本論文は食肉鮮度および熟成度を計測するバイオセンサーの開発に関するものであり、8章より構成されている。 家畜を屠畜すると筋肉は硬直状態になる。硬直期の肉は硬く風味に乏しいため、低温で一定期間貯蔵する熟成という過程を経て食用に供される。一方、食肉の貯蔵中に細菌による劣化が進行し、腐敗に至って食用に不適な状態になる。従って、食肉の管理においては細菌による鮮度の低下と熟成の進行とを同時に把握する必要がある。鮮度を判定する方法としては、細菌数の計測の他に、簡易法として細菌の代謝産物濃度の計測がある。熟成度は、肉の物性変化、筋原線維の小片化率、筋原線維を構成している微量タンパク質の変化等によって判定される。従来法による鮮度・熟成度の判定方法は、測定時間、操作性、精度に問題があり、また、高価な機器を必要とする場合もある。これに対し、バイオセンサーは高選択性、迅速性、簡便性等の特性があるので鮮度・熟成度の計測装置として適している。 本研究では、まず食肉の鮮度・熟成度判定のための化学指標物質について検討した。次に、食肉の鮮度・熟成度計測用バイオセンサーを実際に製作し、貯蔵食肉の測定に適用した。 第1章は緒論であり、食肉の鮮度および熟成度評価法の現状、さらに食肉の鮮度および熟成度計測用バイオセンサー開発の現状について述べ、本研究の目的および意義を明らかにした。 第2章では、細菌による食肉の鮮度低下を判定するための化学指標物質の検討を行った。細菌によるアミンの生成に関する研究は多く、特にプトレシンとカダベリンが鮮度判定指標物質として注目されているが、その有効性についての評価は一致しておらず、試料の処理方法や貯蔵条件を一定にして比較検討する必要があった。まず、含気または真空で包装した食肉を5℃に貯蔵し、細菌数、におい、代表的な化学指標物質濃度の経時的な変化をそれぞれ調べた。その結果、含気包装、真空包装のいずれにおいても、細菌数が肉の食用不適基準とされている107個/gに到達した時点および腐敗臭が感知された時点よりも早くカダベリンが検出され、少し遅れてプトレシンが検出され始めた。従って、カダベリン濃度、またはカダベリンとプトレシンの合計濃度が食肉の鮮度指標として有用であることが示された。また、食肉の腐敗初期には独特の果実臭が感知される場合が多いことから、含気包装あるいは真空包装した牛肉、豚肉、鶏肉を5℃に貯蔵し、揮発性成分濃度の変化を調べた。酢酸エチルがすべての試験区において初期腐敗時点から検出され、食肉の腐敗の進行に伴って酢酸エチルが増加した。従って、揮発性成分濃度の測定によって食肉の鮮度判定を行う場合、酢酸エチルは有用な指標物質に成りうることが明らかになった。 第3章では、食肉の熟成度を判定するための化学指標物質の検討を行った。アデノシン三リン酸(ATP)の分解生成物は、熟成度判定指標物質として利用できる可能性があるが、ATP分解物は、屠畜後の時間経過を示す指標物質であるので、熟成度判定指標として用いるためには熟成の本質的な指標である筋原線維の構造変化との対応を明らかにする必要がある。具体的には、熟成に従って進行する筋原線維の脆弱化の程度を表す筋原線維小片化率の変化を基本的な熟成度指標とした。試料として2℃に貯蔵した真空包装牛肉を用い、ATP分解物濃度と筋原線維小片化率との関係を調べた。筋原線維小片化率と、ヒポキサンチン濃度、ヒポキサンチン+1/2キサンチン濃度の間の回帰係数(r)はそれぞれ0.897、0.905であり、いずれも熟成度指標として適用し得ることが示された。 第4章では、食肉の鮮度と熟成度を同時に計測することのできる2-ラインフロー型バイオセンサーの開発を行った。鮮度計測用には、プトレシンとカダベリンを測定するためにプトレシンオキシダーゼを固定化したプトレシンセンサーを製作し、また、熟成度計測用には、キサンチンとヒポキサンチンを測定するためにキサンチンオキシダーゼを固定化したキサンチンセンサーを製作した。各センサーは、酸素電極上に酵素固定化膜を装着した構造であり、2本の流路に設置することによりプトレシンとカダベリン、キサンチンとヒポキサンチンの同時計測が可能であった。2-ラインフロー型バイオセンサーによって10℃、5℃、0℃の各温度で貯蔵した真空包装牛肉中の各物質の濃度を経時的に測定したところ、いずれの貯蔵温度においても熟成の進行程度を判定することができた。また、鮮度については、5℃と10℃貯蔵において、細菌数が107個/gに到達するのと同時にプトレシン、カダベリンが検出されたが、この時点では腐敗臭は感知されなかった。0℃では、貯蔵中に腐敗臭はしなかったが、乳酸菌と推定される菌が107個/gの菌数に達しているにもかかわらずプトレシン、カダベリンは検出されず、センサーによる鮮度評価を行うことができなかった。本センサーを用いて熟成終了と初期腐敗を検知することにより、5℃と10℃の貯蔵では牛肉の食味上最も好ましい期間の判定が可能であった。 第5章では食肉鮮度計測を高感度化するために化学発光フロー型プトレシンセンサーの開発を行った。酸素電極を用いたフロー型プトレシンセンサーでは、細菌数が107個/gに到達した時から鮮度低下を検知することができたが、さらに細菌数が少ない時にプトレシン、カダベリン濃度の測定が可能になればより厳密な鮮度管理を行うことができる。プトレシンオキシダーゼをカラムに固定化し、酵素反応で生成する過酸化水素を、ルミノール発光により測定した。検出器としては装置の簡易化のためにフォトダイオードを用い、高い発光強度を得るために、化学発光触媒としてArythromyces ramosus由来のペルオキシダーゼを用いた。食肉からの加熱抽出液中には化学発光を阻害する成分が含まれていることが明らかになったので、前処理として陰イオン交換樹脂による分離および限外ろ過を行った。本センサーを5℃で貯蔵した真空包装牛肉中のプトレシン、カダベリン濃度の測定に適用した場合、細菌数が106個/gを越えた時にプトレシンまたはカダベリンを検出することができ、それ以降細菌数の増加に伴ってセンサーの応答は増加した。従って、本センサーを用いることにより、酸素電極を用いたプトレシンセンサーよりも早い時点で食肉の鮮度低下を検知することが可能であった。 第6章では食肉鮮度計測用チラミンセンサーの開発を行った。第4章の結果から、乳酸菌が優勢菌になる場合が多い0℃前後の温度帯で真空包装牛肉を貯蔵した場合、プトレシンセンサーで鮮度判定ができないことが明らかになっている。そこで、細菌が生成するアミンの一種であるチラミンを測定するチラミンセンサーを製作した。本センサーは、Micrococcus luteusから分離、精製したチラミンオキシダーゼをカラムに固定化し、検出器として酸素電極を用いるフロー型センサーである。0℃、5℃、10℃に貯蔵した真空包装牛肉中のチラミン濃度の測定に本センサーを適用したところ、いずれの貯蔵温度においても細菌数が107個/gに到達した時点および腐敗臭が感知された時点以前にチラミンを検出することができ、チラミンセンサーが、真空包装食肉の貯蔵中の鮮度低下を評価するための装置として有用であることが示された。 第7章では、食肉の鮮度・熟成度計測用の接触型酵素センサーの開発を行った。これまで製作したセンサーでは、測定の際に肉から試料を採取し試料液を調製する必要があった。食肉の品質管理上最も望ましいのは全数、非破壊検査であるが、バイオセンサーによる食肉の直接測定はこれまで報告されていない。そこで食肉鮮度および熟成度を非破壊で測定することを目的とした接触型センサーの製作を行った。白金電極上にプトレシンオキシダーゼまたはキサンチンオキシダーゼを固定化し、肉中に存在する尿酸による妨害を防ぐためにナフィオン膜を酵素膜上に形成した。さらにナフィオン膜を保護するためにこれをポリカーボネート膜で覆った電極を製作し、これを作用極とした。また、銀/塩化銀電極を対極とした。電極先端部を試料表面に押し当てた後、印加電圧を300mVから600mVへ変化させ、ステップ直前と一定時間経過後における電流値の差を測定することにより、試料中のプトレシンとカダベリン濃度及びヒポキサンチンとキサンチン濃度を測定することが可能であった。接触型プトレシンセンサーを、5℃で貯蔵した真空包装牛肉中のプトレシン、カダベリン濃度の測定に適用したところ、鮮度低下を初期腐敗以前の段階で検知することができた。また、接触型キサンチンセンサーによる肉表面のヒポキサンチンとキサンチン濃度の測定値は、肉内部のそれらの物質を高速液体クロマトグラフィーで測定した値とは対応が見られず、接触型キサンチンセンサーによって熟成度を評価するためには、食肉表面におけるヒポキサンチンおよびキサンチン濃度と熟成度との関係について検討する必要があることが明らかになった。 第8章は総括であり、本研究を要約して得られた研究成果をまとめた。 |