学位論文要旨



No 213249
著者(漢字) 鄒,雲増
著者(英字)
著者(カナ) ゾウ,ユンゼン
標題(和) 心筋細胞においてチロシンキナーゼであるSrcやRasではなく、プロテインキナーゼCがアンジオテンシンIIによるRaf-1キナーゼとERKの活性化に重要な役割を果たしている
標題(洋) Protein Kinase C,but not Tyrosine Kinases,Src or Ras,Plays a Critical Role in Angiotensin II-Induced Activation of Raf-1 Kinase and Extracellular Signal-Regulated Protein Kinases in Cardiac Myocytes
報告番号 213249
報告番号 乙13249
学位授与日 1997.03.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第13249号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 熊田,衛
 東京大学 教授 藤田,敏郎
 東京大学 教授 大内,尉義
 東京大学 助教授 安藤,譲二
 東京大学 助教授 後藤,淳郎
内容要旨

 心筋細胞は、高度に分化した細胞でもはや分裂能力を持ちあわせていない。したがって、心臓に何らかの負荷が加わると、心筋細胞はそのひとつひとつが肥大して収縮力を増大させ心機能を保とうとする。すなわち心肥大は負荷に対する一種の適応現象であるが、近年のFramingham studyによって心肥大が虚血性心疾患あるいは不整脈による突然死の独立した危険因子であることが判明した。心臓に対する負荷には、心内圧が上昇することにより個々の心筋細胞に加わる機械的な負荷と、カテコールアミン、アンジオテンシンII(AngII)、エンドセリンー1(ET-1)等の液性因子による負荷がある。心筋細胞にこれらの負荷を加えると、蛋白リン酸化酵素カスケードの活性化がおこり、遺伝子発現がもたらされ、蛋白の生合成が効率よく行われ、心筋細胞肥大が形成される。

 最近、液性因子の中には、AngIIの重要性が注目されている。AngIIは、レニン.アンジオテンシン系において産生される最終生理活性物質で、生体の血圧や電解質の調節に重要な役割を果たしている。最近、AngIIは、心臓局所でも作られることが明らかになり、動物実験や培養細胞を用いた研究ばかりでなく、臨床的にも、AngIIが心肥大形成に関与していることが示唆されている。AngIIが心筋細胞膜に存在するAngII1型受容体(AT1R)を介して、細胞内情報伝達系を活性化し、c-fosやc-jun等色々な遺伝子の発現を誘導し、蛋白合成を増加させ、細胞肥大を惹起する。その時、Raf-1 kinase(Raf-1)、extracellular signal-regulated protein kinases(ERK)等種々のキナーゼが活性化されるが、これらのキナーゼ、特にERKは、心筋細胞肥大時の遺伝子発現に重要なことが知られている。AngIIは、プロテインキナーゼC(PKC)を活性化することが以前より知られていたが、最近Srcファミリー等のチロシンキナーゼを介して、Rasが活性化されることが示された。PKC、RasはともにRar-1を活性化することが知られているため、AngIIによるERK活性化においてどちらが重要かを明らかにする必要がある。

 本研究は、AngIIによって生じる心肥大の発生機序を解明するため、AngIIが、どのような細胞内情報伝達系を活性化するかを明らかにすることを試みたものである。従って、ラット培養心筋細胞に種々のリン酸化酵素特異的な阻害薬を使用し、又は種々のリン酸化酵素のdominant-negative遺伝子とERKの遺伝子を細胞に同時に導入し、PKC、或いはRas又はチロシンキナーゼのどれが、AngIIによるRaf-1とERK活性化に重要か検討し、下記の結果を得た。

 1.AngIIがRaf-1とERKsを活性化する。

 ラット培養心筋細胞をAngIIで刺激した後、Raf-1とERKsの活性化を測定した。AngIIがERKsを用量依存性に活性化させ、AngIIによりRaf-1、ERKsがそれぞれ5分、10分をピークに一過性に活性化した。

 2.AngIIによるRaf-1、ERK活性化はPKCに依存する。

 心筋細胞において、PKCはRaf-1、ERKを活性化することが以前より知られていたが、今回、ホルボールエステル(TPA)又はcalphostin CによりPKCをdownregulation又は抑制し、AngIIによるRaf-1とERKの活性化を検討した。AngIIはRaf-1とERKを活性化したが、TPA又はcalphostin Cの前処置により、これらの活性化は完全に抑制された。このことから、AngIIによるRaf-1とERKの活性化はPKCに依存することを明らかにした。

 3.AngIIによるERK活性化はチロシンキナーゼに依存しない。

 最近、心筋細胞においてAngIIにより、Srcファミリーキナーゼを含むチロシンキナーゼが活性化されることが示された。しかし、今回、チロシンキナーゼ特異的な阻害薬であるtyrphostinとgenisteinを用いて、チロシンキナーゼの活性を抑えても、AngIIによるERK活性化は全く抑制されなかった。従って、AngIIによるERK活性化は、チロシンキナーゼの活性化に依存しないことが明らかになった。

 4.AngIIによるERK活性化にSrcファミリーキナーゼは関係ない。

 最近、心筋細胞においてAngIIはSrcファミリーキナーゼを介して、Rasを活性化するという報告があった。一般的に、Rasが活性化されると、Raf-1とERKが活性化される。そこで、今回、AngIIによるERK活性化にSrcが関係しているか否かを検討するために、hemagglutinin-tagged ERK2(HA-ERK2)とSrcファミリーキナーゼの機能を抑えるC-terminal Src kinase(Csk)を細胞に一緒に導入し、AngIIで刺激した後、ERK2の活性を解析した。Cskは、線維芽細胞においてAngIIによるERKの活性化を抑制したが、心筋細胞においては、AngIIによるERK活性化に影響しなかった。従って、AngIIによるERK活性化にはSrcは関係しないことが明らかとなった。

 5.AngIIによるERK活性化はRasに依存しない。

 前述したように、心筋細胞において、AngIIがSrcファミリーキナーゼを介してRasを活性化することが報告された。Rasは、肥大時の遺伝子発現に重要であることが報告されている。RasはPKCとともにRaf-1/ERKを活性化することが知られているが、細胞又は刺激の種類によってこの二つのpathwayの重要性が違っている。今回、HA-ERK2とRasの活性化を抑えるdominant negative mutant of Ras(D.N.Ras)をco-transfectionしたり、Rasの阻害薬であるmanumycinで心筋細胞を前処置した後、AngIIによりERKの活性化を検討した。D.N.Rasとmanumycinはともに、インスリンによるERKの活性化を抑制したが、AngIIによるERKの活性化は抑制しなかった。よって、AngIIによるERK活性化にRasは関係しないことが明らかとなった。

 6.AngIIによるERK活性化はRaf-1に依存する。

 細胞増殖因子は、細胞表面の特異的な受容体を介し、細胞内情報伝達系の活性化を引き起こし、細胞を増殖及び肥大させる。その過程において、Raf-1-MEK-ERKというリン酸化酵素のカスケードが重要な役割を担っている。今回、AngIIによるERKの活性化が上流からのシグナルをRaf-1によってもたらされるかを検討するために、培養心筋細胞にHA-ERK2とRaf-1の活性を抑制するdominant negative mutant of Raf-1(D.N.Raf-1)をco-transfectionし、AngIIを加えた後にERK2のリン酸化の解析を行なった。ERK2の活性化が、D.N.Raf-1により完全に抑えられた。このことは、AngIIによるERKの活性化に、Raf-1が重要であることを示している。

 7.PKCの活性化によりRaf-1、ERKが活性化される。

 今回、PKCの活性化剤であるTPAを心筋細胞に添加し、Raf-1とERKの活性化を検討した。心筋細胞においてPKCが直接Raf-1とERKの活性化をもたらすことが明らかとなった。

 以上の結果をまとめると、ラット新生仔培養心筋細胞において、AngIIによるERK活性化にはPKC、Raf-1が重要であった。一方、ERKの活性化に、チロシンキナーゼ、Srcファミリーキナーゼ、Rasは関係しないことが明らかになった。PKCは直接Raf-1を活性化することが知られているが、心筋細胞においても、Raf-1、ERKの活性化にPKCが必要でありかつ十分であった。

 AngIIによるチロシンキナーゼの活性化が報告されているが、心筋細胞においては、二つの実験よりチロシンキナーゼはERK活性化には無関係であると考えられた。一つは、チロシンキナーゼの阻害薬であるgenisteinやtyrphostinの実験であり、もう一つは、Srcファミリーキナーゼの機能を抑えるCskの実験である。両方の実験においてAngIIによるERKの活性化は抑制されなかった。

 Rasは肥大時の遺伝子発現に重要であると報告されたが、非特異的に多くの遺伝子発現に関わっているという報告もある。今回の研究では、AngIIによるERKの活性化にはRasは関係していなかった。RasはRaf-1とERKを活性化するので、この結果は、AngIIによるRasの活性化が非常に少ないか、又はRasが活性化しても、Raf-1が活性化されない特殊なことが心筋では起こる可能性を示唆している。

 以上、本研究では、心肥大を引き起こすAngIIの情報伝達系を新しい手法dominant-negative法と特異的阻害薬を用いて詳細に検討し、心筋細胞特異的な情報伝達経路の解明を行った。AngIIは心筋細胞においてGq-ホスホリパーゼC-PKCの経路がRaf-1-MEK-ERKを活性化させるものと思われた。ERK活性化におけるSrcファミリーキナーゼを含むチロシンキナーゼ、Rasの役割は小さいものと思われた。本研究は、液性因子特にAngIIによって生じる心肥大の発生機序及び細胞内情報伝達系の解明に大きく貢献するものであり、過度の心肥大から心機能破綻に至る機序の解析とその治療法の開発にも役立つと期待される。また、AngIIが心筋肥大を引き起こす機序は、視野を広げれば、外界からの刺激に対する細胞の反応は、刺激と細胞の種類によって異なるということを端的に示しており、医学にとどまらず広く生物学的立場からも注目されるところと考える。

審査要旨

 本研究は、アンジオテンシンII(AngII)によって生じる心肥大の発生機序を解明するため、AngIIの細胞内情報伝達系を明らかにすることを試みたものである。特にラット培養心筋細胞に種々のリン酸化酵素特異的な阻害薬、又は種々のリン酸化酵素のdominant-negative遺伝子とERKの遺伝子を細胞に同時に導入する方法を用いて、プロテインキナーゼC(PKC)、Ras又はチロシンキナーゼのどれがAngIIによるRaf-1キナーゼとERKの活性化に重要か検討し、下記の結果を得ている。

 1.心筋細胞において、AngIIがERKsを用量依存性に活性化させ、AngIIによりRaf-1、ERKsがそれぞれ5分、10分をピークに一過性に活性化した。

 2.AngIIはRaf-1とERKを活性化したが、ホルボールエステル(TPA)又はcalphostin CによりPKCをdownregulation又は抑制したことにより、これらの活性化は完全に抑制された。このことから、AngIIによるRaf-1とERKの活性化はPKC依存することを明らかにした。

 3.チロシンキナーゼ特異的な阻害薬であるtyrphostinとgenisteinを用いて、チロシンキナーゼの活性を抑えても、AngIIによるERK活性化は全く抑制されなかった。従って、心筋細胞において、AngIIによるERK活性化は、チロシンキナーゼの活性化を介さないことが明らかになった。

 4.AngIIによるERK活性化にSrcファミリーキナーゼが関係しているか否かを検討するために、hemagglutinin-tagged ERK2(HA-ERK2)とSrcファミリーキナーゼの機能を抑えるC-terminal Src kinase(Csk)を細胞に一緒に導入し、AngIIで刺激した後、ERK2の活性を解析した。Cskは、線維芽細胞においてAngIIによるERKの活性化を抑制したが、心筋細胞においては、AngIIによるERK活性化に影響しなかった。従って、AngIIによるERK活性化にはSrcは関係しないことが明らかとなった。

 5.HA-ERK2とRasの活性化を抑えるdominant negative mutant of Ras(D.N.Ras)をco-transfectionしたり、Rasの阻害薬であるmanumycinで心筋細胞を前処置した後、AngIIによりERKの活性化を検討した。D.N.Rasとmanumycinはともに、インスリンによるERKの活性化を抑制したが、AngIIによるERKの活性化は抑制しなかった。よって、AngIIによるERK活性化にRasは関係しないことが明らかとなった。

 6.さらに、培養心筋細胞にHA-ERK2とRaf-1の活性を抑制するdominant negative mutant of Raf-1(D.N.Raf-1)をco-transfectionし、AngIIを加えた後にERK2のリン酸化の解析を行なった。ERK2の活性化が、D.N.Raf-1により完全に抑えられた。このことは、AngIIによるERKの活性化に、Raf-1が重要であることを示している。

 7.PKCの活性化剤であるTPAを心筋細胞に添加し、Raf-1とERKの活性化を検討し、心筋細胞においてPKCが直接Raf-1とERKの活性化をもたらすことが明らかとなった。

 以上本論文は、心肥大を引き起こすAngIIの情報伝達系を新しい手法dominant-negative法と特異的阻害薬を用いて詳細に検討し、心筋細胞特異的な情報伝達経路の解明を行った。AngIIは心筋細胞においてGq-ホスホリパーゼC-PKCの経路がRaf-1-MEK-ERKを活性化させるものと思われた。ERK活性化におけるSrcファミリーキナーゼを含むチロシンキナーゼ、Rasの役割は小さいものと思われた。本研究は、液性因子特にAngIIによって生じる心肥大の発生機序及び細胞内情報伝達系の解明に大きく貢献するものであり、過度の心肥大から心機能破綻に至る機序の解析とその治療法の開発にも役立つと期待される。また、心筋細胞特異的な情報伝達経路の解明は、視野を広げれば、外界からの刺激に対する細胞の反応が、刺激と細胞の種類によって異なるということを端的に示しており、医学にとどまらず広く生物学的立場からも注目され、学位の授与に値するものと考えられる。

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