本研究は、園芸博覧会の成立と特性、全国都市緑化フェアと国際花と緑の博覧会の特性の考察を通して、園芸博覧会と公園緑地の形成に及ぼした影響、日本の代表的な緑地文化である日本庭園などの出展展示の意義と効果、およびコンテスト、設計競技が緑地と緑化への啓発に与えた役割を考察し、その成果のもとに今後の全国都市緑化フェア及び国際園芸博覧会のあり方並びに公園緑地施策の方向について論考したものである。 園芸博覧会の成立 19世紀に園芸展示会がロンドンをはじめヨーロッパ各地で盛んに開催されるようになり年々その規模を大きくし、愛好家と企業の連携から国や市との提携へと進んでいった。さらに展示内容も広がり、国際園芸博覧会が確立された。 第二次世界大戦後、西ドイツにおいて連邦庭園博覧会が組織化され、1951年のハノーファーの第1回の開催以来戦災を受けた公園緑地、都市の復興に大いに寄与した。ケルンの連邦庭園博(1957年)から会場の中に青少年用の施設が導入され、遊びも運動も連邦庭園博の構成要素となった。 1967年のカールスルーエでは、車道を地下化しシュロス前広場を歩行者天国にして、都市改造の一端を担った。1981年のカッセルの会場には自然保護区域が設けられ、ミュンヘンの国際庭園博(1983年)では湿原が展示され、自然の生態問題にも取り組むようになった。 このようにドイツの連邦庭園博は変化する社会の要請に応え、公園緑地さらに都市の整備に大いに寄与しており、展示、会場づくりも時代に即応したものになっている。 全国都市緑化フェアと国際花と緑の博覧会 (1)園芸博覧会の日本版ともいえる全国都市緑化フェアは、開催形態により、創成期、博覧会期、花と緑の祭典期の三期に分けられる。創成期の大阪フェアでその理念と方針が大成され、会場の構成、展示催物についても形態、運営が一応整えられた。博覧会期に入る神戸フェアでは民間パビリオンを導入し大型遊戯機を設け会場の有料化を行い、緑化フェアの博覧会色が強められた。民間のパビリオンは、その後継続して設置されているが、遊園地的な遊戯機は熊本、仙台、北九州の地方都市においてみられた。 神奈川フェアから、花と緑の祭典期に入り、美しい花壇の展示に重点が向けられ、京都フェアでは庭園の展示に工夫がなされ、花と緑のコンテストが始められた。埼玉フェアから学校花壇の参加があり、住民参加も定着してきて、緑化フェア開催による緑化意識の向上と知識の普及に大きな効果を上げていくものと期待されている。 (2)緑化フェアの国際版である国際花と緑の博覧会(以下、花の万博という)は1990年に大阪の鶴見緑地で開催され、その基本理念において自然と生命をたたえ、花と緑のふるさと、新しい広場の造形、新しい園遊の作法の創造が提言され、自然讃歌の場とするものであった。 会場(約150ha)は、山のエリア、野原のエリア、街のエリアの柔軟な三つのエリアから構成された。山のエリアに、政府苑を中心に国際庭園など、野原のエリアでは大花壇そして国際展示館、街のエリアにはパビリオン群とアミューズメント施設が建設された。 緑の構成は、伝統的な造園手法による緑の演出と新しい技術や手法を表示するものであり、花の演出は、「花と緑の歳時記」にまとめられ、ベルト状花壇や花の谷、立体花壇などで飾られた。 会期中の入場者数は2,312万余人、国の内外から多数の出展参加があり、コンテストやナショナルデーなどの催事や多彩な催し物、花と緑の演出が展開された。花の万博は、国際的規模で緑の文化の交流と緑化の啓発などに寄与した。 園芸博覧会と公園緑地 ハンブルク市は、1953年に第1回の国際庭園博をプランテン・ウン・ブローメンを中心に開催したが、その後10年毎に2回の国際庭園博をプランテン・ウン・ブローメン、植物園、大・小のウォール緑地を会場にして開催し、街路で分断されていた公園緑地を陸橋や地下道で延長3kmの緑の回廊を完成させた。 シュトゥットガルト市は、1961年と1977年の連邦庭園博で都心から上、中、下のシュロッス庭園、ローゼンシュタイン公園と続く緑地を整備した。1993年の国際庭園博においてキレスベルク公園に達する「グリーンU」の8kmの緑の回廊が完成させた。 このように長い年月をかけて計画的に公園緑地を整備するとともに、それらのネットワーク化をはかり、緑の回廊を完成させている。 全国都市緑化フェアの会場造りと公園緑地の整備形態との関係は、a)公園緑地の改修整備、b)公園緑地の拡充整備、c)公園の新設の三に分けられる。準備期間の短い前半の緑化フェアに公園緑地の改修整備が集中しており、後半に公園緑地の拡充整備や公園の新設が行われるようになった。緑化フェアでは、公園緑地の単発的整備がなされているが、長期的な計画での緑地のシステム化はまだ見られない。 日本庭園と出展展示 (1)国際博覧会において日本の代表的緑地である日本庭園の果たした役割は大きい。1974年のウィーンの国際園芸博に本格的な日本庭園が出展され、1979年ボンの連邦庭園博、1983年ミュンヘンの国際庭園博つづいて1984年のリバプールの国際庭園博に回遊式庭園が出展された。このように日本庭園の出展を重ねるにつれ、その設計構想、造園工事の方法も確立され、その本質の解説も適切になり、日本の造園美ひいては文化が興味本位から空間造形として理解を深められるようになってきた。 日本庭園の出展形式を選定する場合、敷地規模、立地条件を十分考慮することが重要で、また管理体制の確立が必要であることが指摘された。 (2)花の万博では、海外からの屋内展示は62カ国、52国際機関(パネル展示)であり、屋外展示では53カ国、35国際機関が55の庭園を出展した。庭園では、特徴的な伝統的庭園・花壇の出展が最も多く、それらの築庭の指導監督のために、出展国から造園家や園芸家が来場し、一部の庭園工事では開幕後も作業が行われ観客の興味を引き、造園文化の交流には出展そのものと同時に施工技術の紹介も効果的であることが示された。 園芸博覧会の効用と緑の啓発 (1)日独の園芸博覧会利用者の比較検討を行った。利用者の構成は、両国ともに女性の利用者が年々多くなっており、日本は高齢化の傾向がある。また、家族連れが最も多く、また、来場の交通手段は自家用車の利用が多い。両国ともに利用者の会場に対する印象が良く、花と緑の修景施設や展示物に興味を示しており、園芸博覧会の効用は大きいといえよう。 日本の場合の問題は、再利用者が少なく、全国都市緑化フェアとはいえ、利用者の大部分が当該都道府県内の居住者であることにある。 (2)コンテストは、伝統的あるいは斬新な庭園、優秀な植物品種、新種などを評価展示し、その作品及び技術の一般の広範な理解を得て、技術の進歩と関連産業の活性化を図るものである。花の万博では、その審査日の入場者数は休日に匹敵するほど多く、イベント効果もあったという点も特徴的である。 屋外庭園部門のコンテストでは、国内からの伝統的日本庭園の参加が多くまた受賞も良く、国際庭園でも伝統的庭園を出展した国に受賞が多く面積の大きいほど良い成績をあげるという傾向がみられた。 (3)連邦庭園博の会場と関連公園緑地の構想の設計競技は、庭園博の実施団体か開催都市により、第1回ハノーファー庭園博(1951年)から行われているが、当初は適当な設計作品がなく開催者側で会場計画がすすめられた。設計競技の入選者が実際に参画したのは、ケルン(1957年)からで、受賞者の役割が明確にされたのはカールスルーへの庭園博(1967年)であった。1993年のシュトゥットガルトにおける国際庭園博の設計競技で1位に入賞したルツ案は、都心周辺に孤立している緑地をつなぐ緑の回廊「グリーンU」形成にとって適切な案でもあって、会場の実施計画に展開された。 設計競技は、計画技術の向上と一般への周知のためにも最適の方法として評価できる。 全国都市緑化フェアと公園緑地整備の方向 (1)全国都市緑化フェアは、地元地方公共団体と都市緑化基金との共催で行われているが、今後一層の住民参加と造園界の活性化を図り都市の緑化を推進するには、園芸関係の民間団体の参加が不可欠である。 (2)全国都市緑化フェアを含めて園芸博を契機として、都市緑化の推進と共に公園緑地系統の確立を図るという観点が必要である。そのため、長期的都市緑化計画を樹立または更新を行い、定期的に都道府県レベル、都市レベルの園芸博を開催し、その事業の促進を図ることが効果的である。 (3)海外の園芸博覧会において日本庭園の出展が求められてきたが、これは国際親善と文化の交流のためにも積極的な出展が望まれる。一方、日本における園芸博・緑化フェアにも海外からの庭園などの出展を積極的に要請していく必要がある。 (4)来るべき高齢化社会に対応して、公園緑地や園芸博において静的なレクリエーションとなる花緑の演出に一層努めると共に高齢者などの弱者が安全に快適に利用できるよう施設を改良整備する機会ならびに普及啓発の場としても緑化フェアを位置づける必要がある。 (5)全国都市緑化フェアにおいて、花壇、庭園などのコンテストだけでなく、産業振興の意味からも新品種を含めた植物材料に対するコンテストを行うことも今後考慮する必要があろう。 (6)魅力ある会場づくりのため将来の公園緑地の効用を高めるためにも、会場及びそれに関連する公園緑地の設計競技を余裕をもって事前に行い一般に周知させることが肝要である。 |