内容要旨 | | 本研究は,鉄鋼材料の水素脆化を定量的に評価する方法を考案し,その評価法に基づいて,耐水素脆化性に優れた高強度化材料を開発することを目的として行ったものである。 本研究の目的は、以下の3つに大別される。 1.従来の水素脆化試験法及び鋼中拡散性水素濃度(Cd:Diffusible hydrogen content in steel)測定法を参考にして,水素脆化発生のしきい値である割れ臨界水素濃度(Cd,th:Threshold diffusible hydrogen content)を精度よく定量化できる新しい評価法を考案する。(第2章) 2.1の新しい評価法を用いて,低強度鋼から高強度鋼まで,また,炭素鋼から13Cr系マルテンサイトステンレス鋼までの広範な鉄鋼材料の水素脆化を評価する。そして,割れ臨界水素濃度に及ぼす強度,組成(合金元素量)及び付加応力の影響を明らかにする。(第3章,第4章) 3.2で得られた結果を基に,水素脆化発生の定量的評価法を考案し,水素脆化が問題となる鉄鋼材料の適用限界の明確化ならびに耐水素脆化性に優れた鉄鋼材料の開発を行う。(第5章,第6章) 本研究の特徴は,割れ臨界水素濃度ならびに鋼中拡散性水素濃度の定量化の試みに加え,その過程で得られる水素拡散係数(D:Hydrogen diffusion coefficient)及び水素透過係数(JL:Hydrogen permeation coefficient)に注目したことにある。従来の研究は,水素濃度に注目したものがほとんどであり,水素透過係数に注目した例はほとんどない。 第1章では,鉄鋼材料の水素脆化に関するこれまでの研究の中で,本研究に関係する点を整理し,問題点を抽出した。 要約すれば以下の通りである。室温拡散性水素が水素脆化に寄与すること,その濃度が高いほど水素脆化は発生もしくは伝播しやすいが,割れ臨界水素濃度が存在することが明らかにされている。また,高強度鋼ほど水素脆化感受性は高くなり,一般には割れ臨界水素濃度が低下するためとされているが,定量化された例は必ずしも多くない。水素脆化が応力と鋼中拡散性水素濃度に依存することは少なからず示されているが,必ずしも一般化されていない。さらに,これまでの鉄鋼材料の開発の中で,強度あるいは組成の水素脆化に及ぼす影響に関して膨大な知見が得られているが,広範囲な材料について統一的に検討された例は少ない。 第2章では,外部付加応力のない状態で発生するHIC(水素誘起割れ:Hydrogen Induced Cracking)の割れ臨界水素濃度を定量化する「HICその場測定法」,及び付加応力下での割れ臨界水素濃度を定量化する「水素脆化その場測定法」,それぞれの原理及び手法を論じた。 HICその場測定法では,電気化学的水素透過法と超音波探傷法を組み合わせることにより,HIC発生の瞬間をとらえて精度良く割れ臨界水素透過係数{(JL)th:Threshold hydrogen permeation coefficient}を求めることができる。さらに,発生と伝播が記録されるので,起点を特定して割れ臨界水素透過係数との相関をより確かなものとすることができる。 水素脆化その場測定法は,水素脆化が生じる下限界の水素チャージ電流密度を定荷重試験法によって求め,次いで,その電流密度における環境水素透過係数{(JL)env.:Hydrogen permeation coefficient in environment}を電気化学的水素透過法によって測定して割れ臨界水素透過係数とし,さらに水素拡散係数を測定して割れ臨界水素濃度を求める方法である。 第3章では,割れ臨界水素透過係数及び割れ臨界水素濃度に及ぼす強度と付加応力の影響を論じた。ラインパイプ用鋼の中心偏析部硬化組織を再現し,外部付加応力を必要としないHICの発生に及ぼす硬さの影響を明らかにした。また,焼入焼戻処理によって強度を調整した炭素鋼を用いて,水素脆化その場測定法により強度と付加応力の影響を明らかにした。また,第4章では,炭素鋼から13Cr系ステンレス鋼までCr,Ni及びMo含有量の異なるマルテンサイト鋼を用いて,水素脆化その場測定法により,合金元素量の影響を明らかにした。 要約すると以下の通りである。割れ臨界水素濃度は,強度ならびに合金元素量によらず一定であり,引張付加応力が増大するほど低下し,従来考えられていたように高強度鋼であるがゆえに割れ臨界水素濃度が低下するのではない。割れ臨界水素濃度が強度によらず一定であるとしても,高強度鋼ほど水素拡散係数が小さく,その結果として鋼中拡散性水素濃度が増加して割れ臨界水素濃度を上回るようになる。すなわち,水素脆化発生の限界強度が説明される。つまり,高強度鋼の高い水素脆化感受性は,鋼中拡散性水素濃度の増大と高い付加応力条件による割れ臨界水素濃度の低下が重畳した結果である。 さらに,高合金化は水素拡散係数を低下させるという意味において高強度化と同じであること,また,割れ臨界水素透過係数と1:1に対応する水素拡散係数から材料固有の水素脆化感受性が推定できることも明らかにした。 割れ臨界水素透過係数は,高強度あるいは高付加応力になるほど低下する。一方,環境水素透過係数は,強度あるいは応力に依存せず一定である。両者の相関から,環境水素透過係数が材料の割れ臨界水素透過係数を上回る限界強度あるいは限界応力が導かれる。その材料の強度あるいは使用応力が限界内にあれば,水素脆化の発生を心配することなく使用できる。この考え方を第5章で適用限界の明確化にブレイクスルーした。 また,割れ臨界水素濃度が強度や組成に依存しないとすれば,耐水素脆化性に優れる鋼とはその環境において鋼中拡散性水素濃度が低い鋼を意味する。その鋼中水素濃度は環境水素透過係数を水素拡散係数で除したものであるので,その低減には耐食性を高めて環境水素透過係数を低減する方法,ならびに強化機構あるいは塑性変形挙動を考慮して材料の水素拡散係数を大きくする方法の2つが考えられる。これらの方法を用いて第6章で耐水素脆化性に優れる材料開発を行った。 第5章では,(1)クラッドラインパイプ界面の水素誘起剥離,(2)高強度ボルト用鋼の遅れ破壊,及び(3)炭素鋼ラインパイプのHIC,それぞれに対する適用限界を明確化した。 (1)に関しては,水素誘起剥離が界面近傍に生成したマルテンサイト組織に生じる水素脆化であり,その剥離臨界水素透過係数は,マルテンサイト組織の硬さに依存するが,最も低い場合で数A/cm程度であることをHICその場測定法により明らかとした。一方,カソード防食下の環境水素透過係数は,逆に最も高くなる過防食状態でも1A/cmを下回ることから,水素誘起剥離の可能性がないことが示された。 (2)に関しては,遅れ破壊の生じる環境水素透過係数を明らかにし,その条件での水素脆化その場測定試験により遅れ破壊強度比を求めた。実環境として低合金鋼のpH3.5の隙間腐食部を想定し,環境水素透過係数0.1A/cmを得た。この条件では,ボルトの不完全ネジ部を想定した応力集中係数5の切欠部でも,新たに開発した13T鋼は,既存の11T級のJIS-SCM440鋼と同等以上の遅れ破壊強度比を有していることが示された。 (3)に関しては,まず,耐サワー潜弧溶接鋼管の母材部は,規格最小降伏応力の90%の引張応力を付加した場合,非金属介在物を起点にHICを発生することがあるが,その割れ臨界水素透過係数は約25A/cmであることをHICその場測定法により定量化した。同様に,耐サワー電縫鋼管のシーム溶接部の割れ臨界水素透過係数はそれ以上であることを明らかにした。pHならびにH2S濃度を考慮すると,使用環境における環境水素透過係数は,これらの割れ臨界水素透過係数を上回らないので,使用時にHICが生じないことが示された。 第6章では,(1)耐食性を高めて環境水素透過係数を低減した,耐SSC(硫化物応力割れ性:Sulfides Stress Cracking)性に優れる13Cr系マルテンサイトステンレス鋼の開発,(2)脆化部の水素拡散係数を増大させた,サワー原油中の耐腐食疲労き裂進展特性に優れる造船用鋼板の開発例をそれぞれ論じた。 (1)に関しては,現用の13%Cr鋼の耐SSC性を改善し,22%Cr2相ステンレス鋼との中間に位置する耐食材料の開発を目的とし,pHが3.2程度のH2S分圧0.01気圧のCO2環境を使用環境と設定した。その環境で耐食性を高めて水素吸蔵を抑え,その結果として優れた耐SSC性を得るには2%以上のMoが必要であることを明らかとし,低C-13Cr-5Ni-2Mo鋼を開発した。 (2)に関しては,サワー原油中での炭素鋼の疲労き裂進展が水素脆化の重畳によって加速されることを解明し,き裂先端部の塑性変形が鋼中拡散性水素濃度を高めていることに注目した。その結果,ベイナイト組織を有する鋼は,き裂先端部で塑性変形し難く水素拡散係数が低下し難いので水素濃度の増大が抑制され,従来のフェライトーパーライトバンド状組織や他の組織に比べて,水素が吸蔵された状態での疲労き裂進展速度が遅くなることを見いだした。 以上、本研究は,割れ臨界水素濃度の定量的な測定手法を提供し、強度,合金元素量及び外部付加応力の影響を明確にして,鉄鋼材料の水素脆化評価法を新しく考案し,適用限界の明確化ならびに耐水素脆化性に優れる高強度化材料の開発等,実用面においても多大な寄与をなし得た。 |