学位論文要旨



No 213152
著者(漢字) 井上,忠
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,タダシ
標題(和) パルメニデス
標題(洋)
報告番号 213152
報告番号 乙13152
学位授与日 1997.01.30
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第13152号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮本,久雄
 東京大学 教授 山本,巍
 東京大学 教授 今井,知正
 東京大学 助教授 門脇,俊介
 東京大学 助教授 高橋,哲哉
内容要旨

 パルメニデスは、「探究」の言語としての、〈こころ〉言語の確立者であった。かれは〈こころ〉言語の典型である詩、とくに叙事詩(主としてホメロス)の言語を、徹底して改鋳し、根拠を探究するための言語を創出した。

 それはたんに哲学探究のみではなく、あらゆる論理・理論・科学・思想言語の根本性格を決定し、さらには芸術・宗教のもっとも重要な契機としての〈こころ〉の機能を根底から規制して、今日までわれわれを拘束している〈こころ〉の言語機構の原型を提示した、と言っていい。つまりわれわれがなんらか理論めいた思考・発言をするとき、〈こころ〉に湧き浮かぶなにかを表現しようとする際には、不知不識のうちにいつでもパルメニデスの呪縛にかかっている、とも言えるわけである。

 どんなに科学が瞠目の進歩を示し、思想・宗教が鬼面人を驚かす新奇な構築を見せても、結局はそれらすべてがパルメニデスの創建した〈こころ〉言語の掌上で踊っていることを看破すれば、科学の変貌、思想・宗教の閉塞に対するわれわれの対処方式にも、また別の方途が披ける希望が生じよう。本論文は、こうした射程の中でパルメニデスを俎上に載せ、可能なかぎり周到に解剖し、かれの「探究」の到達点を明晰に分析し、〈こころ〉言語の汚染を脱して無垢な根拠を探る途を開拓しうる可能性を解明しようとした試みである。

 パルメニデスの「探究」は、主語なき「ある」の可能性から、われわれのあらゆる〈こころ〉言語の究極に、それらを成立させている根拠としての「有り!」へと還帰しゆく道程を示す。しかしそれは、日常の記述言語(〈述べ〉言語)からも、伝統の詩言語からも脱出して、まったく新しい〈わたし〉〈こころ〉言語(「独り子」言語)を創出するという厳密な方法に貫かれ支えられている。

 そしてこれは、かれの「探究詩」が、

 (1)序曲 若き日の〈わたし〉が出遭った天門開披の体験

 (2)本曲(2・1)「真理の道」(あるいは「〈有り〉の道」)(2・2)「想い込みの道」の三部構造になっている点とも相応する。

 すなわち(1)「序曲」は、本曲「探究の道」が、日常世間を遠く離れて〈わたし〉独りの体験によって開かれたことを示すが、その語りはほぼ叙事詩言語の伝統に即しつつも、肝腎な点では明確に叙事詩の言語用法を改変している。

 (2・1)「真理の道」における「探究」は日常言語ないし叙事詩言語とはまったく異なる自閉性をもつ論理言語によって一貫される。したがってその論理構成は〈述べ〉を基準とする通常の論理学言語とは別種独特のかたちをとる。

 (2・2)一転して「思い込みの道」は、ほとんど日常言語およびこれに連なる叙事詩言語の地平で語られる(「真理」の立場から言えば「騙られる」)。

 したがってパルメニデスに出会うためには、たんにかれの詩をわれわれの〈述べ〉言葉で解説するだけではなく、これら言語機構の構成と段階をまず了解しておかなければならない。

 次に、これら各局面における本論の主な主張点を挙げておく(以下の数字はDiels-Kranzによる真正断片番号とその行数「.以下」である)。

 (1)序曲にあっては、まず(i)従来のすべての研究者たちが解読不可能であった「アーテーによって]を叙事詩とはまったく違う探究方式の開示として写本通りに読み切った。

 (ii)「輝く澄気の門扉」(1.13)を、自然界でもっとも光輝に満ちたアイテールが、それ以上の光燿に満ちる真理を遮蔽していると理解した。

 (iii)第1断片の最後の2行(1.31 32)を、「想い込みの道」への言及ではなく、女神の開示する「真理」もまた、あくまで若者たる〈わたし〉の〈こころ〉に開かれる〈立ち現われ〉以外ではないと指摘して、〈わたし〉〈こころ〉言語を超える根拠への途を示唆するものと解読した。

 (2・1)「真理の道」は、探究する「思い」が(主語ともならぬながら)なにか「ある」とする点を手掛かりとして、終にそのなにかが「思い」の根拠たる「有り」であったことに到達する帰郷(根拠への回帰)の旅路であった。

 (i)(〈わたし〉が天門開披の体験で出会ったなにかを)「ある」とするのか、「ない」とするのか、の二者択一の方法を基礎定立とする(2)。

 (ii)そして「思い」の中での「ある」、つまり「ある」と言い、思いうる可能性から出発し(3;6.1)。「ない」ことはありえないとの不可能性を媒介として、「ある」の必然性を確立する(6.1 2)。

 (iii)それ以外の「〈ない〉とする道」(真理拒否の虚無主義)、「〈あり〉かつ〈ない〉とする道」(日常経験主義)は断乎斥けられ(6.3 9,7.1 5)、ただ「言葉によることわけの道」のみが「探究の道」とされる(7.5 6)。

 (iv)「真理の道」はいまここに〈わたし〉〈こころ〉に生まれ披ける、〈わたし〉独りだけの全体(8.4これはほかならぬ天門開披の体験に呼応する)の追究であり、この追究は〈わたし〉という自閉された言語空間(「独り子言語」)における独特の論理立てによって遂行される。

 (v)この新生の〈こころ〉言語空間は、一切の生成消滅地平とかかわりなく(不生不滅8.3,5 6,6 21)、大いなる縛り(自閉性の成立)によって不変不揺な自己同一を保つ完全体となる(8.22 33)。

 (vi)かくして「あると思われる」から出発した「探究の道」は頂点に達し、探究の目標であった「有り」が、実は探究する「思い」を成立させていた根拠であったことが判明する(「思いの中のあり」から「有りの中の思い」へ逆転の明示8.34 36)。

 (vii)しかもそこでは〈こころ〉の内面地平を枠づけるかに想われがちな「時間」も排除され、「時間」にとらわれるかぎり、そこには真理に適う「思い」はない、と断言される(時間座標に依る想いの排拒)。「時間」に対して、いまここなる「有り」の「思い」を(「独り子なる全体」として)成立させるのは「運命」であることが明言される(8.36 38)。

 かく読むことによって従来の解釈者たちには不可解であった8.36のシムプリキウス(アカデメイア版)写本がその通りに読めることとなった。

 (viii)最後に〈わたし〉〈こころ〉言語の縮重によって凝結する「有り」に対応する「真球」モデルが、生滅の事実地平と対照しつつ提示され、しかも両者がそれぞれの言語機能(縛りと緩めcf.8.14)に応ずるモデルでありつつ、事実地平についての語り(実は騙り)がなおも「真球」モデルに重ね書きするものとなることが示唆され、「想い込みの道」の位置づけが準備される(8.38 49)。(2・2)「想い込みの道」は、いわばかの「真球」モデルに重ね書きされた自然宇宙像モデルの提出である。しかし「真理の道」が明晰な一義性を保つ言語(述語)だけによって披かれたのと対照して、ここでは道の展開は、ものを相互に対立し分断された事実として「名づけ」措定する言語により、しかもすべての言葉は両義性ないし多義性を帯びて、一義な明確性を欠く(8.53 55)、つまりはそこでの語りは騙りであることが明言されている(8.52,61)。

 「真理の道」に比べて「想い込みの道」の断片資料の保存率は極めて低い。そのため宇宙の全貌を描く場面ではアエティオス資料からの援助は不可欠であるが、当のアエティオス所伝が混乱を極めており、真正断片の復元は困難である。ここでは可能なかぎりの資料を使って球型の天空にアイテールの輪が(おそらく天の川として)襷掛けになっている宇宙モデルを再構成してみた。

 (3)従来その所属と位置が問題となってきた断片4および5は、全詩の締めくくりとして断片19の後におくことにした。

審査要旨

 本論文は、ソクラテス以前の哲学者パルメニデス(BC515/10〜450/45頃以降)の著名な『探究詩』を、古典的な文献的・哲学的教養を背景にしつつ、さらに〈こころ〉言語という論文筆者である井上氏独自の概念を適用して解釈し、従来にないまったく新しい古典文献学的・哲学的な理解と解釈を提示しているものである。パルメニデスが「探究」の言語としての〈こころ〉言語の確立者として哲学史上初めて哲学的言語をきたえ上げたのであり、このことを考慮することで初めて『探究詩』のテクストは十全に理解できる、ということが、井上氏の中心的論点である。。

 そこで審査にあたり、この耳慣れない〈こころ〉言語の説明が要求された。〈こころ〉言語はまずさしあたり、日常的常識的世界を分節化する〈もの〉言語との対比で明らかにされてくる。〈もの〉言語は、日常的常識的世界、すなわち過去・現在・未来として表象される時間軸に沿って生成消滅する〈もの〉個体地平を成立させる言語である。そこでは、あるものが主語として措定され、それがどんな性質を持ち、どのように役立つか、などという述語が与えられ、一般の〈主語-述語〉形式が支配する。人はそうした〈もの〉言語を用いて日常生活の中で互いに情報を伝達しあいながら〈もの〉をめぐって事実を処理している。日常生活はそれ以上でもそれ以下でもない安定性である。だから、〈もの〉言語は、それ以上人に真理探究などをさせない隠蔽の言語であるともいえる。このような〈もの〉言語世界が一瞬くずれるのは、死など非日常的世界の〈こころ〉への現出時を除いてまれであろう。実際、死に直面し人が生活世界に居直って問いをも持たないことはまれであろう。そこで日常生活の安定を破る〈こころ〉言語が探究される。〈こころ〉言語の典型は、詩人の〈こころ〉に幻出する詩である。パルメニデスの場合、ホメロスの叙事詩が彼の〈こころ〉言語確立の下敷きになっているが、詩はいまだ探究・哲学の言語ではない。そこで今パルメニデスの『探究詩』を探査しつつ、哲学言語としての〈こころ〉言語に出会う方策をとるわけである。その際、あらかじめ言えば、パルメニデスの「探究」は、もの(主語)を脱落させた述語的「ある」の〈こころ〉への〈立ち現われ〉の究極に、それらを成立させている「根拠」としての「有り!」へと還帰してゆく道程を示している。この道程は、『探究詩』の三部構造と相応する。すなわち、三部構造は、

 (1)序曲、若き日の〈わたし〉パルメニデスが出会った天門開披の体験の詩、

 (2)本曲(2,1)、その体験時において、女神が示す「真理の道」あるいは「〈有り〉の道」についての教示、

 (2,2)、「想い込みの道」についての教示、

 以上である。井上氏はこの三部構造を大略次のように分析解明される。すなわち、(1)序曲は、従来あまりに「詩的」であってパルメニデスの哲学にとって重要でない、と比較的軽くみられてきたが、井上氏はここに若き日のパルメニデスの真理に出会った体験が詩という〈こころ〉言語で隈なく表現されている、と見る。即ち、本曲「探究の道」が、日常世間を遠く離れて、パルメニデスの〈わたし〉独りの体験によって開かれたことを示す。こうした読み方を採用することで井上氏は、欧米学会で解読不能として原典から削除された〈アーテー〉の一語を原典通りに復活させ(この古典文献学的成果は強調されてしかるべきである)、これに独創的な読み返しをし、〈アーテー〉即ち茫然自失となる暗闇が常識に明るい日常生活を退け無化する機能を強調する。それが哲学の始めである。また天界と地上をへだてる門扉が〈アイテール〉から出来ていると読み込み、〈こころ〉を象徴する真理の国の現出を際立たせる。さらに「想い込みの道」の言及により、女神の示す「真理」もまた、若者パルメニデスの〈わたし〉の〈こころ〉に開かれる〈立ち現われ〉以外ではないとし、〈こころ〉言語をしも超える「根拠」への途を示唆するものと解読された。そこから井上氏は、パルメニデスが、ホメロス的叙事詩言語・言葉としての〈こころ〉言語の伝統に即しつつも、それを探究としての〈こころ〉言語に改変していることを解明されている。(以上、論文の第1章)

 (2,1)「真理の道」における「探究」は日常言語ないし叙事詩言語とはまったく異なる〈こころ〉の強い自閉性をもつ、しかも筋道だった、その意味で誰にも開かれた論理言語によって一貫される。そこでは、探究する「思惟・思い」が、(主語ともならぬ)何か「ある」を手掛かりとして出発し、ついにその何かが「思惟」の根拠たる「有り」(述語的表現・有り)であったことに到達する帰郷(「根拠」への回帰)の途が現成している。その際、天門開披の体験で出会った何かが、わたしにそれを「ある」とするのか、「ない」とするのかの二者一択を迫り、そこから「ある」と思いうる可能性から始めて、「ない」ことはありえないとの不可能性を媒介に「ある」の必然性が確立される。こうして「〈ない〉とする道」(真理拒否の虚無主義)が退けられる。同時に〈もの〉の条件に従って〈ある〉と〈ない〉を使い分けるだけの日常言語が「〈あり〉かつ〈ない〉とする道」(日常的経験主義)として斥けられる。こうして「言葉による判定の道」のみが「探究の道」とされる。「真理の道」は、今ここに〈わたし〉・〈こころ〉に披ける全体(これが天門開披体験に呼応するが、井上氏はこれをパルメニデスのムーノゲノスという語を使って「独り子」としての全体と表現している。この解釈も独創的である)の追求・探究であり、この探究は一切の生成消滅する〈もの〉地平とは別の〈こころ〉言語空間において独特の論理立てで遂行される。そこに現成する真理・全体「有り」は、スパイロス「真球」モデルによって示される。(以上、第2章〜5章)

 (2.2)一転して「想い込みの道」は、ほとんど日常言語およびこれに連なる叙事詩言語の地平で宇宙論を始めとする諸事実が語られ、それが「根拠」を隠す騙り・だましとして示される。(以上、第6〜8章)

 以上から井上氏は〈こころ〉言語の諸特徴を次のようにまとめられる。

 (1)全体完結性。〈こころ〉言語は、人生とは何か、世界の「根拠」とは何か、などという風に全体を問い、とりとめもない事実地平でなく完結した全体を求める。

 (2)自閉性。事実地平に過去から未来へひろがる〈もの〉や〈他の人間たち〉の地平を無化して、今・ここにこの全体の〈立ち現われ〉のみを求める。

 (3)縮重性。公共的共通性の〈もの〉解りを去って善や愛や真理あるいは南無阿弥陀仏などの根源語の一点に凝縮する。

 このような特徴を体現する言語が、パルメニデスの一義的全体的な〈有〉である。

 井上氏の論文は、今日思想的な様々な概念に埋没するか、それらの処理整合に追われている思想界に、哲学が成立した当初の、初心に立ち返らせるような哲学の探究言語を開披して見せている。従って本論文は、所謂「パルメニデス」についての単なる歴史研究書でも、哲学史的解説書でもなく、独創的解釈を随所に示しながら、さらに、およそものを考えることの原点を示した一流水準にある稀有なる書である。

 なお、本論文の守備範囲にとって、将来的展望も含め次のような問題が審査員から出され応答され確認された。

 第1に、このような〈こころ〉言語の私秘的性格とおよそ言語の私秘的意味を否定したウィトゲンシュタインのprivate language論との関係については、双方の次元の相違を認めつつ重大な哲学的問題として今後議論されるべきことが確認された。

 第2に、いわゆる他者問題は、〈こころ〉言語が通俗的な意味での他人さえ無化した次元で成立する以上、直接そこで扱われない。しかし、〈こころ〉の自閉的縮重的世界を通らなければ、他者の他者性も本来的に問われえないという点も注意された。

 さらに、パルメニデスがフッサールの現象学的還元と生活世界の問題などを先取したという意味で今日的な「現象学」の純正形態をすでに示したとの声もあった。

 以上のような評価と応答をふまえて、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。

UTokyo Repositoryリンク