第一部(現代正義論の構図)の序章では、ジョン・ロールズの『正義論』との出会いから説き起こしながら、正義をめぐる多種多様な問題の広がりを確認したのち、ロールズ以降の現代正義論のポイントを、正義の構想(conception)の間の論争として性格づけた。すなわち、〈正義とは何か〉を定める正義の「概念」に関してならば、西洋の古典古代においてすでに決着がついているにもかかわらず、〈何が正義か〉を探究する正義の「構想」は一義的に規定できるものではない。ロールズの主著A Theory of Justiceの不定冠詞が如実に示してくれているように、まさしく現代正義論においては確定した理論的立場から相対立する社会正義の諸構想を審判するという構えを採れない。諸構想の間の論争に自ら参与し、他の立場と比較しての自説の優位を説明できてはじめて、理論としての資格が獲得できるのである。したがって第一部の本論では、過去20年間の論争を通じて鍛えられてきた六つの社会正義観を取り上げることとした。第一章は、功利主義から始めた。「最大多数の最大幸福」という単純明快な正義構想をかかげる功利主義は、それにどのような態度決定を下すかで後続する理論の座標が定まるという意味において、現代正義論の〈原点〉にあたる位置を占めているからである。まず功利主義の理論構造をアマルティア・センに従って、(1)帰結主義、(2)効用主義、(3)総和主義の三因子に分解した後で、今世紀の功利主義の展開をG・E・ムーアからたどり、最後にその問題点を「パーソナル・インテグリティの毀損」、「情報面でのケチくささ」、「適応的選好形成」、「植民地総督官邸の功利主義」の四点に分けて論じた。 第二章では、社会正義を最大幸福という「効率性」の観点からしか把握できない功利主義を克服すべく、「公正としての正義」という正義構想を提出したロールズの『正義論』の骨格を解説し、その実践的含意を所有と市場に対する彼のスタンスに即して分析した上で、「財産所有の民主主義」というユニークな制度構想に言及した。さらにロールズのリベラリズムを平等主義の方向へと徹底させているロナルド・ドゥウォーキンの活躍にも注目した。第三章は、ロールズを真っ正面から攻撃したロバート・ノージックの自由至上主義の正義構想を、著書『アナーキー・国家・ユートピア』に即して考察した。私は彼の「最小国家論」やユートピア論の卓抜さに称賛を惜しむものではないが、その議論の要におかれた市場機構の「根本的説明」が欠落しているとの注記を加えた。そしてノージックの手続き的な正義構想(「権原理論」)の基礎にある規範的想定を「自己所有権テーゼ」として掴み出したジェラルド・コーエンの作業を手がかりに、ノージックが現代正義論に投げかけている難問を明確にしておいた。 第四章では、福祉国家の再分配政策の是非をめぐって闘わされてきたそれまでの正義論の土俵そのものを覆そうとする「共同体論者たち」の潮流を概観した。リベラリズムの基礎的な想定である原子論的個人主義と道具主義的な社会像とを鋭く批判する彼らだが、「共通善の政治」を訴えるマイケル・サンデルやローカルな共同体を基盤とした「徳の復権」を呼びかけるアラスディア・マッキンタイアの正義構想を手放しで支持することはできない。むしろ現代正義論に対する共同体論の最大の寄与は、「分配的正義の本質と射程」を問い質し、複数の分配原理の多元的活用を主張したチャールズ・テイラーおよび彼の路線を確固としたものに仕上げたマイケル・ウォルツァーの「複合的平等論」にあると私は判断している。この二人がともに拠りどころとする「解釈」という方法からは大いに学ぶべきものがあると思われるが、共同体論の難点も見落とすべきではない。第一に「共同体」の無規定性。第二に「権力論」の欠落。第三に個人、文化、国家のつながり具合を現実に即して吟味するという姿勢が欠如しているところ--以上の三点。第五章では、共同体論者のリベラリズム批判と並行するかたちで湧き出してきたフェミニズムの「知識批判」を主題とした。まず発達心理学者キャロル・ギリガンの『もうひとつの声』における、二つの倫理--従来の道徳発達モデルの基底をなしていた「正義の倫理」とこれまで真剣に耳を傾けられることがなかった「世話の倫理」--の区別を紹介し、それが巻き起こした激しい論争を総括した。そこからさらに実質的な正義論を展開したフェミニズムの諸成果を、スーザン・オーキン、アイリス・ヤング、マーサ・ヌスバウムの三者に絞って吟味した。とくに私が評価したのは、正義に先行する「善の構想」を、「人間の生活形式の輪郭」と「人間として基本的な、機能的潜在能力」(basic human functional capabilities)のリストによって描き出そうとしたヌスバウムの試みである。 第六章は、功利主義から《人間の福祉への関心》を、リベラリズムと自由至上主義からは《自由の大切さ》を、共同体論からは《人間の相互依存性と多元主義へのセンス》を、フェミニズムからは《実質的な平等の希求》を学びとって、現代正義論を着実に前進させているアマルティア・センの理論的営為を精査した。社会的選択理論における「パレート派リベラルの不可能性定理」の提題。エレガントな新古典派経済学が、実は「合理的な愚か者」という貧弱な人間像に支えられているものでしかないことを鋭く抉り出した同名論文。不平等、貧困、飢饉の分析。そして「非効用主義的帰結主義」に分類される規範理論の構築。こうした一連の作業の延長線上でセンは、従来の平等の指標に代わるものとして「基本的潜在能力」(basic capabilities)を打ち出し、「機能充足」と「潜在能力」をキー概念とする厚生経済学の批判的再構成を精力的に続けている。さらに最近のセンは、アイザイア・バーリンの「二つの自由」の再検討を通じて、「社会的コミットメントとしての個人の自由」というユニークな社会倫理学を構想している。これは、個人の自由を〈社会が積極的に選びとるべき価値〉として評価するとともに、個人の自由が〈社会の関与による所産〉でもあることを認めようとするものであり、人間の福祉を「効用」に縮減してしまった功利主義、「市場の道徳的位置」を問うことなく自由放任の資本主義を礼賛する自由至上主義、人間の多様性を見落として財の平等分配でよしとするロールズ派リベラリズム、それぞれの正義観の限界をしっかりと見据えている点で、私は現代正義論の最良の達成だと考えている。最後に第一部の「まとめに代えて」では、本論で取り上げた六つの正義構想を相違を例話に即してもう一度際立たせ、関連する日本語の作品に言及しておいた。 本書の第二部(応用倫理学の展開)は、正義論から派生した研究成果の一部を「応用倫理学」の試みとしてまとめたもの。序章では現代正義論のとほぼ同時に開拓が進められた「応用倫理学」という新分野のサーヴェイを試みた。まずその系譜を中世の道徳神学における「決疑論」と「古典的功利主義」に求め、ロールズの「反照的均衡」にフーコーの「権力分析」を組み合わせるという方法論を素描した。さらに応用倫理学の諸部門を、(1)平等と差別、(2)経済倫理、(3)戦争と平和、(4)生命倫理、(3)環境倫理の五つに分けて、主要なトピックを概観した。第二部の本論では応用倫理学の各論的な考究を企てた。第一章では、ケネス・アローからセンにいたる「社会的選択理論」の展開を軸に、民主主義および自由主義的な集合的意思決定につきまとう逆理を俎上にあげ、第二章では、自由、秩序、所有という三つの主題に即してハイエクとセンの規範理論を対決させた。第三章では、リベラリズムの真価をめぐるロールズとセンの論争を追跡調査し、第四章は「市民的不服従」と「新しい社会運動」を対象として、現代の抵抗運動の根拠を問い求めた。第五章は、生命と科学と政治の錯綜関係を見極めるべく、E・O・ウィルソンの『社会生物学』が巻き起こした一大論争を検討し、第六章では看護学、心理学、系譜学の分野で別個に積み重ねられてきた「ケア」に関する考察を取り上げ、現代におけるケアの営みを問題化することをねらった。 本書の結びには、ソクラテス以来の倫理学の伝統を尊重して、《対話編》をおいた。現代の倫理学の前進させる上で避けて通れない問題提起を行なっている三人の論客(ミシェル・フーコー、ユルゲン・ハーバーマス、そしてロールズ)を登場させて、(1)啓蒙とカント、(2)正義と権力、(3)道徳と倫理という三つのテーマを論じさせた。さらに付録として、ケネス・アローからエドワード・ウィルソンまでの二〇名の研究者のプロフィールを加えた。倫理学がエートス(住み慣わし、生活態度)の学である以上、純粋理論の紹介でとどまることができず、各理論がどういった生活史的背景から産み出されたのかを理解することも必須の作業と思われたからである。そこでは個人の履歴に当人の発言を織り込むという工夫を施してある。文献目録は独立のデータベースとなりうるよう充実を期した。以上が本書の概略である。 |