国家がその構成員に兵役義務を強制できる関係に立っている時、この関係は、どのような緊張を社会に対して強いるものなのだろうか。本論文は、このような疑問に導かれて書かれた。具体的には、兵役義務を国民に課すための法である徴兵令(昭和二年から兵役法)をとりあげ、その成立から敗戦後の兵役法廃止に至るまでの、改変過程に注目することによって、近代国家の特質の一端を考える端緒としたい。 徴兵制をとりあげるという視角自体はなにも新しいものではないが、従来の視角ではとらえきれなかった論点も多く、長いスパンで徴兵制の全過程を書くメリットはあろう。 第一に、のちに明治の元勲といわれるようになった人々や、幕末期に幕府主導の軍制改革を担当し、その知識を新政府へ伝える役割を果たした専門家たちが、建軍当初どのような考えで徴集すべき人員を決め、現役の兵役年限を決め、どのような兵士を集めようとしていたのかという、徴兵制の最初の一歩についての歴史的評価がいまだ確定していない。免役条項に該当する人の数の多さに研究者が幻惑されてしまって、免役条項のほうから徴兵制を検討することが多かった。 第二に、軍部の政治的発言力の増大を論じたものは多いが、国民と軍部を結ぶ窓口としての徴兵制からそれを考えたものは案外ないのである。徴兵制という、国民と軍隊との比類ない接点をもたらす機構をもっていた陸軍が、「公平・平等」という点で国民にうまく訴えてゆけば、あたりまえのことながら、かなりの力をもつことができたろうという予測にゆきつく。そして徴兵令は、軍が「公平・平等」という点で国民の支持を調達できるか否かを左右する点で、間違いなく重大な法だった。 第三に、徴兵制が実際に大正期・昭和初期・開戦後にこうむった変化については、いまだ十分な研究はない。日清・日露の両戦役、第一次大戦、満州事変など、相次ぐ実戦経験に基づいて改変された、軍隊の編制観・用兵思想の変化は、どのような壮丁を採るべきかという徴兵制の基本思想にも影響を与えた。 さて、本論文は、封建的武士団から徴兵制への移行期の問題、徴兵制導入の論理、欧州列強の影響、議会開設までの徴兵令改正の議論、憲法と徴兵令の関係、日清・日露戦役の際の徴兵令改正論議、第一次大戦の影響、日中戦争や太平洋戦争期の兵役法について、明治初年から敗戦期まで、ほぼ時系列に扱った。 また、本論文の構成は、以下のようになっている。I武士のなにが問題だったのか、II徴兵制確立前の兵制、III徴兵制導入にあたっての論理と兵士の数、IVフランス・ドイツの影響、V大日本帝国憲法成立まで、VI憲法と徴兵令、VII帝国議会での攻防、VIII第一次世界大戦の影響、IX日中戦争期の兵役法、X太平洋戦争期の兵役法、参考資料・文献。 帝国議会の審議記録、防衛庁防衛研究所戦史部や公文書館の所蔵する記録などを用いて、軍がどのような考えでこれらの制度改正をおこなったのかをきちんとおさえることで、徴兵制を歴史の中に位置づけようと試みた。 明治初年の徴兵制創設にあたって注目されるのは、一年あたりに徴集される常備兵員の少なさである。経済的な予算で多数の兵士を獲得できる制度としての強みをもっていた徴兵制であったが、日本の場合、多数という点については、あまり顧慮されていない。むしろ、陸軍の側が、国家の目からみて優秀な人材を選抜・教育・抜擢できる権限を保持し続けられるように、何度も徴兵令に手直しを加えたとみられる。徴集人員を多数確保するために免役条項を手直ししていたわけではなく、軍隊に流入させる一年に一万人ほどの青年の質を保証する手立てとして、大きな選出母体が確保されていなければならなかったことによる。 このような機構が有効に働くためには、国民の、陸軍及び軍隊へのシンパシイを不断に国民の中に喚起し続けなければならなくなる。大日本帝国憲法発布以前の度重なる改正は、この点から説明できる。明治22(1889)年、徴兵令第20条となって結実した、困窮者を徴集猶予とする条項をめぐる、法制局長官井上毅と陸軍の論争に、軍の姿勢を読み取ることができる。貧富かどうかの判断を権力はおこなってはならないとの井上の自制的な姿勢に対し、「貧窮無力なるも純良なる人民」の側に陸軍が立っていることを誇示するために、改正は断行される。 しかし、陸軍の示した、貧困者への一定の理解ある姿勢も、戦争が始まれば後景に退かざるをえない。戦争になれば、実戦で強い軍隊の形成と維持が、徴兵令改正の目的とされる。日清戦争では補充兵役を創設し、予備役の期間を延長した。日露戦争では、後備役を長くして、戦時に獲得できる要員の数を増大させた。日露戦後、戦時編制については、第一線部隊への予備役軍人の割合を高く設定した。このような一連の改正は、一度現役兵として入営したごくわずかの者に、長期の義務を課すことを意味していた。そのかわり、従来、その年の現役を超過した人員すべてが予備徴員とされていた制度を廃止した。負担のかかる層を局限して、それ以外の多数の者の潜在的な負担を軽減した改正であった。 徴兵制に対する第一次大戦の影響は、二つの方向をとった。一つは、中等以上の教育を修めた若者をどのように軍隊に吸収すべきかという点であり、欧州諸国の予備将校育成システムに学んだ改正が、大正7(1918)年になされた。こうして、徴兵適齢に達する前の青年学生の「教育」について、さまざまな施策が開始されることになった。 二つめは、総力戦体制と、日本の従来までの精兵寡兵主義をどのように擦り合わせるかという問題だった。これについては、宇垣一成に主導された昭和2(1927)年の兵役法の誕生によって、ある程度は、多兵主義が導入されたといえる。それは、帰休期間を延ばすというかたちで、兵士一人あたりの予算を経済的に切り詰めることによって、現役兵士一人の在営期間を短縮させつつ、一年の徴集人員を増やすことでなされた。 しかし、教育期間が短かければ、どうしても未熟な兵になりがちであろう。「新陳相交換」、すなわち、新しい兵員を入れつつ軍隊全体の戦闘能力を落とさないという、軍隊にとって最も大切な側面も十分に発揮されなくなる。このような隘路を避けるために、徴兵適齢前の前倒しの教育として、軍事教練と青年訓練所が考案されてゆくことになった。 昭和2(1927)年の兵役法以降全面的な改正はなかった。しかし、大量の兵員を戦時に迅速に動員召集するためのシステムの工夫は、昭和2年の改正でなされている。兵籍に関する符号を戸籍に載せるのである。太平洋戦争末期には、国民兵役にあるものまでこのシステムが適用された。 本論文では、強制的兵役法である徴兵制を課された社会の緊張とは、どのようなものなのか論ずるといいながら、社会の緊張そのものを直接あつかってはいない。70余年間に、大きな改正だけで17、18回もの改正があった徴兵令というものの改正過程を詳細にみてゆくことで、むしろ徴兵令が社会に与えた重さが浮き彫りになると考えたためである。 また、社会の緊張ということでいえば、改正の過程で、反論を掲げて陸軍の論理に対抗した勢力の議論を「ありうべき徴兵制」像として描いたことも、同様の考えからである。元老院議官や帝国議会議員など立法機関に属する者の議論だけでなく、法制局、枢密院、宮内省御用掛、陸軍の反主流派、文部省、外務省、言論人など、さまざまな勢力が対抗的なプランを論じていたことがわかる。時代背景はさまざまであったが、ありうべき徴兵制の議論として最も根強かったのが、現役徴集兵の部分での改正(在営期間を3年から1年に短縮して、その分一年間に徴集する人員を3倍にするなど)と兵役税だったことは一貫している。 それに対して陸軍は、中核部分の改変に慎重であり、現役徴集の前と後、すなわち適齢になる前の青年に軍事教育を注入すること、現役満期後の在郷軍人に、軍人会の活動を通じて技量の維持を図らせること、この二方法で対処するという姿勢を変えなかった。 |