内容要旨 | | 1932年,ニューヨークの近代美術館(Museum of Modern Art,New York)は,1929年の創設以来,最初の建築展を開催した。標題は「近代建築:国際展覧会」(MODERN ARCHITECTURE:INTERNATIONAL EXHIBITION)であった。同時に刊行された『カタログ』は,建築展の標題と同じ名称がつけられたが,内容はまったく同じで名称の異なった『MODERN ARCHITECTS』という本も刊行された。これらの2種の刊行物の執筆者は,アルフレッド・バア(Alfred Barr),ヘンリー=ラッセル・ヒッチコック(Henry Russell Hitchcock),フィリップ・ジョンソン(Philip Johnson),ルイス・マンフォード(Lewis Mumford)の4人であった。ほぼ同じ時期に,ニューヨークで『インターナショナル・スタイル:1922年以降の建築』(INTERNATIONAL STYLE:ARCHITECTURE SINCE 1922)という単行本が出版された。著者は,ヒッチコックとジョンソンで,序文をバアが寄稿した。 この1932年のひとつの建築展と3種類の本をめぐって,これまでにアメリカの近代建築をめぐる歴史的記述の上で,様々な混乱や誤記がなされ,それは1990年代まで続いている。「序章」においては,それらの誤解の実例を検証するために,主として単行本から当該箇所を引用して,それらの実状を明らかにした。その中には,かなり著名な指導的立場の歴史家や評論家の記述も含まれている。アメリカにおける事例を主にしたが,ヨーロッパにおいても同様な誤解が見いだされるので,主要な歴史家や建築家の記述を挙げておいた。 第1章では「近代美術館と最初の建築展の背景」と題して,アメリカにおいて1930年代以降にひとつの美術館が建築デザインの進展に指導的な役割を果たしてきた意義について述べている。 この建築展では,日本の作品が2件ほど展示されたが,その事情の一端を伝えるものとして,上野 伊三郎の主宰する「インターナショナル建築」誌に載ったニューヨークの近代美術館(以下MoMAと略記)から送られてきた作品募集の記事を紹介して,当時,日本においても,この建築展に対して,一部ではあるが,関心が高かったことを示した。 第2章では,MoMAの建築展そのものについて述べている。この建築展がニューヨークだけでなく,全米各地の美術館や画廊での巡回展示が当初から計画されていたこと,会場の展示デザインがミースへの依頼も考慮されたこと,展示の各部屋ごとの内容,当時の新聞や雑誌の批評,これらについて具体的に説明している。 第3章では,『カタログ』の内容について述べている。『カタログ』の双生児本ともいうべき『MODERN ARCHITECTS』が刊行された経緯について考察し,内容構成について述べた上で,参考文献についても検証している。この『カタログ』は,一種の論文集のような体裁となっているので,それぞれの文章について分析を試みた。 第4章では,『インターナショナル・スタイル:1922年以降の建築』について考察した。この『本』が,建築展の『カタログ』とは別に刊行された事情について,ライトを排除して「インターナショナル・スタイル」を提唱したかった著者たちが,かなり意図的にこの『本』を作成したのであろうと,推測を試みた。もしライトが加えられなかったならば,建築展そのものも「インターナショナル・スタイル」展の名称になっていたかもしれない。「インターナショナル・スタイル」の命名者については,バアの命名によるというヒッチコックの証言があるが,ヒッチコック自身,1920年代後期の論文の中で「インターナショナル・スタイル」の造語の背景として,「インターナショナル」については,グロピウスの「インターナツィオナール・アルキテクトゥール」から借用し,「スタイル」については,オランダの「デ・スティール」から引用して,合成したものであろうと推測した。 この『本』の内容については,各項目,各章ごとに検討し,その「原理」はル・コルビュジエの『建築をめざして』の論理的展開を下敷きにしたものであることを実証した。ただ「平面」については,ル・コルビュジエとはまったく異なった,むしろ反対の見解になっていることを指摘した。「図版」については,それらの中でグロピウスの前述の本の図版と重複するものが,わずか3例であることを発見し、グロピウスの本の続編か補巻のような性格を与えようとしたものであると推測した。この『本』の図版では,計画案は省かれているが,リートフェルトの<シュレーダー邸>のように,建築展では展示したものの,グロピウスの本に載っているものが除かれているのは,ひとつの例証であろう。 第5章では,建築展と『本』で排除された建築家のルドルフ・シンドラーについて述べている。一般には,「インターナショナル・スタイル」のアメリカの先駆者のひとりとみなされている彼が拒絶された事情を,各種の資料を援用して追跡した。 第6章では,ライトと「インターナショナル・スタイル」の関係について考察した。ライトは,ヒッチコックとジョンソンの『本』ではまったく排除されている。著者たちは,ライトの建築デザインが「インターナショナル・スタイル」に相応しくないと考えたからである。しかも,ライト自身,「インターナショナル・スタイル」に反対し続け,ヨーロッパの新しい建築デザインの源泉の多くは,自己の過去の手法の展開であることを自認していたが,新たに過去の作品の図面を描き直すことによって,新しい感覚のプレゼンテーションを試みていたことを明らかにした。その作業に日本人の岡見 健彦も加わっていたことを付け加えておいた。 第7章では,まず建築展の巡回について触れ,それがニューヨークだけでなく各地の建築家たちに影響を与えたことを述べた。次に、グロピウスやミースのようにアメリカへ移住して新しい建築デザインを広めた建築家の他に、MoMAがル・コルビュジエをアメリカへ招待したことなどや,これらのヨーロッパの指導的建築家とライトとの葛藤についてのエピソードを紹介した。 第8章では,「インターナショナル・スタイル」を建築史家や研究者が,これまでどのように論評してきたかを,代表的な著作から引用して考証した。アメリカでは衆知の用語なので,アメリカ以外の国々の建築史家や研究者の見解に限定した。アメリカの歴史家として,ヒルベルザイマーはドイツからの移住者であったので「インターナショナル・スタイル」をまったく認めていなかったこと,マンフォードはヒッチコックとジョンソンの『本』をアメリカの建築思想の重要な著作として位置づけていることなどについて触れておいた。 第9章では,1982年のMoMAの建築展と『インターナショナル・スタイル:1922年以降の建築』の刊行の50周年記念として行われた,アメリカの建築ジャーナリズムの特集とハーヴァード大学でのシンポジウムについて述べ,さらに1992年のコロンビア大学での60周年記念の再現展とそのカタログについても述べている。 第10章は,「インターナショナル・スタイル」という用語が各種の資料の中で,どのように用いられているかを知るために,多くの刊行物の中から実例を集めたものである。事典,辞典,歴史書,モノグラフ,建築ガイドブックなどが,その主な対象である。 終章では,ヒッチコック自身が『本』の新版に当たって,新しい文章を書き,また巻末に,1951年に発表した「20年後のインターナショナル・スタイル」という論文を加えて,かつての主張の歴史的役割を自ら評価している点について考察している。彼は,「インターナショナル・スタイル」が過去のものとなったことを認めているが,歴史的に定着するであろうという自負心を抱いていたようである。また,ジョンソンも,主要なデザインの傾向ではなくなったが,1990年代において,いまなお,まったく消滅したものではないという見解を持っている。第10章の事例からみて,今後の歴史書の書き替えにおいて,「インターナショナル・スタイル」が次第に認知されていくであろうという傾向とその理由を指摘した。 |