学位論文要旨



No 213258
著者(漢字) 陳,鵬仁
著者(英字)
著者(カナ) チン,ホウジン
標題(和) 中国革命と宮崎滔天
標題(洋)
報告番号 213258
報告番号 乙13258
学位授与日 1997.03.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第13258号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石井,明
 東京大学 教授 平野,健一郎
 東京大学 教授 古田,元夫
 横浜市立大学 教授 白石,昌也
 亜細亜大学 助教授 容,應萸
内容要旨

 十九世紀末から二十世紀にかけて、日本と中国の間には、二度にわたって凄まじい戦争がくりひろげられた。ことに二度目の戦争は太平洋戦争にまで発展し、日本は悲惨な敗戦を経験し、中国は内戦の結果、大陸と台湾に異なった政権ができ、未だに統一ができないでいる。

 このように百年来の厳しい日中関係史の中で、中国と日本の解放を目指し、両民族のより明るい前途を切り開くために、手に手を携え、生死をともにして奮闘した二人の男がいた。孫文と宮崎滔天である。本論文『中国革命と宮崎滔天』は、宮崎滔天がいかにして孫文に出会い、いかに孫文を厚く信頼し、深く中国革命にかかわり、孫文の成功を援けたかを、史料に基づいて明らかにし、その歴史的意義を明らかにしようとするものである。

 宮崎滔天と中国革命の関係について、日本では、立野信之『茫茫の記--宮崎滔天と孫文』、三好徹『革命浪人・滔天と孫文』、渡辺京二『評伝宮崎滔天』、上村希美雄『宮崎兄弟傳・アジア篇上中』(四巻の予定)などの著作があるが、前三作は全く普通の読み物、物語であり,上村希美雄の作のみが学術的研究である。この作はかなり綿密に外務省外交史料館文書を使い、孫文をはじめとする中国人革命同志および滔天など日本人同志の動きを捉え、その活動を裏づけているところに最大の特色があるが、物語的叙述も多い。

 中国人のこの方面における専門の著作はなく、滔天に関する断片的な文章、例えば陳去病「宮崎寅蔵傳]、陳固亭「国父(孫文)与宮崎兄弟」、彭沢周「宮崎滔天与中国革命」などがあるが、前二文は簡単な紹介であり、後者はまとまった学術論文ではあるが、註釈を入れても三十ページにしかならない。すなわちこの分野における中国人の研究は、いまだ非常に貧しい。そこでこれらの欠点を補いつつ、日中両国の研究者が今まで全く手をつけていない滔天と孫文の筆談残稿の解読を振り出しに、滔天と中国革命とのかかわりの全貌を、史料に基づいて解明するのが本論文、『中国革命と宮崎滔天』である。

 第一章第一節では、滔天の出生と生い立ち及びその時代、滔天が自由民権思想を抱くに至るまでの経緯、一兄民蔵、二兄弥蔵の思想及び生き方の滔天に与えた影響を、宮崎家の人々を軸に紹介する。中でも弥蔵の影響で、滔天が中国への目を開いたことが重要である。

 第二節では、明治時代の中国政策を扱った。明治維新後、士族の間にはまだ政府に対する不満が強く、政府は彼らの目を海外にそらせるために征韓を取り上げた。朝鮮問題をめぐって日本と中国は日清戦争を戦い、その後日本はロシアと交戦した。このような時代を背景に、日本人は大陸雄飛に夢を托し、ここにいわゆる大陸浪人が出現した。この大陸浪人たちはやがてさまざまな形で中国革命にかかわることになる。滔天はまさにその一人であった。

 第二章では自分の理想を実現しようと中国入りをたくらむ滔天を見る。機を得て大陸に渡った滔天は、金を騙しとられて、やむなく帰国した。しかし弥蔵と相談の結果、再び中国入りを試み、朝鮮からの亡命者、金玉均につてを求めて接近した。金は李鴻章にとりいって渡りをつけようとしたが、反って殺されてしまった。そこで滔天は方向を変え、シャムで事業を行なって足場を作り、そこから中国入りをしようとはかった。シャムでの事業はさんざんな失敗に終わったが、これを機に犬養毅と知合うようになった。

 第三章では、犬養毅の力添えで本格化する滔天の活動を見る。犬養の推薦で滔天は秘密結社事情調査の名目で、平山周と中国に渡り、香港で近日中に孫文が日本に行くことを探知した。そこで急遽帰国し、横浜の陳少白宅で孫文に会うことができた。筆談で孫文と意見をかわした滔天は、孫文を「東亜の珍宝なり」と絶賛し、「余は実に此時を以て彼に許せり」と言って、強い盟友関係に入った。二人をこのように結びつけたのは、「節」と「義」の尊重と、この上ない人類愛だった。

 二人の筆談は滔天と中国革命に関する最も重要な史料であり、筆者は『宮崎滔天全集』におさめられている原稿をもとに、中国革命の元老の一人である張継の分析を参考に、より正確な解釈を試みている。内容は革命の拠点をどこにするか、武器の搬入はどの地点にすべきかなどの検討を含み、孫文及び滔天の革命計画の原点である。また当時の孫文の心理状態やさまざまな思いが如実にうかがえる。

 孫文の革命の基礎は、当初、秘密結社に置かれていた。そこで秘密結社興漢会の結成は彼にとって大変意義深かった。これまで興漢会については、間接的な記録はあったが、滔天の羽織の裏の寄せ書きが発見されたことによって真相がより明確になった。

 李鴻章と両広の独立を策すの一節は、孫文と李鴻章の知恵比べの記録である。この一幕において、滔天は大切な役割をはたす。一応その使命をはたし終えた滔天はシンガポールにおもむくが、ここで康有為に対する暗殺の嫌疑をかけられ、逮捕されて投獄された。この一件によって、滔天は康有為を信用しなくなってしまった。

 1900年、義和団の乱に乗じて、孫文は恵州で蜂起をもくろみ、台湾に渡って画策した。児玉総督や後藤民政長官の援助が得られそうになったところで、本国では内閣が改造され、伊藤博文が総理大臣になった。伊藤は列強の干渉を恐れて、台湾総督が中国革命党と接触するのを止め、武器の輸出や日本の将校が革命軍に投ずることを禁じたため、あてにしていた援助を得られなくなった孫文の恵州蜂起は失敗に終わった。この失敗が滔天に与えた打撃は大きく、中村弥六の武器購入にまつわる疑惑ともからんで、失望した彼は中国革命の第一線から身を引き、浪曲師に転向した。またそれまでのわが半生を回顧し、『三十三年の夢』として発表した。この本に孫文は序文をしたため、滔天を「現代の侠客である」とほめている。

 『三十三年の夢』はすぐに中国語に抄訳され、大陸の青年や学生たちに多大の影響を与え、革命の気運をさらに大きくさせた。滔天の中国革命に対する最も重要な貢献の一つである。その後、この本の翻訳は復刻を含めて十一種類にものぼる。筆者も完訳を出版している。後に滔天と無二の親友となった黄興は、中国本土でこの本を読み、感激して滔天を訪ねて行った。それほどに中国人はこの本を重視した。

 第四章では、中国革命にとって決定的な意義を持つ中国同盟会の成立(1905年)と、この時代の滔天の動向と活動を取り扱う。中国同盟会は、それまで華中、華南で別々に革命運動を行なって来た青年たちが、言語の障害と地域的偏見を乗り越え、大同団結、ともに奮闘する基盤となった。孫文はこれによって初めて自分の存命中に革命が成功するであろうとの確信を得た。事実、同盟会成立の翌年から1911年の辛亥革命まで、一連の革命蜂起は、すべて同盟会を原動力としていた。まことに同盟会は中国革命の母体であり、その二本の大黒柱が孫文と黄興であった。そしてその二人の間をとりもって、固く手を握らせたのが滔天であった。

 この章ではまた、革命予備軍の精鋭である留学生の組織と宣伝活動についても見る。当時の在日中国人留学生は最高時一万二千人にも上り、彼らは向学心と愛国心にあふれ、日本の富国強兵政策に共鳴し、清朝を見捨てて革命陣営に身を投じていた。彼らは革命雑誌をむさぼり読んでいたが、中でも同盟会発行の『民報』、滔天らの手になる『革命評論』は梁啓超の『新民叢報』と激しい論戦を展開し、留学生の思想に大きな影響を与えた。

 第五章では、辛亥革命前後の情勢を分析し、滔天のはたした役割を見、また同盟会成立後から辛亥革命の成功に至る革命の状況をつぶさに見る。この時期、滔天は萱野長知とともに、日本で武器弾薬の購入に奔走した。滔天は孫文から資金の工面や武器の購入の全権をゆだねられていた。しかしこうして奔走に明け暮れる滔天の留守宅では、家人は貧困のどん底におり、孫文からのわずかな金品の援助などにたよっていた。また、地元の警察は家人にも疑いの目を向けて、事あるごとに滔天宅にやって来ては家人を悩ました。

 やがて武昌革命が成功し、滔天は急遽上海におもむいた。彼の乗った船が揚子江に入ると、江内の船がみな革命軍の旗を掲げていたので、滔天は思わず涙をこぼした。三日後に孫文が革命政府の臨時大総統に就任し、滔天は山田純三郎らとともに総統府におもむいて祝賀に加わった。しかし二ヵ月後、財政困難と国内事情によって、孫文は大総統の地位を袁世凱に譲らざるをえなくなった。

 1913年、孫文は初めて公式に日本を訪問した。その間、滔天は常に孫文につき従った。孫文はこの訪問でかつて恩恵を蒙った日本の友人たちに謝意を表し、亡くなった友人たちの墓参りをした。また桂太郎と懇談する機を得、意気投合するところまで行った。

 第六章は、革命成功後の事情を見る。袁世凱の裏切りによって、孫文ら革命党は再び日本への亡命を余儀なくされた。この亡命中、再革命の基礎をうちたてるべく、中華革命党が結成された。この時、党首としての孫文は党員に絶対服従を誓わせたが、黄興らは断固として反対し、ために二人は手を分かち、革命陣営は二分されてしまった。滔天は二人の間で和解のために奔走したが、十分実らないうちに黄興は1916年、亡くなった。孫文のほうは東京で宋慶齢と結婚した。

 第七章は、袁世凱の死後の大陸の状況、および日本のそれへの態度、滔天の最後の活動を見る。中国大陸は袁世凱の死後、南北に分かれて相争い、孫文は六年間にわたって南の政権の首領となって北に抗争した。この時期は中華民国史上、政治的に最も複雑をきわめた時期である。この頃、日本の軍国主義者はますます中国に対して強圧的になり、滔天は軍閥内閣を猛烈に糾弾した。その勇気は驚嘆にあたいするものであったが、しかし十分軍閥内閣をゆるぶることができないまま、亡くなった。

 滔天の死は孫文を号泣せしめた。実に滔天は終始一貫人類愛に燃え、アジアと世界の平和を願い、そのための中国革命の意義を信じてすべてをそれに投入した。革命党にとって彼ほどの恩人はほかになく、今にいたるまで、中国人の心から彼が去ることはないのである。

審査要旨

 本論文はアジア諸民族の連帯を求める思想を抱いた宮崎滔天(1870-1922)がいかにして、後に国父と称される孫文(1866-1925)に出会い、中国の革命運動にかかわり、孫文らの革命運動を助けたかを、史料に基づいて考察し、その歴史的意義を明らかにしようとしたものである。

 これまでも宮崎滔天と中国革命の関係を扱った物語、読み物はあったが、日中両国ともに学術的著作といえるものは少ない。そこで、本論文は日中両国の研究者が手をつけていない、滔天と孫文のものの考え方および中国革命についての重要な史料である、滔天と孫文の「筆談残稿」等の第1次史料を綿密に検討し、滔天と中国革命のかかわりを明らかにしている。

 陳鵬仁氏はすでに台湾において宮崎滔天著『三十三年之夢』の中国語訳を出版しているが、本論文が中国人によってなされた、宮崎滔天と中国革命の関係についての、最初の本格的な研究であることは確認できる。

 本論文は序言、7章、結語からなっており、付録として「宮崎滔天著『三十三年之夢』の日本語版本と中国語訳並びに陳鵬仁による関連文献の中国語訳」と[孫文と日本との関連略年表」がついている。

 第1章第1節では、滔天が自由民権思想を抱くにいたる経緯が記されており、滔天の兄たち、とりわけ二兄弥蔵の影響が強かったことが指摘されている。弥蔵は滔天に対し、一生をかけて支那内地に進入し、こころを支那人にして英雄たちとともに天命を革める基を定めるのはどうであろうか、と説く。そして、もしも支那がこれに成功すれば、インドも興すべく、東南アジアの諸国も振起するであろうし、フィリピン、エジプトも救うことができるであろう、と述べたことが指摘されている。

 同第2節では、明治時代、日本人の中に大陸雄飛に夢を託する、いわゆる大陸浪人が現れたが、その時代的な背景が扱われている。かれら大陸浪人は様々な形で中国革命とかかわるようになるが、滔天もその一人であることが指摘されている。

 第2章では、中国で自分の夢を実現するため、試行錯誤する滔天の姿が記されている。22歳の時、初めて中国に行くが、金をだまし取られて、むなしく帰郷。反清クーデターに失敗し、日本に亡命中の朝鮮の革命家、金玉均と語らって大事をおこそうとするも失敗する。滔天は多くの中国人の住むシャムで事業を興して、かれらのこころを捉え、かれらを率いて中国大陸に乗り込むことを考えるが、これまた失敗する。加えて、理想実現のための強力な同志であった弥蔵が病により急逝し、滔天に大きな打撃を与える。

 第3章では、犬養毅の助力を得て、活動を本格化させる滔天の姿が描かれている。すなわち、1897年、犬養毅の推薦により、外務省の機密費で、秘密結社事情調査のため中国に渡るが、香港で近日中に孫文が英国から日本に着く、ということを知り、急遽、帰国する。横浜で滔天は孫文に会い、二人は直ちに盟友関係に入る。

 滔天が孫文に感服した理由については、著者は次の2点を指摘している。

 第1に、孫文が中国の革命を目指す所以が、ただ単に中国四億の蒼生を救わんがためのみでなく、アジア黄色人種の屈辱を雪ぎ、宇内(世界)の人道を回復し、擁護せんがためであったこと。それは弥蔵や滔天の信念、即ち黄色人種の運命の岐路は中国の興亡盛衰にあり、中国を統一して事を運んでこそ黄色人種の勢力は回復され、世界を指導しうるという「人類同胞主義」と同じものであった。

 第2に、孫文は滔天と出会う前、主として中国の秘密結社のメンバーと連絡を取って革命を画策してきたが、秘密結社は「仁」、「義」、「情」を重んじる。孫文はそれを身につけており、それが滔天の生まれながらの「侠」の心情に通じ、「志同道合」の盟友たることを可能にした。

 滔天は直ちに犬養毅に孫文のことを報告し、以後、孫文は犬養毅の支援を受けることになる。

 なお、著者は本章第2節において、滔天と孫文の「筆談残稿」について、綿密な検討を加えている。『宮崎滔天全集』掲載の「筆談残稿」と、中国国民党党史委員会保存の「筆録」の写しを詳細に比較検討している。この筆談記録の中で、江蘇省の海州が武装蜂起の地として理想的である、という部分について、『宮崎滔天全集』は、それを孫文の言葉であるとし、筆談を整理しなおした張継は滔天が書いたものであるとしている点については筆談の時が1897年であることから判断すれば、孫文の言葉であった、とするのが妥当と思われる、と指摘しており、『宮崎滔天全集』と張継の整理しなおした筆談を比較すると、張継の方が正確である、と指摘している。

 第4章では、中国同盟会の成立(1905年)時の滔天の活動が扱われている。中国同盟会の結成は、それまで華中と華南で別個に革命運動を進めてきた組織が大同団結したことを意味する。この同盟会の大黒柱が孫文と黄興(1874-1916)であったが、この2人を結びつけたのが滔天であったことが指摘されている。また、この章では、滔天らが、1906年秋、日本の世論を中国革命に向けて喚起することを目的にして、半月刊誌『革命評論』を発刊するなど、情宣活動を行ったことも触れられている(経費困難のため翌年春、休刊のやむなきに至る)。

 第5章は、辛亥革命(1911年)前後の滔天の活動に触れている。辛亥革命前夜、滔天は武器弾薬の調達に奔走している。やがて、武昌蜂起が成功し、滔天は上海に向かい、そこで革命後の中国の建設に寄与しようと、雑誌『滬上評論』の発行を企画している。1912年1月、孫文は中華民国の大総統に就任するが、財政困難と国内事情のため、大総統のポストを袁世凱に譲らざるをえなくなる。1913年2月、孫文は日本を最初にして最後の公式訪問をし、官民の歓迎を受け、「日本は自分にとって第二の故郷である」と述べたことが指摘されている。孫文の訪日に滔天はつき従っている。

 第6章では、辛亥革命後の状況が扱われている。1913年、孫文らが「討袁」の旗を挙げるも、わずか2カ月で袁世凱の軍に破れる。日本に亡命した孫文は、革命失敗の原因が党員の精神の散漫、団結の不足にあるとみて、新たな革命組織作りにとりかかり、同年9月、東京で中華革命党を結成した。この党は党首孫文に絶対服従を求めていた。この行動動は、古参の革命家、とりわけ一貫して孫文を支持してきた黄興の強い反発を買った。滔天は孫文・黄興を和解させようとするが、実らないまま、1916年、黄興が亡くなってしまう過程が記されている。

 第7章では、袁世凱の死後の護法時代の孫文の活動に対して、滔天がどのように支援したかが検討されている。孫文の、日本軍閥の中国侵略の政策を何とか阻止するよう努めてほしい、という要請に対して、一浪人の滔天が、言論を使って鋭く寺内内閣の対中外交を批判したことが指摘されている。

 併せて、滔天は孫文に対する日本の朝野の冷たい仕打ちにも、憤りを見せており、自分の知る限り、孫、黄の両人を始め、その一派の人々こそ、中国において最もよく日本を理解し、日本とともに興亜の大業を策せんと志す者であり、日本及び日本人が彼らを中堅として、新中国の復興を計ったならば、民国の基礎はずっと早く形成されていたはずであるものを、と嘆いていたことが記されている。

 1921年3月、孫文の招きにより滔天は広東を訪れた。これが最後の中国行きとなった。同年12月、滔天死去。1923年1月、上海で孫文を頭に89人の発起人による宮崎滔天追悼大が開かれたことが指摘されている。

 結語では、改めて滔天が、日本と中国の解放、アジアと世界の平和を願い、そのための中国革命の意義を信じて、すべてをそれに投入したことを強調している。

 ここで、一点、本論文の成果として、強調しておきたいことがある。滔天は『三十三年之夢』によって、孫文と興中会の中国革命における意義を日本人に紹介したのだが、本論文は実は同書が中国に対しても大きな影響を及ぼしたことを詳しく紹介している。すなわち『三十三年之夢』は、1902年1月30日から6月14日まで『二六新報』に連載された後、単行本にされ、ベストセラーとなったが、本論文は同書の中国語訳が革命運動に大きな影響を与えたことを指摘しているのである。同書の中国語訳は、日本にいる中国人留学生の間だけでなく、中国本土でも争って読まれ、それまで反逆者と見なされてきた孫文のイメージが、読者のこころから払拭されたのである。

 本論文は同書の中国語訳がその後も復刻、新訳を重ね、現在まで11種類もある、と指摘している。特に1906年に出た黄中黄訳(黄中黄は、章士のペンネーム)については原著の八分の一ないし九分の一ぐらいしか訳されておらず、また、訳者による創作が含まれていることを明らかにしている。すなわち、かつて曾国藩や左宗棠が、清朝の奴隷たる根性を発揮して、自分の同胞を殺戮した事実を指摘し、太平天国の洪秀全や楊秀清の革命が成功しなかったことを惜しみ、そして、現代において、一人の孫文はやがて無数の孫文を生むであろう、と言った箇所等が付け加えられている、というのである。さらに、黄中黄はほとんど日本語が読めず、漢字の多い原著から順序よく漢字を追って並べて構成したのが、この訳書ではないか、と指摘し、それにもかかわらず、中国大陸で当時、この訳書が争って読まれたことを指摘している。

 このように、本論文は日中関係史に関する多くの新知見を与えてくれるが、むろん問題点がないわけではない。1915年2月5日に孫文・陳其美と犬塚信太郎・山田純三郎との間で締結されたという「日中盟約」の問題、1915年3月14日に孫文が外務省政務局長小池張造に寄せた書簡の「盟約案」の問題につき、本論文は偽物説に与している。中国、特に台湾の学界では孫文が旧満州の利権を日本に譲渡するような意向を示すはずがない、という見解が強く、日本の学界では逆に、比較的本物説が強いのであるが、本論文では自説を補強する史料を示しながら、客観的にこの問題を論じており、この問題についての言及があるからといって、本論文の価値が損なわれるとは考えられない。

 以上、本論文は、これまで学術的な考察が加えられることが少なかった、宮崎滔天と中国革命の関係について、新たな知見をもたらし、日中関係史研究の分野における実証的な歴史研究の深化に寄与するところ大である、と判断される。よって、本論文の執筆者である陳鵬仁は、博士(学術)の学位を授与される資格があると認める。

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