学位論文要旨



No 213165
著者(漢字) 岡田,守弘
著者(英字)
著者(カナ) オカダ,モリヒロ
標題(和) イオンビーム法で作成したダイヤモンド状炭素膜の研究
標題(洋)
報告番号 213165
報告番号 乙13165
学位授与日 1997.01.30
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13165号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,良一
 東京大学 教授 尾鍋,研太郎
 東京大学 教授 白木,靖寛
 東京大学 教授 吉田,豊信
 東京大学 講師 伴野,達也
内容要旨

 ダイヤモンド状炭素膜は炭素と水素とからなる非晶質の透明黒褐色の膜であり、耐摩耗性・表面潤滑性に優れ、硬度が高く、耐腐食性が高いという、ダイヤモンドに近い性質を持つ。本膜は非晶質故に、成膜条件によって構造が連続的に変化しそれに伴って物性が変化するが、この非晶質構造と物性との関係については依然不明な点が多い。本研究では、単一のエネルギーのイオンが得られるカウフマン型イオン源と、イオンが幅広いエネルギー分布を持つホール型イオン源を用いてメタンガスを原料にダイヤモンド状炭素膜を成膜し、次の3点を主眼に研究を行なった。

 (1)ダイヤモンド状炭素膜の組成と密度を調べ、構造解析を行ない、高硬度を発現するモデルを提案した。

 (2)膜の付着力の支配要因を探った。膜と基板との界面を観察し炭化物層の存在を確かめ、膜の基板への付着力を基板原子と膜原子との結合という観点から整理した。

 (3)低エネルギーで動作するホール型イオン源を開発し、成膜の研究に初めて適用した。本イオン源はフィラメントを用いないで動作し、構造が単純なので大面積成膜に適した装置である。

膜の構造

 カウフマン型イオン源で得られる800eVのイオンビームを用いて,Siウエハー基板上に成膜されたダイヤモンド状炭素膜の構造を調べた。表1に各種測定値を示し、図1に構造のモデルを示す。硬度が最も高いダイヤモンド状炭素膜の炭素原子はsp3性のものとsp2性のものとが混在していることが赤外分光分析から明らかになった。それらの炭素原子は無秩序に結合した空隙の多い三次元の剛構造を成し、そのために硬度が最も高くかつ比重が最小になると考えられる。水素原子とsp3性炭素原子とからなるダイヤモンド状炭素膜はかなり高い硬度を示すが、そこにsp2性炭素原子が導入され炭素原子同士の一重結合の一部が結合力の強い二重結合に置換されると、より強固な構造となり、Vickers硬度6000という高硬度を示す。高硬度のダイヤモンド状炭素膜を成膜するためには、照射イオンの水素引き抜き反応を進めて膜中水素量を調整し、非晶質構造に適度の炭素原子二重結合を導入することが必要である。100℃の低温で作成された膜は一次元鎖からなる柔らかいポリエチレンに似た構造をとり、600℃の高温で成膜された膜はほとんどsp2性炭素原子からなり、黒鉛構造が導入された低硬度の膜になる。

表1ダイヤモンド状炭素膜の組成、硬度、比重図1原子結合構造と硬度との関係(結合エネルギー:Si-Si327kJ/mol,C-C354kJ/mol,C=C590kJ/mol)
膜付着力の支配要因

 ダイヤモンド状炭素膜のSiウエハーへの付着力は91kgf/mm2と強い。異種原子と結合している炭素原子が、C(KLL)オージェスペクトルで262eVに極大のピークを示すことを利用して、本膜が成膜されたSiウエハーの膜-基板界面の炭素原子の結合の様子を調べた。その結果、約17nmの厚みにわたって、シリコンの炭化物層が存在することが明らかになった。一方、透過電子顕微鏡による断面観察では、図2に示すように界面に厚さ約15nmのコントラストの異なる層が観察された。膜の強い付着力は界面に存在するこの炭化物層によるものと考えられる。さらに基板表面の結晶粒塊隙間にダイヤモンド状炭素膜の炭素原子が侵入するアンカー効果で膜の付着力が強化できることも明らかにした。

図2ダイヤモンド状炭素膜がコーティングされたSiウエハーの断面の透過電子顕微鏡写真
ホール型イオン源の成膜への適用

 ホール型イオン源はビームの収束性が悪く、イオンのエネルギーを単一にすることができないために成膜用あるいはイオン注入用としては注目されてこなかった。しかしながら、エネルギーの異なるイオンを同時に引き出せる点と、広い面積にイオンビームを照射できる特徴とに注目し、ホール型イオン源を初めて成膜に適用する研究をダイヤモンド状炭素膜を対象に行なった。本イオン源の特徴をまとめると以下のようになる。

 (1)電子をサイクロイド運動で効率よく放電空間に捕捉できるために、放電維持用のフィラメントが不要。

 (2)大面積大電流のイオンビームの引き出しが可能。

 (3)イオンビームが幅広いエネルギー分布を示す。

 (4)装置の構造が単純なため大型化が容易。

 ダイヤモンド状炭素膜は鉄に対する付着力が弱く、自然剥離する。それは、鉄が基板の場合、成膜に最適な800eVのイオンビームが界面での炭化物生成に寄与しないからである。一方、ホール型イオン源から引き出されるイオンビームは図3に示すように、高エネルギーイオン(単独で用いると逆スパッタが生じ成膜できない)と成膜用の低エネルギーイオンを同時に含み、この高エネルギーイオンの併用の効果によって、鉄基板に対して界面での膜付着力の強化を図ることができた。

図3ホール型イオン源から引き出されるイオンのエネルギー分布
研究の適用例

 以上の研究の結果を踏まえてボンディングワイヤーの伸線ダイス、チタン合金線材の酸化皮膜切削ダイス、鋼板の打抜き金型および自動車用摺動部品に耐久性の高いダイヤモンド状炭素膜のコーティングを施し、生産工場に於て実際の効果を確認した。

図4ダイヤモンド状炭素膜がコーティングされた伸線ダイスでのボンディングワイヤーの伸線作業(金線入り側)
審査要旨

 本論文は「イオンビーム法で作成したダイヤモンド状炭素膜の研究」と題し、耐摩耗性・表面潤滑性・耐腐食性に優れ、硬度が高いダイヤモンド状炭素膜の物性を明らかにし、かつその実用化を図った研究をまとめたものである。

 ダイヤモンド状炭素膜はダイヤモンドに近い硬度を持った薄膜であり、工業的な応用が期待されているが、製膜法と構造の関係、基板への付着力を支配する要因などが未解決である。本論文の目的は、イオンビーム法で作成したダイヤモンド状炭素膜の構造を解析し、膜の基板への付着力の支配要因を明らかにして、実用途に耐え得る物性と付着力を有するダイヤモンド状炭素膜を成膜する技術を確立し、様々な工業的用途を開拓することである。

 論文は6章から成っている。

 第1章では、ダイヤモンド状炭素膜の研究の歴史と性質及び期待される用途について概説し、従来の研究との対比で本研究の動機と目的について述べている。

 第2章は「成膜装置」と題し、本研究で用いたカウフマン型イオン源とホール型イオン源の2種類のイオン源について、その構造と動作特性とについて述べている。特に、本研究が成膜への適用の初めての試みとなったホール型イオン源については詳細に述べている。すなわち、ホール型イオン源での放電にはマグネトロン放電とグロー放電の2つがあること、そして、それぞれの放電が成立する条件についてヘリウムを用いた実験結果を電子とガス分子の反応断面積から理論的に解析し、このイオン源から引き出されるイオンビームが幅広いエネルギー分布を有することを、マグネトロン放電と関連づけて明らかにしている。さらに、この解析結果は他のガスに対しても同様に適用できることを示し、メタンガスを用いた場合にイオンビームのこの性質がダイヤモンド状炭素膜の膜付着力強化に寄与することを示唆し、第4章につなげている。

 第3章では「膜の構造と物性」と題し、ダイヤモンド状炭素膜の構造解析とモデルを提示している。本膜は、たとえば硬度・耐摩耗性が著しく高いという特異な性質を示すが、非晶質構造の故に、成膜条件によって連続的に変化する微細構造と発現する物性とを関係づけることが難しい。それに対して本研究では、硬度が高いダイヤモンド状炭素膜はsp3性とsp2性の炭素原子がほぼ同数存在することを赤外分光と核磁気共鳴とから明らかにし、ラザフォード散乱やラマン分光および比重測定等から、高硬度を発現するモデルを提示している。さらに、この提示した構造モデルを元に黒鉛をダイヤモンド状炭素に改質することを提案し、実際に水素イオンを単結晶黒鉛に照射する実験を行ない、共鳴核反応法・ラマン分光・反射電子線回折等の分析結果から、黒鉛最表面がダイヤモンド状炭素に改質されたことを示している。また、ダイヤモンド状炭素膜の特異な機械的物性についての実験結果も示している。

 第4章では「膜の付着性と界面」と題して、様々な材料に対するダイヤモンド状炭素膜の付着力の実験結果を示し、膜の付着力の高い試料の高分解能電子顕微鏡観察やオージェ電子分光分析等から、膜の付着力の支配要因を見出し、膜付着力の弱い基板材料に対するダイヤモンド状炭素膜の付着力の向上を図っている。すなわち、熱あるいは成膜イオンの運動エネルギーの形で界面での炭化物生成の促進を図り、さらに基板表面の結晶粒塊隙間にダイヤモンド状炭素膜の炭素原子を侵入させるアンカー効果によって膜の付着力が強化できることを実証している。

 第5章では「本技術の適用例」と題して以上の研究結果を踏まえて本膜の応用を図った例について述べている。具体的には、鉄系材料に対して、ホール型イオン源の幅広いエネルギー分布を持ったイオンビームを用いてダイヤモンド状炭素膜を成膜し、この試料が自動車用摺動部品として耐摩耗性・表面潤滑性に最も優れていることを自動車メーカーが評価した結果について述べている。そのほかボンディングワイヤーの伸線ダイス、6.5%Si-Fe電磁鋼板の打抜き金型に耐久性の高いダイヤモンド状炭素膜のコーティングを施し、生産工場に於て実際の効果を上げたことを述べている。

 第6章では本論文全体のまとめと今後の課題について述べている。

 以上を要約すると、本研究は、ダイヤモンド状炭素膜を耐衝撃・耐摩耗被膜として工業的に応用することを目的に遂行され、膜そのものの解析に留まらず、界面と付着性の研究や成膜用ホール型イオン源の開発のように、用途探索の過程で生じた問題点を新たな研究課題として取り込み、それらを解決し、ダイヤモンド状炭素膜を実用途に供するという成果を上げた。本研究の結果は、物性物理学とコーティング材料への工業的応用の両面で影響するところが大きく、物理工学への貢献が大である。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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