外洋の中でも窒素・リン濃度が有光層内で高い南極海などの外洋高栄養塩域では、微量栄養素である鉄の不足が、植物プランクトンの生物量の増加を制限している可能性が指摘されている。しかし外洋表層の鉄濃度は非常に低いため、従来の研究では実験操作中に鉄の汚染を受けることが多く、生物海洋学的な検討が十分出来なかった。 本研究は、植物プランクトン研究のための鉄汚染を防ぐクリーン技術を確立し、鉄濃度が外洋の生物生産に及ぼす影響を解明することを目的としたものである。 最初に、太平洋北西部及び南極海から分離した珪藻及びハプト藻からなる17株の単離培養株について、鉄濃度に対する増殖特性を調べた。実験を行った0.04〜10nMの鉄濃度で、大部分の株の比増殖率は双曲線型あるいはS字型の応答を示し、外洋表層の低い鉄濃度に相当する0.1nM前後では、これらの外洋性植物プランクトンの増殖が制限され得ることが明らかになった。 次に、外洋高栄養塩域である北太平洋亜寒帯域・太平洋赤道域・南極海沖合域において、現場のプランクトン群集を含む表層水への鉄添加実験を行い、生物量や群集組成に及ぼす鉄濃度の影響を調べた。これらの海域では現場の鉄濃度が0.05以下〜0.2nMと低かった。鉄を0.5〜1nM添加した実験系内では、クロロフィルaと粒状有機炭素の濃度が著しく増加した。北太平洋亜寒帯域と太平洋赤道域においては、3m以下の藻類が優占していたが、鉄添加によって主に珪藻からなる3m以上の藻類が優占するようになった。更に、植物プランクトン群集の比増殖率から、これら二つの海域では、細胞の大小に係わらず鉄不足による増殖律速を受けていたことが示唆された。一方、南極海沖合域では、現場の群集が10m以上の珪藻で占められており、鉄添加による群集組成の変化は認められなかったが、クロロフィルa濃度の増加は鉄添加系で有意に多かった。従って、外洋高栄養塩域の表層では、鉄濃度が上昇すると、植物プランクトンの生物量が増大し、その影響は特に大型の珪藻で顕著に認められることが示された。南極海で現場の群集が珪藻で占められていたのは、実験を行った測点が、一時的な鉄供給を受けていたことによるとも思われる。 貧栄養海域である北太平洋亜熱帯域・インド洋アラビア海においても鉄添加実験を実施したところ、現場の植物プランクトン群集の生物量と組成は、鉄添加による影響を受けず、殆ど変化がなかった。鉄以外の栄養塩による律速と考えられるが、鉄の添加直後に一時的な鉄濃度の減少が認められたので、植物プランクトン群集が鉄の取り込み系を活性化していたことが示唆された。 外洋高栄養塩域での鉄添加実験から、鉄濃度の上昇に伴って珪藻の窒素・リン・珪素消費量に変化が起きている可能性が示唆されたため、珪藻単離培養株を用いて検討を加えた。鉄濃度が低くて増殖が制限される場合、Chaetoceros dichaetaでは、細胞当りの窒素・リン消費量が半分以下に減少するとともに、細胞体積が縮小して単位体積当りの珪素消費量が増加した。Nitzschia sp.では、細胞当りの窒素・リン消費量と細胞体積は鉄制限下でも変化しないが、細胞当りの珪素消費量が2倍に増加した。従って、鉄濃度の増加は、栄養塩のうち珪酸塩の利用を効率化することが示された。 以上のことから、鉄律速の外洋高栄養塩域では、現場の低い鉄濃度により大型珪藻の増殖が抑制され、栄養塩供給から見積もられる一次生産可能量の2〜8割の生産しか行われていないと結論した。本研究で得られた知見を基に現在の湧昇域で見られるような生態系構造を敷延化すると、鉄濃度の上昇に伴う一次生産量と生産構造の変化は海洋の魚類生産推定量を約16倍にまで変化させ得るものと思われる。 このように本論文は、外洋の高栄養塩域では鉄不足により一次生産が抑制されている場合が多いことを示し、当該海域が鉄の供給のみで一次生産を増加させ得て、これにより魚類生産量も著しく増加させ得ることを示した。これは今後の海洋開発に新しい展開を可能にするもので、学術上も応用上も極めて貢献するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。 |