本論文は、敗戦直後から講和条約及び日米安全保障条約成立にいたる時期の占領下の日本の政党政治を日本の政党政治を日本社会党に焦点を置いて分析したものである。本論文は次のような三つの独自の視角から対象に接近する。第一は、同時期の政党間関係を分析するに際して、政党・労働組合・経済団体の相互関係を視野に入れ、政党政治の社会的基盤とその変動を明らかにしようとしている点である。特に社会党を与党とする片山・芦田両連合政権を存立させた社会的基盤の消長の解明に力点が置かれている。第二は、この時期の政党政治の最重要課題が経済復興であったことから、経済政策を争点とする政党政治の分析を試みている点である。著者は、同時期の社会党の最大の特色をその独自の経済路線に見出し、その形成に貢献した社会党系知識人(特に有沢広巳)の役割を重視している。第三に社会党の経済路線が外資導入に積極的な国際性をもったものであったことに着目し、経済路線と外交路線との関連を分析しようと試みている点である。特に経済路線における対米協調志向が外交路線をも貫いていた初期の社会党が、朝鮮戦争勃発後、経済路線の変化と共に外交路線においても変化していく過程が分析される。 第一章「経済復興への政治的対応」においては、一九四六年四月の戦後最初の総選挙から一九四七年四月の総選挙を経て片山内閣成立にいたる政治過程を、片山内閣の経済路線とそれを支持する社会的基盤の形成過程に即して明らかにすることが試みられている。まず戦後最初の総選挙において第三党となった社会党に対しては、第一党の自由党、第二党の進歩党の双方が連合を求め、社会党は政策的にも、戦時下の政治に対してとった立場からも自由党に対してより好意的であったが、党内には共産党との提携を求める意見も強く、社会党の連立参加は実現せず、結局保守連立政権としての第一次吉田内閣が成立した。当時の社会党には左右両派を問わず、政治の動因として基本的な「階級対立」を重視する立場が強く、共産党を排除した連立政権への参加には全党的に抵抗感があった。 ところが第一次吉田内閣の下で社会党は現政権との実効的な政策対立(特に経済路線をめぐる対立)を重視する立場を強めていく。そしてそのような社会党の方向づけに大きな影響力を及ぼしたのが一九四六年八月に成立した日本労働組合総同盟(総同盟)である。戦前の旧総同盟の遺産を継承した戦後の総同盟は、戦前の旧総同盟の団体協約締結運動やそれを前提とする産業協力運動を源流とする労働協約締結による経営協議会の設置とそれを通しての労働者の経営参加(「産業民主化」)を目指すとともに、「高能率生産」に基づく生産復興を労働組合運動の目標として掲げた。これは主導権を握った総同盟右派の主張であっただけでなく、左派の主張でもあったのであり、左派は率先して労働者のイニシアティヴによる産業復興運動を提唱するとともに、そのための組織として企業レベルの経営協議会を基盤とする全国レベルの労使協力組織の創設を提案した。 このような総同盟(特に左派)の産業復興運動路線は社会党に大きな影響力を及ぼし、第一次吉田内閣の石橋財政に対決する政策路線として定着していく。石橋財政は積極的な資金散布によって遊休生産要素を動員し、生産活動再開を図ろうとしたが、インフレを昂進させる一方で、拡大再生産につながらなかった。特に新円発行とそれに伴う引出し制限によって一時鎮静していたインフレが一九四六年一〇月以降再昂進し、共産党系の全日本産業別労働組合会議(産別会議)による激しい労働攻勢が展開される状況において、生産復興を至上目的とする社会党・総同盟の政策路線への期待は、中間諸勢力のみならず、経済界においても拡大していったのである。 社会党・総同盟の政策路線は、一九四六年一二月の総同盟、経済同友会を中心とする労使協力組織「経済復興会議」の結成準備大会(正式の結成大会は翌年二月)をもって結実する。これを通して労使双方は「経済復興」という共通の目標を掲げるとともに、その目標に向けて「高能率高賃金」について合意し、それぞれ経営権と労働権とを相互に承認した。また農業団体の間からも、社会党(特に左派)が主導権を握っていた日本農民組合がイニシアティヴをとり、農業復興運動が起こり、一九四七年六月には七五団体によって農業復興会議が結成された。さらに当時総同盟に勝る組織労働者をもつ産別会議の経済復興会議への加入を経営者団体側も希望したため、経済同友会と産別会議との間で協議が行われ、産別会議もまた経済復興会議に参加することとなった。こうして経済復興会議には主要労組と主要経済団体が網羅され、労使対等同数原則が貫かれた。議長に社会党の鈴木茂三郎(社会主義政治経済研究所長)、副議長に三鬼隆日本製鉄社長、桜田武日清紡社長らが就任していることからも経済復興会議の性格を読み取ることができる。当時経営者や経済団体幹部の間では、次期政権としての社会党単独政権への期待度は、自由党単独政権へのそれとほぼ雁行していた。 第一次吉田内閣に対して社会党は一方で国会の内外で倒閣運動を試みながら、他方で政府側からの呼び掛けに応じて連立交渉を行った。政府側は石橋財政を修正し、社会党左派と密接な関係にあった有沢広巳(首相の私的諮問機関である石炭小委員会委員長)の提案による傾斜生産方式を採用した後、それを実施するに当って炭坑労働者の労働時間延長を含む協力を得るために社会党との連立を図った。自進社三党連立は成らなかったが、社会党は新憲法下の最初の総選挙に当って石炭・鉄鋼を超重点産業とする傾斜生産方式を採用し、併せて経済安定本部とともに経済復興会議を経済計画の中心に据えた「経済危機緊急突破対策」を発表した。それは「社会主義的政策」として意味付けられた。しかもこれと相前後して社会党と政策において提携し得る保守新党として自由党を離党した芦田均を擁立する民主党が結成された。一九四七年四月の総選挙の結果として成立した片山内閣は、生産復興を至上目的とする「社会主義的政策」を反映した四党政策協定を政策的基礎とし、労使協力組織である経済復興会議を社会的基盤として発足したのである。 第二章「片山内閣の成果と限界」においては、一九四七年六月に発足した片山内閣の八ヵ月余の現実がその基本的な政策路線(特に経済路線)との関連において分析される。政府支持勢力の中核である社会党・総同盟の経済路線は、労使協力と国家介入(経済統制)による日本経済の自力再建であった。そしてそれを前提として外資導入を図り、高い生産性と国際競争力をもつ近代的な日本経済を建設することを目標とした。社会党・総同盟が労働組合にまず求めたものは経済再建の主導的役割であり、賃上げ要求に対しては実質賃金を重視する立場をとり、名目賃金に対してははむしろこれを抑制した。 社会党の経済政策を主導したのは鈴木茂三郎を中心とする左派であり、大内兵衛、有沢広巳らいわゆる労農派マルクス経済学者が参加した社会主義政治経済研究所がその拠点であった。当時左派が社会党内で重きをなした有力な要因の一つは、経済政策の立案能力であった。 社会党・総同盟の経済路線は総司令部(特に経済科学局)の強い支持を受けた。米国は対日援助の前提として強力な経済統制を伴う労使協力による自力再建の努力を日本側に要請していたが、社会党・総同盟の路線はこれと合致していた。「非軍事化」から「経済復興」へという対日占領政策の方向転換も社会党・総同盟の路線と決して矛盾するものではなく、むしろ社会党はこれを支持した。社会党にとって日本経済のモデルはアメリカ経済であったのであり、アメリカを中心とする開放的な多角的国際経済秩序の中にいかに参加していくかが日本経済の基本的課題とされたのである。 しかるに生産増加を最優先し、インフレ昂進の中で賃金を相対的に低く抑えようとする片山内閣の政策路線は、次第に労組の支持を揺るがした。政府は公定価格による配給物資の増加によって実質賃金の引き上げを図り、状況に対応しようとした。しかし石炭と鉄鋼に集中する傾斜生産方式の下で生活物資、とくに食糧の配給は停滞し、実質賃金の確保はきわめて困難であった。結党以来消費組合の組織促進を掲げてきた社会党が生活協同組合の活用・発展を図り、生活協同組合法の制定に努力したのも、実質賃金対策の意味があった。しかし産別会議は賃金ベースの改訂を求めて離反し、政府の賃金政策に対する不満は総同盟にも拡がっていった。労組の支持の低下は、経済復興会議による生産復興運動をも失速させた。結局片山内閣は生産増加によって物価政策と賃金政策とを両立させようとしたが、それに失敗し、公務員に対する生活補給金の財源を鉄道・通信料金の大幅値上げに求めるか否かの問題をめぐって、野党のみならず与党社会党の一部の反対をも惹起し、退陣したのである。 第三章「外資導入問題と安定化問題」は、外資の受入態勢の問題、及びインフレの安定化政策とそれに関連する賃金統制の問題を取り上げ、芦田内閣期及び第二次吉田内閣期において、社会党を与党とする連合政権を支えた労使協調組織に亀裂が生じ、その修復が困難になっていく過程を分析している。まず外資導入の是非をめぐって、これに反対する共産党・産別会議とそれを支持する社会党・総同盟との間の対立が深刻化した。その背景には冷戦の進展に伴う米国の対日占領政策の転換とそれに対抗する共産党の「民主民族戦線」戦術があった。一九四八年四月総同盟は産別会議などの共産党系労組を排除するために経済復興会議の解散のイニシアティヴをとり、経済同友会をはじめ経済団体もこれに同調した。しかし経済復興会議の解散後、総同盟等の労組と経済団体は経済復興会議に代る新しい労使協力組織結成について対立した。経営者側は外資受入態勢を整えるために、企業の整備と合理化の観点から労組活動の抑制を求めたからである。同じ時期に日経連が結成され、外資導入のために「経営権」の確立の必要を訴えたのはその顕著な例であり、同友会もまたそれに同調した。与党民主党や経済団体からは与党三党の政策協定によって排除されていた労働法規改正が唱えられ、一方で民主党の民主自由党への政策的接近が見られるとともに、他方で労使分離の傾向が漸次拡大していったのである。 労使及び社会党と民主党を含む保守政党との間の政策距離をさらに拡げていったのは、インフレ安定化政策との関連で論じられた賃金統制の問題である。芦田内閣発足後米国側は外資受入態勢の一環としてインフレ収束のための賃金直接統制を日本側に指示し、経済安定本部は海外援助、特に食糧援助によって当面の国民生活の安定を確保した上で賃金統制を行い、インフレを緩和することによって「中間的な経済安定」の実現をめざす「中間安定論」を打ち出した。経団連、日経連等の経済団体も融資や補助金の規制を伴うことが予想される間接統制を排し、直接統制の必要を強く主張した。社会党・総同盟は賃金統制は生産復興を阻害するものとしてこれに強く反対し、安定通貨としての金円の採用と単一為替レートの設定によってインフレの一挙安定化をめざす通貨処理案を提示したが,これに対しては民主・民自両党及び経済団体が通貨の信用を失わせるものとして激しく批判した。結局芦田内閣は総司令部からのたびたびの指示にもかかわらず、賃金統制を実現することはできなかった。 社会党・総同盟と保守政党・経済団体の力関係に決定的影響を与えたのは、国家公務員法改正を指示した一九四八年七月二二日付の政府に対するマッカーサー書簡である。賃金のベース・アップを求める官公労組の夏期攻勢に対するこの総司令部の措置を受けて、政府は七月三一日付で公務員の団交権・争議権を否認する政令二〇一号を公布した。これは官公労組運動に一大転換をもたらし、その影響力を大幅に減殺するとともに、保守政党・経済団体の社会党・総同盟に対する政治的経済的依存度を低下させた。また共産党や共産党系労働組合への対抗力としての社会党や労働組合民主化運動に対する総司令部の支援は弱まらざるをえなかった。昭和電工疑獄の政府・与党の中枢への波及による芦田内閣の崩壊は、後退する社会党への追撃となった。 第二次吉田内閣の下で一九四九年一月に行われた総選挙によって与党民自党は単独過半数を獲得し、民主党連立派と組んで第三次吉田内閣を発足させたが、経済安定九原則に基づく超均衡予算を志向するドッジ・ラインの下で社会党・総同盟が反対してきた賃金統制が事実上強力に行われた。このような状況の中で総同盟は同年四月経済復興会議に代る労使協力組織として「経済再建中央会議」の設立のイニシアティヴをとった。総同盟はこれを通して日本経済の近代化のための「社会主義的復興計画」の実現を期したが、経済復興会議と比較すると、共産党系労組の排除と経営者の参加の減少によって組織基盤は大幅に縮小された。社会党は党勢回復のために、いよいよ総同盟をはじめ「民主化運動」派労組との関係を密接化し、一九四九年四月の党大会以降党内における労組の発言力は格段に増大したのである。 第四章「経済復興からの方針転換」は、ドッジ・ラインの下で、社会党・総同盟は、従来からの「生産復興」を最優先する経済路線に基づいてドッジ・ラインの緩和を求める政策によって労使協力や野党協力を維持しようとしたが、ドッジ・ライン緩和の一環としての賃上げ要求や、朝鮮戦争勃発後の「日米経済協力」問題、さらに講和問題をめぐって労使協力や野党協力が崩れるとともに、講和条約・安保条約をめぐる社会党内の対立が顕在化し、ついに社会党が分裂にいたる過程を分析する。社会党・総同盟はドッジ・ラインによるデフレ政策に対して、これを緩和するディスインフレ政策を主張した。具体的には対外輸出力の増大のための対外援助見返資金の産業への投下、為替レートの切下げ、アジア・オセアニアを対象とする貿易に関する「アジア経済復興会議」構想等を唱えた。このようなディスインフレ政策には経済団体も同調し、経済再建中央会議がドッジ・ライン緩和のための労使協力組織となった。経済再建中央会議は、電源開発、国鉄電化、労働者用住宅建設等のドッジ・ラインに対立する積極的な生産復興路線を掲げ、これが労使協力のみならず、野党協力の政策的基礎となった。 ところが総同盟は官公労組が中心となって、ドッジ・ラインの緩和のための優先目標を賃上げに移していった。ドッジ・ラインの下で生産が強度に抑制されていたことから、生産の増大に見合って賃上げを求めるという総同盟の従来の路線の維持が困難になったのである。経営側は賃金ベースの改訂に反対し、政府を督励するとともに、「経営権」を主張して労組法改正によって可能となった労組に有利な労働協約の破棄、人員整理など労働側への攻勢を強め、労使対立が深まった。 さらに社会党・総同盟は経済復興の対外的条件を重視し、対米経済関係を補完するものとして中国貿易の重要性を強調する。そしてそれとの関連で全面講和論を唱える。当時中国貿易論は財界(特に関西財界)にも支持があり、全面講和論についても国民民主党(民主党野党派、国民協同党、その他が合流して一九五〇年四月に結成された政党)との野党協力が可能であった。 しかるに一九五〇年六月に勃発した朝鮮戦争は戦後日本政治の一大転換点となった。社会党は国連による秩序維持を支持しながらも、日本の戦争介入に反対し、一九四九年一二月に決定した全面講和・中立・軍事基地反対の平和三原則に再軍備反対を加えて平和四原則を打ち出した。一九五〇年七月に非共産党系労組の戦線統一のために結成された日本労働組合総評議会(総評)も平和四原則を基本方針とした。その間社会党内には多数講和や自衛力強化を主張する右派の台頭によって対立が生じた。社会党と野党協力を維持してきた国民民主党は、全面講和論と中立論を放棄し、「自主的自衛力の整備強化」を打ち出すことによって社会党と一線を画するとともに、政府与党に接近した。 また経済路線についても、社会党・労組と経営側との意見の対立が顕在化し、中国貿易論については経営者側は漸次否定的となり、これをめぐって経済再建中央会議における労使協力に亀裂が生ずるとともに、集団安全保障の一環として日米両国の経済を緊密化させようとする米国側の「日米経済協力」計画についても、これに積極的な経営側とそれに反対する社会党・総評との対立が生じた。経済再建中央会議において労使間で議論された朝鮮戦争問題・講和問題について労使間の合意が成立しなかったことはいうまでもない。こうして朝鮮戦争勃発後経済再建中央会議は活動を停止した。 この頃から社会党・総評に対する有沢広巳をはじめとする政策志向の経済学者グループの影響力が低下し、それに代って一九五一年春に結成された社会主義協会を拠点とする山川均や向坂逸郎らの「思想運動グループ」や全面講和論を唱えた平和問題談話会の知識人たちの影響力が強まった。これに対抗して社会党内には右派・中間派によって民主社会主義連盟が結成された。こうして社会党は講和条約への賛否の問題をめぐって一九五一年一〇月の党大会において左右に分裂するのである。朝鮮戦争前において社会党や社会党主導の連合政権を支えた社会的基盤及び政策的基礎は朝鮮戦争の過程で崩壊し、日本の政治は保守勢力支配の新たな段階に入るのである。 以上が本論文の本体部分の要旨であるが、本論文は補論として本論文のキー・パーソンであり、経済復興という敗戦日本の最大の政治課題について社会党のみならず保守政権に対しても政策的基礎づけと方向付けを与えた経済学者有沢広巳を取り上げ、その政策立案について論じている。 本論文の長所は次の通りである。第一に本論文は従来の多くの研究のように占領期の日本政治に占領軍の側から光をあて、日本側を占領軍の影として分析するのではなく、日本側の政党、労働組合、経済団体等を占領軍から独立した主体としてとらえ、占領軍を含めたそれらの相互関係の展開を分析している点である。この分析を通して、占領期の政治が米国の対日占領政策によって一方的に規定されたのではなく、日本側の諸主体のさまざまの連合が政治の動向を左右する重要な要因であったことが実証的に明らかにされている。本論文は占領期の日本政治についての数少ない本格的な研究の成果として評価することができるものである。 第二に本論文は日本側の諸主体の中でも日本社会党に焦点を置き、占領期における社会党の独自の政治的役割を明らかにすることによって、従来の自民党に連なる保守政党に焦点を置いた研究とは異なる角度から占領期の日本政治の新しい全体像を提示している点である。特に社会党については、政党間関係だけでなく、労働組合、農民組合、経済団体、さらに経済復興会議や経済再建中央会議のような労使協力組織との関係を重視し、同時期の社会党及び社会党主導政権の社会的基礎を明らかにした点に重要な貢献を認めることができる。 第三に本論文は同時期の社会党の経済政策に着目することによって、労働組合や農民組合だけでなく、経済同友会をはじめ経営者側や民主党系勢力にも及ぶ幅広い支持をかちえた社会党の政策的基礎を明らかにしている点である。傾斜生産方式をはじめ生産復興に最重点を置き、生産手段の社会化による資本蓄積と労働者の経営参加(その意味の労使協力)を強調した社会党の基本路線は、インフレを前提しながら、積極的な資金散布によって生産のみならず消費を含む経済全体の活性化を図ろうとした第一次吉田内閣の石橋財政に対置されうるものであった。しかもそれは貿易や金融の自由化を前提とする多角的な国際経済秩序の中に日本経済を位置づける対外開放的な展望をもつものであり、いわゆる「社会主義統制経済」の閉鎖的性格をもたなかった。このような社会党の経済政策が左派とそれに連なる労農派マルクス経済学者のグループによって策定されたものであったことの指摘は、占領期の社会党左派が現実に果たした政治的役割について再考を促すものである。 本論文にも短所はある。第一に占領期の政治を対象としながら、経済政策をめぐる政治過程に重点を置いた反面で総選挙や政変の分析が必ずしも十分に行われたとはいえない。さらにこれに関連して、経済政策そのものの分析に比して、現実の経済状況の分析がこれに十分に伴っているとはいえない。総じて視野が各組織の指導者間のディスコースに限定され、政治の根底にある社会の現実への言及が少ない。第二に社会民主主義者や労働組合の政策及び運動における戦前と戦後との連続を指摘しながら、これについて必ずしも十分な説得力をもった説明が行われているとはいえない。一九三〇年代の社会大衆党や総同盟(特にその周辺の左派勢力)と戦後の社会党や総同盟との政策及び運動のレベルにおける歴史的関連について、より具体的な説明がなされるならば、生産復興を至上目標とする路線をもって社会党や総同盟が登場しえた必然性を明らかにしうるであろう。 しかし以上のような短所は本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は全体として占領期の日本政治について斬新な解釈と重要な知見とを提示し、戦後日本政治史研究を少なからず前進させたと評価することができる。したがって、本論文は、博士(法学)の学位にふさわしい内容と認められる。 |