学位論文要旨



No 213237
著者(漢字) 園山,正史
著者(英字)
著者(カナ) ソノヤマ,マサシ
標題(和) 動的赤外分光法による高分子材料に関する研究
標題(洋) Dynamic Infrared Spectroscopic Studies of Polymeric Materials
報告番号 213237
報告番号 乙13237
学位授与日 1997.03.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第13237号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 近藤,保
 東京大学 助教授 古川,行夫
 東京大学 助教授 岡本,裕巳
 東京大学 助教授 松下,裕秀
 東京大学 教授 田隅,三生
内容要旨

 高分子の力学特性の理解は、高分子の特異的な物理的性質を解明するとともに、新しい素材の開発を目指す材料工学においても極めて重要な研究課題である。従来の力学特性の評価は、応力や歪み等の巨視的な物理量に対してなされて来た。しかし1990年代に入り、高性能のステップ・スキャン型時間分解フーリエ変換赤外分光光度計の開発により、過渡的な赤外スペクトルを測定することが可能になり、周期的微小歪みをうけている高分子の動的赤外スペクトルから、微視的な力学特性を解明するための研究が試みられてきた。さらに、周期的な外部摂動によって誘起されるスペクトルの変化を相関解析することにより、二次元的にスペクトルの変化を表示する二次元相関赤外分光法の理論がNodaによって提案され、近年は時間分解スペクトルの新しい解析手段として注目されている。

 本研究では、合成高分子であるポリエチレンテレフタレート(PET:図1)の力学特性を解明するために、周期的微小歪みに対する分子レベルでの構造変化を動的赤外分光法により検討した。さらに、タンパク質の構造や物性の解明に応用するために、代表的な繊維タンパク質であるフィブロインへこの手法を適用し、動的挙動の解析を試みた。動的スペクトルの解析については、従来の動的赤外分光法による高分子の研究では、高分子に与えた周期的微小歪みに同期した(in-phase)成分とそれと位相が90度ずれた(quadrature)成分をロックインアンプを用いて検出し、それらを二次元相関スペクトルに展開する方法が用いられて来た。本研究では、周期的微小歪みとそれに対する動的構造変化との間の位相(遅延)角や動的構造変化の大きさについて詳細に検討するために、通常用いられている二次元相関解析に加えて、絶対値スペクトルや位相スペクトルに重点を置いて、動的スペクトルの解析を行った。PETの絶対値スペクトルによる解析では、動的構造変化の大きさを比較検討するために、静的スペクトルによる規格化を導入した。

【1】PETの動的スペクトル

 図2に、動的赤外スペクトル(in-phase成分およびquadrature成分)および静的スペクトルを示す。in-phase成分はquadrature成分に比べて、強度がきわめて強いことから、PETの動的構造変化は、概ね周期的歪みに対して同期していることがわかった。また、動的スペクトルには2種類のバンド形(微分形と積分形)が観測されることがわかった。in-phaseスペクトルにおける微分形のバンドは、低波数側の正のピークと高波数側の負のピークからなっている。微分形バンドの多くが高分子骨格に関連したバンドであり、歪みによる低波数シフトがその原因であると推測された。エチレングリコール部(図1参照)のメチレン基には回転異性体が存在することが知られているが、トランスCH2-O伸縮振動に帰属されるバンド(973cm-1)は静的スペクトルではその強度が小さいにもかかわらず、動的スペクトルのin-phase成分はきわめて強度が大きくなっている。このことから、エチレングリコール部におけるトランスCH2-O結合付近では、歪みに対する構造変化が大きいことが明らかになった。

図1.PETの化学構造図2.一軸5倍延伸PETの動的スペクトルおよび静的スペクトル
【2】PETの二次元相関スペクトル

 Nodaの方法に従って、図2に示した動的赤外スペクトルから、同時相関スペクトルおよび異時相関スペクトルを求めた。1050〜800cm-1領域のみの結果を図3に示す。同時相関スペクトルにトランスCH2-O伸縮振動バンドの強い自己相関ピークがみられることからも、トランスCH2-O結合付近における、歪みに誘起される構造変化が大きいことが示された。同時相関スペクトルでは、このバンドの高波数成分と低波数成分との間に強い相関ピークが見られるのに対し、異時相関スペクトルではそれらの間に全く相関ピークが見られない。したがって、これらの同時相関ピークは歪みによる低波数シフトが原因であると結論づけられた。動的スペクトルにおいて微分形となるフェニル基19aバンド(1505cm-1)についても同様であることがわかった。一方、フェニル基CH面外変角振動バンド(1018cm-1)については、動的スペクトルでは微分形であるが、同時相関スペクトルでは高波数成分と低波数成分との間に相関ピークが見られない。異時相関スペクトルでは、異なる3つの波数位置に相関ピークが見られる。これらのことは、歪みに対する応答が異なる3種類の微細構造に由来するバンドが、二次元相関解析により分離されたことを示す。同様の議論により、フェニル基19bバンド(1410cm-1)が二色性の異なる2つの成分の重なりであることが明らかになった。

 さらに、フェニル基18aバンド(1018cm-1)とトランスメチレン基横揺れ振動バンド(848cm-1)との間の正の同時相関ピークおよび負の異時相関ピークから、周期的微小歪みによる再配向は、メチレン基の方がフェニル基よりも速く起きることがわかった。このことは、メチレン基はさみ振動(1472cm-1)とフェニル基19bバンド(1410cm-1)の相関ピークからも支持された。

図3.一軸5倍延伸PETの同時相関(左)および異時相関スペクトル(右)。影付きのピークは負の相関を示す。
【3】PETフィルムの絶対値スペクトル解析

 PETフィルムは延伸することにより、その弾性率が大きくなる。そこで、その弾性率の変化と歪みに対する局所的な応答との相関を調べるために、延伸倍率の異なるPETフィルムの動的赤外スペクトルを測定した。動的スペクトルのin-phase成分を図4に示す。これらのスペクトルでは、未延伸(延伸倍率:×1)のフェニル基18aバンド(1018cm-1)を除き、すべての動的赤外バンドのバンド形は同じであった。前述のように、二次元相関解析から、フェニル基18aバンドにはコンフォメーションや結晶・非晶等の条件が異なる微細構造に由来する3つの成分が重なっていることが明らかにされた。図4において未延伸のスペクトルのみでフェニル基18aバンドは微分形となっていないのは、未延伸フィルムでは非晶・ゴーシュ体に富むことが原因であると考えられる。

図4.延伸倍率の異なるPETのin-phase動的赤外スペクトル

 延伸倍率の上昇とともに、動的赤外バンドの吸収強度が著しく強くなるバンドが観測されている。これは、歪みによる動的構造変化が大きくなっていることを示している。この一連の測定ではPETフィルムに与えられている歪みの大きさは一定であることから、その強度変化はPETにおける局所的な力学特性の変化に起因することになる。そこで、動的構造変化の大きさを定量化するために、動的スペクトルのin-phase成分とqudrature成分から絶対値スペクトルを求めた。さらに、動的スペクトルの強度は元々の静的なスペクトルの強度に依存することから、静的なスペクトルを用いた規格化を行った。局所構造を反映するフェニル基19a(1505cm-1)、トランスCH2-O伸縮振動(973cm-1)、メチレン基横揺れ振動(848cm-1)の3つのバンドの規格化した動的変化を求めた。結果を図5に示す。

 図5に示すように、未延伸フィルムではいずれのバンドの動的変化も小さいことから、動的構造変化が小さいと考えられる。しかし、延伸倍率の上昇とともに、トランスCH2-O伸縮振動バンド(973cm-1)の動的変化量が急激に大きくなる。一方、メチレン基横揺れ振動についてはその強度が弱く、しかもほぼ一定である。これらのことから、エチレングリコール部のCH2-O結合は、延伸に伴うPETの弾性率の増加と強い相関があることが明らかになった。同様の測定および解析を5倍延伸PETフィルムに対して温度変化をさせて行ったところ、ガラス転移温度付近におけるPETフィルムの弾性率の変化と上記バンドの動的変化の挙動とはよい相関を示した。このことからも、PETの力学特性にエチレングリコール部のCH2-O結合が、深く関係していることが支持された。

図5.規格化された動的構造変化の延伸倍率依存性
【4】フィブロインの位相スペクトル解析

 まず、キャストフィルムの二次構造をフーリエ・セルフ・デコンボルーション法を用いて解析した。図6に示すように、元々はブロードで特徴のないバンドにデコンボルーション演算を施すと、様々な二次構造に由来するバンドがアミドI領域には見られる。このアミドIバンドは1657cm-1を中心とする形状をなしていることから、ヘリックスに富む構造であることがわかった。

 次に、周期的微小歪みをうけているフィブロインの動的赤外スペクトルを測定し、その位相解析を試みた。歪みとその応答である動的構造変化との間の遅延(位相)角は、動的スペクトルのin-phase成分とquadrature成分から計算された。キャストフィルムの結果を図7に示す。なお、縦軸の値は位相角の正接で表している。位相スペクトルに見られる極小点や極大点の波数は、図6のデコンボルーションにより得られるアミドIバンドのそれぞれの波数によく一致した。このことは、動的スペクトルの位相解析により、周期的歪みに対する挙動のアミドIバンド間での違いを検出し、アミドI領域に重なっている複数のバンドを分離できたことを意味する。キャストフィルムをメタノール/水混合溶媒で処理するとシートが主成分の構造へ転移することが静的スペクトルの解析により示され、この試料についても、アミドI領域に重なり合ったバンドが同様の方法により良好に分離できた。以上の結果から、周期的微小歪みに対する動的構造変化は二次構造間で異なっていることが明らかになった。

図6.フィブロインキャストフィルムの静的スペクトル.上:デコンボルーション後、下:同前図7.フィブロインキャストフィムの位相スペクトル.縦軸は遅延角の正接で表している.
審査要旨

 本論文は6章からなり、動的赤外分光法による高分子に関する研究が記述されている。動的赤外分光法では、正弦波形の微小歪みにより誘起される高分子の構造変化を検出する。合成高分子であるポリエチレンテレフタレートおよび生体高分子であるフィブロインにおける、周期的歪みに対する動的挙動が記述されている。動的スペクトルには、二次元相関解析、絶対値スペクトル解析、位相スペクトル解析が適用されている。

 第1章では、高分子研究における赤外分光法の重要性が述べられており、特に近年導入された動的赤外分光法の重要性、意義が記述されている。

 第2章では、高分子の動的赤外分光法およびその二次元相関解析や絶対値スペクトル解析、位相スペクトル解析に関する一般的な理論を提示している。また、測定システムの構成やその有効性が記述されている。

 第3章では、一軸5倍延伸ポリエチレンテレフタレートフィルムに関する研究結果が述べられており、動的赤外スペクトルにおけるバンド形と周期的歪みによる低波数シフトの関係が、骨格構造との関連から議論されている。また、動的スペクトルに二次元相関解析を適用し、歪みに対する官能基の再配向の順序や、重なり合ったバンドの分離に関する知見が示されている。

 第4章では、延伸倍率の異なる5種類のポリエチレンテレフタレートフィルムの動的赤外スペクトルに絶対値スペクトル解析を適用し、延伸によるフィルムの力学特性の変化と官能基における構造変化の大きさの相関が検討されている。エチレングリコール部のトランスC-O結合が、ポリエチレンテレフタレートフィルムの力学特性に関係している一方、メチレン基のフィルム力学特性への寄与は大きくないと結論づけられている。また、延伸によるポリエチレンテレフタレートフィルムにおける構造変化に関しても述べられている。

 第5章では、一軸延伸ポリエチレンテレフタレートフィルムの動的赤外スペクトルの温度依存性が調べられ、絶対値スペクトル解析による動的構造変化の大きさが議論されている。ガラス転移温度前後における、動的構造変化の大きさの変化が述べられており、フィルム力学特性の変化と官能基との関係が示されている。

 第6章では、生体高分子の1つであるフィブロインフィルムの二次構造および動的赤外スペクトルの位相解析が記述されている。フーリエセルフデコンボルーションによるアミドIバンドの解析から、メタノール/水混合溶媒によるキャストフィルムの二次構造変化が議論されている。また、周期的微小歪みを受けているフィブロインフィルムの動的赤外スペクトルに位相スペクトル解析を適用し、歪みに対する動的挙動の違いを反映するバンドが明瞭に示されている。これらのバンドの波数は、フーリエセルフデコンボルーションにより得られたアミドIバンドの波数によく一致していることが明らかになった。

 以上のように、本論文では、動的赤外分光法と二次元相関解析、絶対値スペクトル解析、位相スペクトル解析を、周期的微小歪みを受けているポリエチレンテレフタレートフィルムおよびフィブロインフィルムに適用し、それらに関する新しい知見を得ている。本論文の内容については、共著者の協力のもとに4編の論文が発表されているが、いずれについても本論文提出者の寄与が大きいと判断される。したがって、本論文の提出者である園山正史は、博士(理学)の学位を受ける十分な資格を有すると認める。

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