学位論文要旨



No 213230
著者(漢字) 中谷,操子
著者(英字)
著者(カナ) ナカヤ,ミサコ
標題(和) コイ普通筋ミオシン・アイソフォームの構造安定性に関する生化学的研究
標題(洋)
報告番号 213230
報告番号 乙13230
学位授与日 1997.03.03
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第13230号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 教授 山口,勝己
 東京大学 教授 伏谷,伸宏
 東京大学 教授 会田,勝美
 東京大学 助教授 小林,牧人
内容要旨

 魚類の可食部はほとんどが筋肉で占められるが、そのタンパク質は畜肉のものに比べて一般に不安定とされる。筋肉タンパク質中、ミオシンが最も多くを占め、したがって、熱安定性を含めたその特性は魚肉の貯蔵性や加工適性に大きな影響を及ぼす。近年、コイ普通筋が馴化温度に依存して複数のミオシン・アイソフォームを発現することが明らかにされた。低温馴化コイから得られたミオシンは、高温馴化コイのものと比較してMg2+-ATPase活性は高いものの、Ca2+-ATPase活性を指標としたときの熱安定性は劣る。一方、ペプチドマップ分析からはアイソフォーム間の一次構造の差はきわめて小さいことが示唆されている。したがって、馴化温度依存的に発現するコイ普通筋ミオシン・アイソフォームの構造安定性の比較は、魚肉タンパク質の特性を探る上で格好の対象と考えられる。本研究はこのような背景の下、10および30℃に馴化したコイ普通筋からミオシンを精製し、まず、Mg2+-ATPase活性やCa2+-ATPaseの熱安定性を比較した。次いで、両ミオシンをプロテアーゼ処理してその消化性を比較するとともに、得られたミオシン各フラグメントのN末端アミノ酸配列分析や免疫化学的解析を行った。さらに、ミクロカロリメトリー分析を行い、両ミオシン間の熱安定性を比較した。得られた研究結果の大要は以下の通りである。

1.ミオシン・アイソフォームのATPase活性とプロテアーゼ消化性

 10および30℃馴化コイの普通筋から常法によりミオシンを精製した。このミオシンにウサギ速筋F-アクチンを加え、種々の温度でアクチン活性化ミオシンMg2+-ATPase活性を測定してアウレニウス・プロットを行い、活性化エネルギーを算定した。その結果、10および30℃馴化コイのミオシンでそれぞれ約110および130kcal/molと、10℃馴化コイの活性発現部位がより柔軟な構造をもつことが示唆された。そこでミオシンを加熱したときに一次反応的に減少するCa2+-ATPase活性を指標に、両ミオシンの熱安定性を調べた。その結果、10および30℃馴化コイのミオシンの加熱温度30℃における変性速度恒数はそれぞれ3.0および1.8x10-4s-1と、10℃馴化コイのミオシンが30℃馴化コイのそれより1.7倍熱安定性が低いことが示された。

 ミオシン分子はプロテアーゼ限定分解により、N末端側のATP分解の触媒部位およびアクチンとの結合部位を含む頭部サブフラグメント-1(S1)と、C末端側の-らせんからなる尾部ロッドに分かれる。ロッドはプロテアーゼ限定分解でさらに、N末端側のサブフラグメント-2(S2)と、C末端側のL-メロミオシン(LMM)に分かれる。そこで、これら2つのプロテアーゼ切断領域の消化性につき、10および30℃馴化コイのミオシンを対象に調べた。まず、0.12MNaCl中のミオシンに、ミオシンに対する重量比で1/120の-キモトリプシンを加えて10℃で消化したところ、10および30℃馴化コイのものともS1およびロッドに一次反応的に分解したが、その速度定数はそれぞれ4.2および6.1x10-4s-1と、むしろ10℃馴化コイのミオシンの方がプロテアーゼ消化に対しては安定であった。さらに常法により高純度に精製したロッドを0.5MKClに溶解し、ロッドに対する重量比1/100の-キモトリプシンを加えて10℃で消化したところ、両ミオシンともS2およびLMMに分解し、その速度定数はいずれも2x10-4s-1と算定された。

2.ミオシン・アイソフォームの部分一次構造と免疫化学的性状

 まず、30℃馴化コイのS1につき、トリプシン限定分解を行った。SDSゲル電気泳動分析の結果、N末端側からの3つの25、50および20kDaフラグメントが検出された。一方、同条件下で10℃馴化コイのS1を処理したところ、20kDaフラグメントの代わりに23kDaフラグメントが認められた。そこで、各バンドにつきN末端アミノ酸配列を分析した結果、25kDaフラグメントは両馴化コイのものともN末端アミノ酸が検出されず、修飾されていることが示唆された。次に、50kDaフラグメントにおいては、10℃馴化コイではKAEAVPGKMQGSLE、他方30℃馴化コイではKPEPVPGKMQSSLEDQIVAと、両S1間で明らかに一次構造が異なることが示された。さらに、30℃馴化コイS1の20kDaフラグメントではKKGLDNETVSAKFの配列が得られた。一方、10℃馴化コイS1の23kDaフラグメントのN末端アミノ酸配列はKPKPAQQAEPと、切断部位が50kDaフラグメントのC末端領域に入り込んでいることが示唆された。

 次に、両馴化コイのロッドにつき、N末端アミノ酸配列分析を試みたが、同定することができなかった。そこで、常法によりLMMを精製してSDSゲル電気泳動分析に付したところ、10℃馴化コイからは分子量69、66および62kDaの3本のバンドが、一方、30℃馴化コイからは74、69、66および62kDaの4本のバンドが得られた。各バンドのN末端アミノ酸配列分析を行ったところ、10℃馴化コイの69および66kDa成分はRAKYETDAIQRTEELEEの配列を示した。なお、62kDaのバンドからはAANLDKKQRNLDKVLAの配列が得られ、既報の他種ミオシンの一次構造との比較から、この配列のN末端は先の69および66kDa成分より約70残基C末端側に位置することが推察された。一方、30℃馴化コイの4本のバンドはいずれもRTKYETDAIQRTEELEEで、両ミオシンはロッド部分の一次構造も異なることが示された。

 さらに、10℃馴化コイのミオシンを抗原にマウスを免疫し、モノクローナル抗体の調製を試みた。その結果、S1に対する抗体を産生する35A11、41C2および41D12の細胞株を樹立することができた。S1のトリプシン限定分解物に対するイムノブロッティング分析の結果、35A11および41C2株はそれぞれS1の25kDaおよび50kDaフラグメントを認識することが明らかとなったが、30℃馴化コイS1のトリプシン分解物との反応性の差異はみられなかった。一方、41D12株の産生する抗体は10℃馴化コイのS1から特異的に得られるC末端側の23kDaフラグメントに特に強く反応したが、25kDaおよび50kDaフラグメントとの反応性もみられた。

 次に、30℃馴化コイのロッドを抗原としてモノクローナル抗体の調製を試みた。樹立された37G3細胞株の産生する抗体の特異性をイムノブロッティング法で調べたところ、30℃馴化コイのロッドおよびLMMにある程度の特異性を示したものの、10℃馴化コイ由来のものとの差は大きくなかった。

3.ミオシン・アイソフォームのミクロカロリメトリー

 まず、前述のように調製した10および30℃馴化コイのミオシンをpH8.0の0.6M KClに溶解し、示差走査熱量計(DSC)に昇温速度2.5℃/分の条件下で付した。その結果、タンパク質のunfoldingに伴う吸熱反応の転移温度(Tm)は、10℃馴化コイのミオシンでは32.8、34.9および47.4℃に観察された。各Tmのカロリメトリー・エンタルピー(△Hcal)はそれぞれ73、228および80kcal/molで、34.9℃の吸熱ピークが最も高かった。一方、30℃馴化ミオシンのTmは35.9、39.7および49.1℃と測定され、△Hcalはそれぞれ248、211および91kcal/molで、39.7℃の吸熱ピークが最高であった。そこで次にロッドについても同様に分析したところ、10℃馴化コイのTmは32.9、33.4および44.1℃と、△Hcalはそれぞれ86、146および69kcal/molと測定された。他方、30℃馴化コイのTmは34.5、39.7および46.7℃と、△Hcalはそれぞれ95、115および159kcal/molと測定された。いずれのロッドも中間温度の吸熱ピークが最も高かった。したがって、ミオシンで観察されたTmはロッドのそれに由来すること、最大吸熱ピーク同士を比較すると10℃馴化コイのロッドは30℃馴化コイのそれより約6℃も低いこと、が明らかとなった。

 次に、20℃における円二色性(CD)の測定からロッドの222nmにおける分子楕円率を求めて-らせん含量を調べたところ、10および30℃馴化コイのものとも70%以上の値が得られた。さらに、種々の温度で222nmにおける分子楕円率を調べ、単位上昇温度当たりの-らせんの崩壊度を算出した。その結果、両馴化コイのロッドとも極大値を示す温度は上述のTmとよく類似し、ロッドのunfoldingが-らせんの崩壊によるものであることが明らかになった。

 さらに両馴化コイのロッドからLMMを調製し、DSCおよびCD分析に付した。その結果、10℃馴化コイLMMのTmは32.5および39.5℃と、△Hcalはそれぞれ269および52kcal/molと測定された。一方、30℃馴化コイLMMのTmは39.2および47.3℃と、△Hcalはそれぞれ231および39kcal/molと測定された。いずれのLMMも低温側の吸熱ピークが著しく高かった。したがって、LMMの場合でも最大吸熱ピークのTmを比較すると10℃馴化コイのものの方が約7℃低く、熱安定性に劣ることが明らかとなった。CD測定でもロッドの場合と同様に、DSCの吸熱ピークは-らせんの崩壊に基づくことが明らかとなった。

 以上本研究により、コイは10および30℃馴化に伴って頭部S1および尾部ロッドとも一次構造の異なる普通筋ミオシン・アイソフォームを発現することが示された。さらに両ミオシン・アイソフォームのプロテアーゼ感受性には大きな差はみられないものの、頭部S1ではCa2+-ATPaseを指標として、尾部ロッドではDSC測定によって、いずれも10℃馴化コイの方で30℃馴化コイより熱安定性が劣ることが明らかにされた。これらの成果は食品生化学上のみならず、比較生化学上にも資するところが大きいものと考えられる。

審査要旨

 近年、低温馴化コイのミオシンは、高温馴化コイのものに比べてMg2+-ATPase活性は高いものの、Ca2+-ATPase活性を指標とした熱安定性は劣ることが明らかにされてきた。一方、ペプチドマップ分析から両ミオシン・アイソフォーム間の構造の差は小さいことが示唆された。したがって、馴化温度依存的に発現するコイ普通筋ミオシン・アイソフォームの構造安定性の比較は、魚肉タンパク質の特性を探る上で格好の対象と考えられる。そこで本研究はまず、10および30℃に馴化したコイ普通筋ミオシンのMg2+-ATPase活性やCa2+-ATPaseの熱安定性およびプロテアーゼ消化性を比較した。次に、各フラグメントのN末端アミノ酸配列分析や免疫化学的解析を行うとともに、ミクロカロリメトリー分析を行い、両ミオシン間の熱安定性を比較した。

 まず、10および30℃馴化コイのアクチン活性化ミオシンMg2+-ATPase活性を測定し、その活性化エネルギーを算出したところ、それぞれ110および130kcal/molとなり、10℃馴化コイのミオシンの活性発現部位がより柔軟な構造をもつことが示唆された。一方、ミオシンを加熱したときに一次反応的に減少するCa2+-ATPase活性を指標とした熱安定性は、10℃馴化コイのミオシンで30℃馴化コイのそれより約1.7倍低いことが示された。次に、0.12M NaCl中のミオシンを-キモトリプシンで消化したところ、10および30℃馴化コイのミオシンともサブフラグメント-1(S1)およびロッドに一次反応的に分解し、その速度定数はそれぞれ4.2および6.1×10-4s-1と算定された。したがって、この消化性に関する限り、10℃馴化コイのミオシンの方がやや安定であることが示された。なお、0.5M KCl中のロッドの-キモトリプシン消化性は両馴化コイ間で差がなく、速度定数はいずれも2×10-4s-1と算定された。

 次に、ミオシンの各サブフラグメントのN末端アミノ酸配列を分析した。10および30℃馴化コイS1のトリプシン限定分解で生じた50kDaフラグメントは、それぞれKAEAVPGKMQGSLEおよびKPEPVPGKMQSSLEDQIVAと、両フラグメント間で明らかに異なる配列が示された。さらに、10℃馴化コイのL-メロミオシン(LMM)の主成分はRAKYETDAIQRTEELEEであったのに対して、30℃馴化コイのそれはRTKYETDAIQRTEELEEと分析された。したがって、10および30℃馴化コイのミオシンは、S1およびロッドのいずれの領域も一次構造の異なることが明らかとなった。一方、10℃馴化コイのミオシンに対する抗体はS1を認識することが明らかとなったが、30℃馴化コイS1との反応性の差異はみられなかった。さらに、30℃馴化コイのロッドに対する抗体は、30℃馴化コイのロッドにある程度の特異性を示したものの、10℃馴化コイ由来のものとの差は大きくなかった。したがって、両馴化コイのミオシン間で、立体構造に大きな差はないものと判断された。

 次に、0.6M KCl(pH8.0)中の10℃馴化コイのロッドの示差走査熱測定(DSC)を行った結果、転移温度(Tm)は32.9、33.4および44.1℃、該当する△Hcalはそれぞれ86、146および69kcal/molと測定された。他方、30℃馴化コイのTmは34.5、39.7および46.7℃、△Hcalはそれぞれ95、115および159kcal/molと測定され、30℃馴化コイのロッドの熱安定性の高いことが明らかとなった。なお、円二色性の測定から、ロッドのunfoldingが-らせんの崩壊によるものであることが明らかとなった。さらに、LMMのDSC分析を行ったところ、10℃馴化コイLMMのTmは32.5および39.5℃、△Hcalはそれぞれ269および52kcal/molと測定された。一方、30℃馴化コイLMMのTmは39.2および47.3℃、△Hcalはそれぞれ231および39kcal/molと測定され、LMMでも10℃馴化コイの熱安定性が劣ることが明らかとなった。また、LMMのDSCにおける吸熱ピークも、-らせんの崩壊に基づくことが明らかとなった。

 以上、本研究は、コイが10および30℃馴化に伴って一次構造の異なる普通筋ミオシン・アイソフォームを発現することを示すとともに、頭部S1ではCa2+-ATPaseを指標に、尾部ロッドではDSC測定によって、いずれも10℃馴化コイの方で30℃馴化コイより熱安定性が劣ることを明らかにしたもので、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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