コメは、消費量が減ったとはいえ、依然として日本における主要食糧であることに変りはない。コメの貯蔵にともない、食味や風味、物理性の変化等の「古米化」現象が生じるが、この品質劣化に脂質の分解が関与していると指摘されている。不飽和脂肪酸よりリポキシゲナーゼ(LOX)の作用で過酸化化合物が生成されるが、それが分解して生じた揮発性低分子化合物が古米臭の原因として考えられている。そこで本研究では、このポストハーベスト側の問題に対して、プレハーベスト側から、「種子の脂質を酸化する酵素(LOX)を欠いたイネ品種を作出することにより、コメの品質保持、貯蔵性を向上」させる試みを行った。そのために、まずコメ(イネ種子)における主要なアイソザイムであるLOX3を、少量の材料の中から簡易に検出する方法の開発を行った。次に種子のLOX3を欠くイネ品種のスクリーニングを遺伝資源材料を対象として行い、品種間交雑F2種子等を用いて、LOX3欠失性の遺伝的な特性を解明した。更に、LOX3が欠けた品種のヌカ脂質の酸化安定性を貯蔵試験により解明した。また、登熟時および発芽時におけるLOXの生合成について解析を行い、最後に種子のLOX3が欠けた品種の育種上の価値と問題点について考察を試みた。得られた結果は以下の通りである。 (1)リポキシゲナーゼ3に特異的な抗体の作製 種子のLOX含量は少ないため、大豆の場合のようにSDS電気泳動のみによる検出は不可能である。そこで、イネ種子のLOX活性の80%以上を占める、主要なアイソザイムであるLOX3を、種々のカラムクロマトグラフィーを利用して胚芽より部分精製した。これを抗原とし、モノクローナル抗体(mAb)を産生する3種類のハイブリドーマを選抜した。イムノブロッティングによる解析からLOX2に対する交差反応性が異なること、抗原決定部位に差異が認められること、そして酵素活性の免疫学的除去に関する反応に差があることより、異なるmAbが得られたことが明らかになった。mAbの特異性および有効性を検討するために、抗体カラムを作製しLOXの精製を試みたところ、LOX活性の収量は出発材料の22%であったが、1段階の操作で比活性は400倍以上に高まった。 (2)リポキシゲナーゼ3が欠けたイネのスクリーニング 種子のLOX3が欠失したイネ品種を作出するための交配親を、農水省・農業生物資源研究所のジーンバンクにある"遺伝資源"に求めた。mAbを検出試薬として定性的なスクリーニングを行い、タイの在来陸稲モチ品種であるDaw DamをLOX3欠失品種として見いだした。Daw DamのLOX3含量はコシヒカリのそれの10分の1以下であること、コシヒカリでは検出されるLOX活性がDaw Damでは検出限界以下であることが明らかになった。また、DEAEカラムクロマトグラムの結果から、コシヒカリに存在するLOX3活性がDaw Damには存在しないことが明らかとなった。これらの結果はDaw Damの種子ではLOX3が欠失していることを示している。 成分育種が成功するかどうかは、目的とするものを検出が可能かどうかに依存する。微量な成分の場合には、本研究で適用した抗体を用いたタンパク質の検出方法は、有効な手段になると考える。そして、ジーンバンクに保存されていた系統の中よりLOX3が欠けたイネが見つかったことは、遺伝資源収集、ならびに収集した遺伝資源の特性解明が極めて重要であることを示している。 (3)リポキシゲナーゼ3が欠けた特性の遺伝的な解析 種子のLOX3が欠けている特性が育種的に利用可能かどうかを明らかにするために、日本晴/Daw Damの品種間交雑F2種子を分析したところ、LOX3の有:無=73:27、LOX3の有:無が3:1に分離する仮定に対する確率は0.6以上であった。従って、LOX3は単一遺伝子により支配され欠失性は劣性であると考えられた。また、他の交配組み合わせDaw Dam/日本晴、Daw Dam/ササニシキ等の結果もこれを支持していた。更に、Daw DamとLOX3をもつ系統から得たF1種子ではLOX3は存在し、日本晴とDaw DamのF1に対してDaw Damを戻し交配して得たB1F1種子においてLOX3の有無が1:1に分離した。こうして、LOX3遺伝子は単一遺伝子に支配され、欠失型は劣性であり、LOX3の欠失性に関する育種が可能であることが明らかになった。 (4)リポキシゲナーゼ3欠失イネのヌカ脂質の酸化安定性 種子のLOX3が欠失したイネの育種素材としての有用性を明らかにするために、Daw DamとLOX3をもつ対照品種(コシヒカリ、こがねもち)のヌカ・胚芽画分を用いて貯蔵試験を行い、種子のLOX3が欠けている特性と、ヌカ・胚芽画分中の脂質の酸化的安定性が関係しているかどうかを検討した。遊離脂肪酸(FFA)含量は貯蔵にともない増大したが、LOX3の基質となる遊離のリノール酸の比率や含量はDaw Damでは対照品種と同じレベルにあった。Daw DamのPOV(不飽和脂肪酸の過酸化物の指標)は貯蔵にともない増大したが、値は対照品種よりも低く推移した。また、脂質過酸化物が分解して生成するアルデヒドやケトン類の含量を示しているCOVは、Daw Damにおいて対照品種よりも小さい値を示した。他のアイソザイムによる、ないしは非酵素的な過酸化反応は、これらの品種間差には影響しないと推定されるので、種子のLOX3が欠けたDaw Damのヌカ画分は、LOX3を有する品種よりも貯蔵中の脂質の酸化安定性が高いと考えられる。このことは、LOX3が欠けた特性がコメの貯蔵上有用である可能性があることを意味する。 (5)登熟時と発芽時におけるリポキシゲナーゼの生合成 コシヒカリでは完熟種子の籾殻や胚乳にLOXは存在せず、ヌカ・胚芽画分に存在すること、開花後10日目以降よりLOX3が認められることが明らかとなった。それに対して、完熟種子でLOX3が欠けているDaw Damでは登熟過程を通じてLOX3の存在が認められないことが明らかになった。イネ種子では発芽後にde novoなLOXの活性増大が生じることが報告されているが、発芽3日目以降のコシヒカリならびにDaw Damで、LOX3の他にLOX2がイムノブロッティングにより検出された。両品種とも両LOXの含量は急激に増大した後、減少する経時的な変化を示した。両品種の芽生えの抽出液に認められ、ヌカ画分の場合と比較して高いLOX活性は、高いLOX2の活性と低いLOX3の活性に起因することがDEAEクロマトグラムによる解析から明らかになった。このようにDaw Damでは登熟時から完熟時における種子のLOX3が欠けているが、発芽時にはコシヒカリと同様にLOX2やLOX3が生合成されることが明らかとなり、LOXの生合成が発芽に何らかの生理的な役割をしている可能性が示された。 (6)今後の問題点 以上のように、種子のLOX3が欠失したタイ品種Daw Damが見いだされ、種子LOX3の欠失性は単一の劣性遺伝子に起因することが明らかになった。Daw Damではヌカ中のLOX3活性は認められず、貯蔵したヌカ画分中の脂質の酸化安定性は高い結果が得られているので、種子のLOX3欠失に関する育種は有用と考えられる。しかし、貯蔵試験はヌカでの結果であり、玄米でどのような脂質酸化が生じているか、揮発性化合物は減少するか等、解明・解決しなければならないことも残っている。また、Daw Damはジャバニカないしは熱帯日本型と呼ばれるイネで、日本の近代的な品種と異なる不良特性をもつ品種である。そこで、種子LOX3が欠けた日本型品種や準同質遺伝子系統の作出を試みている。種子LOX3の有無についてのみ異なるこれらの系統を用いれば、更にLOX3欠失の貯蔵性に与える影響が正確に評価され、種子のLOX3欠失の意義が明らかになるものと考える。 より簡単な選抜方法の開発も今後の課題である。現在の種子LOX3の検出方法では胚芽を分析に使用してしまうため、LOX3欠失と判明した分析種子を圃場に展開することはできない。そこで、トリソミックF2種子の分析を行うなどして知見を蓄積し、少しでも簡易な選抜方法を開発する必要がある。 |