作用を持つことが初めて明らかとなった。著者はまたその作用機序として、エネルギー産生過程の活性化が関わることを見事に証明した。このように本研究は、その問題設定、解決手法、結果解析、いずれにおいても優秀であり、博士(薬学)を授与するに値するものと認定する。

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