学位論文要旨



No 213268
著者(漢字) 橘,弘志
著者(英字)
著者(カナ) タチバナ,ヒロシ
標題(和) 高齢者居住施設における環境適応プロセスに関する研究
標題(洋)
報告番号 213268
報告番号 乙13268
学位授与日 1997.03.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13268号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,鷹志
 東京大学 教授 香山,寿夫
 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 教授 藤井,明
 東京大学 助教授 岸田,省吾
内容要旨

 わが国では高齢化の進行に伴い高齢者居住施設の必要性は確実に高まっており、実際に急速な施設整備が進められている。これらの施設整備は、おもに身体的・精神的機能の低下した高齢者に焦点を合わせており、環境の変化に対して影響を受けやすい高齢者が居住環境の変化に直面する機会がますます増えていくという問題を抱えている。

 本論文は、近年とくにニーズの高まっている個室型の特別養護老人ホームを対象とし、居住施設への転居に伴う「環境移行」に対し入居者が適応していくプロセスを実態として捉え、入居者と施設の物理的・社会的環境との対応関係を分析することから、高齢者居住施設のあり方を探り、入居者の適応過程に配慮した施設計画のための知見を得ることを目的とする。

 本論文は7章より構成される。

 第1章では、社会的背景および理論的背景を述べ、そこから論文の課題として、1)環境移行の影響と適応過程の把握、2)個室型高齢者施設の意義の明確化、3)個室型高齢者施設の空間構成のあり方の導出、4)具体的な個室型高齢者施設の入居後評価(POE)の4点を見出している。また論文を進めるにあたっての視点として、1)施設を普通の生活の場として捉える、2)生態学的視点から捉える、3)入居者を社会的存在として捉える、4)時間軸上で変化するものとして捉える、の4点が重要であることを述べている。

 第2章は調査概要として、調査の方法・内容および調査対象施設の概要について述べている。本論文では、入居者個人と施設環境との相互に影響し合う過程を包括的・縦断的に分析するために一カ所の施設のみを調査対象とし、居室および施設全体空間の入居者による使われ方と意識について、観察調査および入居者・施設職員へのインタビュー調査を、2年あまりの期間中に継続的に行ったことを述べている。

 第3章〜第6章は、実際の調査・分析データをもとに考察を行っている部分である。第3章〜第5章では、個人個人の環境との応対を重ね合わせていくことで施設の全体像を構成していくことを試みている。その全体像を踏まえた上で、第6章ではふたたび視点を個人に戻し、施設環境と個人との関わり方の時間的変容を事例的に考察している。

 第3章は個室に焦点を当て、入居者が自ら環境に働きかけ、環境を構築することにより、入居者と環境とが安定した関係を作っていく過程を考察している。主に入居者により持ち込まれる家具や物に注目し、時間に伴う増加という量的側面と、入居者にとっての意味という質的側面の両面から、分析を行っている。その結果、施設を自分の家として認識しているかどうかが、入居後の環境形成に影響を及ぼしていることが示唆された。居室の内部では、各入居者が物を使って環境に主体的に働きかけていくと同時に、物を介して物理的・社会的環境との関係が各入居者にフィードバックされている。この両者の相互サイクルが、居室の環境形成と個人のアイデンティティ確立を成立させる重要な過程として見出された。個室の役割を考える場合、従来的に言われているプライバシーの確保だけに価値を見出すのではなく、人が自らの「主体性」と環境との「関係性」を認識することにって人間-環境システムを構築していく場として捉えていくことが重要であると指摘している。

 第4章では、施設全体空間への入居者の行動の広がりに焦点を当て、入居者が施設のさまざまな場所を利用し意味づけていくことで、入居者本人と環境とが安定した関係を作っていく過程を考察している。まず、施設内空間における入居者の滞在時間の変化から、個室というprivate空間の滞在時間はむしろ減少傾向にあり、その外側に広がるsemi-privateの共用空間が入居者の生活の場として重要性を高めていることが見出された。次に、人がある場所で活動したり他の人と接する場面を「場」という概念で捉え、そこで発生する行為や社会的関係などから場を分類し、これらの場の展開の仕方から施設の空間の質について分析を行った。その結果、施設の各空間は入居者によってさまざまに意味付けされていたが、なかでも居室の外側に広がるsemi-private空間がもっともその多様性を含んだ空間であることが示された。入居者の施設空間における場の形成の仕方は人によるバリエーションが大きく、この多様な入居者の生活スタイルを支えているのは単に個室の存在のみにあるのではなく、多様に意味付けされうるsemi-private空間が大きな役割を果たしていることが示唆された。

 第5章では、入居者による施設環境の評価を構造的に捉え、人が環境に適応していく過程における評価の位置付けについて考察している。施設環境を制度的環境・社会的環境・物理的環境の3側面から捉え、それぞれの環境の側面に関わる入居者の評価を分析した。またこのときに、入居以前から入居以後に亙る時間的流れの中で評価を捉えるため、入居前の個人的状況および入居後の環境移行を評価に影響を及ぼす側面として捉えている。入居者は、ある状況では施設環境によって一方的に規制され、ある状況では選択肢を与えられ、またある状況では入居者側が環境をコントロールしている。このような多様な入居者と環境との相互交渉が評価に現れており、これらの相互交渉の重ね合わせによって、各入居者は固有の行動環境を形成していることが示唆された。そしてこの評価を受けて入居者がふたたび環境に働きかけていくという、評価→働きかけ→環境形成→評価のサイクルによって、入居者と施設環境との安定した関係が次第に作られていくことが提示された。

 第6章では、第3章〜第5章で浮かび上がらせてきた施設環境に対して、実際の入居者個人が関わっていくプロセスを、3例のケーススタディを行い具体的に考察している。3事例はともに施設開所後4ヶ月目の入居者であり、以前の入居者によってすでに形成されている社会的環境との関わり方に注目しつつ、物理的環境・社会的環境・制度的環境との関わり方の時間的変化を分析の対象としている。その結果、各事例が新しい環境の中で何を軸として新しい関係を形成していくのか、その方法は三者三様であった。各事例に見る環境への適応プロセスは、不安定から安定への定常的な流れとして行われるわけではなく、さまざまな状況ごとに物理的環境・社会的環境・制度的環境のそれぞれに対して、直接あるいは間接的に働きかけたり、あるいは一方的に規制されたり、といった相互交渉の積み重ねであることが見出された。また、人と環境との相互関係は、環境側あるいは人側の要因により変化していくものであり、適応して安定した状態だけに価値をおくのではなく、適応に向かう過程にこそ重要性と価値を見出す必要のあることを示している。

 第7章では、第6章までの考察から、施設入居者の環境適応に関わる要素をまとめている。施設入居者の環境適応プロセスとは、自分なりの安定した生活空間を形成することであるとともに、個人のアイデンティティ形成と密接に関係しており、それを支える空間として生活の拠点となる個室や多様な行動を保証する共用空間の重要性を指摘している。最後に人間-環境関係の適応プロセスに関して、以下の仮説的な提示を行っている。人間と環境とは、さまざまな場面において何らかの「媒介」によって関わりを深めていくことから、そこに環境に対する「期待」が生成され、さらに環境へ働きかけ環境を形成していくことによって期待が強化されていく。つまり人間と環境とはその相互浸透の反映としての「期待」によって結びついており、実際の環境が期待とずれている場合、そのギャップの評価→働きかけ→環境形成のサイクルによってギャップを解消する方向に向かう。その過程において入居者は、さまざまな物や場・人などを媒介として、環境を自らに取り入れるとともに環境に対して働きかけ、次第に関係を広げていくことによって、新しい環境の中に適応していくと考えられる。

審査要旨

 本論文は、日本で先駆的な事例である個室型特別養護老人ホームを対象として施設の開所時点からの継続的な調査を行い、居住施設への転居に伴う「環境移行」に対し入居者が適応していくプロセスを実態として捉え、入居者と施設の物理的・社会的環境との対応関係を分析することから、適応過程における人間と環境との関係を相互浸透的視点より明らかにし、高齢社会における居住環境の質の向上に資する計画的視点を提供するものである。

 論文は、7章より構成される。

 第1章では、高齢者の住要求に対する社会的背景および、トランザクション理論などの心理学における人間と環境との関係に関する理論的背景を述べ、そこから論文の課題および視点を見出している。

 第2章は、調査の方法および調査対象施設の概要について述べている。本論文では、入居者個人と施設環境との相互に影響し合う過程を包括的・縦断的かつ継時的に分析するために一カ所の施設のみを調査対象としていることを述べている。

 第3章は、居住者の個室に焦点を当て、施設から与えられる家具・道具や入居者により持ち込まれる家具や物に注目し、時間の経過に伴う増加という量的側面と、入居者にとっての物の意味という質的側面の両面から分析を行い、入居者が自ら環境に働きかけ環境を構築することにより、入居者と環境とが安定した関係を作っていく過程を確認している。各入居者は、物を使って環境に主体的に働きかけていくと同時に、物を介して物理的・社会的環境との関係が調整されているという両者の相互サイクルが、居室の環境形成と個人のアイデンティティ確立を成立させる重要な過程として見出され、このような安定した人間-環境システムを構築していく場としての個室の役割の重要性を明らかにしている。

 第4章では、入居者の毎日の生活が行われている共用部分を含めた施設全体における入居者の行動の広がりに焦点を当てている。まず、施設内空間における入居者の滞在時間の変化から、個室という私的(private)空間の滞在時間はむしろ減少傾向にあり、その外側に広がる半私的(semi-private)の共用空間が入居者の生活の場として重要性が高まっていることを確認している。施設の各空間はそこで行われる入居者の行動や社会的関係によってさまざまに意味付けされており、なかでも、この居室の外側に広がる半私的空間がもっとも多様性をもつ空間であり、それが入居者の多様な生活スタイルを支えるのに大きな役割を果たしていることを見出している。

 第5章では、入居者による施設環境の評価を、制度的環境・社会的環境・物理的環境の3側面から捉え、それぞれの環境の側面に関わる入居者の評価を分析している。入居者と環境との関係は一方的・固定的なものではなく、状況に応じた相互交渉によって形成されており、それは入居者の評価と環境への働きかけによる環境形成のサイクルによって関係が作られていくことを明らかにしている。

 第6章では、入居者のなかの3例のケーススタディによって、施設環境に対して入居者個人が関わっていくプロセスを、とくに時間的変化に注目して明らかにしている。各事例に見る環境への適応プロセスは、不安定から安定への定常的な流れとして行われるわけではなく、さまざまな状況ごとに物理的環境・社会的環境・制度的環境のそれぞれに対して、直接あるいは間接的に働きかけたり、あるいは一方的に規制されたり、といった相互交渉の積み重ねであること、そしてその結果、各事例が新しい環境の中で関係を形成していく方法が個別なプロセスであることを実証している。

 第7章ではまとめとして、施設入居者の環境適応プロセスにおいては、自分なりの安定した生活空間を形成することが基本的動機付けであり、個人のアイデンティティ形成と密接に関係していることを述べ、それを支える空間として、生活の拠点となる個室や多様な行動を保証する共用空間の重要性を指摘している。人間と環境とは、さまざまな場面において何らかの「媒介」によって関わりを深めていくことから、そこに環境に対する「期待」が生成され、さらに環境へ働きかけ自己を中心とした社会的環境を形成していくことによって期待が強化されていく、という環境適応プロセスに関しての仮説的なモデルの提案を行っている。

 以上、要するに本論文は、特別養護老人ホームにおいて入居者の生活実態を継続的に追跡調査し、施設への入居という環境移行に対する入居者の適応過程を把握し、人間・環境の相互浸透的視点からその過程における環境の影響を検証したものである。この成果は個室型特別養護老人ホームの先駆的事例における使用後評価としての高齢社会における居住環境のあり方を示す実証的な価値を持つのみならず、施設計画理論あるいは建築計画学に環境移行という新たな視点を提供するものとして大きな意義を持つといえる。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53990