学位論文要旨



No 213153
著者(漢字) 中尾,忠彦
著者(英字)
著者(カナ) ナカオ,タダヒコ
標題(和) バングラデシュの治水計画に関する研究
標題(洋)
報告番号 213153
報告番号 乙13153
学位授与日 1997.01.30
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13153号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 玉井,信行
 東京大学 教授 虫明,功臣
 東京大学 教授 國島,正彦
 東京大学 教授 SRIKANTE,HERATH A.
 東京大学 助教授 河原,能久
内容要旨

 バングラデシュは、ガンジス川・ブラマプトラ川・メグナ川の形成したデルタの上に成立している。そこでの人々の生活は、モンスーンによる洪水と深く結びついており、定期的に増水・減水する河川の流れに合わせて稲を中心とする農耕によって、高い人口密度を支えてきた。水位の上昇に対しては、自然堤防の上に集落を営み、床を高くしてしのいだ。すなわち、人々はこれまで洪水とともに生きてきたのである。しかし、既に人口は1億人を越え、産業・生活のあり方の変化によって何らか新しい対応をとる必要が出てきていると考えられる。本論文は、洪水と人との関わりのうち、洪水防御の側面、さらにはその技術的な面を中心として、現状の分析と想定される手段の適用性の評価を行うものである

 バングラデシュの治水計画を検討するに当たって、まず洪水の特性を調べ、洪水と人々との生活が密接に結びついていることを明らかにした。ついで、人口の増加に代表される社会の変化により、国土における活動の密度が増大していることを見た。これは、人々が洪水に対処する仕方を変える必要が生じていることを示すものである。

 洪水を制御しようとするとき、上流における対策と下流における対策があり得るが、ガンジス川水系の植生は全体として必ずしも甚だしく劣化していないこと、植生が増強されても効果が余りないこと、洪水を顕著に調節するためのダムの候補地点が有望でないことから上流での対策に期待すべきでないとの結論を得た。

 下流においては1970年代以来の洪水防御事業の成果が現れていることを示した。今後は社会・経済が依存する都市の洪水防御を中心として治水事業を進めるべきである。また、農村部においては、比較的小規模で住民が親近感を抱くことができ、かつこれまで進められてきた洪水防御や道路の事業を再構成する意味も有するコンパートメント化事業を順次実施して面的に広げてゆくことが望ましい。事業実施に当たっては、住民の参加を求め、住民のイニシアチブを支援することが、現地の状況に即した計画を立案し、環境への悪影響を未然に防止し、永続的に事業の効果を発揮させるためにも必要と考えられる。また、民生一般の向上を図る施策と一体のものとして非構造物的治水対策を進めるべきである。

 個々の事項について得られた結論を列挙すると下記の通りである。

1.バングラデシュの洪水の特性

 バングラデシュの国土の主部は、ガンジス川とその支流ブラマプトラ川、メグナ川等が形成したデルタの上に成立している。ガンジス川水系の集水面積の5%のみがバングラデシュ国内にある。しかし、降水量の比率では国内が全流域の9%となり、洪水氾濫のうち国内の降雨に起因する部分が大きい。

 大河川の水位・流量は流域の乾期・雨期を反映して1年周期で変動する。この長周期の変動に重畳して10日から3週間の間に上昇・下降する変動が見られる。1年周期の波はブラマプトラ川の場合7月に最高となるが、永年平均の7月の平均流量は45,000m3/sであり、重畳する波の大きさはこれに匹敵し、その大きさによって全体の氾濫の規模が決まることを示した。

 ブラマプトラ川バハドラバードおよびガンジス川ハーディング橋の観測所で、国境を越えて流入する水量の変化を統計解析した。人口が多く、開発も進んでいるガンジス川の場合にも、下流の洪水流量を大幅に変えるほどには流域の開発が進展していない。このことは逆に、上流で対策をとっても下流での効果が小さいことを示唆するものである。

 国境の外から流入した水が氾濫するのに加え、河川の水位上昇によって低平な国土に降る多量の雨水が排水できないために広範に湛水する。

 洪水の利害を検討すると、国土の主要部の成立の由来から、バングラデシュの生活・生産は洪水現象と深く結びついている。しかしながら洪水の利害として一般に挙げられる事項を具体に考察した結果、洪水の利益とされるものの有効性が不明である一方、人口の増大によって利益とされることも成立が困難になっており、国土の利用効率を高める必要があることが示された。

 洪水の害として、基幹産業である農業が洪水の生起状況に適合して行われていることから、直接的な被害は小さい。氾濫・湛水による生活の不便がそれなくしても苦難に満ちた住民の苦痛を増しているのが、洪水の最大の被害であると考えられる。また、毎年繰り返される湛水や予期しがたい大洪水が住民及び公共の蓄積を損耗させ、資本投下を阻害することを通じて経済発展を阻害していると考えられる。

 以上をまとめて、従来の「洪水と共にある生活・生産」から、主として人口の増加に起因する社会の変化によって何らかの洪水対策をする必要があると結論される。

2.上流域での治水対策

 人工衛星リモートセンシングによって得られた植生指数によれば、ブラマプトラ川のアッサム流域は良好な植生を保っている。ガンジス川の流域も、急増する人口を勘案すればほぼ良好である。ブラマプトラ川の流域について植生が改善された場合の流出抑制効果について推算すると、雨期の降雨によって早期に土壌が飽和するので流出抑制効果がほとんど発揮されない。

 ガンジス川の流量変化が緩慢なことにより、ブラマプトラ川の流量の大きさによって洪水規模がほとんど決定される。ブラマプトラ川の左岸から越水して広範囲に広がるのはバハドラバード地点での流量が50,000m3/sを越える場合であることを示した。上流でのダム操作によって同地点の流量を50,000m3/sに調節するためには、1988年洪水を対象にした場合、少なくとも500億立方メートルの洪水調節容量が必要であることを示した。

 アッサム流域に500億立方メートルの洪水調節容量をとれるダムサイトについて文献等により検討したが、現在名が挙がっているダムサイトではこれに足りない。自然条件としては地震が多発する地域であり、社会的には下流の洪水を制御するために上流の土地を水没させることの代償措置をとることは困難であろうと判断される。

 上流側での対策をまとめて、上流域における対策の実施は地域間協力として期待され、水系一貫の治水策として理論上好ましいものであるが、その効果は小さく、実施も困難である。バングラデシュの治水は上流における対策に依存せず、独自に行うべきであると結論される。

3.国内での治水対策

 連続堤防の建設は、大河川の激しい河岸侵食に耐えるためには十分なセットバック距離をとるか護岸・水制を施すか、あるいは併用する必要があり工費がかさむ。また、雨期の湛水位を低下させるという築堤の目的を確実に発揮するためには、国内での多量の降雨を処理するため内水排除施設の設置が必要である。農村部を対象とする場合には当面の経済効果が十分でない。

 また、高密度に居住が行われている中で築堤を行うことは、堤防内外の住民の格差を増大させ、社会的摩擦を増大させるものである。さらに、急速な事業の施行によって現地の状況が計画に十分反映されない。

 それぞれの地区の住民のイニシアチブによって小規模な輪中を順次建設し、ついでそれら輪中が連結されて連続堤となるというプロセスによることが、望ましい。このようにすれば現地にあった計画ともなり、住民の「自分のための事業」という意識の醸成にも有効であろう。

 1970年代以降にポルダーの建設を主とする洪水防御事業が進展した。これによって洪水影響面積が減少している。計画対象に採用されている20年に1度の洪水以下の年について1976年以前と以後とを比較すると有意な差がある。しかし、既存のポルダーは、巨大なものが多く、住民と遊離したものになりがちである。規模が大きいために堤内の湛水など計画に想定していなかった現象も生じているようである。地元の状況に適合させ、施設操作を円滑に行うためにポルダーを分割することが望ましい。

 都市は今後の人口集積が見込まれ、かつ洪水防御の投資効果が大きい。工業への産業構造の変革の基礎となることも含め、優先的に実施されるべきである。

 既存の堤防・農道等を利用して氾濫水位を制御し、低水時も含めた水管理を目指すコンパートメント化事業は、すでにある程度の投資が行われている事業の再調整の過程でもあり、適切な事業であると考えられる。

 非構造物的対策は、氾濫を許容しつつその被害が住民の生活に著しく影響しないことを目標とする。しかし、住民の負担能力は小さい。学校・集会所を避難所として、備蓄も行う案ももちろん望ましいが、人口が多いので短期間に可能とは言えない。

 以上、国内においては、都市の洪水防御を中心とする。農村においては学校の整備など直接水に関わる以外の他の事業とも密接に連携して非構造物的対策を進める一方、地元のイニシアチブを中央機関が調整する形で、漸進的に構造物的対策を実施することが望ましいと結論される。

審査要旨

 本論文は「バングラデシュの治水計画に関する研究」と題し、バングラデシュにおける基本的な治水対策を研究したものである。バングラデシュは広大なデルタ地帯、国外からの大河川の流入、人口の増大と伸び悩む経済成長など、困難な因子を多く抱えており、国の発展を左右する重要な事項として治水計画の確立が求められている。本論文は社会および自然条件に関する現状の調査・分析に基づいて、従来国際会議などで提案されている候補案の内容を技術的に評価し、治水計画の骨子を確立した。

 論文は4章より構成されており、第1章ではバングラデシュの洪水の特性と本論文の構成が論じられている。バングラデシュの国土の主要部分は、ガンジス川とその支流ブラマプトラ川、メグナ川等が形成したデルタである。大河川の水位・流量は流域の雨期・乾期を反映して1年周期で変動する。この長周期の変動に重畳して10日から3週間の周期を持つ変動が見られる。1年周期の変動水位が最高点に達するのはブラマプトラ川の場合7月であり、永年平均の7月の流量は45,000m3/sである。統計的な資料分析により重畳する変動成分の大きさはこれに匹敵し、その大きさにより全体の氾濫の規模が決まることを明らかにした。

 ブラマプトラ川バハドラバードおよびガンジス川ハーディング橋の観測所で、国境を越えて流入する水量の永年変化を統計解析した。人口が多く、開発も進んでいるガンジス川の場合にも、下流の洪水流量を大幅に変えるほどには流域の開発は進展していない。このことは逆に、上流で対策を取っても下流での効果が小さいことを示唆している。

 バングラデシュの生活・農業生産は洪水現象と深く結びついている。基幹産業である農業は、永年の経験により洪水の生起状況に適合する形態をとっている。しかしながら、洪水の利害として一般的に挙げられている事項を具体的に考察した結果、洪水の利益とされるものの有効性は不明であった。一方、人口の増大により伝統的な生活形態を維持することが困難になっており、洪水の益とされてきた事項も失われてきており、国土の利用効率を高める必要があることを示した。毎年繰り返される湛水や予期しがたい大洪水が蓄積された資産を損耗させ、資本投下を阻害し、経済発展を阻害していると考えられるので、増大する人口圧力の下で生活水準の向上を図るためには、洪水からの安全度を向上させることが前提となる。すなわち、国民生活の向上のためには統一的な洪水対策を行うことが必要であり、こうした認識に基づいて治水計画の基本的な枠組みを定めた。

 第2章では上流域での治水対策を総合的に検討した。先ず現状の特性として、人工衛星の画像を利用してブラマプトラ川のアッサム流域、およびガンジス川の流域の植生指数を求めた。ガンジス川の流量変化は緩慢であるので、ブラマプトラ川の流量の大きさにより洪水規模が殆ど決定されることを見だした。ブラマプトラ川の左岸から越水して広大な範囲に洪水が広がるのは、バハドラバード地点での流量が50,000m3/sを超える場合であることを統計資料に基づいて示した。こうした検討により、アッサム流域の流出を解明することが上流域での洪水対策の鍵であることを明らかにした。

 アッサム地域を対象としてタンクモデルを構築した。モデルの係数を定めるためには、筆者が多年にわたって集積した資料を有効に使用している。先ず、アッサム流域で植生が大きく改善された場合の流出抑制効果を推算した。その結果、雨期の降雨によって早期に土壌が飽和するので、流出抑制の効果は殆ど発揮できないことが明らかとなった。また、上流域でのダム操作によりバハドラバード地点での流量を50,000m3/sに調節するためには、1988年洪水を対象とすると500億m3の洪水調節容量が必要であることが分かった。

 500億m3の洪水調節用量を持つダムをアッサム地域に建設するための適地について、文献等に基づいて検討した。自然条件としては地震が多発する地域であるので安全なダムの建設には費用が嵩むこと、社会条件としては下流の洪水を制御するために上流の土地を水没させる代償措置を取ることが難しいこと、さらにはインドとの国際問題の解決が難しいことを明らかにした。

 上流のアッサム地域における対策を纏めると、水系一貫の治水策としては理論上は望ましいものであるが、その効果は小さく、実施も困難であることが本研究により明らかとなった。特に、観測資料が不足する地域において流出モデルを構築し、上流域の治水策を定量的に評価したのは大きな進歩である。

 第3章ではバングラデシュ国内での治水対策を検討した。激しい河岸浸食に耐えるような堤防を連続して築くには、十分な引堤量を取るか、あるいは、護岸・水制を施す必要があり、時としてはその両者を併用する必要もあるので多くの工費を要する。また、バングラデシュ国内での降水量が大きいので、湛水深を減少させるという築堤の効果を十分に発揮させるには、内水排除施設が必要となる。従って、農村部を対象に連続堤を築く案は投資効果が非常に低くなり、当面不可能である。

 1970年代以降に、輪中堤の建設(ポルダーの形成)が浸水面積の減少に効果を発揮していることを実証した。しかし、既存のポルダーは巨大なものが多く住民と遊離したものになり勝ちで、住民による堤防の切断、堤内湛水などの予期しなかった弊害が生じている。したがって、地元の状況に適合し、計画段階や施設操作などにも住民の参加を求めやすい小規模なポルダーを建設したり、小規模なものに分割することが望ましい。また、都市は今後の人口集積が見込まれ、洪水防御の投資効果が大きく、工業化に向かう産業構造の変革のためにも、優先的に行うべきであると結論された。

 非構造物的対策については、学校・集会所などの避難場所の充実が重要である。しかし住民の負担能力は小さいので、直接水に係わらない事業とも総合的に調整を図ることが重要である。例えば、道路の築堤を輪中堤と兼用にするなどして、小規模な輪中堤を充実させ、それを連ねて連続堤に移行させることが望ましい。

 第4章においては、本論文で得られた結果を纏めると共に、将来の課題を整理している。

 以上要するに、本論文はガンジス川水系の流出特性および氾濫の特性を定量的に明らかにするとともに、実証的な分析により治水計画の基本的な方向を明らかにした。本論文で得られた成果は、国際的にも話題となっているバングラデシュの洪水対策の本質を明らかにしたものであり、河川工学に寄与するところが大である。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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