本研究は、「記号現象」(semiosis、意味に関わる現象)を扱う「記号論」(semiotics)に基づいて、建築、とりわけ街並みの景観を対象として、その形態と意味との複雑な関係からなる記号現象の仕組みを探究したものである。この研究は、近代建築による構築環境の均質化とそれに伴う意味の欠如という深刻な状況を背景として展開されてきた「建築記号論」の体系化を図り、その実証研究としての「街並み記号論」の展開を通して、意味づけられた場所や美しい都市景観の創造への手がかりを発見することを目的としている。本論は、序論、第1部「建築への記号論的アプローチ」、第2部「街並み記号論の展開」、結論、引用・参考文献リスト等、及びAPPENDICESからなっている。 序論では、研究の背景、目的と方法、論文の構成について述べている。 第1部は、一般記号論と建築記号論の内容に関する踏み込んだ検討を行い、第2部で展開する街並み記号論の理論的基盤を与えている。 第1章「記号論の地平」では、何かを表意するものを「記号」(sign)とみなすことの意義を考察し、その記号論の系譜を遠くギリシャの時代にまで遡って調べ、現代記号論における論点の多くが、実は古くから探究されてきたものであることを明らかにしている。すなわち、記号における二項関係と三項関係、自然的記号と規約的記号、実在論と唯名論、可感的な記号と概念的な記号、記号の結合法、形式と実質などがそれである。これらの論点は、建築記号論を構想していく上で示唆に富む内容となっている。 第2章「記号論の基底-パースの理論を中心に-」では、記号現象の多層性を理解するためのカテゴリー理論、パース、ソシュール、イェルムスレウ、モリスなどの記号学者による記号概念、記号のタイポロジー、記号現象の次元などについて詳しく検討し、建築記号論を基礎づける一般記号論の基本的枠組みをまとめている。 第3章「建築記号論のパースペクティヴ」では、世界の各地で展開されてきた建築記号論を体系的に展望し、建築と言語とのアナロジー、建築の記号、建築における記号現象の特性、建築的記号のタイポロジー、建築的コード、テクストとしての建築、建築の現象学などの論点について、その到達点と問題点を明らかにしている。その結果、建築記号論を記号の集合を対象とした「テクスト記号論」として展開する必要があること、複雑な記号現象を記述し、操作する手法の開発が求められていることを指摘している。 第2部では、以上の一般記号論及び建築記号論の理論的検討をふまえて、建築記号論の実証研究として、日本の伝統的街並みを対象とした「街並み記号論」を展開している。 第4章「街並みにおける記号現象」では、街並みの景観が様々な記号の集合であるテクストとして捉えられること、そしてその特質が、記号のネットワークに潜んでいることを指摘し、その記号現象の仕組みを探究する「街並み記号論」の構想を提示している。また、日本の各地に分布する200カ所の伝統的街並みに関する現地調査の概要を説明している。 第5章「街並みの景観の記号化」では、多様な街並みの景観を生成する「街並みのコード」を作成している。街並みは視点のとり方やあたりの状況の変化に応じて、実に多様な景観として現れる。この現れとしての景観を「タウンテクスチュア」と呼び、タウンテクスチュアの構成要素を比較検討することにより、くり返し現れる共有された部分を記号として抽出する手続きを提示し、日本の伝統的街並みには限られた数の記号のレパートリーが共有されていることを明らかにしている。そして、現地調査において発見した様々な景観のヴァリエーションを記述できるシステムとして、「意味システム」(meaning)・「形式システム」(form)・「実質システム」(substance)という3つの層が重なり合う多層構造からなる「街並みのコード」を作成した。このコードは、潜在的に利用可能な記号のレパートリーを「選択体系網」の集合として記述したものである。 第6章「タウンテクスチュアの情景分析」では、街並みにおける多層に及ぶ記号現象を解読するために、安定した形態に基盤を持つタウンテクスチュアに焦点を結び、街並みのコードを利用して、連続的な形の世界の中に意味づけられた不連続な部分を発見していく「情景分析」を展開している。そこでは、多様なタウンテクスチュアが潜在的に利用可能な記号のレパートリー(街並みのコードにおける形式システムと実質システム)から選択された記号のネットワークとして実現されていること、言い換えれば、有限の記号から無限の景観のヴァリエーションを生成する仕組みが存在することを明らかにしている。そして、多角的な視点からの情景分析を通して、伝統的街並みのタウンテクスチュアには、互いに類似しながら、それぞれが個性を発揮できるように、「類似と差異のネットワーク」が様々なレベルに縦横に張り巡らされていることを示している。具体的には、(1)記号には多様なヴァリエーションが存在すること、(2)記号がネットワークを形成していること、(3)タウンテクスチュアに一体感をもたらすコネクターとゆらぎをもたらすシフターがあること、(4)記号のシークエンスにも様々な規則性が存在すること、(5)構成要素の輪郭線や街並みのシルエットの形状、あるいはタウンテクスチュアの美的秩序にも、生命のリズムを思わせるゆらぎのある形の世界が実現されていること、(6)建築的記号の細部には、言語における方言にも似て、様々な変形が認められること、(7)色彩・素材・テクスチュアなどが微妙に推移していくグラデーションが存在することなどがそれであり、それらが街並みの景観を意味づけられたテクストとして現象するように仕立て上げているのである。 第7章「テクストとしての街並みの解読」では、街並みの景観がどのような意味を持つテクストとして現象しているかを解読する「テクスト分析」を展開している。まず、可感的な記号の集合からなるタウンテクスチュアが、個々の記号の意味だけでなく、街のたたずまいやアイデンティティといった高次の意味を生成するテクストとして現象することを明らかにしている。次に、景観を解読するプロセスがいくつもの記号の連鎖からなる無限の記号過程として理解される(景観は多義的である)ことを指摘し、実際に200カ所に及ぶ日本の伝統的街並みを様々な観点から解読することにより、形態と意味との安定した関係を「街並みの景観のルール」として抽出している。これは、街並みのコードにおける形式システム・実質システムを意味システムと重ね合わせる規則を記述したものといえる。 多種多様な記号の集合からなるタウンテクスチュアを解読するプロセスは、複雑な記号のネットワークの分析を伴うことから、人工知能の分野で開発された知識表現の手法であるフレーム、プロダクション・ルール、オブジェクトを用いて、形態と意味との複雑な関係をコンピュータを用いて解読する方法を提示している。また、ハイパーメディアを利用して、現地調査を行った日本の伝統的街並みのデータベースを作成し、記号の共有関係を調べることにより、タウンテクスチュアの情景が場所性・歴史性といった多様なコンテクストを映し出していることを具体的に記述している。 結論では、以上の2部にわたる研究の展開をふまえて、建築における記号現象、特に街並みの景観における記号現象の仕組みについて明らかになったことを総括している。 テクスト記号論としての街並み記号論の研究を通して、(1)日本の伝統的街並みには、有限の記号のレパートリーからなる「街並みのコード」が共有されていること、(2)それは、多種多様な景観を生成する「可能態としての街並み」を記述したシステムであること、(3)このシステムによって生成された景観には、様々なレベルに「類似と差異のネットワーク」が縦横に張り巡らされていること、(4)個々の建物は自己主張を抑え、他の建物との関係の中で自らのアイデンティティを発揮していく「共同体の景観」が形成されていること、そして(5)テクストとしての街並みは「記号の自己展開力」に根ざして生成されたものであること(記号は変形・結合等により新たな記号を生み、テクストへと発展していくこと)などを明らかにした。また、こうした記号現象の仕組みを探究する過程で、複雑な記号現象を解読し、操作する手法の開発を進めた。すなわち、(1)景観を記号化する手続き、(2)コードの記述、(3)記号モデルと記号分類、(4)建築的記号やタウンテクスチュアの成分分析、(5)記号のネットワークの記述、(6)コネクターとシフターの分析、(7)形式文法のモデルによる記号のシークエンスの分析、(8)コンピュータを利用した輪郭線の形状やタウンテクスチュアの美的秩序の分析、(9)記号の変形システムの記述、(10)類似と差異のパターンの分析、(11)知識工学的手法による景観の理解、(12)ハイパーメディアによるデータベースを利用した景観の解読などがそれである。街並みの景観の記号学的研究は、これらの分析手法を利用した様々な記号論的分析のネットワークとして展開されている。 引用・参考文献リストには、一般記号論、建築記号論、街並み記号論に関連する文献リストを体系的に整理している。APPENDICESには、街並み記号論の資料として、日本の伝統的街並みのデータベース、代表的な街並みの連続立面図、第6章と第7章で開発した画像処理と知識処理のためのコンピュータ・プログラムを示している。 |