構造設計者は、建設コストと通常正の相関を持つ構造物の耐力と、構造物が損傷等により機能を喪失した場合の経済的損失の間のバランスを考えた設計を行なう必要がある。このような判断の材料となるのは、建設地点において構造物に作用する荷重の強度と発生頻度の関係と、その荷重によって構造物が各種の限界状態を超過する確率である。地震の発生が断層運動によることが明らかにされ、近年断層モデルの知見を取り入れた入力地震動評価が行われるようになってきたが、地震の発生とその強度を正確に予測することは現状では困難であり、観測される荷重強度にも大きなばらつきがある。このような地震荷重に対して、工学的に適切な構造物の耐力を設定するためには、地震荷重を確率変数として取り扱うことが合理的である。 従来の地震危険度評価手法では、建設地点の地震動強度と構造物の応答が別々に考慮され、その間の一貫性に欠けるといった欠点があった。また、応答スペクトルの距離減衰式を用いた構造物の地震危険度評価では、多質点系の応答や非線形応答を扱うことができないという制約があった。著者らは以前、多質点系の線形応答を表す係数と、構造物の降伏から損傷までの非線形応答を表す係数を地震危険度評価式に組み込み、多質点非線形構造物の地震危険度を評価した。しかしそこでは、単純な構造モデルと、主として北米で観測された限られた数の地震動のみを用いていた。また、地震の震源域としては仮想の線状震源域を用いた。 本論文では、わが国の主要な地震の震源域であるプレート境界の震源域を、地震危険度評価の際の震源域として考慮し、プレート境界地震の情報を取り入れた地震危険度評価手法を提案した。さらに、地震動の応答スペクトル距離減衰式を用いて、スペクトルのばらつきと周期間の相関を考慮した模擬地震動を作成し、現実的な構造物モデルの非線形応答解析を行った。構造物が、初期降伏から終局限界状態に至るまでの非線形応答特性を表す係数を求め、応答スペクトルの距離減衰式に組み込み、多質点構造物の非線形応答による損傷確率を評価できる手法を提案した。 第1章では、地震危険度評価手法の研究分野ごとに主要な研究を紹介し、本研究の位置づけを明らかにした。地震発生の時間的なモデル化では、地震の発生を定常とする場合と非定常とする場合に分類でき、確率統計的な評価手法としては、地震発生の確率モデルに基づく方法と、累積頻度分布による方法に分けることができる。累積頻度分布による方法は、地震カタログをそのまま用いるという点で明快な方法であるが、距離減衰式のばらつきの評価や、活断層の情報を取り入れることが難しい。本研究では、確率モデルによる方法に基づき、内陸活断層と比べて繰り返し間隔が短く、断層に関する情報がある程度蓄積されているプレート境界地震の震源域をモデル化し、震源域の設定の影響をパラメトリックに検討した。また、確率モデルを用いた地震危険度評価手法に、構造物の非線形特性を評価する係数を組み込み、多質点構造物の地震時損傷確率を評価した。 第2章では、プレート境界地震の震源域を他の地震の震源域と分離して用いる手法を提案し、例題として東京および大阪地域の地震危険度を評価して、累積頻度分布による結果と比較した。また、プレート境界地震の繰り返しの影響を地震危険度評価に反映させるため、単純なモデルにより地震発生の非定常性を考慮した。 わが国の地震被害を検討する場合、プレート境界で繰り返し発生する大地震の影響は無視できない。一方、都市直下で発生する直下型地震については、厚い堆積層のために断層位置を特定することが難しい。そこで、プレート境界の大地震とその他の地震を分離し、プレート境界の地震については、断層モデルに基づく震源域や繰り返し間隔を考慮した。 緯度・経度1度角の震源域を用いた確率モデルによる結果は、累積頻度分布による結果と概ね一致した。東京では、プレート境界地震の震源域の設定によって地震危険度がかなり変化することが明らかになった。プレート境界の地震発生に非定常性を考慮したモデルでは、時間の経過とともに危険度が増大し、プレート境界地震が確実に発生する場合のハザード曲線に近づいていった。基盤速度の100年再現期待値を荷重指針の値と比較した結果、本研究の結果は荷重指針の統計年間100年と400年の中間程度の値となった。確率モデルによる方法に、上下限値を有する極値分布を適合させて算出した年最大値の変動係数は、東京で82%、大阪で95%となり、50年最大値の変動係数は、東京で47%、大阪で49%となった。 第3章では、既往の応答スペクトル距離減衰式に関する研究を概観し、本章以降の解析で用いる応答スペクトル距離減衰式の概要を示した。既往の応答スペクトル距離減衰式の回帰式からの残差の対数標準偏差は、0.5から0.8程度の値となっていることが分かった。 2章で用いた東京と大阪の緯度・経度1度角の震源域モデルに、応答スペクトル距離減衰式を適用し、超過確率に対応した応答スペクトルである一様ハザードスペクトルを求め、建築物荷重指針で提案されている加速度応答スペクトルと比較した。距離減衰式のばらつきを考慮した場合は、短周期領域で建築物荷重指針のスペクトル値を大きく上回った。 地震記録の加速度応答スペクトルを用いて、回帰式からの残差の周期間の相関を求めた結果、相関係数は周期の比の対数とほぼ線形の関係にあり、地盤が柔らかくなるにつれて回帰直線の勾配は大きくなった。相関係数の回帰直線の勾配は、既往の研究結果に近い値であった。 第4章では、既往の応答スペクトル距離減衰式を用いて、応答スペクトルのばらつきと、前節で検討した残差の周期間の相関を考慮して、4つのマグニチュードと3種類の地盤種別に対応する模擬地震動を作成した。これらの模擬地震動を用いて、8種類の構造物モデルの非線形応答解析を行い、構造物の非線形応答の指標であるスペクトル低減係数を評価した。スペクトル低減係数は、特定の地震動に対して構造物がある限界状態に達することを許容した場合、降伏耐力を弾性応答値に対してどこまで低減することができるかを示す係数である。 比較的長周期の構造物であるS18層の1種及び2種地盤のケース以外では、マグニチュードの増加とともにFは減少し、応答スペクトルの長周期成分の増加により非線形応答が増大する傾向が認められた。モデル構造物のFの平均値を既往の研究結果と比較した結果、Fの平均値は既往の提案式による値と比較的よく一致した。 第5章では、前章で求めたスペクトル低減係数を用いた多質点非線形構造物の地震危険度評価手法を示し、モデル構造物の地震危険度を評価して既往の研究結果と比較した。地震危険度評価式のばらつきの評価についても検討した。2章で実施した、プレート境界の震源域や地震発生の非定常性を考慮した場合の地震危険度についても検討した。 地震危険度評価式の標準偏差は、応答スペクトル距離減衰式の標準偏差とほぼ同じ値となった。同一モデルで入力地震波の地盤種別を変化させた場合は、地盤の固有周期が長くなるにつれて、構造物の損傷確率が増大する傾向が認められた。また、同じ地盤種別で比較すれば、第1折れ点のベースシア係数が大きいほど信頼性指標が大きくなる傾向があった。 プレート境界震源域を考慮した場合、東京、大阪ともプレート境界震源域の拡大に伴い信頼性指標は減少するが、プレート境界の震源域の設定が地震危険度に与える影響は小さい。プレート境界震源域の地震発生の非定常性を考慮した場合、時間の経過とともに信頼性指標は減少するが、が大きな1種地盤では減少の割合が少ない。また、東京と大阪の比較では、プレート境界地震の繰り返し間隔が短い大阪での減少が大きく、東京ではの変化が少ない。 入力と耐力の余裕度から耐震信頼性指標を求める神田・小林の手法と比較した結果、本研究の損傷確率は、で0.5から1程度小さな値となった。これは、本研究では損傷評価に地震動の距離減衰の変動を含めており、神田・小林の手法よりも大きな変動を考慮しているためと考えられる。本研究で求めた構造物の50年間の損傷確率は、最も大きい建物では40%程度となった。このような大きな損傷確率を与える原因として、設計耐力と現実の構造物の耐力に差があること、解析に地盤-構造物の相互作用効果が含まれていないこと、等価せん断モデルが耐力を小さめに評価する可能性があることなどが考えられる。 第6章では、各章の検討結果をまとめ、今後の課題について述べた。地震危険度評価の震源域設定において、プレート境界地震の震源域を考慮することにより、プレート境界地震の情報を地震危険度評価に取り入れることが可能となり、震源域パラメータの設定が地震動の上限値付近の発生確率に与える影響を明らかにすることができた。応答スペクトルのばらつきと周期間の相関を考慮した模擬地震動を用いた応答解析により、終局限界状態に至る構造物の非線形応答とそのばらつき及び地震動のマグニチュードとの関係を把握できた。マグニチュードと震央距離による地震動の性質の変化を反映させることができる、実用的な非線形構造物の地震危険度評価手法を提案することができた。 今後の課題としては、物理的意味のより明確な距離減衰式の利用、構造物の終局限界状態に関する詳細な検討、地盤-構造物の相互作用効果の考慮、より詳細な応答解析モデルの利用、設計耐力と実際の構造物の耐力の関係の評価などが挙げられる。 |