学位論文要旨



No 213232
著者(漢字) 下山,晴彦
著者(英字)
著者(カナ) シモヤマ,ハルヒコ
標題(和) スチューデント・アパシーに関する臨床心理学的研究
標題(洋)
報告番号 213232
報告番号 乙13232
学位授与日 1997.03.05
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第13232号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡部,洋
 東京大学 教授 大村,彰道
 東京大学 教授 衞藤,隆
 東京大学 教授 箕浦,康子
 東京大学 教授 越智,浩二郎
内容要旨

 スチューデント・アパシーは、1960年代に日本および米国で見出だされた、特異的無気力を呈する一群の大学生の状態を示す用語である。本研究は、このスチューデント・アパシーの障害概念を確定し、その社会的背景を検討することを目的としたものである。

 第1部(第1章-第2章)では、第1章で研究の歴史を概観し、米国ではその後研究が全くなされなかったことから、スチューデント・アパシーが日本の青年期に特有な障害であることを明らかにした。また、障害概念に関しては研究者間で一致した見解が得られておらず、しかも精神障害論や青年期発達論の観点からは不明な点が多いことを指摘し、統合的な障害概念の形成が緊急の課題であることを明らかにした。第2章では、既存の研究の問題点としてスチューデント・アパシーの特異的障害に対応できる心理臨床技法がないことを指摘し、研究を進めるのに際しては新たな援助技法の開発と障害概念の研究を循環的に行う実践研究として臨床心理学研究法を採用する必要があることを示した。

障害の概念モデルの生成 (第2部:第3章-第5章)

 スチューデント・アパシーは、学業回避、閉じ籠もり、意欲低下といった不適応状態を呈しながらも当事者達の問題意識は希薄で、むしろ自らの不適応を否認し、現実に直面せざるを得ない場面を極力避けるといった特異的障害を示す。そのため、自己の問題を意識し、それを内面の悩みとして語る能力を前提とする心理療法(カウンセリング)モデルによる援助では対応できない。そこで筆者は、新たな援助技法として「関係をつなぐ」アプローチを開発した。第3章では「関係をつなぐ」アプローチを適用することで障害の理解を深めることのできた事例の事例研究を行い、その結果に基づいて「行動障害」「心理障害」「性格傾向」の3次元から成る障害概念を仮説として生成した。仮説は、行動障害として「回避、否認、分裂」、心理障害として「自己不確実、アンヘドニア、時間拡散」、性格傾向として「強迫性、(受動的)適応性、(自己愛的)自立性」を含んでおり、各研究者の見解を3次元で整理し、混乱していたスチューデント・アパシーの障害概念を統合する可能性を示唆するものであった。

 第4章では「関係をつなぐ」アプローチをシステマティックに適用したことによって、"悩めない"という基本障害をつきとめることができた事例の事例研究を示した。この事例研究では、"悩めない"基本障害を強化する悪循環の回路がみられることも明らかとなり、障害形成の全体構造が示された。なお、事例研究において「関係をつなぐ」アプローチの援助技法としての独自性と有効性が認められたので、「関係をつなぐ」アプローチを改めて「つなぎモデル」と命名し、その心理臨床技法の展開を示した。

 第5章では、第3章で示した障害の3次元が,"悩めない"基本障害を強化する悪循環の回路の構成要素として相互に関連し合って障害形成のシステムを構成していることを指摘した。ここでスチューデント・アパシーの障害を構造として理解できることが明らかとなったので、障害の3次元の概念仮説を概念モデルとして生成することとした。生成された概念モデルは「悩まない」行動障害、「悩めない」心理障害、「自立適応強迫」性格の3次元の構造から成るとし、名称を「3次元構造モデル」とした。「悩まない」行動障害の次元は「回避する」「否認する」「分裂する」行動から、「悩めない」心理障害の次元は「自分のなさ」「実感のなさ」「張りのなさ」といった心理状態から、「自立適応強迫」性格の次元は「きちんとしていたい」「場の期待に合わせる」「情緒的に依存しない」といった性格傾向から構成されており、障害レベルは人格障害として位置付けられることが示された。

障害の概念モデルの検証 (第3部:第6章-第9章)

 第3部では、第2部で生成されたスチューデント・アパシーの障害の概念モデルの妥当性を臨床心理学研究法の観点から検討した。

 第6章では、臨床心理学研究におけるモデルの妥当性は、普遍性、論理性、客観性といった自然科学パラダイムの基準によって検証されるのではなく、具体性、実践性、有効性(具体的事例における実践的有効性)といった実践研究の基準によって検証されるものであることを明らかにした。そして、臨床心理学研究における妥当性検証の基準を、モデルが具体的な臨床的仮説生成-検証過程の照合枠として実践的有効性を備えていることと定義し、それを「臨床的妥当性」とした。臨床的仮説生成-検証過程の初期においてモデルは、対象事例の障害がスチューデント・アパシーの障害であるか、あるいは他の精神障害であるかを判別する際に有効な照合枠として機能することが求められる。中期以後になるとモデルは、対象事例の障害の意味をスチューデント・アパシーの障害の顕われとして解釈していく際に有効な照合枠として機能することが求められる。そこで、前者におけるモデルの妥当性を「判別に関する臨床的妥当性」、後者におけるモデルの妥当性を「解釈に関する臨床的妥当性」として、本研究におけるモデルの妥当性検討の方法を示した。

 第7章では、3次元構造モデルの判別に関する臨床的妥当性の検討を行った。まず3次元構造モデルの操作的分類基準を作成し、精神病理学の観点からその判別力を検討した。その結果、操作的分類基準によってスチューデント・アパシーとDSM-VI(一部DSM-III-R)において示される他の精神障害との判別が可能であることが示され、判別に関する臨床的妥当性が概念的レベルで検証された。次に操作的分類基準によってスチューデント・アパシーとして判別された20事例のロールシャッハ・テストの結果を検討したところ、その内容が3次元構造モデルの特徴にそったものであることが示され、操作的分類基準が3次元構造モデルに合致した事例を判別していることが明らかとなった。さらにスチューデント・アパシー類似の障害を示す5事例(気分変調性障害、メランコリー型抑うつ、精神分裂病、身体表現性障害、同一性障害)の事例研究を行い、操作的分類基準の適用の実際を示し、具体的レベルで3次元構造モデルの判別に関する臨床的妥当性を検証した。

 第8章では、3次元構造モデルの解釈に関する臨床的妥当性の検討を行った。方法としては、スチューデント・アパシーの典型例を抽出し、その事例の障害の意味の解釈においてモデルが有効な照合枠となり得るかを検討することとした。まず、障害の典型性の条件を絞るために研究者(臨床心理士)の当事者に関する「印象」に基づいてスチューデント・アパシーの類型を「困惑型」と「警戒型」の2型に分ける下位分類を作成した。次に、第7章でスチューデント・アパシーとして判別された20事例から「困惑型」と「警戒型」の典型例を1事例ずつ抽出し、各事例ごとに3次元構造モデルによる障害の解釈の有効性を検討する事例研究を行った。その結果、いずれの事例においても3次元構造モデルが事例の障害と臨床過程、および両事例間の差異の意味を解釈するのに有効な照合枠となっていることが示され、モデルの解釈に関する臨床的妥当性が検証された。

 前章迄で臨床的妥当性が検証されたので、第9章では3次元構造モデルで想定されている人格構造を検討し、人格障害としての特徴を明らかにした。スチューデント・アパシーの類型20事例の親子関係及び12事例の絵物語法の特徴の検討、2事例の事例研究を行い、スチューデント・アパシーの人格構造には情動を分裂排除するメカニズムがみられることを示した。このような人格構造は、精神分析の対象関係論の観点からは、基底に知性と情動の分裂を示すシゾイド人格があり、それを表層の「偽りの自己」である「自立適応強迫」性格が隠す2重構造として記述できることを示した。このように独自の人格構造を想定できることから新たな人格障害を提案する条件が整ったと考え、スチューデント・アパシーを含む新たな人格障害概念として「アパシー性人格障害」の分類基準を提示した。

社会的背景としての青年期発達の特徴 (第4部 第10章-第12章)

 第4部では、第2部、第3部で示されたスチューデント・アパシーの障害の社会的背景として日本の青年期発達の特徴を質問紙調査を用いて検討した。

 スチューデント・アパシーでは進路決定の不能がみられるので、障害の背景には進路発達の問題があると考え、第10章では探索的研究として一般大学生の職業未決定についての調査を示した。因子分析の結果、青年期後期の重要な発達課題である職業決定に消極的で無関心な内容を示す「未熟」「安直」「猶予」といった因子が見出だされ、日本の青年期に特有な職業未決定状態の存在が示唆された。そこで、日本の大学生においては、Erik sonが概念化した元来の積極的なモラトリアムとは異なる特有なモラトリアム状態が推測されたので、第11章では日本の大学生のモラトリアムを測定する尺度を作成し、その構成概念の妥当性について検討した。その結果、「混乱」「模索」「回避」「延期」の4尺度が得られた。アイデンティティ尺度との関連性から「回避」「延期」は、職業決定に取り組まないという点で従来のアイデンティティの発達論では想定されていなかった特殊なモラトリアム状態であることが示された。

 第12章では、上記モラトリアム状態を媒介としてスチューデント・アパシーの障害と一般大学生の無気力との関連性を検討した。一般大学生の無気力を「授業」「学業」「大学」の各領域ごとの意欲低下として検討したところ、いずれの意欲低下でも「回避」や「延期」といった特有なモラトリアム状態との関連がみられた。したがって、一般大学生の無気力の背景には、このような特有なモラトリアム傾向があることが示唆された。また共分散構造分析の結果、「授業」と「学業」に関する意欲低下と「大学」に関する意欲低下では、その無気力の質が異なることが示され,スチューデント・アパシーの障害は「大学」に関する無気力との関連性が強いことが示唆された。

 以上の結果から、スチューデント・アパシーの障害と一般大学生の無気力では職業決定回避のモラトリアム傾向を背景にもつ点では共通性があること、しかし、無気力が授業や学業に止まっている限りは発達過程の一時的退行の側面が強く、障害とは異なること、ただし、大学に関する無気力が生じてきた時には障害の可能性が出てくることが示された。

審査要旨

 本論文は、スチューデント・アパシーについて臨床心理学的に考察し、スチューデント・アパシーとよばれる障害の概念を明確にし、それに対応できるような心理実践技法の開発を試みたものである。

 本論文は4部・13章から成る。第1章と第2章は第1部を構成し、スチューデント・アパシー研究の展望と課題について整理している。ここではとくに、スチューデント・アパシーが青年期の障害であること、日本独特の障害であること、しかもそれが男性特有の障害であることが強調されている。そのスチューデント・アパシーの研究については事例報告は見られるものの系統的な研究がなされておらず、まず概念を確定する必要があること、スチューデント・アパシーについての心理臨床の実践技法の開発とその社会的背景の解明が急務であることが議論されている。

 第2部は第3章、第4章および第5章より成るが、第3章および第4章では、スチューデント・アパシーに対応するための臨床心理学的援助技法として、「関係をつなぐ」アプローチを「つなぎモデル」として提案し、その技法の有効性を事例研究において確認している。第5章ではスチューデント・アパシーについての3次元による概念モデルを提案し、障害レベルを人格障害として位置づけている。この第2部によって、スチューデント・アパシーという障害概念が3次元構造をもって明確に定義づけられた。

 第3部は、第6章から第9章までの4つの章から成るが、第6章から第8章までの3つの章では第2部で定義された障害概念が臨床心理学的に妥当なものであるかどうかの検証が行なわれ、それが十分満足できるものであることが示された。第9章では確定されたスチューデント・アパシーの障害概念にもとづいて事例研究を行ない「アパシー性人格障害」の分類基準を具体的に提示した。

 第4部は第10章から第12章までの3つの章から成り、質問紙調査によるスチューデント・アパシー障害の社会的背景の解明に取り組んでいる。とくに、第10章では大学生の職業未決定の問題、第11章では大学生のモラトリアムの問題、第12章では大学生の一般的無気力の問題を取り扱い、その結果として無気力とステューデント・アパシーとの関連が議論された。

 最終章では得られた知見を整理し、今後の課題について述べられている。

 以上のように、本論文はステューデント・アパシーという独特な青年期特有の障害について臨床心理学的研究を行なったものであるが、ここで対象とされた問題は極めて今日的な教育学の研究課題でもある。本論文において、その研究課題についての研究を今後さらに発展させるための概念の明確化がなされ、しかもその障害に対処し得る具体的な援助技法が開発・提案されその有効性も確証されたことは、すぐれて実践的であり、教育心理学の今後の発展に大きく寄与するものと評価された。よって、本論文は、博士(教育学)の学位を授与するのにふさわしいものと判断された。

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