学位論文要旨



No 213216
著者(漢字) 武井,教使
著者(英字)
著者(カナ) タケイ,ノリヨシ
標題(和) 胎生期のインフルエンザ曝露と分裂病者の脳脊髄液腔拡大との相関
標題(洋) Prenatal Exposure to Influenza and Increased Cerebrospinal Fluid Spaces in Schizophrenia
報告番号 213216
報告番号 乙13216
学位授与日 1997.02.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第13216号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 関根,義夫
 東京大学 教授 牛島,廣治
 東京大学 助教授 中安,信夫
 東京大学 講師 天野,直二
 東京大学 助教授 橋本,修二
内容要旨 はじめに

 近年、脳画像技術(CTやMRI)を駆使した分裂病者の脳の形態学的研究が相次いでいる。これらは一貫して、分裂病者に脳室や脳溝の拡大、また側頭葉の容積の縮小を見出している。さらに脳灰質容積の縮小が見られるという知見が、最近のMRI研究によってつけ加えられている。

 これらの脳形態学的異常所見は、病状発現早期例で観察され、また一方、神経発達源性の障害を支持する分裂病脳の神経病理学的研究の結果から、分裂病の「神経発達障害理論」が浮上し、注目されている。これらの病変の病因との関連で、分裂病で不一致の一卵性双生児(twin)例(cotwinは健常)を用いた興味あるMRI研究がある。罹患twinに側頭葉異常が確認され、この異常は少なくとも非遺伝的に規定されることが、この研究によっって示唆されている。

 他方、北欧諸国を初めとする国家規模の疫学的調査から、インフルエンザ感染の流行(epidemics)時に胎生中期に遭遇した者は後に分裂病に罹患する危険率の増加が見られるという報告が引き続いてなされている。しかし、これに反する報告もあり、この仮説を疑問視する研究者がいる。しかし、病因としての胎生期のインフルエンザ感染の生物学的メカニズムは何ら不明であることからすれば、この疑問は寧ろ当然と言える。

 そこで、病態メカニズムの解明を意図として、本研究では分裂病者の脳画像所見と胎生期のインフルエンザ感染のリスクとの関連の調査を試みた。将来分裂病に罹患する者(胎児)の中で、危険期間とされている妊娠中期にインフルエンザの流行に遭遇した者はとりわけ脳の形態的異常を有するであろう、というのが本研究の仮説である。

方法

 ロンドン南部の3病院(精神科を有する)に連続入院した患者を調査対象とした。まず、限局性神経学的障害の見られた例や、てんかん等の他の脳器質に由来する患者、また薬物/アルコール嗜癖例は除外した。英国出生で、研究診断基準(RDC)の分裂病の基準を満たし、インホームド・コンセントが得られ、CT(computed tomograpy)撮影を受けた83例が、本研究の対象症例である。

 対照群は、無報酬のボランティアから構成され、症例群と同一の選択基準を満たした者とした。ただし、構造化面接でRDC基準の、アルコール中毒症を含むいかなる精神科的問題を有しない者に限定した(n=67)。さらに、非分裂病性精神病の診断(RDC)を有する62例を対照群に追加した。この精神科疾患対照群の標本法は、分裂病対症例群に同一である。

 CT撮影には、Siemens9800撮影機器を使用し、前窩床に平行に頭頂方向に1cm間隔に施行したスライス像を解析に用いた。画像評価者は、本研究の仮説及び症例-対照の区別に盲目に留まり、調査関心領域の測定に関する評価者間信頼度(intraclass係数;r>0.9)は極めて望ましいものであった。頭蓋内容積、側脳室容積(LV)、最大第3脳室部面積(3V)、脳溝液部面積(SF)、左側・右側シルヴィウス溝面積(SY)の5つを解析変数に当てた。統計解析に際し、頭蓋内容積と3Vを除く3変数は解析に適した正規分布を得るために(自然)対数変換したものを用いた。分析にまた、これらの量的測定に独立に(盲目に)、SYとSFに関して、拡大の質的有無を測定した。この評価には、各々のスライス画像を規範となる参照画像と比較することで行った。これらの脳の量的・質的形態学的評価に際し、評価者は患者のいかなる臨床的特徴にも盲目に留まった。

 先の疫学的報告に基づき、インフルエンザの曝露の危険期間は出生の5ヵ月前と定義した。これは、すなわち胎生期5ヵ月に相当する。この定義によって起こる、曝露レベルのいかなる分類誤りは、仮説支持に反する結果をもたらし、仮説支持優位に作用しない。

 各々の例に対し、胎生期5ヵ月にあった時期のインフルエンザ曝露の危険の指標に、その月に観察されたインフルエンザによる死者数を用いた。月別死者数データは、レジスター・ジェネラルの統計年報から得た。月別死者数によるリスクレベルは、便宜上からその分布に従い均等4分割に分類し、程度に応じ極低、低、高、極高とした。本来、危険期間(妊娠中期)に測定された母親のインフルエンザ抗体力価が曝露レベルの最適指標となるが、この情報の入手は非現実的であり、月別死者数データを代用した。近似指標を用いることは、絶えず結果の偽陰性をもたらす危険が伴う。が、仮に曝露レベルに応じて当該の脳の形態学的病変が症例に見出せた場合、つまり"dose-response"相関が得られるなら、本研究の仮説は支持が得られることになる。

結果量的解析症例群

 まず、回帰分析法により、83例の分裂病症例に対して、妊娠5ヵ月期のインフルエンザによる死者数と脳脊髄液腔の拡張との相関の有無を調べたところ、SY(シルヴィウス溝面積)は曝露指標(陽性偏位分布に従い対数変換したものを当てた)に統計的に有意に(p=.024)相関していた。他の3脳領域(LV、3V、SF)は有意な相関は見られなかった。

 インフルエンザへの曝露レベルに対する4脳領域の粗測定値(中央値、平均値)の比較から、曝露レベルに応じたSY測定値の上昇が見られた;極高曝露の中央値は0.59cm2であり、極低のそれより2倍強であった(0.20cm2)。同傾向はSF測定値にも認められた。引き続きMANOVA(多変量分散分析)を用いて交絡因子(性、人種、社会階層、出生季節、出生年)・共分散(頭蓋内容積)を統制した分析から、脳形態学的測定は曝露レベルとの関連で直線的に増加していた(F1.25=3.66,p=.018)。引き続くANCOVA(共分散分析)による4脳領域別解析で、著しく有意な直線相関がSY測定値に見られた(p=.002)。すなわち、高いインフルエンザ曝露の危険を有した分裂病者は、SY領域が拡大していた。ANCOVAモデルのパラメータ測定値から、曝露カテゴリーの1ランク上昇はSY面積で0.29cm2の拡大(95%信頼区間:0.12-0.49cm2)に相応していた。SF領域においても、有意レベルは下がるものの同様のパターンが認められた(p=.042)。

 SY測定値の左右別解析を試みたが、曝露レベルに応じた領域面積拡大は左右同様に著しく有意であった。また、曝露レベルに応じたSY測定値の非対称性を見たが、相関はなかった。

比較対照群

 正常群(n=56)と非分裂病性精神科対照群(分裂感情病、双極感情病、大うつ病)とを合わせた113例数を対照群とした。混成対照群をなすに当たって、早期検索で、いかなる脳領域(4測定領域)においてこれらの2対照群間に著明な、また統計的に有意な差異が認められないことを確認した。

 これらの群に対するいかなる解析において(MANOVA、及びANOVAによる測定4脳領域個別の検索)、曝露レベルに応じた脳領域の変化は認められなかった。さらに、正常群のみに限定した分析においても、曝露レベルに相関した脳領域測定値の変動は見られなかった。

質的解析

 SY領域の異常(拡張)の比率がインフルエンザへの曝露レベルに応じて上昇していた。しかし、このトレンドは統計的有意には到らなかった(2トレンド・テスト=2.91、p=.088)。交絡因子を統制した分析で、極高の曝露群にさらに高いodds ratioが見られたが、サンプル数の限定から幅広い信頼区間となった(OR=5.36;95%CI0.48,59.40)。SF領域にも同様のパターンが見られたが、非有意な結果であった。

考察

 4脳領域の個別解析による、偶発的な有意な結果の発見(すなわち、タイプIエラー)を避ける意味と、これらの独立変数の相互相関の可能性を考慮し、解析に、当初、多変量共分散(MANOVA)を用いた。脳領域測定者は、本研究の仮説及び症例-対照の区別、また症例のいかなる臨床的特徴に関して盲目にあたった。本研究では、within-subjects比較法を用いており、症例及び対照例の選択上のバイアスが結果に影響した可能性は考えにくい。重要と考えられる種々の交絡因子(性別、人種、社会的階層等)を統制したが、結果は不変であった。

 本研究の結果から、胎生中期のインフルエンザ感染への曝露リスクは分裂病者の脳形態的異常、とりわけシルヴィウス脳溝の拡大と相関していた。これは、胎生期の脳中枢の発達期の重要な時期でのインフルエンザへの感染は、言語中枢の局在する側頭葉領域の異常をもたらす可能性を示唆している。しかし、統計的相関は必ずしも"causal"関係を示すものではなく、また分裂病の脳の形態的異常形成のメカニズムは不明であり、確定的結論を得るにはさらなる研究が求められる。

審査要旨

 本研究は、精神分裂病(以下分裂病と略記)者脳に従来指摘されている形態学的異常所見と、また一方の胎生中期のインフルエンザ感染が後の分裂病発症の危険因子となる可能性を示唆する近年の疫学的研究報告とを背景とし、これらの両者の病因論的関連の探求を目的とした。調査対象は、ロンドン南部の病院に連続入院した研究診断基準(RDC)の分裂病の診断を満たした症例中、英国出生で入院時脳CT撮影を施行された83例である。個別例毎の妊娠中期のインフルエンザ感染への罹患危険率を被曝因子とし、それと脳の形態学的測定値との相関の有無の検証を試みた。その結果は、

【脳形態学的量的検索】

 1.共分散分析法を用い、性・人種・社会階層・出生季節・出生年の交絡因子と頭蓋内容積(共分散)との統制を図った。検索の対象とした4脳領域の中で(側脳室容積LV、最大第3脳室部面積3V、脳溝液部面積SF、シルヴィウス溝面積SY)、インフルエンザへの被曝程度に応じたSYの拡大が認められた:p=0.002。4等分割した曝露レベルで、1ランクの曝露レベルの上昇はSY面積で0.29cm2(95%信頼区間:0.12-0.49cm2)の拡大に相応していた。

 2.曝露レベルに応じたSY値の非対称性(asymmetry)の有無を見たが、相関はなかった。

【質的検索】

 3.量的検索に独立に、ロジスティク回帰分析法を用い脳形態学的質的異常(すなわち、拡張所見の有無)をインフルエンザ感染被曝危険との関連から検証したところ、SY領域の拡張の比率がインフルエンザへの被曝レベルに応じて増加していた。しかし、このトレンド(chi-square trend analysis)は、拡大が同定された頻度(症例数)自体が少なく、統計学的有意レベルには到らなかった:p=0.088。

 これらの所見が偶発事象及び非特異的でないことを確認するため、同様の解析を比較対照群(n=113:正常者56例と非分裂病性精神病者57例)に実行したが、インフルエンザ被曝と脳形態的測定との間には分裂病者に見られた相関は認められなかった。正常者のみに限定した解析でも相関は見られなかった。

 以上、本論文は胎生中期のインフルエンザ感染への曝露リスクは分裂病者の脳形態的異常、つまりシルヴィウス脳溝の拡大との相関を示している。これは、胎生期の脳中枢の発達期の重要な時期でのインフルエンザへの感染は、言語中枢の局在する側頭葉領域の異常をもたらす可能性を示唆する。統計学的相関は必ずしも直接の"causal"連関を導き出しえるものではないが、分裂病者脳に従来から指摘されている形態学的異常の病態発生メカニズムは何等解明されていないことを考えれば、本研究で認められた関連はその解明の糸口を提供する重要な意義を有すると考えられる。従って、本研究は学位授与に値する研究と思われる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53986