ビタミンはおのおのの欠乏症に対する栄養学上不可欠因子として発見され、その構造決定から生理機能の解明に至る研究の進展は、今世紀前半の生物学の一つの大きな流れとなっていた。1948年のビタミンB12を最後に新しいビタミンの発見はみられなくなり、栄養学的観点からのビタミン研究はほぼ終結したかに見える。しかしながら近年になり、ビタミンA、Dなどの脂溶性ビタミンが細胞の増殖・分化、器官の構築に深く関わっていること、またその受容体機構が明らかになるに従い、作用機構としてむしろホルモンに類似した面を持つという新たな局面が展開されつつある。また、単なる栄養学的レベルを超えて、生理活性物質としての臨床的応用も模索されつつある。一方、ビタミンB群をはじめとする水溶性ビタミンは、補酵素として細胞の基本的エネルギー代謝に関連することの他には作用(機能)の特異性が乏しいとみなされ、新たな研究の流れを形成するには至っていない。しかし、ごく最近の研究により、チアミン(ビタミンB1)関連物質が中枢神経細胞の神経伝達を促進することが報告されるなど、中枢神経機能における水溶性ビタミン(特にB群)の作用が突破口となる可能性が浮上している。このような状況下で著者は、培養脳神経細胞の生存、突起伸展およびグルコース欠乏によって生じる障害に対するビタミンB群の作用について検討を行い、興味深い知見を得た。 1.培養神経細胞の生存および突起伸展に対するチアミンの作用 著者はまずウィスター系ラット胎生18日齢の脳の各部位の単離細胞を用いて、生存に対するチアミンの作用を検討した。チアミンは、高密度培養での海馬細胞についてのみ、100-300Mの濃度で有意に生存を促進した。しかし、その他の部位の高密度および海馬細胞の低密度の培養系では何ら作用を示さなかった。チアミンの拮抗薬であるオキシチアミンは、単独適用では生存に影響を示さないものの、チアミンの生存促進作用を用量依存的に阻害した。一方、突起伸展に対してチアミンは、最長突起長、突起の合計の長さ、最長突起の分岐数と細胞体からの突起数の全ての項目において全く作用を示さなかった。 2.培養神経細胞の生存および突起伸展に対するビタミンB6とその関連化合物の作用 次いで著者は、脳の5部位の単離細胞の高密度培養ならびに海馬細胞の低密度培養において生存に対するピリドキシンならびにピリドキサルリン酸(PLP)の作用を検討した。ピリドキシンとPLPは全ての部位の高密度培養において有意に生存促進作用を示し、その作用は海馬、大脳皮質で特に顕著であった。しかし、海馬細胞の低密度条件では両化合物共に何ら作用を示さなかった。さらに海馬細胞の高密度培養において代表的なPLP依存性酵素拮抗薬であるアミノオキシ酢酸(AOAA)は、十分にPLP依存性酵素を阻害する濃度(5mM)でPLPによる生存細胞数の上昇を著しく減少させた。PLPは、神経保護作用を示すGABAの生合成において重要な補酵素としても知られている。そこで著者はPLPの生存促進作用におけるGABAの関与を明確にするために、GABAA受容体の拮抗薬であるピクロトキシンを用いてPLPの作用を検討した。単独で海馬細胞の生存に影響を与えない濃度でピクロトキシンはPLPの生存促進作用を顕著に抑えた。また神経細胞の生存に関与が報告されているポリアミンの拮抗薬のイフェンプロジルもPLPの生存促進作用を有意に阻害した。このことからPLPの生存促進作用はPLPによって調節されたポリアミンを介していると考えられた。一方、突起伸展に対してPLPは、突起の合計の長さ、最長突起の分岐数と細胞体からの突起数の項目において作用を示さないものの、最長突起長を有意に促進させた。 3.培養海馬細胞のグルコース欠乏によって生じる障害に対するPLPの保護作用 著者のここまでの研究でPLPが脳の異なる部位の神経細胞に対して栄養効果を示す結果が得られた。このことから、PLPが神経細胞の衰退に有効に作用し、脳の代謝や興奮毒性に対して改善作用を示す可能性が考えられた。周知の通り中枢神経細胞の生存さらに正常機能の維持ためには持続的なグルコースの供給が必須である。グルコース欠乏状態が持続すると、細胞内エネルギーが枯渇し、興奮性アミノ酸が細胞外に蓄積してイオンバランスに破綻を来たし、ついには神経細胞死に至ると考えられている。そこで著者は7日間培養した海馬細胞を用いてグルコース欠乏状態におけるPLPの作用について検討した。培地は17mM含有しているため、これらを考慮してグルコース欠乏負荷を行い、薬物はグルコース欠乏負荷の24時間前に添加した。グルコース欠乏ならびに低グルコース状態(1.7mM)で培養して6時間目以降に著しい乳酸脱水素酵素(LDH)の上昇が観察され、PLP添加はこのLDHの上昇を有意に減少させた。またPLPは、糖質生合成の補酵素であるところから、細胞内のピルビン酸に影響を与えている可能性が考えられたため、細胞内のピルビン酸に対するPLPの影響を検討したところ、PLPはグルコース欠乏負荷によるLDHの上昇を減少させた濃度(1および10M)でピルビン酸の低下を有意に抑えた。さらにグルコース欠乏負荷6時間後に細胞内ATP含量の顕著な減少が観察されたが、PLPは濃度依存的にATP濃度を上昇させ、グルコース欠乏状態による障害を保護した。これらの作用は、単独では影響のない濃度のAOAA併用によって全て阻害された。一方、細胞内のエネルギーの枯渇が、細胞外のグルタミン酸濃度の上昇を引き起こすことが知られているところから、培養神経細胞におけるグルタミン酸毒性がグルコース欠乏状態によるLDH上昇までの過程に関与している可能性が考えられた。そこでNMDA受容体の競合的拮抗剤であるDL-2-amino-5-phosphonovalerate(DL-APV)を用いてグルコース欠乏負荷によるLDH上昇への影響を検討したところ、DL-APVはグルコース欠乏状態によるLDHの上昇を濃度依存的に抑制した。このことからNMDA受容体の活性化がグルコース欠乏による神経細胞死の必須の過程であることを確認した。最近の臨床研究で、てんかん患者の脳脊髄液のグルタミン酸レベルがビタミンB6処理によって正常化できたという報告がなされている。そこでグルコース欠乏におけるグルタミン酸とその他のアミノ酸の細胞外濃度について検討したところ、7倍のグルタミン酸と若干のアラニンの上昇が認められた。PLP処理はこれらの変化を明らかに抑制した。その他のアミノ酸についてはグルコース欠乏およびPLP併用に関わらず変化しなかった。 4.培養海馬細胞のグルコース欠乏によって生じる障害に対するイフェンプロジルの保護作用 著者の上記の研究の過程で、正常グルコース濃度での培養系においてイフェンプロジルがPLPによる生存促進作用を阻害することが明らかとなった。近年、イフェンプロジルはNMDAの受容体のポリアミン類の調節部位において、グルタミン酸の過剰反応に対して拮抗作用をもたらす抗脳虚血因子として評価を受けている。そこで著者はグルコース欠乏状態でのイフェンプロジルの作用を検討した。その結果、イフェンプロジルがグルコース欠乏による神経細胞障害を抑制することが明らかとなった。また、このイフェンプロジルの作用はポリアミンの添加によって拮抗された。この研究により、イフェンプロジルの抗脳虚血因子としての薬理作用がさらに確実なものとなった。 以上の研究の結果、著者はチアミンが補酵素あるいは特別な役割により脳の特定の部位に神経栄養作用を持つことを明らかとした。ピリドキシンとPLPは多数な部位の神経細胞に対して栄養効果を示し、またグルコース欠乏状態において、PLPが海馬培養神経細胞を保護する作用を持つことが初めて明らかとなった。著者はまたその作用機序として、エネルギー産生過程の活性化が関わることを見事に証明した。このように本研究は、その問題設定、解決手法、結果解析、いずれにおいても優秀であり、博士(薬学)を授与するに値するものと認定する。 |