学位論文要旨



No 213147
著者(漢字) 後藤,隆久
著者(英字)
著者(カナ) ゴトウ,タカヒサ
標題(和) 亜酸化窒素はラットにおいて先行鎮痛を生じ、その効果はハロセンによって拮抗される
標題(洋) Nitrous Oxide Induces Preemptive Analgesia in the Rat That Is Antagonized by Halothane.
報告番号 213147
報告番号 乙13147
学位授与日 1997.01.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第13147号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桐野,高明
 東京大学 教授 熊田,衛
 東京大学 教授 金澤,一郎
 東京大学 助教授 田上,恵
 東京大学 助教授 山田,芳嗣
内容要旨 (研究の背景及び目的)

 生体に侵害刺激が加わると、その感覚性入力により中枢神経系内のニューロンが感作され、後からくる刺激に対する興奮性が増加する。このcentral sensitizationと呼ばれる現象は、術後疼痛や各種慢性疼痛疾患など、持続性疼痛の発生機序として近年重要視されている。この考えによれば、侵害刺激が加わる前に鎮痛薬を与えておけばcentral sensitizationを防ぐことができ、侵害刺激が加わってcentral sensitizationが起こってしまった後に鎮痛薬を与える場合よりもその効果が大きくなることが予想される。これを先行鎮痛(preemptive analgesia)と呼び、動物及び人間の実験的疼痛モデルで実証されている。

 ラットホルマリンテストは、central sensitizationを基礎に発生する持続性疼痛の動物モデルとしてよく用いられている。ラットの足底部に薄めたホルマリンを少量皮下注すると、種々の疼痛関連行動が二相性の時間経過をとって引き起こされる。第一相はホルマリン注射後0〜5分で現れ、ホルマリンのC線維直接刺激による疼痛とされている。第二相はホルマリン注射後10〜90分に見られ、第一相のC線維刺激によりcentral sensitizationが誘導されたために発生する疼痛と考えられている。

 本研究では、吸入麻酔薬である亜酸化窒素(笑気:N2O)及びハロセンがcentral sensitizationを抑制し、preemptive analgesiaをもたらすか否かを、ラットホルマリンテストを用いて調べた。

(研究方法)

 体重300〜325gの雄Sprague-Dawleyラット合計74匹を用いた。ラットを(1)N2O 30%で麻酔される群、(2)N2O 75%群、(3)ハロセン0.9%群、(4)ハロセン1.8%群、(5)N2O 75%+ハロセン0.9%群、(6)対照群(100%酸素)に分けた(n=5/群、ただし第3、4群はn=4/群)。麻酔薬投与の時間は右図に示した。まず、酸素と麻酔ガスで充たした箱にラットを入れ、麻酔深度が平衡状態に近づくまで15分間放置した。次にラットを箱から取り出し、左足底部に5%ホルマリン50lを皮下注し、すばやく箱に戻してさらに5分間麻酔を継続した。従って、ホルマリンテストの第一相の間は動物には麻酔がかかっている(右図のPre-injectionグループ)。その後、ラットを箱から取り出して覚醒させ、ホルマリンテスト第二相を観察した。

図表

 上記の麻酔濃度(N2O75%、ハロセン0.9%)は、過去の報告によると、自発呼吸下にラットに20分間投与すると、どちらも約0.5MACとなる。すなわち、N2O75%とハロセン0.9%の麻酔作用はほぼ同等とみなすことができる。

 上記実験結果に基づき、次の三群を加えた(n=5/群)。N2Oの鎮痛作用は、オピオイド受容体拮抗薬ナロキソンによって拮抗されるという報告があるので、第7群は、N2O75%開始と同時にナロキソン20mg/kgを腹腔内投与した。第8群は、ホルマリン注射5分後、N2O75%投与終了時に、長時間作用性受容体拮抗薬ナルトレキソン20mg/kgを腹腔内投与した。この量のナロキソンとナルトレキソンは、後述のテイルフリックを用いた予備実験において、モルヒネ10mg/kg静注による強い鎮痛作用を完全に拮抗した。また過去の報告では、これらの受容体拮抗薬単独ではホルマリンテストに影響しない。第9群では、ホルマリン注射5分後から25分後までの20分間N2O75%を投与し(図のPost-injection)、第一相中に投与したN2Oの効果(第2群)と比較した。

 以上では、ホルマリンによる疼痛関連行動の一つであるフリンチ(自発的に足をブルッと震わせながら引き上げる動作)の数を5分毎に記録し、第一相、第二相(ホルマリン注射後0-5分、及び30-75分)におけるフリンチ総数をそれぞれ求めた。

 ホルマリンテストの疼痛関連行動は、麻酔薬の鎮痛作用のみならず鎮静作用の影響も受けやすい。そのため、鎮痛作用のみをより正確に評価するため、テイルフリックテストを併用した。このテストは、150Wの電球から出る光をスリットを通してラットの尾に照射し、この熱刺激に反応して何秒後にラットが尾をはねて熱から逃れるか(テイルフリック潜時:TFL)を測るものである。この動作は脊髄反射なので鎮静作用の影響は受けにくく、またホルマリンテストと異なりcentral sensitizationの関与はないとされている。上記第1〜7群と同様のプロトコールでラットに麻酔薬を投与し(n=4又は5/群)、麻酔前及び麻酔終了前のTFLを測定した。結果は

 

 で換算した。

 統計処理はANOVAを行い、その後各群を対照群とDunnett’s testを用いて比較した。P<0.05を有意差とした。

(結果)

 ホルマリンテストの結果を時間経過で示したものが右図である。この図では、横軸はホルマリン注射からの時間(分)、縦軸はフリンチの5分毎の総数を表す。()内の数字はラット数であり、データは平均±標凖誤差で表した。Aは、N2O75%を第一相終了まで投与すると、第二相フリンチ数も対照群の約半分に抑えられたことを示す。一方、ハロセン0.9%にはこの効果は全くないのみならず、N2Oの第二相に対する鎮痛効果を拮抗した。Bでは、ホルマリン注射後第一相が完了してから開始したN2O75%投与は、第一相中に投与したN2O75%と比べ第二相を抑制する効果が著しく減弱したことが示されている。すなわち、N2O75%の第二相に対する鎮痛効果は、preemptive analgesiaと言える。

 右表は、全ての群におけるホルマリンテスト第一相、第二相それぞれのフリンチ総数及びテイルフリックテストのMPEをまとめたものである。N2O75%の鎮痛効果は同時投与のナロキソン(表のNAL)で部分的に拮抗された。これはN2Oの鎮痛効果における内因性オピオイド系の関与を示唆するものである。しかし、N2O75%をホルマリンテスト第一相で与えた後、ナルトレキソン(表のNTX)を与えても第二相抑制に対する拮抗作用は弱かった。従って、第二相のN2Oによる鎮痛の機序として、内因性オピオイドに対する作用がN2O投与終了後も持続している可能性は低いものと思われた。さらに、テイルフリックで見られた鎮痛効果はホルマリンテスト第二相の鎮痛とは相関する一方、第一相とは必ずしも一致しなかった。特にハロセン0.9%及び1.8%、N2O75%+ハロセン0.9%の三群で、ホルマリンテスト第一相のフリンチは強く抑制されたが、テイルフリックでは全く鎮痛が見られなかった。

図表図表Effects of Anesthesia on Formalin-Induced Pain and Tail-Flick Latency
(考察)

 以上の実験結果より結論されるのは、以下の三点である。(1)N2Oはホルマリンテストにおいて、用量依存的にpreemptive analgesiaを生じ、その作用はN2O投与中止後も持続する。(2)一方、ハロセンにはそのような作用はない。(3)ハロセンは、N2Oのpreemptive analgesiaを拮抗する。

 ホルマリンテストにおいて、ホルマリン注射前にモルヒネや局所麻酔薬をくも膜下腔に投与すると、第一相、第二相が共に抑制される。これは、第一相における脊髄へのC線維入力がこれらの薬剤で遮断された結果central sensitizationが起こらなくなるためと考えられている。一方、NMDA受容体拮抗薬などが第二相を選択的に抑制することから、central sensitizationの誘導、維持にNMDA受容体などの中枢神経内情報伝達システムが深く関わっている。N2Oが後者に対しどのような作用を持つかは、本研究からは不明である。一方、モルヒネや局所麻酔薬と同様、N2Oもテイルフリックテストにおいて鎮痛効果を示したことから、N2Oに前者のような脊髓への侵害刺激入力の遮断という作用があることが強く推測される。

 一方、ハロセンは麻酔下で観察された第一相疼痛関連行動は抑制したが、第二相は全く抑制せず、またテイルフリックテストでも全く鎮静作用を示さなかった。これはハロセン麻酔下でも侵害刺激は脊髄まで伝達されており、その結果central sensitizationが誘導されて、麻酔を切ると第二相が現れたと考えられる。

 さらに、N2Oにハロセンを加えると麻酔深度は深まるが、N2O単独でみられた鎮痛作用は逆に拮抗された。この機序は明らかでないが、N2Oの鎮痛作用の少なくとも一部は脳から脊髄にのびる下行性抑制系の賦活化によることが知られているので、神経活動を全体的に抑制するハロセンによって、この下行性抑制系が抑制された可能性も考えられる。

 以上のように、同等の麻酔作用を持つ(即ちMACの等しい)濃度のN2Oとハロセンで鎮痛効果に解離がみられたこと、及びN2Oの鎮痛効果がハロセンを加え麻酔深度を深めたことで逆に失われたことは、麻酔と鎮痛が別のものであることを強く示唆する。また今回示されたN2Oの作用のように、全身麻酔は覚醒後の持続性疼痛に対しても影響を及ぼす可能性があり、これが臨床的にも意義があるかどうかは今後の研究で解明されるべきと思われる。

審査要旨

 本研究は、術後鎮痛など持続性疼痛の発生機序として最近重要視されている、侵害刺激による中枢神経系の感作現象(central sensitization)に対し、全身麻酔薬がどのような効果をもたらすかを調べることで、全身麻酔薬の鎮痛作用、特に先行鎮痛作用(preemptive analgesia)を解析しようとしたもので、次の結果を得ている。

 1.実験系としては、central sensitizationを基礎に発生する持続性疼痛のモデルとしてよく知られているラットのホルマリンテストを用いた。これは、ラットの後肢足底部にホルマリンを皮下注すると、その直後の短い第一相と、それに続く長い第二相のように二相性に誘導される疼痛関連行動(本研究ではflinch)を観察することにより、疼痛を定量化するモデルである。第二相は第一相の直接侵害刺激によってcentral sensitizationが誘導された結果現われると考えられている。

 2.このモデルで、第一相にのみハロセンを与え、第二相では投与を中止して動物を覚醒させると、第一相のflinchは抑えられたが、第二相のflinchは対照群と同様に現われた。従って、ハロセンにはcentral sensitizationを抑える効果はない。

 3.一方、亜酸化窒素を同様に第一相にのみ投与すると、第二相では動物は麻酔から醒めているにもかかわらず、第一相と第二相のflinchは共に抑えられた。従って、亜酸化窒素にはcentral sensitizationを抑え、その投与が終わった後も鎮痛効果を持続する可能性がある。

 4.この第二相に対する鎮痛作用は、亜酸化窒素を上記のようにホルマリン注射の前から投与すると見られるが、ホルマリン注射の後、すなわち第一相が終了しcentral sensitizationが誘導されてしまった後から投与したのではもはや見られない。従って、この作用は先行鎮痛(preemptive analgesia)と言える。

 5.この亜酸化窒素の効果は、腹腔内投与のナロキソンで部分的に拮抗された。従って、亜酸化窒素の先行鎮痛作用には、内因性オピオイド系がある程度係わっていると考えられる。

 6.亜酸化窒素にハロセンを加えると、この先行鎮痛作用はなくなった。

 7.一方、別のラットをハロセンまたは亜酸化窒素で麻酔し、tail-flickテストを行った。このテストは、熱侵害刺激からの逃避反射(脊髄反射)を用いて薬剤の鎮痛作用を調べるモデルである。ハロセン及びハロセンと亜酸化窒素の組み合わせはtail-flickを抑えなかったが、亜酸化窒素は抑えた。これは、侵害刺激が脊髄に入力するのを前者は抑えられないが、後者はブロックすることを示唆する。このことより、上記ホルマリンテストでも、ハロセン及びハロセンと亜酸化窒素の組み合わせは第一相の侵害刺激入力をブロックしないのでcentral sensitizationも抑えられず、逆に亜酸化窒素は、第一相をブロックすることによりcentral sensitizationも抑えるのではないかと考えられる。

 8.上記実験で用いたハロセンと亜酸化窒素は、同程度の麻酔力を持つ濃度が選ばれているにもかかわらず、鎮痛効果に大きな差異を生じた。また、亜酸化窒素にハロセンを加えれば麻酔深度は増加するが、鎮痛作用は逆に失われた。これらの結果は、麻酔と鎮痛は別のものであることを強く示唆する。

 以上、本研究は疼痛の機序としてその重要性が最近クローズアップされているcentral sensitizationに対する全身麻酔薬の効果を初めて明らかにし、臨床的にも、例えば術後疼痛が術中の麻酔によって影響を受ける可能性を初めて示唆した。本研究は未だ謎の多い全身麻酔薬の鎮痛作用の解明に重要な貢献をなすと考えられ、臨床的にも興味深く、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53984