学位論文要旨



No 213204
著者(漢字) 大河内,博
著者(英字)
著者(カナ) オオコウチ,ヒロシ
標題(和) 降水の酸性化とその影響に関する環境科学的研究
標題(洋)
報告番号 213204
報告番号 乙13204
学位授与日 1997.02.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13204号
研究科 工学系研究科
専攻 化学システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 定方,正毅
 東京大学 教授 幸田,清一郎
 東京大学 教授 秋元,肇
 東京大学 教授 田村,昌三
 東京大学 助教授 迫田,章義
内容要旨

 酸性雨は、森林枯死、湖沼の酸性化に伴う魚類の死滅、金属製や石造のモニュメントおよびコンクリート構造物の劣化の促進など、様々な環境破壊を引き起こすことが指摘されている。このような被害は、主に欧米を中心として報告されてきたが、近年、わが国においても、ストローブマツ(北海道苫小牧)、スギ(関東平野一円)、モミ(神奈川県丹沢大山、福岡県宝満山)、マツ(瀬戸内海沿岸部)、シラカンバ(群馬県赤城山、白根山)など、様々な樹木の立ち枯れが全国的に問題となっている。山間部の森林生態系は水源涵養機能、崩落防止機能など重要な役割を果たしていることから、森林枯死の原因を解明することはわが国にとっても急務の課題である。しかしながら、わが国では山間部における降水の酸性度や酸性物質の沈着量を調査した例はほとんどなく、酸性沈着物が山間部森林生態系に及ぼす影響については不明な点が多かった。また、狭義の意味での酸性雨、すなわち雨水の化学組成や酸性化機構に関する研究は世界的にも活発に行われてきたが、霧や露などの雨以外の降水の化学的性状に関する研究はきわめて限られていた。本研究では、様々な降水の化学組成を明らかにし、その酸性化機構について検討するするとともに、酸性沈着物が都市近郊の山間部森林生態系に及ぼす影響を明らかにすることを目的として、山間部森林生態系におけるフィールド調査と苗木への擬似酸性霧暴露実験の両面から検討を行った。

 試料の採取は、都市部の横浜(神奈川大学)と、わが国の典型的な都市近郊の山間部であり、モミ原生林の立ち枯れが顕著な丹沢山塊の大山(神奈川県西部)で行った。横浜では雨および露の採取を行い、大山では南および南東斜面に沿って標高400m地点から山頂(標高1252m)まで、雨、霧、全降下物、スギおよびモミの林内雨、土壌および渓流水を採取した。また、横浜、大山ともに、ガスおよびエーロゾルの採取も同時に行った。モミ苗木への擬似酸性霧暴露実験は、神奈川大学の研究棟屋上(4階)で、チャンバー(2.0m×1.5m×1.3m)内に入れられた6年生から7年生のモミ苗木に、それぞれpH3または5の擬似酸性霧を噴霧して行った。暴露期間はいずれも4月から7月までと9月から12月までとし、1週間に2回(1回2時間)の割合で擬似酸性霧を暴露した。

 横浜において降雨量1mm毎に採取した雨水のpH範囲は1992年から1995年までの4年間(2655試料)で3.45〜7.12、平均pHはそれぞれ4.74(1992年)、4.75(1993年)、4.66(1994年)、4.63(1995年)であり、日本全国で採取された雨水の平均pH(4.7)と同程度であった。雨水のpHは春から夏にかけて低下する傾向にあり、降雨強度が1mm h-1未満と低い時に低下する傾向にあったが、このようなpHの低い雨水では陰イオンの中でNO3-の占める割合が高く、雨水は主に硝酸ガスの吸収によって酸性化していた。雲底下での雨滴による硝酸ガスの洗浄についてモデルを用いて検討したところ、雨水中のNO3-濃度の計算値と実測値の濃度レベルはほぼ等しいことが分かった。一方、雨水中には様々な不溶解粒子が含まれており、特に、Fe、V、Sなどを主成分とする人為起源由来の特徴的な粒子が存在していることが明らかとなった。雨水中の不溶解粒子は、それらの発生源に特有の形態を持っており、また特有の元素が含まれていることから、雨水が接触した汚染気塊の履歴を知る手がかりとなる可能性が示唆された。

 露水のpH範囲は1993年と1994年の2年間(73試料)で3.23〜7.74であり、年平均値はそれぞれ4.60、5.41であった。図1には、1994年に採取した露水と雨水の平均化学組成および総イオン濃度を示すが、露水の総イオン濃度は雨水の総イオン濃度の約7.5倍ときわめて高いことが分かる。露水では雨水に比べてNH4+とCa2+の占める割合が高く、この2つのイオンで全体の40%を占めていた。一方、陰イオンでは、雨水中の主要無機イオンであるCl-、NO3-、SO42-の露水中で占める割合は30%程度に過ぎず、炭酸、亜硫酸、亜硝酸などの弱酸の占める割合が高いことが特徴であった。露水中でS(IV)濃度が高い原因について抵抗モデルを用いた計算および分析的手法を用いて検討したところ、露水中のS(IV)は主にHMSA(ヒドロキシメタンスルホン酸)として存在しており、露水中のS(IV)濃度は大気中のSO2ばかりでなく、HCHOの影響が大きいことが明らかとなった。最低pH(3.23)を示した露水ではSO42-が全体の47%を占めており、S(IV)は検出されなかったことから、この露水はS(IV)の液相酸化により酸性化したことは明らかである。露水ではS(IV)濃度が高いことから(図1)、露水の潜在的な酸性度は高く、露水による環境影響は無視できないことが本研究により明らかとなった。

図1 雨水と露水の平均化学組成(1994年)

 丹沢大山の中腹(標高700m)で採取した霧水のpH範囲は1991年から1995年までの5年間(1195試料)で1.95〜8.00、年平均pHはそれぞれ4.23(1991年)、3.78(1992年)、4.06(1993年)、3.86(1994年)、3.48(1995年)であり、都市部における雨や露(図1)と比較してもきわめて酸性度が高いものであった。大山で発生する霧のうち、年間で10〜25%はpH4以下の酸性霧であり、この5年間のいずれの年もpH3以下にも及ぶきわめて酸性度の高い霧が頻繁に発生していた。大山ではヘンリー定数の大きいHNO3ガス濃度が高いことを反映して、霧水は主にHNO3ガスの吸収により酸性化していたが、HClガスによる局地的な霧水の酸性化も観測された。霧水酸性度の支配要因について検討したところ、霧水の酸性度は大気中の酸性ガスの吸収以外にも、霧水量、大気中NH3ガス濃度、霧底の標高と霧の採取地点との距離(図2)の影響を強く受けていることが明らかとなった。図2は霧水内の主要無機イオン総大気負荷量と霧底の標高との関係を示したものであるが、霧底の標高の上昇に伴って総大気負荷量が増加することが分かる。

図2 霧水内主要無機イオンの総大気負荷量と霧底標高との関係

 大山中腹で採取した雨水の平均pHは、それぞれ4.82(1991年)、4.76(1992年)、4.94(1993年)であり、いずれも都市部の横浜に比べて若干高かった。この3年間の大山におけるH+沈着量は25.6〜34.5meqm-2y-1、NO3-沈着量は34.7〜47.6meqm-2y-1、SO42-沈着量は45.1〜65.3meqm-2y-1であり、H+沈着量とNO3-沈着量は都市部の横浜における沈着量に匹敵するものであった。一方、スギとモミの林内雨の総イオン沈着量は林外沈着量よりも2〜4倍多かった。特に、林内雨ではK+とCa2+沈着量が多く、K+では80〜90%、Ca2+では40〜70%程度が溶脱によることが分かった。スギ、モミともに林内雨のK+濃度と溶存有機態炭素(DOC)濃度とは正の高い相関を示すことから、K+はH+とのイオン交換に加え、有機酸塩としても溶脱していることが示唆された。図3には大山における1994年の酸性物質の沈着挙動を示す。林外沈着量は標高とともに減少するが、モミとスギの林内沈着量は逆に標高の上昇とともに増加し、標高900mから1000m付近で沈着量が最も多いことが分かる。この原因として、標高の高い地点では霧が頻繁に発生していることから、樹冠による霧液滴の捕捉に伴う林内沈着量の増加が考えられた。一方、酸性沈着物が大山の土壌と渓流水に及ぼす影響について検討したところ、土壌および渓流水に明瞭なpHの低下はみられないことが分かった。このことから、大山におけるモミの立ち枯れの原因として、酸性沈着物による土壌の酸性化が原因ではないとが示された。しかし、標高700mから1000m付近の土壌では硝酸の蓄積が生じており、このため土壌から陽イオン交換反応によるCa2+、Mg2+の溶出が生じていることが明らかとなった。この原因として、この付近では林内沈着量が多いことが考えられる。また、土壌中のNO3-濃度が高いことを反映して、大山川のNO3-濃度(1992年から1995年の4年間で39.1〜324eq L-1)は山間部における渓流水としては高かった。

図3 H+,NO3-,SO42-の林外沈着量(△)およびスギ(○)とモミ(●)の林内沈着量の標高分布

 pH3の疑似酸性霧を暴露したモミでは春に新芽が枯れる、落葉するなどの可視害が観察され、成長点に対する新芽の数が減少することが明らかとなった。また、pH3の疑似酸性霧を暴露したモミでは、クロロフィルおよび主要金属元素含有量の減少はみられなかったが、蒸散速度の増加がみられた。モミは酸性度の高い霧に曝されると、成長点が破壊されることにより成長が抑制され、その一方で蒸散速度の増加により水分の欠乏を引き起こす結果として、最終的に枯死する可能性が示唆された。

 以上、本研究により、雨、露、霧と様々な降水の酸性度と化学組成が明らかになるとともに、降水の酸性度の支配要因が解明された。また、モミ原生林の立ち枯れ顕著な丹沢大山において、雨水および霧水の酸性度と化学組成、酸沈着量、酸性物質の沈着挙動が明らとなった。さらに、大山における霧水の分析結果をもとに、実際の霧水組成に近い条件下でモミ苗木への擬似酸性霧暴露実験を行うことにより、モミは酸性霧により成長が阻害されることが明らかとなった。

審査要旨

 近年、わが国に於いても、各地域での樹木の立ち枯れが問題になって来ており、森林枯死の原因を解明することが急務の課題である。

 本研究は、酸性沈着物による環境影響機構を解明するために雨ばかりでなくこれまで研究の少ない霧や露などの降水の化学的組成とその酸性化機構について詳細な検討を行うとともに、酸性沈着物が、都市近郊の山間部森林生態系に及ぼす影響についても検討を行ったものである。

 第一章においては、本研究の背景と、本論文の概要を示している。第二章においては、最も一般的な降水である雨水の化学成分について、溶存成分ばかりではなく不溶解粒子の測定を行い、雨水組成の支配要因と雨水の酸性化機構について検討を行っている。特に、雨水中の微量溶存成分としてF-とBr-、および雨水中の不溶解粒子の測定も行い、雨水中の非海塩起源のBr-は自動車交通などに伴う石油類の燃焼に起源をもつこと、また雨水中には様々な人類活動由来の不溶解粒子が取り込まれていることを明らかにした。このような、雨水中の微量溶存成分、不溶解粒子に関する研究はほとんど行われておらず、特に雨水中のBr-濃度とその起源に関する研究はわが国では本研究がはじめてである。

 第三章においては、世界にも研究例がきわめて少なかった露水について、化学組成を明らかにするとともにその支配要因について検討を行っている。露水は弱酸性であり、陽イオンではNH4+とCa2+、陰イオンではSO42-が主要なイオンであることを示した。また、露水中では亜硝酸、亜硫酸、ギ酸および酢酸などの弱酸濃度が高く、これらのイオン種を含めないと電荷収支がとれないことが露の特徴の一つであることを明らかにした。露水は時々きわめて酸性度が高くなったが、これは露水中のS(IV)の液相酸化に伴う硫酸生成によるものと推定した。すなわち、露水の酸性化には硝酸ガスの吸収の影響は小さく、これが雨水と大きく異なる点であることを示した。また、抵抗モデルを用いた計算、および分析手法を用いることにより、露水中にはHMSA(ヒドロキシメタンスルホン酸)が形成しており、露水中のS(IV)濃度は大気中のSO2ばかりではなくHCHO濃度にも強く影響を受けていることを明らかにした。このような露水の化学組成を明らかにし、その支配要因、特にS(IV)濃度の支配要因について検討を行ったのは本研究がはじめてであり、本研究の環境科学的な意義は大きい。

 第四章においては、これまで採取が困難であったことから、わが国では特に研究が遅れていた霧水の化学組成を明らかにするとともに、その支配要因について検討している。本研究では神奈川県西部に位置する丹沢大山において年間を通じて霧水の観測を行い、発生する霧のうち年間で10〜25%はpH4以下の酸性霧であることを明らかとした。また、過去5年間のいずれかの年もpH3以下にも及ぶきわめて酸性度の高い霧が発生しており、観測期間中の最低pHは1.95とわが国の降水としては観測史上最低pHを示す霧を観測している。さらに、本研究では大田らの凝結核・ガス吸収モデルを改良することにより、霧水酸性化に及ぼす硫酸、硝酸、塩酸の各強酸の寄与率を求めたり、大気中のガスおよびエーロゾルの測定値からこれまで霧水の測定が行われていなかった地域の霧水pHを予測することが可能なモデルを開発した。

 第五章においては、わが国の典型的な都市近郊の山間部であり、モミ原生林の立ち枯れが顕著な大山において、酸性沈着物が森林生態系に及ぼす影響を明らかにすることを目的として、フィールド調査およびモミの苗木を用いた疑似酸性霧暴露実験を行っている。その結果、大山では酸性物質の林外沈着量は標高とともに減少するが、モミとスギの林内沈着量は逆に標高にともなって増加することを明らかにした。この原因としては霧水沈着量の影響が大きいことを示した。

 酸性沈着物が大山の土壌と渓流水に及ぼす影響を検討したところ、土壌および渓流水には明瞭なpHの低下はみられなかった。このことから、大山におけるモミの立ち枯れの原因として、酸性沈着物による土壌の酸性化が原因ではないことが示された。実際の霧水組成に近いpH3の疑似酸性霧を、モミの苗木を育ててその影響を見る実験を行い、モミは酸性度の高い霧水に曝されると、成長点が破壊されることにより成長が抑制され、その一方で蒸散速度の増加により水分の欠乏を引き起こす結果として、乾燥害、低温害などの気候ストレスや病害虫などの生物的ストレスに対する抵抗力が低下し、最終的には枯死する可能性があることを示した。

 以上、要するに本論文は雨、露、霧と様々な降水の化学組成とその支配要因を明らかにするとともに、酸性沈着物の森林生態系に及ぼす影響について重要な示唆を与えた。このように降水の酸性化と酸性沈着物の森林影響に関する総合的な研究は本研究がはじめてであり、本研究の化学システム工学への寄与は大きい。よって本論文は、博士(工学)の学位請求論文として、合格と認められる。

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