本論文はアジア諸民族の連帯を求める思想を抱いた宮崎滔天(1870-1922)がいかにして、後に国父と称される孫文(1866-1925)に出会い、中国の革命運動にかかわり、孫文らの革命運動を助けたかを、史料に基づいて考察し、その歴史的意義を明らかにしようとしたものである。 これまでも宮崎滔天と中国革命の関係を扱った物語、読み物はあったが、日中両国ともに学術的著作といえるものは少ない。そこで、本論文は日中両国の研究者が手をつけていない、滔天と孫文のものの考え方および中国革命についての重要な史料である、滔天と孫文の「筆談残稿」等の第1次史料を綿密に検討し、滔天と中国革命のかかわりを明らかにしている。 陳鵬仁氏はすでに台湾において宮崎滔天著『三十三年之夢』の中国語訳を出版しているが、本論文が中国人によってなされた、宮崎滔天と中国革命の関係についての、最初の本格的な研究であることは確認できる。 本論文は序言、7章、結語からなっており、付録として「宮崎滔天著『三十三年之夢』の日本語版本と中国語訳並びに陳鵬仁による関連文献の中国語訳」と[孫文と日本との関連略年表」がついている。 第1章第1節では、滔天が自由民権思想を抱くにいたる経緯が記されており、滔天の兄たち、とりわけ二兄弥蔵の影響が強かったことが指摘されている。弥蔵は滔天に対し、一生をかけて支那内地に進入し、こころを支那人にして英雄たちとともに天命を革める基を定めるのはどうであろうか、と説く。そして、もしも支那がこれに成功すれば、インドも興すべく、東南アジアの諸国も振起するであろうし、フィリピン、エジプトも救うことができるであろう、と述べたことが指摘されている。 同第2節では、明治時代、日本人の中に大陸雄飛に夢を託する、いわゆる大陸浪人が現れたが、その時代的な背景が扱われている。かれら大陸浪人は様々な形で中国革命とかかわるようになるが、滔天もその一人であることが指摘されている。 第2章では、中国で自分の夢を実現するため、試行錯誤する滔天の姿が記されている。22歳の時、初めて中国に行くが、金をだまし取られて、むなしく帰郷。反清クーデターに失敗し、日本に亡命中の朝鮮の革命家、金玉均と語らって大事をおこそうとするも失敗する。滔天は多くの中国人の住むシャムで事業を興して、かれらのこころを捉え、かれらを率いて中国大陸に乗り込むことを考えるが、これまた失敗する。加えて、理想実現のための強力な同志であった弥蔵が病により急逝し、滔天に大きな打撃を与える。 第3章では、犬養毅の助力を得て、活動を本格化させる滔天の姿が描かれている。すなわち、1897年、犬養毅の推薦により、外務省の機密費で、秘密結社事情調査のため中国に渡るが、香港で近日中に孫文が英国から日本に着く、ということを知り、急遽、帰国する。横浜で滔天は孫文に会い、二人は直ちに盟友関係に入る。 滔天が孫文に感服した理由については、著者は次の2点を指摘している。 第1に、孫文が中国の革命を目指す所以が、ただ単に中国四億の蒼生を救わんがためのみでなく、アジア黄色人種の屈辱を雪ぎ、宇内(世界)の人道を回復し、擁護せんがためであったこと。それは弥蔵や滔天の信念、即ち黄色人種の運命の岐路は中国の興亡盛衰にあり、中国を統一して事を運んでこそ黄色人種の勢力は回復され、世界を指導しうるという「人類同胞主義」と同じものであった。 第2に、孫文は滔天と出会う前、主として中国の秘密結社のメンバーと連絡を取って革命を画策してきたが、秘密結社は「仁」、「義」、「情」を重んじる。孫文はそれを身につけており、それが滔天の生まれながらの「侠」の心情に通じ、「志同道合」の盟友たることを可能にした。 滔天は直ちに犬養毅に孫文のことを報告し、以後、孫文は犬養毅の支援を受けることになる。 なお、著者は本章第2節において、滔天と孫文の「筆談残稿」について、綿密な検討を加えている。『宮崎滔天全集』掲載の「筆談残稿」と、中国国民党党史委員会保存の「筆録」の写しを詳細に比較検討している。この筆談記録の中で、江蘇省の海州が武装蜂起の地として理想的である、という部分について、『宮崎滔天全集』は、それを孫文の言葉であるとし、筆談を整理しなおした張継は滔天が書いたものであるとしている点については筆談の時が1897年であることから判断すれば、孫文の言葉であった、とするのが妥当と思われる、と指摘しており、『宮崎滔天全集』と張継の整理しなおした筆談を比較すると、張継の方が正確である、と指摘している。 第4章では、中国同盟会の成立(1905年)時の滔天の活動が扱われている。中国同盟会の結成は、それまで華中と華南で別個に革命運動を進めてきた組織が大同団結したことを意味する。この同盟会の大黒柱が孫文と黄興(1874-1916)であったが、この2人を結びつけたのが滔天であったことが指摘されている。また、この章では、滔天らが、1906年秋、日本の世論を中国革命に向けて喚起することを目的にして、半月刊誌『革命評論』を発刊するなど、情宣活動を行ったことも触れられている(経費困難のため翌年春、休刊のやむなきに至る)。 第5章は、辛亥革命(1911年)前後の滔天の活動に触れている。辛亥革命前夜、滔天は武器弾薬の調達に奔走している。やがて、武昌蜂起が成功し、滔天は上海に向かい、そこで革命後の中国の建設に寄与しようと、雑誌『滬上評論』の発行を企画している。1912年1月、孫文は中華民国の大総統に就任するが、財政困難と国内事情のため、大総統のポストを袁世凱に譲らざるをえなくなる。1913年2月、孫文は日本を最初にして最後の公式訪問をし、官民の歓迎を受け、「日本は自分にとって第二の故郷である」と述べたことが指摘されている。孫文の訪日に滔天はつき従っている。 第6章では、辛亥革命後の状況が扱われている。1913年、孫文らが「討袁」の旗を挙げるも、わずか2カ月で袁世凱の軍に破れる。日本に亡命した孫文は、革命失敗の原因が党員の精神の散漫、団結の不足にあるとみて、新たな革命組織作りにとりかかり、同年9月、東京で中華革命党を結成した。この党は党首孫文に絶対服従を求めていた。この行動動は、古参の革命家、とりわけ一貫して孫文を支持してきた黄興の強い反発を買った。滔天は孫文・黄興を和解させようとするが、実らないまま、1916年、黄興が亡くなってしまう過程が記されている。 第7章では、袁世凱の死後の護法時代の孫文の活動に対して、滔天がどのように支援したかが検討されている。孫文の、日本軍閥の中国侵略の政策を何とか阻止するよう努めてほしい、という要請に対して、一浪人の滔天が、言論を使って鋭く寺内内閣の対中外交を批判したことが指摘されている。 併せて、滔天は孫文に対する日本の朝野の冷たい仕打ちにも、憤りを見せており、自分の知る限り、孫、黄の両人を始め、その一派の人々こそ、中国において最もよく日本を理解し、日本とともに興亜の大業を策せんと志す者であり、日本及び日本人が彼らを中堅として、新中国の復興を計ったならば、民国の基礎はずっと早く形成されていたはずであるものを、と嘆いていたことが記されている。 1921年3月、孫文の招きにより滔天は広東を訪れた。これが最後の中国行きとなった。同年12月、滔天死去。1923年1月、上海で孫文を頭に89人の発起人による宮崎滔天追悼大が開かれたことが指摘されている。 結語では、改めて滔天が、日本と中国の解放、アジアと世界の平和を願い、そのための中国革命の意義を信じて、すべてをそれに投入したことを強調している。 ここで、一点、本論文の成果として、強調しておきたいことがある。滔天は『三十三年之夢』によって、孫文と興中会の中国革命における意義を日本人に紹介したのだが、本論文は実は同書が中国に対しても大きな影響を及ぼしたことを詳しく紹介している。すなわち『三十三年之夢』は、1902年1月30日から6月14日まで『二六新報』に連載された後、単行本にされ、ベストセラーとなったが、本論文は同書の中国語訳が革命運動に大きな影響を与えたことを指摘しているのである。同書の中国語訳は、日本にいる中国人留学生の間だけでなく、中国本土でも争って読まれ、それまで反逆者と見なされてきた孫文のイメージが、読者のこころから払拭されたのである。 本論文は同書の中国語訳がその後も復刻、新訳を重ね、現在まで11種類もある、と指摘している。特に1906年に出た黄中黄訳(黄中黄は、章士 のペンネーム)については原著の八分の一ないし九分の一ぐらいしか訳されておらず、また、訳者による創作が含まれていることを明らかにしている。すなわち、かつて曾国藩や左宗棠が、清朝の奴隷たる根性を発揮して、自分の同胞を殺戮した事実を指摘し、太平天国の洪秀全や楊秀清の革命が成功しなかったことを惜しみ、そして、現代において、一人の孫文はやがて無数の孫文を生むであろう、と言った箇所等が付け加えられている、というのである。さらに、黄中黄はほとんど日本語が読めず、漢字の多い原著から順序よく漢字を追って並べて構成したのが、この訳書ではないか、と指摘し、それにもかかわらず、中国大陸で当時、この訳書が争って読まれたことを指摘している。 このように、本論文は日中関係史に関する多くの新知見を与えてくれるが、むろん問題点がないわけではない。1915年2月5日に孫文・陳其美と犬塚信太郎・山田純三郎との間で締結されたという「日中盟約」の問題、1915年3月14日に孫文が外務省政務局長小池張造に寄せた書簡の「盟約案」の問題につき、本論文は偽物説に与している。中国、特に台湾の学界では孫文が旧満州の利権を日本に譲渡するような意向を示すはずがない、という見解が強く、日本の学界では逆に、比較的本物説が強いのであるが、本論文では自説を補強する史料を示しながら、客観的にこの問題を論じており、この問題についての言及があるからといって、本論文の価値が損なわれるとは考えられない。 以上、本論文は、これまで学術的な考察が加えられることが少なかった、宮崎滔天と中国革命の関係について、新たな知見をもたらし、日中関係史研究の分野における実証的な歴史研究の深化に寄与するところ大である、と判断される。よって、本論文の執筆者である陳鵬仁は、博士(学術)の学位を授与される資格があると認める。 |