学位論文要旨



No 213176
著者(漢字) 杉山,博美
著者(英字)
著者(カナ) スギヤマ,ヒロミ
標題(和) センチニクバエ レクチン(Sarcophaga lectin)の遺伝子発現機構の解析
標題(洋)
報告番号 213176
報告番号 乙13176
学位授与日 1997.02.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第13176号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 名取,俊二
 東京大学 教授 井上,圭三
 東京大学 教授 嶋田,一夫
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 助教授 鈴木,利治
内容要旨 1.序論

 近年、昆虫などの無脊椎動物の生体防御機構に関する研究が進展し、多くの生体防御分子が同定されている。センチニクバエでは、幼虫の体表に傷をつけるとSarcophagaレクチン(以後レクチンと略称)やザルコトキシンなどの生体防御蛋白の遺伝子が脂肪体で活性化され、これらの蛋白が体液中に分泌されて感染防御に働くことが示されている。これまでに当教室の小林らは、生体防御蛋白遺伝子の5’上流域に共通に存在するNF-Bモチーフに結合する59kDa蛋白を培養細胞から精製し、昆虫の生体防御蛋白遺伝子の発現制御が哺乳類の緊急応答遺伝子の発現制御に働くNF-B様の転写因子によってなされることを示唆した。しかしながら、脂肪体細胞内で傷の刺激がどのような情報伝達機構を介して、これらの生体防御蛋白遺伝子群を活性化するのかについては、ほとんど解明されていない。

 私は、幼虫脂肪体を昆虫用リン酸緩衝生理食塩水(BIS:Buffered Insect Saline)の中で培養するとレクチン遺伝子の発現が誘発されること、及び、2-mercaptoethanol(2-ME)がレクチン遺伝子の発現を特異的に抑制することを発見した。この事実を手がかりに、脂肪体細胞内でのレクチン遺伝子の発現機構の解明を試みた結果、レクチン遺伝子の発現には脂肪体におけるメチル基転移反応が必須な役割を担うことを見いだした。更に幼虫に傷をつけると、レクチン遺伝子の発現に先だって脂肪体でグルタチオンの代謝が誘導されて減少することを見出し、レクチン遺伝子の発現にはこのグルタチオンを消費する反応が重要であることを示唆した。以下、これらの知見について報告する。

2.脂肪体培養系におけるレクチン遺伝子の発現と、2-MEによる特異的な抑制

 私は、幼虫脂肪体を培養する際に昆虫用リン酸緩衝生理食塩水(BIS)を用いると、レクチン遺伝子の発現が誘導されることを見いだした。方法は、三齢幼虫から摘出した脂肪体をBIS中で2時間培養後、RNAを抽出し、レクチンcDNAをプローブとしてノザンブロット解析を行った。その結果、SarcophagaレクチンやザルコトキシンIA、IIAといった生体防御蛋白の遺伝子が発現しているのに対して、三齢幼虫で恒常的に発現している25-kDa蛋白の遺伝子発現には変動がみられなかった。この状態はin vivoで傷をつけた幼虫の脂肪体と類似しており、この単純なin vitroの培養系を利用して、脂肪体細胞におけるレクチン遺伝子の発現制御の解析が可能であると考えられた。

 次に、この脂肪体培養系におけるレクチン遺伝子の発現を抑制する物質をスクリーニングしたところ、2-mercaptoethanol(2-ME)がレクチン遺伝子をはじめとする、生体防御蛋白の遺伝子の発現を特異的に抑制すること、培養を開始してから30分後に2-MEを添加した場合は、もはやレクチン遺伝子の発現は抑制されないことが分かった。このことは、2-MEが脂肪体の培養開始後速やかに起こるレクチン遺伝子の発現に必須な反応を阻害しており、一度この反応が開始されると、2-MEはその後の過程を阻害しないことを示唆している。

3.レクチン遺伝子の発現に必須なメチル基転移反応の解析

 また、培地に添加した2-MEの変動を調べた結果、培養開始後、培地中の2-MEの濃度は急速に減少することが分かった。2-MEのような脂溶性チオール化合物は、細胞内でメチル化を受けて解毒代謝されることが知られている。私は、2-MEによるレクチン遺伝子発現の阻害機序としてまず、レクチン遺伝子の発現のためには、ある種のメチル基転移反応が不可欠であり、2-MEが脂肪体内で急速にメチル化されることにより、この遺伝子発現に必要な反応を含むS-adenosyl-methionine(AdoMet)を基質とするその他のメチル基転移反応を阻害した可能性に着目した。このことを検証するために、脂肪体におけるメチル化反応を阻害した際にレクチン遺伝子の発現が抑制されるかどうか検討した。

 方法は脂肪体培養系にadenosine(Ado)とhomocysteine thiolactone(HcyTL)を添加することによりメチル化阻害作用を持つS-adenosyl-homocysteine(AdoHcy)をin vivo合成させ、レクチン遺伝子の発現を調べた。その結果、脂肪体培養系にそれぞれ1mMのAdoとHcyTLを添加するとレクチン遺伝子の発現が完全に抑制されたが、Ado或いはHcyTLを単独で添加した場合は抑制されなかった。また、両者を添加した状態の脂肪体に熱刺激をかけると、レクチン遺伝子の発現は抑制されたままであるが、HSP70の遺伝子発現は誘導された。このことから、AdoHcyのin vivo生成によるメチル化の阻害はレクチン遺伝子の発現を選択的に抑制していることが示された。

 さらに、2-MEによって実際に、脂肪体蛋白のメチル化反応が抑制されているかどうかを、carboxyl methylesterのアルカリ分解を指標に測定したところ、1mMの2-MEの添加により対照の約1/2に低下し、1mMのAdoとHcyTLを添加したときは約1/4に低下することが示された。

4.傷の刺激によるグルタチオン代謝の誘導とレクチン遺伝子の発現への関与

 次に私は2-MEのもう一つの作用点として、2-MEが脂肪体における、ある種のチオール性分子の代謝を阻害することにより、レクチン遺伝子の発現を抑制した可能性を考えた。そこで、傷をつけた幼虫の脂肪体でバルクのSH含量が変動するかどうか調べた。方法は、三齢幼虫に傷をつけた後、経時的に脂肪体を摘出し、膜透過性のSH検出試薬である2,2’-dithiodipyridineで処理し、SH基との反応により生じる2-thiopyridoneの量を測定した。

 その結果、幼虫に傷をつけて30分後のレクチン遺伝子が発現する以前の脂肪体でSH含量はすでに30%低下することが分かった。このSH化合物を蛍光標識して逆相HPLCで分離したところ、大部分は還元型グルタチオン(GSH)の位置に回収された。このことから、傷をつけた幼虫の脂肪体では、還元型グルタチオンの含量が減少することが分かった。同様に、in vitroの脂肪体培養系においても、レクチン遺伝子の発現に先行してグルタチオン含量が30%程度減少することが示された。一方、脂肪体を2-MEで処理した際には、細胞内のグルタチオン含量が急速に低下して枯渇状態となり、2-MEを除去してもレクチン遺伝子が発現しないことが分かった。

 以上の結果から、レクチン遺伝子の発現には細胞内のグルタチオンが代謝される反応が必要であり、2-MEはグルタチオンを枯渇させることにより、レクチン遺伝子の発現を抑制した可能性が考えられた。そこでこの可能性を検証するために、2-MEで処理してグルタチオンを枯渇させた状態の脂肪体に、グルタチオン前駆体のアミノ酸を添加することにより、レクチン遺伝子の発現が回復するかどうか調べた。その結果、グルタチオン前駆体の添加により、細胞内グルタチオン含量が増加するとともに、レクチン遺伝子の発現が回復した。グルタチオン前駆体アミノ酸を添加しない脂肪体でも、熱刺激をかけるとHSP70の遺伝子は発現することから、グルタチオン前駆体はレクチン遺伝子の選択的な発現に必要であることが分かった。このことはレクチン遺伝子の発現に細胞内のグルタチオンの代謝反応が関わることを示唆している。

 脂肪体内で減少した還元型グルタチオンの行方を追跡した結果、酸化型グルタチオン(GSSG)に変換された可能性、また体液中に放出された可能性は否定された。しかしながら、BIS中でin vitro培養した脂肪体の培養上清には、チオール基の定量試薬であるDTNBと反応性を持つ還元性化合物が、減少したグルタチオン量に見合う量だけ放出されていることが分かった。

5.総括

 私は本研究において、幼虫脂肪体を昆虫用リン酸緩衝生理食塩水中でin vitro培養することにより、Sarcophagaレクチンなどの生体防御蛋白の遺伝子が自発的に発現すること、2-MEがこれらの遺伝子発現を特異的に抑制することを見出した。このことにより、傷をつけた幼虫脂肪体でレクチン遺伝子が活性化される過程をin vitroで模倣して解析することを可能にした。また、この培養系を用いたメチル化の阻害実験から、レクチン遺伝子の発現のためには細胞内のメチル基転移反応が必須な役割を担うことを示した。生体防御蛋白遺伝子の発現におけるメチル化反応の重要性をこのようにはっきり証明したのは、本研究が初めての例である。

 さらに、幼虫に傷をつけるとレクチン遺伝子の発現に先行して脂肪体の還元型グルタチオン含量が減少することを見いだし、2-MEを添加してグルタチオンを枯渇させた脂肪体にグルタチオン前駆体を添加する実験により、グルタチオンの代謝がレクチン遺伝子の発現に関与することを示唆した。

 近年、哺乳類の緊急応答性遺伝子の発現に関わるNF-Bの活性化に、細胞内グルタチオン含量が重要であるとするレドックス制御説が提唱されており、本研究により得られた知見は、比較免疫学的観点からも興味深い。

 また最近、当教室の林らは、傷をつけたセンチニクバエ成虫から、グルタチオンと-アラニルドーパが縮合した構造を持つ新規な抗菌物質5S-GAD(5S-glutathionyl--alanyl-dopa)を同定し、この化合物が細胞内で酸化されてO2ラジカルを産生することにより、それ自身が抗菌活性を発現するとともに、脂肪体におけるレクチン遺伝子の発現に必要なNF-Bの活性化を誘起することを示唆した。こうした知見を考えると、レクチン遺伝子の発現に際しては、まず脂肪体の還元型グルタチオンが動員され、5S-GADの生成と作用に至るプロセスを介してレクチン遺伝子の発現が誘起される可能性を指摘できる。今後、メチル化反応の標的分子や、グルタチオンの代謝反応の詳細を解析することにより、生体防御蛋白遺伝子の発現制御機構の理解が進むものと期待される。

審査要旨

 センチニクバエの幼虫の体に傷をつけると、様々な生体防御蛋白が誘導される。これらの蛋白の生合成部位は、主として脂肪体と呼ばれる組織で、この組織は哺乳動物の肝臓と腎臓の機能を併せ持っている。この論文は、脂肪体におけるこのような生体防御蛋白の一つ、ザルコファガレクチン(以後レクチンと略す)の遺伝子発現機構について解析したものである。

 まず申請者は、幼虫から脂肪体を取り出して生理食塩水中でインキュベートすると、レクチン遺伝子が活性化される現象を見出し、この遺伝子の発現をin vitroで解析するシステムを構築した。ついで、このシステムを用いて、脂肪体培養開始初期に2-メルカプトエタノール(2-ME)を添加するとレクチン遺伝子の発現は抑制されるが、培養開始30分後に2-MEを添加してもレクチン遺伝子の発現抑制が見られないことを示し、この遺伝子発現の初期過程に2-MEで阻害される反応があることを示唆した。ついで、この反応を二つの観点から追求した。

 第一の点は、2-MEが生体内で容易にメチル化され解毒されることに注目し、2-MEによるある種のメチル化反応の阻害が、レクチン遺伝子発現を抑制しているのではないかという観点である。生理食塩水中にアデノシンとホモシステインチオラクトンを添加し、メチル化反応の阻害物質であるS-アデノシルホモシステインを脂肪体の中で合成させて細胞内でのメチル化反応を阻害すると、レクチン遺伝子の転写のみが選択的に抑制され、熱ショック遺伝子の転写は全く影響を受けないことが示された。この事実から、レクチン遺伝子の転写の初期過程で、ある種のメチル化反応が転写に先行して起きる可能性が明らかになった。

 第二の点は、レクチン遺伝子の発現の初期過程にグルタチオン(GSH)が関与する反応の存在するという観点である。申請者は以前、レクチン遺伝子の活性化の前に、脂肪体内のGSHの量が30%ほど減少する事実を見出し、レクチン遺伝子の活性化にGSHが必要であることを指摘していたが、生理食塩水中に2-MEを添加すると脂肪体内のGSHの量が数分以内にほぼ0となることが明らかとなった。この事実から、2-MEによるGSHの急速な減少が、結果としてレクチン遺伝子の発現の抑制を引き起こしていると結論した。

 以上この論文は、昆虫の生体防御蛋白の遺伝子の発現に先行して、ある種のメチル化反応とGSHの代謝が必要であることを初めて明らかにし、生体防御機構の研究に重要な情報を提供したもので、博士(薬学)の学位に相当するものと判定した。

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