学位論文要旨



No 213217
著者(漢字) 下山,省二
著者(英字)
著者(カナ) シモヤマ,ショウジ
標題(和) 膵臓癌におけるアンギオゲニンの過剰発現とその臨床的意義
標題(洋)
報告番号 213217
報告番号 乙13217
学位授与日 1997.02.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第13217号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武藤,徹一郎
 東京大学 教授 幕内,雅敏
 東京大学 教授 小俣,政男
 東京大学 教授 石川,隆俊
 東京大学 教授 森,茂郎
内容要旨 【研究の背景および目的】

 血管新生は創傷治癒などの組織の再生過程のみならず,悪性腫瘍や一部の慢性炎症性疾患においても重要な役割を果たしている.今日まで,いくつかの血管新生因子が報告され,これらが血管内皮細胞や線維芽細胞に作用し,標的細胞の分化遊走,標的細胞からの蛋白分解酵素の産生,間質の線維化に深く関わっており,臨床的にも血管新生因子は,炎症性疾患においては間質の線維化や組織の再構築と,悪性腫瘍においては,発癌,腫瘍増殖,転移などと密接に関係しているとされている.

 Angiogenin(ANG)は,血管新生因子の1つであるが,ANGの発現に関する知見は少なく,さらにANGの発現の臨床的意義についての考察はみあたらない.したがって,今日まで膵臓癌や慢性膵炎については検討されていない.そこで著者は,膵臓癌,慢性膵炎ならびに正常膵におけるANGの発現の差と,その臨床病理学的意義を知る目的で,これらの疾患におけるANGの発現を分子生物学的手法を用いて検討した.

【対象と方法】

 ANG mRNAの発現は,in situハイブリダイゼーション法を用いて検討した.使用したcDNAプローブは5’末端と3’末端をジゴキシゲニンで標識したものを使用し,融解温度(Tm)は86℃である.ホルマリン固定された40例の膵臓癌組織,11例の慢性膵炎組織,11例の非癌部正常膵組織から5mの薄切切片を作成し,脱パラフィン,プロテイナーゼK消化(10g/ml),0.4%パラホルムアルデヒド再固定,プレハイブリダイゼーション(1時間)の過程を経て,2000ng/mlの濃度のANG cDNAプローブで1晩ハイブリダイゼーションをおこなった.洗浄後,切片をアルカリフォスファターゼ標識抗ジゴキシゲニン抗体と反応させ,最後に4時間の発色反応の後,核染はおこなわずに封入した.なお,ANG cDNAプローブを除外してハイブリダイゼーションをおこなう方法と,プレハイブリダイゼーションの前に切片をRNase Aで処理したのち同量の(2000ng/ml)ANG cDNAプローブでハイブリダイゼーションをおこなう方法の2通りのnegative controlを作成した.

 ANG蛋白の発現は,新鮮凍結標本を用いたウエスタンブロット法で検討した.15例の膵臓癌組織,11例の慢性膵炎組織,ならびに2例の臓器移植提供者由来の正常膵組織から蛋白を抽出し,総蛋白量を測定後,1レーンあたり150gの蛋白を15%SDS-polyacrylamide gelで電気泳動(SDS-PAGE)し,ニトロセルロース膜に転写した.次にニトロセルロース膜を山羊抗ヒトANG抗体,ビオチン標識抗山羊抗体,およびアビジン-アルカリフォスファターゼ結合体の順に反応させた.蛋白バンドの検出にはウェスタンライトシステムを用い,最後にECLフィルムに感光させた.

 血清中のANG濃度は,ELISA(enzyme-linked immunosorbent assay)キットを用いて測定し,47例の膵臓癌患者,19例の慢性膵炎患者,および16例の健常人の血清を使用した.200倍に希釈したサンプル血清をmicrotitrewellに加えた後,ベルオキシダーゼ標識抗ヒトANG抗体と反応させ,tetramethyl-benzidine-H2O2溶液で発色させ,450nmの波長で吸光度を測定した.さらに34例の膵臓癌患者については,血清中のCA19-9およびcarcinoembryonic antigen(CEA)の値も測定し,血清中のANG濃度と比較した.

 全体および1年生存率を累積法および直接法で算出した.膵臓癌組織はTNM分類にしたがって分類した.生存率の差の検定にはGeneralized Wilcoxon test,Logrank testやGreenwoodの近似式を,平均値の差の検定にはStudent t-testを,2×2表における独立性の検定にはFisher’s exact testを用いて検討し,統計学的有意差はp<0.05をもって有意差ありとした.

【結果】

 膵臓癌組織ではANGmRNAの発現は40例中32例(80.0%)に,ANG蛋白の発現は15例中13例(86.7%)において認められ,線維芽細胞をはじめとする膵臓癌の間質中の細胞にもANGmRNAの発現が認められた.これに対し,慢性膵炎組織,正常膵組織にはANGmRNAの発現は検出されず,ANG蛋白の発現は非常に弱かった.

 膵臓癌患者の血清中の平均ANG濃度は,慢性膵炎患者や健常人における血清中の平均ANG濃度に比べて有意に上昇していた(p<1.0x10-8vs.慢性膵炎患者,p<2.0x10-8vs.健常人).さらに,血清中のANG濃度は膵臓癌患者では28例(59.6%)で500ng/ml以上であったのに対し,慢性膵炎患者,健常人では全例で500ng/ml未満であった.血清中のCA19-9値が正常範囲内で血清中のANG濃度が上昇している(>500ng/ml)症例は8例中3例(37.5%)で,血清中のCEA値が正常範囲内で血清中のANG濃度が上昇している(>500ng/ml)症例は21例中11例(52.4%)であった.さらに,血清中のCA19-9値とCEA値との両方が正常範囲内で血清中のANG濃度のみが上昇している(>500ng/ml)症例は6例中2例(33.3%)であった.

 膵臓癌症例について,ANGmRNA発現の有無および血清ANG濃度と癌の臨床病理学的因子との相関を検討した.ANGmRNAの発現が認められた症例では,認められなかった症例に比べ,直接法,累積法ともに有意に1年生存率が低下していた(いずれもp<0.05).また,血清中のANG濃度の高い症例(>500ng/ml)では,低値の症例(<500ng/ml)に比べ,直接法,累積法ともに有意に1年生存率が低下していた(p<0.03;直接法,p<0.05;累積法).

【考察】

 今日までいくつかの血管新生因子が報告され,これらの血管新生因子が一部の慢性炎症性疾患や腫瘍細胞の生物学的動態に重要な役割を果たしていると考えられているが,血管新生因子の1つであるANGについては,膵臓癌や慢性膵炎における発現とその意義はまだよくわかっていない.そこで著者は,膵臓癌と慢性膵炎におけるANGの発現を,分子生物学的手法をつかって正常膵組織と比較して検討し,その意義について考察した.

 ANGmRNAの悪性腫瘍における発現は,大腸癌では80.0%の症例に,胃癌では57.1%の症例でみられ,いくつかの培養腫瘍細胞でもその発現が報告されている.著者の研究では,膵臓癌組織では慢性膵炎組織や正常膵組織と比較して,ANGmRNAやANG蛋白が過剰発現し,血清中のANG濃度も,膵臓癌患者では慢性膵炎患者や健常人に比べ有意に上昇していることから,膵臓癌では組織中および血中にANGが過剰発現しているものと思われた.さらにANGmRNAが癌細胞のみならず癌組織の間質中の細胞にも発現しているという知見は,ほかのいくつかの細胞増殖因子と同様,ANGのパラクライン作用を示唆している.

 ANGは血管内皮細胞に対する分化遊走促進作用はなく,血管内皮細胞表面のアクチン様物質と結合することで,ANG発現細胞と血管内皮細胞や細胞外基質との接着促進,蛋白分解酵素の活性化の促進が報告されている.一方,基底膜成分や細胞外基質の分解は,血管新生の過程においても必須であり,癌細胞の細胞外基質内への浸潤と血管新生過程における血管内皮細胞の動態とは類似していることを考慮すると,膵臓癌細胞のANGは,癌細胞の細胞外基質内への浸潤促進,癌細胞と血管内皮細胞との接着促進,さらに癌細胞の遠隔転移の促進に重要な役割を果たしているものと思われる.

 この観点から,ANGの発現の程度と膵臓癌の臨床病理学的因子との関連を検討すると,ANGmRNAの過剰発現のみられた症例や血清中のANG濃度が高い症例では,低い症例に比べて1年生存率が有意に低く,ANGの膵臓癌における発現は膵臓癌の悪性度に寄与していると思われる.

 慢性炎症性疾患においても,組織の線維化の過程で,いくつかの血管新生因子が重要な役割を果たしているが,著者の検討では慢性膵炎においてはANGの発現はmRNAレベルにおいても蛋白レベルにおいても認められなかった.ANGはほかの血管新生因子とは作用機序が異なり血管内皮細胞や間質細胞に対する直接的な増殖作用がないことと,最近ではANGの細胞接着因子としての作用が注目されていることを考慮すれば,慢性膵炎の病態の成立にはANGの寄与は少ないものと思われる.

 膵臓癌患者の約60%で血清中のANG濃度が上昇し,さらに血清中のCA19-9値やCEA値が正常範囲内でありながら血清中のANG濃度が上昇している症例もみられたことは,今後血清中のANG濃度が膵臓癌における腫瘍マーカーの1つとして診断に利用できる可能性を示唆している.またANGは膵臓においては慢性炎症の過程よりも癌の浸潤転移に関わっていると考えられることから,抗ANG抗体もしくはANGアナログが,生理的反応としての血管新生を阻害せずに,膵臓癌においてのみANGの作用を阻害できるという可能性が示唆される.将来的にはANGの作用を抑制することで,癌細胞の浸潤転移抑制を図り,外科的切除と組み合わせることで,膵臓癌患者の治療成績が向上することも期待される.

【結語】

 ANGmRNAおよびANG蛋白の発現は,正常膵組織および慢性膵炎組織と比較して,膵臓癌組織において増強しており,血清中のANG濃度も,健常人血清および慢性膵炎患者血清と比較して,膵臓癌患者血清において有意に上昇していた.ANGの膵臓癌における発現は,膵臓癌細胞の浸潤転移と悪性度に関与していることが示唆された.今後,血清中のANG濃度が膵臓癌における腫瘍マーカーの1つとして診断に利用できる可能性があり,さらにANGの作用を抑制することが癌細胞の浸潤転移抑制につながり,膵臓癌の治療にも応用できることが期待される.

審査要旨

 本研究は,悪性腫瘍の発生,増殖,転移に重要な役割を演じていると考えられている,血管新生因子の役割を明らかにするため,膵臓癌において,血管新生因子の1つであるアンギオゲニン(ANG)の発現とその臨床的意義について,膵臓癌,慢性膵炎,正常膵の臨床材料を用い比較検討を試みたものであり,下記の結果を得ている.

 1.ANGに対するcDNAを用い,in situハイブリダイゼーション法を用いてANGmRNAの発現を検討した結果,膵臓癌組織においては,80%の症例にANGmRNAの発現が認められたのに対し,慢性膵炎組織,正常膵組織においては,ANGmRNAの発現は認められなかった.さらに膵臓癌組織においては癌間質の線維芽細胞にもANGmRNAの発現が認められていることが初めて示され,ANGが他の血管新生因子と同様にstromal epithelial interactionに関与している可能性が示唆された.

 2.抗ANG抗体を用い,ウエスタンブロット法でANG蛋白の発現を検討した結果,膵臓癌組織においては,86.7%の症例にANG蛋白の発現が認められたのに対し,慢性膵炎組織,正常膵組織においては,ANG蛋白の発現は非常に弱く,このことから膵臓癌においては,蛋白レベルでもANGが過剰発現していることが示された.

 3.Enzyme-linked immunosorbent assay(ELISA)法を用いた血清中のANG濃度の検討では,膵臓癌患者血清中の平均ANG濃度は,慢性膵炎患者血清や健常人血清中の平均ANG濃度と比較して有意に上昇しており,膵臓癌ではANGが分泌され,それが血清中のANG濃度の増加として反映されていることが示された.

 4.さらに従来から用いられている腫瘍マーカー(CEA,CA19-9)値とANG濃度とを比較検討すると,膵臓癌患者ではCEAやCA19-9値が正常範囲であるにもかかわらず,ANG濃度が上昇している症例が33.3%に認められ,ANGが,膵臓癌の補助診断手段の1つである腫瘍マーカーとして利用できる可能性が示唆された.

 5.ANG発現と膵臓癌の臨床病理学的因子との相関を検討すると,ANGmRNAの発現が認められた症例や血清ANG濃度が上昇している症例では,そうでない症例に比べて有意に術後生存率が低下しており,ANG発現が膵臓癌の悪性度とも相関していることが初めて示された.

 以上,本論文は,これまで未知に等しかった膵臓癌におけるANG発現を,mRNAと蛋白レベルで明らかにしたものであり,さらにそれが膵臓癌の悪性度とも関係していることを示したものである.さらにANG濃度の測定が,膵臓癌の診断にも応用できる可能性をも示唆したものであり,本研究は膵臓癌の診断,治療法の確立に重要な貢献をなすと考えられ,学位の授与に値するものと考えられる.

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