学位論文要旨



No 213202
著者(漢字) 櫛田,隆弘
著者(英字)
著者(カナ) クシダ,タカヒロ
標題(和) 鉄鋼材料の水素脆化評価法の考案と高強度化材料開発への適用に関する研究
標題(洋)
報告番号 213202
報告番号 乙13202
学位授与日 1997.02.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13202号
研究科 工学系研究科
専攻 金属工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辻川,茂男
 東京大学 教授 岸,輝雄
 東京大学 教授 栗林,一彦
 東京大学 教授 柴田,浩司
 東京大学 教授 前田,正史
 東京大学 助教授 篠原,正
内容要旨

 本研究は,鉄鋼材料の水素脆化を定量的に評価する方法を考案し,その評価法に基づいて,耐水素脆化性に優れた高強度化材料を開発することを目的として行ったものである。

 本研究の目的は、以下の3つに大別される。

 1.従来の水素脆化試験法及び鋼中拡散性水素濃度(Cd:Diffusible hydrogen content in steel)測定法を参考にして,水素脆化発生のしきい値である割れ臨界水素濃度(Cd,th:Threshold diffusible hydrogen content)を精度よく定量化できる新しい評価法を考案する。(第2章)

 2.1の新しい評価法を用いて,低強度鋼から高強度鋼まで,また,炭素鋼から13Cr系マルテンサイトステンレス鋼までの広範な鉄鋼材料の水素脆化を評価する。そして,割れ臨界水素濃度に及ぼす強度,組成(合金元素量)及び付加応力の影響を明らかにする。(第3章,第4章)

 3.2で得られた結果を基に,水素脆化発生の定量的評価法を考案し,水素脆化が問題となる鉄鋼材料の適用限界の明確化ならびに耐水素脆化性に優れた鉄鋼材料の開発を行う。(第5章,第6章)

 本研究の特徴は,割れ臨界水素濃度ならびに鋼中拡散性水素濃度の定量化の試みに加え,その過程で得られる水素拡散係数(D:Hydrogen diffusion coefficient)及び水素透過係数(JL:Hydrogen permeation coefficient)に注目したことにある。従来の研究は,水素濃度に注目したものがほとんどであり,水素透過係数に注目した例はほとんどない。

 第1章では,鉄鋼材料の水素脆化に関するこれまでの研究の中で,本研究に関係する点を整理し,問題点を抽出した。

 要約すれば以下の通りである。室温拡散性水素が水素脆化に寄与すること,その濃度が高いほど水素脆化は発生もしくは伝播しやすいが,割れ臨界水素濃度が存在することが明らかにされている。また,高強度鋼ほど水素脆化感受性は高くなり,一般には割れ臨界水素濃度が低下するためとされているが,定量化された例は必ずしも多くない。水素脆化が応力と鋼中拡散性水素濃度に依存することは少なからず示されているが,必ずしも一般化されていない。さらに,これまでの鉄鋼材料の開発の中で,強度あるいは組成の水素脆化に及ぼす影響に関して膨大な知見が得られているが,広範囲な材料について統一的に検討された例は少ない。

 第2章では,外部付加応力のない状態で発生するHIC(水素誘起割れ:Hydrogen Induced Cracking)の割れ臨界水素濃度を定量化する「HICその場測定法」,及び付加応力下での割れ臨界水素濃度を定量化する「水素脆化その場測定法」,それぞれの原理及び手法を論じた。

 HICその場測定法では,電気化学的水素透過法と超音波探傷法を組み合わせることにより,HIC発生の瞬間をとらえて精度良く割れ臨界水素透過係数{(JL)th:Threshold hydrogen permeation coefficient}を求めることができる。さらに,発生と伝播が記録されるので,起点を特定して割れ臨界水素透過係数との相関をより確かなものとすることができる。

 水素脆化その場測定法は,水素脆化が生じる下限界の水素チャージ電流密度を定荷重試験法によって求め,次いで,その電流密度における環境水素透過係数{(JL)env.:Hydrogen permeation coefficient in environment}を電気化学的水素透過法によって測定して割れ臨界水素透過係数とし,さらに水素拡散係数を測定して割れ臨界水素濃度を求める方法である。

 第3章では,割れ臨界水素透過係数及び割れ臨界水素濃度に及ぼす強度と付加応力の影響を論じた。ラインパイプ用鋼の中心偏析部硬化組織を再現し,外部付加応力を必要としないHICの発生に及ぼす硬さの影響を明らかにした。また,焼入焼戻処理によって強度を調整した炭素鋼を用いて,水素脆化その場測定法により強度と付加応力の影響を明らかにした。また,第4章では,炭素鋼から13Cr系ステンレス鋼までCr,Ni及びMo含有量の異なるマルテンサイト鋼を用いて,水素脆化その場測定法により,合金元素量の影響を明らかにした。

 要約すると以下の通りである。割れ臨界水素濃度は,強度ならびに合金元素量によらず一定であり,引張付加応力が増大するほど低下し,従来考えられていたように高強度鋼であるがゆえに割れ臨界水素濃度が低下するのではない。割れ臨界水素濃度が強度によらず一定であるとしても,高強度鋼ほど水素拡散係数が小さく,その結果として鋼中拡散性水素濃度が増加して割れ臨界水素濃度を上回るようになる。すなわち,水素脆化発生の限界強度が説明される。つまり,高強度鋼の高い水素脆化感受性は,鋼中拡散性水素濃度の増大と高い付加応力条件による割れ臨界水素濃度の低下が重畳した結果である。

 さらに,高合金化は水素拡散係数を低下させるという意味において高強度化と同じであること,また,割れ臨界水素透過係数と1:1に対応する水素拡散係数から材料固有の水素脆化感受性が推定できることも明らかにした。

 割れ臨界水素透過係数は,高強度あるいは高付加応力になるほど低下する。一方,環境水素透過係数は,強度あるいは応力に依存せず一定である。両者の相関から,環境水素透過係数が材料の割れ臨界水素透過係数を上回る限界強度あるいは限界応力が導かれる。その材料の強度あるいは使用応力が限界内にあれば,水素脆化の発生を心配することなく使用できる。この考え方を第5章で適用限界の明確化にブレイクスルーした。

 また,割れ臨界水素濃度が強度や組成に依存しないとすれば,耐水素脆化性に優れる鋼とはその環境において鋼中拡散性水素濃度が低い鋼を意味する。その鋼中水素濃度は環境水素透過係数を水素拡散係数で除したものであるので,その低減には耐食性を高めて環境水素透過係数を低減する方法,ならびに強化機構あるいは塑性変形挙動を考慮して材料の水素拡散係数を大きくする方法の2つが考えられる。これらの方法を用いて第6章で耐水素脆化性に優れる材料開発を行った。

 第5章では,(1)クラッドラインパイプ界面の水素誘起剥離,(2)高強度ボルト用鋼の遅れ破壊,及び(3)炭素鋼ラインパイプのHIC,それぞれに対する適用限界を明確化した。

 (1)に関しては,水素誘起剥離が界面近傍に生成したマルテンサイト組織に生じる水素脆化であり,その剥離臨界水素透過係数は,マルテンサイト組織の硬さに依存するが,最も低い場合で数A/cm程度であることをHICその場測定法により明らかとした。一方,カソード防食下の環境水素透過係数は,逆に最も高くなる過防食状態でも1A/cmを下回ることから,水素誘起剥離の可能性がないことが示された。

 (2)に関しては,遅れ破壊の生じる環境水素透過係数を明らかにし,その条件での水素脆化その場測定試験により遅れ破壊強度比を求めた。実環境として低合金鋼のpH3.5の隙間腐食部を想定し,環境水素透過係数0.1A/cmを得た。この条件では,ボルトの不完全ネジ部を想定した応力集中係数5の切欠部でも,新たに開発した13T鋼は,既存の11T級のJIS-SCM440鋼と同等以上の遅れ破壊強度比を有していることが示された。

 (3)に関しては,まず,耐サワー潜弧溶接鋼管の母材部は,規格最小降伏応力の90%の引張応力を付加した場合,非金属介在物を起点にHICを発生することがあるが,その割れ臨界水素透過係数は約25A/cmであることをHICその場測定法により定量化した。同様に,耐サワー電縫鋼管のシーム溶接部の割れ臨界水素透過係数はそれ以上であることを明らかにした。pHならびにH2S濃度を考慮すると,使用環境における環境水素透過係数は,これらの割れ臨界水素透過係数を上回らないので,使用時にHICが生じないことが示された。

 第6章では,(1)耐食性を高めて環境水素透過係数を低減した,耐SSC(硫化物応力割れ性:Sulfides Stress Cracking)性に優れる13Cr系マルテンサイトステンレス鋼の開発,(2)脆化部の水素拡散係数を増大させた,サワー原油中の耐腐食疲労き裂進展特性に優れる造船用鋼板の開発例をそれぞれ論じた。

 (1)に関しては,現用の13%Cr鋼の耐SSC性を改善し,22%Cr2相ステンレス鋼との中間に位置する耐食材料の開発を目的とし,pHが3.2程度のH2S分圧0.01気圧のCO2環境を使用環境と設定した。その環境で耐食性を高めて水素吸蔵を抑え,その結果として優れた耐SSC性を得るには2%以上のMoが必要であることを明らかとし,低C-13Cr-5Ni-2Mo鋼を開発した。

 (2)に関しては,サワー原油中での炭素鋼の疲労き裂進展が水素脆化の重畳によって加速されることを解明し,き裂先端部の塑性変形が鋼中拡散性水素濃度を高めていることに注目した。その結果,ベイナイト組織を有する鋼は,き裂先端部で塑性変形し難く水素拡散係数が低下し難いので水素濃度の増大が抑制され,従来のフェライトーパーライトバンド状組織や他の組織に比べて,水素が吸蔵された状態での疲労き裂進展速度が遅くなることを見いだした。

 以上、本研究は,割れ臨界水素濃度の定量的な測定手法を提供し、強度,合金元素量及び外部付加応力の影響を明確にして,鉄鋼材料の水素脆化評価法を新しく考案し,適用限界の明確化ならびに耐水素脆化性に優れる高強度化材料の開発等,実用面においても多大な寄与をなし得た。

審査要旨

 高強度鋼が環境中の水に由来する水素を吸収して脆化する現象は水素脆化(HE)とよばれる。HEが室温付近での拡散性水素によって起こることは古くから知られ、それを測る電気化学的透過法が開発されて30年余が経過するが、実測パラメタは一般的水素濃度・拡散定数D等に限られ、割れ事象の直接的解明には及んでいない。

 本論文は、この方法に超音波探傷法ほかを組合わせて割れ臨界水素濃度Cthを求め、割れ臨界水素透過係数(JL)thと環境水素透過係数(JL)envとを用いる評価方法を確立し、さらに従来の限界を破る高強度化の可能性を提唱したもので、全7章から成る。

 第1章は序論で、鉄鋼材料の水素脆化に関するこれまでの報告を調査し、特に割れ臨界水素濃度に関する問題点を抽出している。

 第2章では測定法の開発をのべた。電気化学的透過法では厚さLの鋼板の片面(表面水素濃度Cs)から水素を侵入させ、他面(水素濃度ゼロ)で水素(H)を水素イオン(H+)に酸化させる電流から透過水素流束J=D・Cs/Lを求める。外部付加応力なしで起こるHIC(水素誘起割れ)の場合、上述装置に感受性鋼板と超音波探傷器を組込むだけで鋼中偏析帯位置(深さl)での割れ発生とCth=Jth・l/D=(Jl)th/Dとをその場測定する。外部付加応力を必要とする一般のHEでは、丸棒試片(定常状態では内部まで一定の水素濃度Csをもつ)に割れが起こる下限界カソード電流密度ithを求め、このithを同材の鋼板を用いる電気化学的透過法に適用したときのCsとしてCthおよび(JL)thを測定する。ここでは、JLとDが付加応力には依存しないとみなす近似を採用している。

 第3章では鋼強度と付加応力の影響を調べ、Cthは鋼強度に依存せず付加応力の増大とともに低下するという新知見をえた。Dは鋼強度とともに低下し付加応力に依存しない(2章)ので、(JL)thは、Dを通じて強度に、Cthを通じて付加応力に、依存する。環境因子である鋼中水素濃度(Cs)と(JL)env=D・Csについて、Csは鋼強度にも依存するのに対して、(JL)envは鋼強度・付加応力(2章)に依存せず環境によってのみ決まる一定値を示す。この(JL)envを(JL)thと比較することによってHE生起可能性有無を判別するとしている。高強度鋼の高いHE感受性は、鋼強度の増大に伴なうCsの増大と高い付加応力によるCthの低下とが重畳した結果と解釈した。

 第4章では、炭素鋼から従来研究の少ない13Cr系鋼までのCr・NiおよびMo量を異にする鋼の、H2S含有油井環境での調査を通じて、HEに及ぼす合金元素の影響を検討した。前章における「強度」と同様に、「合金元素」の増加はCthを変えずDを低下させ(JL)thを減少させる。この意味で高合金化は高強度化と同等であるとしている。合金鋼において付加応力とともにCthが低下し強度とともにCsが増大するのは炭素鋼におけると同様であること、特に、強度の増大に伴なうCsの増大は耐食性を保てない環境における13Cr鋼において炭素鋼より著しいことを確かめた。なお、高合金化が耐食性向上に寄与する場合には(JL)envの低下を通じてHE感受性を著しく改善しうるが、これは6章で後述している。

 第5章では、評価の具体例を挙げた。第1例はオーステナイト相(625合金または316鋼)クラッド炭素鋼ラインパイプのクラッド界面でのHIC剥離である。この現象が界面近くの炭素鋼側に生成する高C・数%Cr/Niを含む硬いマルテンサイト組織のHEにより生じることに基づいて、HICその場測定法において剥離を生じる下限界カソード電流密度ithを硬組織の硬さの函数として求め、(JL)thを3〜30A/cmとした。併せて使用環境である海水中でカソード防食を適用される炭素鋼側での(JL)envを測定し、過防食条件においても(JL)env<(JL)thが十分満足され、剥離の可能性がないことを確認した。

 第2例は耐遅れ破壊高強度ボルト用鋼の開発である。使用環境での(JL)env-pH3.5の液中で求めた0.1A/cm-に対応する水素負荷条件(3%NaCl液中-1500mV vs Ag/AgClでのカソード分極)と、使用応力条件(大気中切欠引張強さの70%)とにおいて、新たに開発した13T級鋼(ADS3鋼)では引張強さ150kgf/mm2まで遅れ破壊を起こさず、既存11T級鋼(SCM440鋼、同120kgf/mm2まで)と同等以上の耐性をもつことを示した。

 第3例では、ラインパイプに対するCAPCIS型実管試験法にHICその場測定法を適用し、数種の具体的鋼管の性能を確認した。

 第6章は耐HE鉄鋼材料の開発例である。HE耐性をうるため鋼中水素濃度Cs=(JL)env/DをCthより低くする必要があるが、これの実現方法として(1)Dの低下を上まわる(JL)envの低減、と(2)(JL)env一定の場合のDの増大、を挙げた。(1)は4章の油井用13Cr鋼の耐HE性の改善-低C-13Cr-5Ni-2Mo鋼の開発-であって、環境条件を10-3MPaH2S+3MPaCO2を含むpH3.2液と特定した上で、2%以上のMoを添加する耐食性の向上を通じてこれを実現した。(2)はH2Sを含む原油環境において耐腐食疲労き裂進展特性に優れる造船用鋼板の開発で、疲労き裂の環境中加速がHEの重畳によるとの知見に基づいて、き裂先端部でのCsを高める塑性変形を抑制するベイナイト組織を有する鋼を提案した。

 第7章は総括である。

 以上のように、本論文は、割れ臨界水素濃度の測定手法を考案、強度・合金元素と外部付加応力の影響を定量化すると共に、割れ/環境-両水素透過係数を比べる水素脆化評価法に基づく可使用条件の判別・高強度化材料の開発指針を示した。これらの成果は鉄鋼材料学・金属表面工学の発展に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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