学位論文要旨



No 213160
著者(漢字) 佐々木,宏
著者(英字)
著者(カナ) ササキ,ヒロシ
標題(和) 「インターナショナル・スタイル」の研究
標題(洋)
報告番号 213160
報告番号 乙13160
学位授与日 1997.01.30
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13160号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 香山,寿夫
 東京大学 教授 横山,正
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 助教授 伊藤,毅
内容要旨

 1932年,ニューヨークの近代美術館(Museum of Modern Art,New York)は,1929年の創設以来,最初の建築展を開催した。標題は「近代建築:国際展覧会」(MODERN ARCHITECTURE:INTERNATIONAL EXHIBITION)であった。同時に刊行された『カタログ』は,建築展の標題と同じ名称がつけられたが,内容はまったく同じで名称の異なった『MODERN ARCHITECTS』という本も刊行された。これらの2種の刊行物の執筆者は,アルフレッド・バア(Alfred Barr),ヘンリー=ラッセル・ヒッチコック(Henry Russell Hitchcock),フィリップ・ジョンソン(Philip Johnson),ルイス・マンフォード(Lewis Mumford)の4人であった。ほぼ同じ時期に,ニューヨークで『インターナショナル・スタイル:1922年以降の建築』(INTERNATIONAL STYLE:ARCHITECTURE SINCE 1922)という単行本が出版された。著者は,ヒッチコックとジョンソンで,序文をバアが寄稿した。

 この1932年のひとつの建築展と3種類の本をめぐって,これまでにアメリカの近代建築をめぐる歴史的記述の上で,様々な混乱や誤記がなされ,それは1990年代まで続いている。「序章」においては,それらの誤解の実例を検証するために,主として単行本から当該箇所を引用して,それらの実状を明らかにした。その中には,かなり著名な指導的立場の歴史家や評論家の記述も含まれている。アメリカにおける事例を主にしたが,ヨーロッパにおいても同様な誤解が見いだされるので,主要な歴史家や建築家の記述を挙げておいた。

 第1章では「近代美術館と最初の建築展の背景」と題して,アメリカにおいて1930年代以降にひとつの美術館が建築デザインの進展に指導的な役割を果たしてきた意義について述べている。

 この建築展では,日本の作品が2件ほど展示されたが,その事情の一端を伝えるものとして,上野 伊三郎の主宰する「インターナショナル建築」誌に載ったニューヨークの近代美術館(以下MoMAと略記)から送られてきた作品募集の記事を紹介して,当時,日本においても,この建築展に対して,一部ではあるが,関心が高かったことを示した。

 第2章では,MoMAの建築展そのものについて述べている。この建築展がニューヨークだけでなく,全米各地の美術館や画廊での巡回展示が当初から計画されていたこと,会場の展示デザインがミースへの依頼も考慮されたこと,展示の各部屋ごとの内容,当時の新聞や雑誌の批評,これらについて具体的に説明している。

 第3章では,『カタログ』の内容について述べている。『カタログ』の双生児本ともいうべき『MODERN ARCHITECTS』が刊行された経緯について考察し,内容構成について述べた上で,参考文献についても検証している。この『カタログ』は,一種の論文集のような体裁となっているので,それぞれの文章について分析を試みた。

 第4章では,『インターナショナル・スタイル:1922年以降の建築』について考察した。この『本』が,建築展の『カタログ』とは別に刊行された事情について,ライトを排除して「インターナショナル・スタイル」を提唱したかった著者たちが,かなり意図的にこの『本』を作成したのであろうと,推測を試みた。もしライトが加えられなかったならば,建築展そのものも「インターナショナル・スタイル」展の名称になっていたかもしれない。「インターナショナル・スタイル」の命名者については,バアの命名によるというヒッチコックの証言があるが,ヒッチコック自身,1920年代後期の論文の中で「インターナショナル・スタイル」の造語の背景として,「インターナショナル」については,グロピウスの「インターナツィオナール・アルキテクトゥール」から借用し,「スタイル」については,オランダの「デ・スティール」から引用して,合成したものであろうと推測した。

 この『本』の内容については,各項目,各章ごとに検討し,その「原理」はル・コルビュジエの『建築をめざして』の論理的展開を下敷きにしたものであることを実証した。ただ「平面」については,ル・コルビュジエとはまったく異なった,むしろ反対の見解になっていることを指摘した。「図版」については,それらの中でグロピウスの前述の本の図版と重複するものが,わずか3例であることを発見し、グロピウスの本の続編か補巻のような性格を与えようとしたものであると推測した。この『本』の図版では,計画案は省かれているが,リートフェルトの<シュレーダー邸>のように,建築展では展示したものの,グロピウスの本に載っているものが除かれているのは,ひとつの例証であろう。

 第5章では,建築展と『本』で排除された建築家のルドルフ・シンドラーについて述べている。一般には,「インターナショナル・スタイル」のアメリカの先駆者のひとりとみなされている彼が拒絶された事情を,各種の資料を援用して追跡した。

 第6章では,ライトと「インターナショナル・スタイル」の関係について考察した。ライトは,ヒッチコックとジョンソンの『本』ではまったく排除されている。著者たちは,ライトの建築デザインが「インターナショナル・スタイル」に相応しくないと考えたからである。しかも,ライト自身,「インターナショナル・スタイル」に反対し続け,ヨーロッパの新しい建築デザインの源泉の多くは,自己の過去の手法の展開であることを自認していたが,新たに過去の作品の図面を描き直すことによって,新しい感覚のプレゼンテーションを試みていたことを明らかにした。その作業に日本人の岡見 健彦も加わっていたことを付け加えておいた。

 第7章では,まず建築展の巡回について触れ,それがニューヨークだけでなく各地の建築家たちに影響を与えたことを述べた。次に、グロピウスやミースのようにアメリカへ移住して新しい建築デザインを広めた建築家の他に、MoMAがル・コルビュジエをアメリカへ招待したことなどや,これらのヨーロッパの指導的建築家とライトとの葛藤についてのエピソードを紹介した。

 第8章では,「インターナショナル・スタイル」を建築史家や研究者が,これまでどのように論評してきたかを,代表的な著作から引用して考証した。アメリカでは衆知の用語なので,アメリカ以外の国々の建築史家や研究者の見解に限定した。アメリカの歴史家として,ヒルベルザイマーはドイツからの移住者であったので「インターナショナル・スタイル」をまったく認めていなかったこと,マンフォードはヒッチコックとジョンソンの『本』をアメリカの建築思想の重要な著作として位置づけていることなどについて触れておいた。

 第9章では,1982年のMoMAの建築展と『インターナショナル・スタイル:1922年以降の建築』の刊行の50周年記念として行われた,アメリカの建築ジャーナリズムの特集とハーヴァード大学でのシンポジウムについて述べ,さらに1992年のコロンビア大学での60周年記念の再現展とそのカタログについても述べている。

 第10章は,「インターナショナル・スタイル」という用語が各種の資料の中で,どのように用いられているかを知るために,多くの刊行物の中から実例を集めたものである。事典,辞典,歴史書,モノグラフ,建築ガイドブックなどが,その主な対象である。

 終章では,ヒッチコック自身が『本』の新版に当たって,新しい文章を書き,また巻末に,1951年に発表した「20年後のインターナショナル・スタイル」という論文を加えて,かつての主張の歴史的役割を自ら評価している点について考察している。彼は,「インターナショナル・スタイル」が過去のものとなったことを認めているが,歴史的に定着するであろうという自負心を抱いていたようである。また,ジョンソンも,主要なデザインの傾向ではなくなったが,1990年代において,いまなお,まったく消滅したものではないという見解を持っている。第10章の事例からみて,今後の歴史書の書き替えにおいて,「インターナショナル・スタイル」が次第に認知されていくであろうという傾向とその理由を指摘した。

審査要旨

 本論文は1932年、ニューヨークで開催された「近代建築:国際展覧会」に由来するインターナショナル・スタイルという養護とその概念の歴史を実証的に解明し、現代にいたるまでの変遷を研究したものである。

 近代建築史を記述する上で、国際様式という名称はしばしば用いられ、それがインターナショナル・スタイルの訳語であることもまた、よく知られている。しかしながらこの重要な言葉の成立過程と、意味については実は十分な検討がなされていなかった。これは日本でのことではなく、世界中の建築史研究においてもあてはまる事実であった。本論文は資料を博捜するなかから、欧米における研究の盲点を衝く発見を多く行なっている。

 論文は10章および終章からなり、1章は建築史上における美術館の果たしてきた役割を分析し、2章においてニューヨーク近代美術館における1932年の展覧会について分析を加える。そして3章および4章において、この展覧会のカタログと、付随して出版された書籍の分析を行なう。従来の誤解が、これら複数の出版物の混同によるものであることを明かにし、展覧会においてはインターナショナル・スタイルを公言できなかったP.ジョンソンらが、この用語を提唱するために書籍を出版し、しかもそれが展覧会の公式出版物であるように見せたことを明かにした。この部分が本論文の中心的成果であり、従来の誤解が訂正されるとともに、その誤解のよってきたる所以もまた明かにされたのである。

 5章および6章では、同時代のアメリカ建築界にありながら、この展覧会が示した傾向から除外された建築家を論じている。すなわちR.シンドラーおよびF.L.ライトである。ここではライトと日本との関係にも言及されている。

 7章ではこの展覧会がアメリカ国内において巡回された様子と、その意義を調べている。そして8章において、インターナショナル・スタイルという用語と概念が建築史家によってどのように理解され、どのように位置づけられてきたかを、アメリカのみならず、ヨーロッパ各国の研究者による記述から比較検討している。この部分はひろく近代建築史の叙述の視点を比較したもので、インターナショナル・スタイルという概念を軸として近代建築観を相対化しており、建築史研究に新しい視角をもたらした部分と言える。

 9章は、1932年の展覧会から50年後にニューヨーク近代美術館で開催された50年記念展とハーバード大学でのシンポジウム、同時期の各種雑誌の特集、そして60周年を期しておこなわれたコロンビア大学での再現展とそのカタログを検証し、いくつかの誤解が存続している事を明かにした。

 10章は、現行の歴史書および事典等での記述と位量づけを点検し、筆者による判断を下している。インターナショナル・スタイルという言葉が、アメリカから発したものでありながらも、ヨーロッパにおいても定着しつつあることが示される。

 終章では、この展覧会の主催者であったP.ジョンソン自身の回顧から、かれの意図を読み取り、彼の意図した通り、この概念が近代建築史上に定着したことをのべて論文を終えている。

 こうした論考は、極めて限定された概念と事象を取り扱いながらも、近代建築の根幹に触れる概念の成立と意義を明かにしており、その成果は大きい。こうした方法は、日本において欧米の建築史を研究する方法に新しい可能性を開いたところがあり、日本における今後の西欧建築史研究、近代建築史研究にとって、刺激となるものである。その意味で、本論文が明かにした事実と、そうした事実を明かにするための方法との両面において、本論文は価値がある。

 以上の論考は、建築史および建築論の成果として極めて有益なものであり、これら分野の発展に資するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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