幾何学的模型とは雪の結晶はその身近さと美しさのゆえに古くから多くの人々の関心を惹いたことで知られている。例えば古くは中国において漢の時代に既に六方対称性を持つことが知られていた。近代ではフランスのデカルトや日本の土井利位がスケッチを残している。こういった自然の造形美は何も結晶に限られる訳ではない。例えば大空に浮かぶ雲や遥かな山の稜線、或は縁側で寝ている三毛猫の模様などなど、数え挙げたらきりがない。こういった系はいわゆる割れ目の物理と呼ばれ、これまでは鑑賞の対象にしかならなかったが、近年になって様々な科学的見地から研究されるようになってきた。ここではその形に焦点をあてたいと思う。 さて、この様な対象を記述しようとする時、初めにものの形というものをはっきりさせておく必要がある。ではものの形とは何か。この設問を突き詰めて考えてみると、系の中に何らかの物理量-例えば物質密度-が急変する所、言い替えれば物理量の不連続面が存在していることに気づく。我々はこの不連続面を形ないし表面として認識していると言えよう。そこでこういった特異点の集合を数学的な多様体として捉え、多様体の性質を決める物理法則を物理系から引出し、これらを用いて系の振舞を記述しようというアイデアが自然に出て来る。これを具体化したものがここで幾何学的模型と呼ぶものである。 「幾何学的模型」という言葉は、元々は結晶成長における樹状成長を記述するための一つのモデルという意味で使われているが、本論文ではそのように限定しない。 例としてHele-Shaw cellにおける粘性突起を考えてみる。通常の方法ではまず流速の場を考え、適当な境界条件を仮定し、場の方程式を解くことになる。一方、考えている界面を平面曲線Cとみなすとする。Cの変形の仕方はC上の速度場として表現され、これからCの曲率の時間発展を知ることが出来る。これにより界面の変形が求められる。以上の簡単な考察から、幾何学的模型の持つ特徴として、次の点を挙げることが出来る。 ・系を記述するのに必要な変数の数が場の理論的方法に比べて圧倒的に少数である。 これは界面の変形のみに興味がある時には大きな利点である。一方、それ以外の情報、例えば流速の分布を知るのは大変困難である。 ・方程式は非線形となり、多くの場合それは非局所的である。 遠方からの影響が無視出来ない時は、速度場が非局所的なものにならざるを得なくなる。例えば二次元空間での理想流体における渦層の運動はBirkoff-Rott方程式により記述される。これは非局所的な方程式である。 ・幾何学的な関係式や結果を利用した解析が行いやすい。 今の例ではこの特徴を見出せないが、この性質は本論文中で有効に利用される。 まとめると、幾何学的模型はその性質上界面のみに着目するのであり、「形」を記述するのに都合の良い枠組であると言える。また「形」の記述が興味の中心ともなる。 この模型はその非常に一般的な枠組を反映して大変多様な現象を記述し得ると考えられる。論文提出者は以下の三者の場合について特に興味を持って研究を行った。 ・運動が可積分となる場合 ・散逸系の界面を記述する場合 ・離散化 本論文はこれらに対応して三編に分かれている。以下これらの各編についての動機及び内容を述べたいと思う。 運動が可積分となる場合天体運行に関する三体問題や対流現象のモデル方程式から導かれるローレンツ方程式などから知られているように、一般に多自由度の力学系の振舞は非常に複雑である。この様な中で曲線のような無限自由度を持つ対象の運動が可積分方程式で自然に記述され得るというのは極めて驚くべきことであると言わねばならない。本論文の初めの部分はこの現象について考察する。また、その高次元化を試みる。 この編は二つの章からなる。第二章では二次元、及び三次元ユークリッド空間での曲線の運動を、AKNS逆散乱問題の観点からその可積分性について論じている。その本質はSerret-Frenet方程式が固有値が0における逆散乱形式に等しい点にある。第三章ではこの議論を曲面の運動の場合へ拡張し、幾つかの可積分な運動を求めている。但しこのような高次元可積分系の研究は十分に発展してはおらず、ここで扱う方法以外にも可積分な曲面の運動を構成した研究がある。 散逸系の界面を記述する場合結晶成長や粘性突起、BZ反応など、散逸系には大変美しいパターン形成現象が数多く見られる。これらを記述する場の方程式たちは極めて複雑なものであるが、界面だけに着目する我々の観点からすると、これらは全て或る種の方程式族へと帰着させることが出来る。この族について考察を加えた。また現実の系では不純物や外的要素による摂動を避けることは不可能であるが、この乱れを系統的に採り入れる試みを行った。 1958年SaffmanとTaylorは大きな粘性を持つ流体で満たされたHele-Shawセルに別の小さな粘性の流体がどのように侵入するか、といういわゆる粘性突起の問題を解析した。彼らは指状の小さな粘性流体の領域が形を変えずに進行する定常な厳密解-これは後にSaffman-Taylor fingerと名付けられている-を見出すことに成功した。その解析は非常に複雑なものであり、その上表面張力を考慮すると解を具体的に書き表すことは非常に難しくなる。1980年になって粘性突起に対する幾何学的なアプローチがPittsにより提出された。彼のモデルでは界面がその法線方向に曲率に比例する速度で動くことが仮定されており、モデルに含まれている唯一つのパラメータを調節することにより先の定常解をうまく記述することが出来た。しかしながら法線速度が曲率に比例するという彼の仮定を十分な満足をもって説明することは難しい。それにも拘らず本論文では第四章において彼のアイデアを拡張することを試みる。その理由としては、正則関数を使った議論により粘性突起の法線速度がおよそ+"となることが示唆されること、また彼のモデルが非常に簡単なものであることを挙げたい。実際系が局所的に一様で等方的であり、かつ界面の運動が局所的に決まるならば、曲率の変化が小さいという状況の下で法線速度は+a"+…+b2+…のようになると考えられる。 第五章ではレベルセット(等位面)の方法を扱った。この方法では界面を表すのにパラメータを必要とせず、特に位相変化を扱えるのが有利な点である。ここでは前章の問題を取り上げ、解析が簡単化されることを示した。 第六章では曲がった空間での超曲面の運動を記述する方程式を導いた。また反応拡散系を曲がった空間で考え、アイコナール方程式を導出した。さらに空間の曲がり具合がランダムに変化している時、ランダムネスに適当な仮定を置くことにより界面の運動がKardar-Parisi-Zhang(KPZ)方程式に支配されることを示した。 離散化本編は方程式の離散化を扱った第七章よりなる。 可積分方程式は多くの場合、その離散化バージョンが存在することが知られている。例えばmKdV方程式に対してd-mKdV方程式、NLS方程式に対してd-NLS方程式などは代表的である。これらの離散化に於ける哲学は「如何にして可積分性を損なうことなく離散化を行うか」という点にある。 さて非可積分方程式を考える。この場合、「非可積分性を損なわずに離散化する」という方針が意味を成さないことは明らかである。ではどうしたらよいのか。ここでは幾何学的模型の立場からこの疑問に答えた。 第七章において具体的に取り上げた方程式は曲線短縮方程式で、法線速度が曲率に比例するような平面曲線の運動を記述する。ここで提出される離散的な曲線短縮方程式はもとの連続版の性質の多くをうまく引き継いでいることが示される。但し、残念ながら連続版の持つ最も顕著な性質-特異点のない滑らかな閉曲線は特異点を生じることなく円形に漸近する-が保存されているかどうかは部分的な結果のみ得られており、完全な解決は将来への問題として残されている。 |