学位論文要旨



No 213242
著者(漢字) 池田,穰
著者(英字)
著者(カナ) イケダ,ユタカ
標題(和) 珊瑚礁生態系における炭素動態
標題(洋) Carbon Dynamics in the Coral Reef Ecosystem
報告番号 213242
報告番号 乙13242
学位授与日 1997.03.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第13242号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小池,勲夫
 東京大学 教授 高橋,正征
 東京大学 教授 大森,正之
 東京大学 教授 野崎,義行
 東京大学 助教授 茅根,創
内容要旨 1緒言

 サンゴ礁生態系は、サンゴの石灰化により造られる石灰岩の地形上に展開する熱帯特有の生態系であり、光合成、石灰化という炭素生産を通じて地球上の炭素循環にかかわっている。また、熱帯雨林とならび光合成による単位面積あたりの総生産速度が、地球上で最も高い生態系のひとつとして知られる。しかしながら、これまでサンゴ礁生態系では総生産速度が高いものの、消費速度や分解速度も高く、正味の生産はないと考えられてきた。すなわち系内での栄養塩の循環が一次生産の制限因子となり、サンゴ礁生態系は、物質循環において外部から閉ざされているとされていた。しかし最近、サンゴ礁生態系では窒素固定も盛んに行なわれ、栄養塩が制限因子とはならない場合も指摘されている。またサンゴ礁生物群集による正味の生産を示す報告もあり、サンゴ礁生態系の物質循環が生態系内で完結しているとする従来の概念は、必ずしも全てのサンゴ礁にあてはまるものではないことが示唆されている。

 一方、近年大気中の二酸化炭素の増大による地球温暖化への懸念から、生態系における炭素動態への関心も高まっている。石灰化は、炭酸カルシウムという形での炭素生産反応であるものの、この反応過程で二酸化炭素が発生する。それに対し光合成では、二酸化炭素が吸収され有機炭素となる。これまでの、物質循環において閉ざされたサンゴ礁モデルでは、正味の有機炭素生産がなく、生産された有機炭素は、サンゴ礁生態系内で全て消費、分解される。そのため石灰化の効果のみが残り、サンゴ礁生態系は二酸化炭素の放出源になると考えられてきた。しかし、生産された有機炭素の生態系内での動態、系外への流出、実際の二酸化炭素分圧の変化などについて具体的に調べられてはいなかった。

図1 サンゴ礁生態系の炭素動態の概念図

 本研究は、以上のような観点から、サンゴ礁生態系の炭素動態を明らかにするために、熱帯域の典型的な堡礁であるパラオ諸島のサンゴ礁を対象として現場実験を行なった。また比較のため、サンゴ礁生態系の一次生産者であるサンゴをモデルとした室内実験を行なった。初めに単体サンゴ、クサビライシおよびサンゴ礁生物群集の石灰化と光合成による炭素生産の収支を解析した。次にサンゴの放出する粘液等に由来する海水中の有機炭素の動態を調べ、光合成に由来する有機炭素の系外への輸送量を評価した(図1)。

2炭素生産の測定

 サンゴ礁生態系の炭素動態に関しては、これまで石灰化、光合成による炭素生産に焦点が絞られていた。そして炭素生産の測定では、四つの炭酸系パラメーター(pH、アルカリ度、二酸化炭素分圧、全炭酸)の中の二つの変化から光合成、石灰化速度を同時に計算する方法、中でも測定の簡便さからpHとアルカリ度の変化から見積る方法(pH-アルカリ度法)のみが、多用されてきた。しかしpH-アルカリ度法以外にも炭酸系パラメーターの変化から)炭素生産速度を見積もる方法は、五通り考えられる。最近の測定装置の開発の進展により、全炭酸や二酸化炭素分圧も以前より精度よく、容易に測定できるようになってきている。ここでは、pH-アルカリ度法も含む六つの方法の精度を比較するため、それぞれの炭酸系パラメーターの測定誤差が、計算される炭素生産速度の値に伝播する誤差を調べた。その結果、従来からのpH-アルカリ度法の精度は比較的よいこと、pHと二酸化炭素分圧という連続測定が可能な二つのパラメーターから計算された炭素生産速度は、極端に精度が悪くなることを明らかにした。この結果を踏まえ、本研究では、サンゴ礁生態系の炭素生産速度をpH-アルカリ度法により見積もった。

3サンゴ礁生態系の炭素生産3.1サンゴの炭素生産

 サンゴの炭素生産に大きな影響を及ぼす環境因子には、光、水温、pH、二酸化炭素分圧などがあげられる。光や水温に関しては、光により促進される石灰化の現象や水温上昇が原因とされるサンゴの白化現象などがよく知られている。しかしpHや二酸化炭素分圧は、サンゴ礁生態系において変動することが報告されているものの、サンゴに対する影響に関しては、従来ほとんど調べられていない。ここではpHや二酸化炭素分圧の変化が単体サンゴ、クサビライシの炭素生産速度に及ぼす影響を初めに調べた。その結果、二酸化炭素分圧が一定で、pHが低下すると石灰化速度は低下し、また海水が炭酸カルシウムに未飽和な場合、脱石灰化することがわかった。この結果は、サンゴ礁生物群集において、pHが低下する夜間、石灰化速度が低下することや、脱石灰化が生じる場合もあることに呼応していると考えられる。次にpHを制御せず、二酸化炭素分圧を高めた場合、石灰化、光合成速度が共に低下した。このことは、予想される大気中、二酸化炭素分圧の急激な上昇に、サンゴが適応できない可能性を示唆する。

 次にサンゴに照射する光量とサンゴの光合成、石灰化速度との関係をプロットすることにより光-光合成・石灰化曲線(図2)をつくった。石灰化は暗条件でもわずかに生じ、石灰化速度の半飽和値に対応する光量は、30Em-2sec-1であった。一方、光合成速度の半飽和値における光量は、80Em-2sec-1であった。また光量が25Em-2sec-1以上の場合、石灰化に伴う二酸化炭素放出は、光合成による二酸化炭素吸収により相殺されることが示された。このことは、サンゴ礁生物群集においても、光が十分照射され、光合成が盛んに行なわれる場合、光合成が石灰化にまさり、全体の収支として二酸化炭素が吸収される可能性を示唆する。

図2 Fungia sp.の光-光合成・石灰化曲線
3.2サンゴ礁生物群集の炭素生産

 パラオ堡礁(図3)の礁原における炭素生産速度を流れ法により見積もった。流れ法は、潮流により移動する水塊を追跡し、水塊の組成の移動前後の変化から、その区間の底生生物群集による代謝量などを調べる方法である。パラオ堡礁の礁のようにほとんど停留せず、上げ潮、下げ潮の潮流の変化が、顕著である場合にこの方法は適用できる。ここではpH-アルカリ度法により礁原上の生物群集による、さまざまな光量下での光合成、石灰化速度を測定した。その結果を光-光合成・石灰化曲線として図4のようにまとめた。サンゴ個体の光-光合成・石灰化曲線でみられたと同様に、光合成が盛んに行なわれる場合、石灰化に伴う二酸化炭素放出は、光合成による二酸化炭素吸収により相殺されていることが示される。次にこの曲線と一日の光量変化とから一日あたりの正味の光合成量と石灰化量を求めた。その結果、一日あたりの呼吸量に対する総光合成量の比(P/R比)は1.3であり、正味の生産があることが示唆された。ここでのP/R比は、生物生産が最も盛んな礁原での値であるため、従来のサンゴ礁全体での平均値1.0±0.1に比較して大きくなっていると考えられた。正味の光合成量は、石灰化量の1.3倍であり、一日あたりでは、石灰化に伴う二酸化炭素放出は、光合成により相殺され、全体の収支として二酸化炭素が吸収されていることが示唆される。一方、礁原における大気中と海水中の二酸化炭素分圧の測定データでは、大気中の二酸化炭素分圧は337±1atmで昼夜一定であった。それに対し海水の二酸化炭素分圧は日中、夜間共に大きく変動し、大気と海水の間の平均分圧差は、日中が大気より37atm低く、夜間は14atm高かった。このことは、礁原において一日あたりの収支では、二酸化炭素が吸収されていることを裏付ける。

図3 パラオ堡礁の位置図4 パラオの礁原における光-光合成・石灰化曲線
4サンゴ礁生態系から放出される有機炭素4.1サンゴの放出する有機炭素

 水温25℃、光量50Em-2sec-1で明暗周期12時間の環境条件下で長期間飼育されている単体サンゴ、クサビライシを対象に有機炭素の放出量を調べた。初めに、有機炭素現存量に対する無機炭素現存量の比が、サンゴの大きさに拘らず一定であったことに基づき、その比とその環境条件下での光合成速度と石灰化速度とから、放出される有機炭素の量を見積もった。その結果、取り入れた有機炭素の9割以上が放出されていると考えられた。次に、実際のクサビライシに関し、光合成速度と海水の有機炭素の増減速度との関係を調べた(図5)。その結果、サンゴ個体が粘液等として放出する有機炭素は光合成や呼吸とリンクしており、水温、水流および生物間の相互作用などの要因による放出がない場合、補償点付近の光量で放出量が最大となった。また炭素現存量と炭素生産速度から見積もられた、放出される有機炭素の量ともほぼ一致していた。しかし暗条件で呼吸のみが行なわれる場合や光合成速度が高い場合には、有機炭素は吸収された。光合成速度が高い条件下で、有機炭素が吸収されることは、光合成由来の有機炭素に不足している栄養塩を、口腔から取り入れる際の副次反応である可能性が考えられる。

図5 Fungia sp.の正味の光合成速度と全有機炭素濃度の変化との関係暗(●),13Em-2sec-1(○),37Em-2sec-1(×)および77Em-2sec-1(□)
4.2サンゴ礁生物群集の放出する有機炭素

 パラオ堡礁の礁原上において流れ法により、光合成、石灰化速度と同時に、海水中の有機炭素(溶存態、懸濁態)の増減速度を測定し、両者の関係を調べた(図6)。その結果、サンゴ個体の場合と同様に、光合成に伴い海水中の有機炭素は減少した。しかし個体の場合とは異なり、夜間に有機炭素は放出される傾向が見られた。これは夜間にサンゴの捕食などが活発になり、粘液等が放出されることによると考えられる。一日あたりに放出される有機炭素量は、光合成速度と海水中の有機炭素の増減速度との関係を表わ式、光-光合成曲線および光量の変化から計算された。その結果、礁原の正味の光合成量の40%ほどが海水中に放出されていると見積もった。

図6 パラオの礁原における溶存態有機炭素濃度(a)、懸濁態有機炭素濃度(b)の変化と正味の光合成速度との関係flood day in 1994(○),flood night in 1994 (●),flood day in 1995(□),flood night in 1995 (■)およびebb day in 1995(□)
5サンゴ礁生態系の有機炭素の行方

 ラグーン、礁原および外洋それぞれの海水中の有機炭素の30日間の分解量を表1に示す。これらの値は、海水の有機炭素濃度の1/10以下であることから、海水中の有機炭素には、易分解性の部分が少ないことが示唆される。従って海水中の有機炭素の分解に伴う二酸化炭素の放出量は、光合成による二酸化炭素の吸収量より十分に小さいと考えられる。

 一日あたり礁原から放出される有機炭素は、礁原上の潮流の変化からほぼ半分ずつラグーンと外洋に流入すると考えられる。ラグーンの滞留日数(17日)は、有機炭素の分解量とその濃度から見積られる回転日数より小さい。そのためラグーンに流入した有機炭素は、分解されずに流出するか、ラグーン底部に沈降すると考えられる。実際、ラグーンの最深部付近でも、セディメントトラップにより沈降粒子が捕らえられている。一方、外洋に流入した有機炭素は有機炭素濃度の表層における水平分布から、礁斜面から水平、鉛直方向に拡散しながらゆっくりと沈降し、分解されていくと考えられる。

表1 ラグーン、礁原、外洋それぞれの表層海水における全有機炭素濃度、正味の光合成速度および有機炭素の分解量
6結語

 パラオ堡礁の礁原の一日あたりの炭素動態を図7のようにまとめた。正味の光合成量と石灰化量から差し引き86mmol Cm-2day-1の二酸化炭素が大気中から海水へ吸収されると見積られる。そして正味の光合成量の40%ほどが溶存態、懸濁態有機炭素という形で海水中に移行する。またこれらの有機炭素は、易分解性の部分が少ないと考えられ、その一部はラグーンに沈降し、あるいは外洋から流出する。このようにパラオ堡礁のサンゴ礁生態系は、有機炭素を外洋に流出しているという点から、外部に開かれている生態系であることが示唆される。また光合成量が石灰化量を上回り、光合成由来の有機炭素の分解量も小さいことから、少なくとも礁原においては、二酸化炭素の吸収源として機能している。

図7 パラオのサンゴ礁の炭素動態
7謝辞

 本研究の一部は新エネルギー産業技術総合開発機構(NEDO)の委託研究「細菌・藻類等利用二酸化炭素固定化・有効利用技術研究開発」および通商産業省工業技術院指定研究「サンゴ礁による二酸化炭素の固定に関する研究」の一環として行われた。

審査要旨

 本論文は5章からなり、第1章は研究課題についての序論、第2章は、海水中の炭酸系の測定法の検討、第3章はモデル実験系およびサンゴ礁でのサンゴによる光合成炭素固定および石灰化プロセスの解析、第4章はモデル実験系およびサンゴ礁でのサンゴによる有機物の排出プロセスの解析、第5章は、モデル系での結果をふまえた実験海域であるパラオのサンゴ礁における、サンゴを中心とした炭素の動態について述べられている。サンゴ礁は陸域、海域を通じてもっとも有機物の生産の高く、かつサンゴ等の石灰化により活発な無機炭素の代謝も同時に起こっている生態系として知られている。一方ではサンゴ礁は閉じた生態系であり、外部に対する寄与は乏しいという考え方が、光合成/呼吸比等の測定から推定されてきた。本論文の目的は、このような閉じた生態系という考え方に対して、サンゴの炭素代謝の各プロセスをモデル実験系および、フィールドとして代表性のあるパラオのサンゴ礁において積み上げて検証することによって、サンゴ礁生態系の解析を行うものである。

 第2章ではモデル実験およびフィールドでの光合成、石灰化活性の測定に使われる4つの炭酸系パラメーターの組み合わせについて実際の珊瑚を含めた実験水槽系を構築して検討し、pH-アルカリ度法がこの中では安定した精度の高い結果を与えることを明らかにした。この手法にもとずいて、第3章では海水中の二酸化炭素分圧やpHの変化がどのようにサンゴの光合成および石灰化速度に影響を及ぼすかについて造礁サンゴであるクサビライシをまず検討した。その結果pHの低下が、両方の代謝に負の影響を与えるが、pHが一定ならば二酸化炭素分圧の増加によって光合成および石灰化とも促進されることが判った。閉鎖的なサンゴ礁では夜間のpHの低下が観測され、モデル実験のような負の影響が現場でも起こっていることが示唆された。また光合成、石灰化に対する光条件の検討を行い、光-光合成、石灰化曲線から、自然生育条件でクサビライシの光合成は、石灰化を上回っていることが示された。次に同様の分析法を流れ法と併用してパラオのサンゴ礁の礁嶺で解析したところ、1日あたりの総光合成による炭素固定量と呼吸量との比は1.3となり、さらに正味の光合成量は石灰化量の1.3倍で全体として二酸化炭素の吸収が起こっていることを示唆していた。同時に行った海水中の二酸化炭素分圧の昼夜変化もこの推定を支持する結果であった。

 次に第4章では、モデル実験系およびサンゴ礁でのサンゴからの有機炭素の放出と環境要因との関係を調べた。現場サンゴは高光条件では、海水中の有機炭素を減少させるが、一方夜間および低い光条件では有機炭素を放出した。1日当たりの有機炭素の収支を計算すると、実際のサンゴ礁の礁嶺において、正味の光合成量の約40%が有機炭素として水中に放出されることが推定された。この放出された有機炭素は、早い礁嶺上の流れによって、礁湖および外洋へ輸送される。表層での溶存有機炭素は礁嶺から外洋にかけて減少しており、珊瑚礁からの有機物の輸送が重要であることを支持している。

 以上の研究結果はサンゴ礁の炭素循環、特に有機炭素の動態について、光合成、石灰化過程も併せて総合的に解析した世界で初めての研究であり、サンゴ礁生態系の研究の中で高く評価されるものである。

 なお、本論文第2章は、鈴木淳、泰浩司、根岸明、野崎健、加藤健氏との共同研究、第3章は、丸山正、宮地重遠氏との共同研究、又第4章は鈴木淳、茅根創氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析、および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク