本論文は、「広告(商品の品質に関する情報提供だけでなく購買を誘引する機能をも含むすべての表現)を信頼して有体動産たる商品を購入(売買契約を締結)したが、広告(又はそれを構成する個々の言明)の内容が事実と相違していたため(不実広告)、その商品が期待した品質の物ではなかった(商品性の欠如)という損害(財産的損害)を買主が受けた場合において、広告主(製造者・小売業者・流通業者、このうち特に前二者)は、いかなる根拠に基づき、どのような要件の下に、損害賠償責任(以下、単に責任と呼ぶ)を負うか」、というテーマを扱うものであり、「序章」・「第1章 日本法」・「第2章 ドイツ法」・「第3章 アメリカ法」・「第4章 理論構成とその要件・効果に関する提言」の五章から構成されている。 まず著者は、序章において、問題意識の提示及び考察対象の限定を行う。すなわち、商品購入(特に消費者によるもの)の際に広告が重要な役割を果たしているにも拘らず、広告主の責任を扱った数少ない判例・学説はそれを認めるのに消極的であり、かつ学説においては、理論的・体系的にこれを扱うものがほとんど見当たらないことを著者は指摘し、冒頭に掲げた命題に考察対象を限定しつつ、広告主の責任を認めるための法律構成の探求を試みることを明らかにする。そして、探求に当たっては、日本法の解釈に深い影響を与え続けてきたドイツ法と、これと全く法理を異にするアメリカ法とを、日本法との対比の上で適切だとして選んでいる。 第2章は、日本の判例・学説の検討に当てられる。広告と責任との関係についての数少ない判例を素材としつつも、判例法理がはほぼ次のように要約される。--契約の解釈にあたっては契約締結に至る事情も考慮されるから、広告を信頼して売買契約が結ばれた場合には広告の内容も契約の内容となることがあると認められ、したがって、商品の品質が広告の内容よりも劣っていれば、債務不履行または瑕疵担保の責任を追及する可能性が買主に与えられる。この点については学説にも異論なく、したがって問題は、いかなる要件の下に広告が契約の内容となるか、にある。広告に関する判例法理において特徴的なのは、広告で表示された品質が数量等の動かしようのない事実(例えば一時間当たり四俵を搗くことの出来る籾すり臼)である場合には、商品性の欠如を客観的に判断し得るとして、広告への信頼があればそれは契約の内容になると解している点である。しかし、これ以外の場合には責任追及は困難であり、一般に学説も同旨と見られる。しかも、契約上の責任の追及が可能なのは、契約が存在する場合に限られるのに、現在の広告主の重要な大部分を占めるのは製造者であるから、この判例学説に従っている限り、製造者たる広告主に対する責任追及は不可能である。そこで、製造者に対する責任追及の道を開く必要がある。 こう述べて、著者は、広告主たる製造者に対する責任を論じる数少ない学説を、契約責任的構成(商品の製造者と最終購入者との間には「契約の連鎖」があることを根拠とするもの、売買法理に代わる「品質保証の法理」により責任を認めようとするものなど)に基づくものと不法行為的構成に基づくものとに分けて紹介し、分析する。著者が着目するのは、「品質保証の法理」に拠る説であるが、この説には、広告に対する信頼を問題としないなどの点で疑問があると述べ、また、不法行為的構成に立つ学説に対しては、不実広告が不法行為の要件(特に違法性と因果関係)を満たすことは一般に困難であると論じる。こうして、どの説に疑問を感じる著者は、広告に関する責任法理を尋ねて比較法的考察へと赴くのである。 ドイツ法を扱う第2章は、まず、広告と瑕疵担保との関係を検討する。ドイツ民法は、売買目的物の性状の「欠点(Fehler」」があったときと「保証(Zusicherung)」された品質の欠如があったときときとに分けて規定するので、この問題は、「欠点」概念及び「保証」概念の解釈・適用に帰着するとして、両概念に関する判例・学説とその変遷とが詳細に紹介された後、結論として次の諸点が指摘される。--初期の判例は、「欠点」を物理的性状との不一致と限定的に解したため広告が「欠点」と解される余地はなく、「保証」概念も後述のとおり制限的に解されたので、広告に基づく瑕疵担保法理にはみるべきものがない。その後、判例の大勢は、「欠点」の解釈を拡大したので、広告も「欠点」たり得ることとなり、通説もこれに同調する。「保証」の要件は、判例によれば、品質の表示が契約の内容となったこと、品質の不存在から生じた結果についての責任を負担する意思を表明すること、である。広告がこの「責任負担の意思」の表明と解されることはあり得ないので、「保証」概念を通じての責任追及の道は閉ざされている。尤も、一部の判例は、取引慣行・商品の特質・買主の信頼等を考慮して「黙示の保証」を認め、広告による責任への道を開いている。これに同調する学説は存在するものの、通説はこれに批判的である。 次に著者は、瑕疵担保責任の追及以外の法律構成による責任追及の方法を論じて次のように述べる。--不法行為による責任追及は、ドイツ民法の不法行為の要件が狭いために、823条2項にいわゆる「保護法規」違反によるしかない。不正競争規制法は、不実広告を誘因として締結された契約を解除する権利を消費者に与えているので、その規定を同項の「保護法規」と解して損害賠償請求権を認め得るかが問題となるが、判例は、商品の買主については、これを否定する。学説では、不法行為的構成よりも契約法理に近い「積極的債権侵害」・「契約締結上の過失」・「準契約責任的保証責任」等の概念に依拠して、責任を肯定しようとする見解が主張されているが、まだ確立されたものはなく、今後の動向が注目される。 第3章は、アメリカ法における契約法上の「保証(warranty)」違反の法理を中心に扱う。「保証」違反とは、契約の成立過程における商品の品質等に関する売主の言明(明示の保証)と事実との不一致により生じた損害の救済手段であり、広告の内容をなす言明も含まれると解されているので、広告は「保証」違反による救済の対象となり得るからである。 「保証」違反の法理の展開過程についての著者の記述を要約すれば、ほぼ次の如くである。--アメリカ法は「買主、注意せよ」の原則をイギリス法から引き継いだため、「保証」違反による賠償請求が認められるには、「保証する」旨を明言することが要件とされ、したがって、不実広告が「保証」違反となることはあり得なかった。その後判例法は「保証」の「意図」があれば足りると解するようになり、さらに実質的にはそれをも不要とするようになったので、広告を「保証」違反として扱う余地が生じた。1906年の「統一売買法(Uniform Sales Act)」.以下、USAと呼ぶ)は、(1)買主の購入の誘因となる確言又は約束、(2)それに対する買主の信頼、の二つが「保証」の要件と定めた。そこで、(1)については、いかなる基準によって、いわゆるセールス・トーク(puffing)と区別すべきかが問題とされ、各種の判断基準が判例によって形成された。。(1)は、USAに代わる現行の「統一商事法典(Uniform Commercial Code)」.以下、UCCと呼ぶ)に受け継がれたが、これに対して(2)は、UCCにより、(3)「(確言等が)取引の基礎(a basis of the bargain)の一部」をなすこと、という要件に改められた。その結果、(3)の解釈を巡って判例は多岐に分かれている。学説も極めて多様であって確立された見解はまだ見当たらないが、買主保護の理念を一層推し進め、広告の特質に配慮した説(主張立証責任の転換や厳格責任化の主張など)があることは注目される。現在、UCCの当該規定の改正が問題となっており、1993年に提案された改正案によれば、不明確であった(3)の要件に代えて、確言等が「合意の一部」であれば要件を満たす旨の提案がなされている。なお、この提案においては、不実広告も「保証」違反となりうることが明示的に言及されている。「保証」違反は契約法上の法理であるから、「(契約)当事者関係(privity of contract)」の存在しない第三者に対しては責任を負わないのが原則である。しかし、多くの判例は、広告どおりの品質の欠如による製造者の責任を認めるに当たって「当事者関係」の存在を要件としていない。なお、不法行為法上の「不実表示(misrepresentation」の法理も、広告に対する責任追及の根拠となり得る。判例の一部には、これに基づいて製造者の厳格責任まで肯定するものもあるが、少数にとどまっており、「保証」違反によるものが大勢を占める。 以上の比較法的考察に基づき、第4章において、著者は、不実広告に対する責任についての日本法上の解釈論を提示する。その要旨は、ほぼ次の通りである。 (a)広告主が売主であって買主との間に売買契約が存在する場合には契約上の責任を追及すべきである。アメリカ法はそう解しており、ドイツ法も限定的ではあるが同様である。日本の判例学説も広告が契約の内容になったと認められれば、契約上の責任を認める。したがって問題は、どのような要件を満たす広告であれば契約の内容になったと認めるべきか、にある((d)参照)。 (b)広告主が製造者である場合には、最終的な買主との間に契約は存在しないが、アメリカでは契約法理に基づき責任が認められており、ドイツでもこれを契約責任と解する学説が有力である。前者では判例法上「保証」違反について「当事者関係」が要求されなくなったこと、後者では不法行為の要件が限定的であるため契約法理に拠らざるを得ないこと等、それぞれ特有の事情があり、直ちに同調すべきでないが、製造者と買主との間は全く無関係ではなく、広告という言明が介在しそれを誘因として購入させ・購入したという関係が存在すること、製造者が保証書を発行しているかぎりで「意思」の要素を認めるべきこと、不法行為に拠るのでは買主の保護は十分でないこと、等を勘案すれば、契約責任的な法律構成を採るべきである。 (c)そのような法律構成は、次のように考えられるべきである。すなわち、保証書を単独行為による債務負担約束と解する学説を参考とし、かつ懸賞広告の規定(民法529条)を単独行為による債務発生原因と解する有力学説を手掛かりとすれば、製造者は、広告の言明に合致する品質の商品を供給する義務を負う旨を一方的に約束したものと解すべきである。したがって問題は、(a)と同じく、いかなる要件を満たす広告が、この一方的債務約束の内容になると認めるべきか、にある。 (d)日本の判例法理・ドイツ法上の「黙示の保証」・アメリカのUSAにおける「信頼」及びUCCにおける「取引の基礎」に関する判例を素材として上記(a)及び(c)の要件を構成すれば、次の通りである。広告における言明が、(1)客観的事実に関するものであること、(2)取引慣行上契約又は約束の内容と認められる特別の意味を持つこと、(3)商品の特別の価値又は一定の使用目的への適性に言及していること、(4)買主が広告の言明を真実と信頼したこと、かつその信頼が当事者間の専門知識や交渉力の格差を顧慮して正当と認められること、(5)そして以上の要件に該当するか否かを判断するに当たっては、言明の意味が買主の立場から解釈されるべきこと。 (e)上記の要件が満たされれば、広告主は債務不履行責任の一般原則に従い、損害賠償の義務を負う。 このほか、著者は、(a)と(c)との要件論上の細かな差異・両者の関係・立証責任等を論じて、結んでいる。 以上が本論文の要旨である。以下、評価を加える。 本論文の第一の長所は、広告主の責任というテーマを最も包括的に、しかも具体的な要件・効果論にまで立ち入って論じたパイオニア的論文である点に求められる。これまでのところ、広告に基づく責任については判例学説には見るべき発展はなく、これを論じた数少ない業績も詳細なものではなかった。広告と法一般を扱った論著の多くも、広告主と広告業者との法律関係や取引慣行・広告についての規制などの行政的側面を論じていたに止まる。本論文は、このような状況にあって、十分に開拓されていない分野に初めて本格的な鍬を入れたものであって、その意義と意欲とは高く評価できる。特に具体的な要件論についての記述は貴重である。 第二の長所は、著者の問題意識の適確さが認められ得ることである。新たな解釈論を主張する場合には、それによってある結果を実現すべきことがいわばアプリオリに前提されているため、その前提自体の適不適が問われることになるが、近年における消費者保護の理念の著しい展開は、おそらく日本法においても、広告に基づく責任を遅かれ早かれ問題とせざるを得ないと思われ、このことは著者の紹介する比較法的研究からも窺われるところである。この点で本論文を生んだ問題意識は、評価に値する。 第三の長所は、常に広告を念頭において、最近にいたるまでのドイツ・アメリカ両法の展開が詳細にわたって追跡されていることである。ドイツの瑕疵担保やアメリカの「保証」違反の法理に関する研究はこれまでにも少なくないが、広告を中心としてこれを論じたものはあまり見当たらない。この点でも、本論文は有意義な資料を提供するものである。 しかし、本論文には、短所と目すべきものも見出だせる。 まず挙げるべきなのは、第一の長所の裏とも言うべきものであって、製造者の責任の法的根拠を広告による一方的債務負担約束と把えた点である。単独行為による債務発生原因は比較法的には珍しく、したがってこれを根拠とするには、多くの論証を要するが、本論文がその点で十分であるとは必ずしも思われない。例えば、アメリカ法においては一方的約束による契約(unilateral contract)と呼ばれる契約類型が存在するが、その検討も不十分である。確かに、広告主たる製造者の責任の論拠となり得る法律構成の探求は困難を伴うが、著者のような結論に至る前に、単独行為または債務約束概念の研究とか、その法律構成の帰結と契約あるいは不法行為的構成の帰結とのより詳細な比較検討とか、さらには責任という効果だけを念頭において一方的債務約束と断じてよいかを考察すること等々が必要であったと思われる。 第二の短所としては、多くの基本的問題が論じられないままに残されていることである。例えば、責任の根拠を広告主の意思に求めつつ買主の信頼をも要件と解するのは整合的であるのか、広告と錯誤・詐欺との関係はどうなのか、瑕疵担保責任の性質論との関連はどうなるのか、等々の問題であり、これらはいずれも大きな問題ではあるものの、ある程度の考察の見取り図を示しておく必要があったであろう。 第三に、本論文には、整理されていない叙述や熟しない表現が散見されることも指摘されなければならない。 以上のような短所があるにも拘らず、それらは、民法学上に重要な問題提起をしたという、本論文の大きな価値を否定するものではない。したがって、本論文は、博士(法学)の学位にふさわしい内容と認められる。 |