学位論文要旨



No 213304
著者(漢字) 武田,重信
著者(英字)
著者(カナ) タケダ,シゲノブ
標題(和) 外洋植物プランクトン群集に及ぼす鉄濃度の影響に関する研究
標題(洋)
報告番号 213304
報告番号 乙13304
学位授与日 1997.03.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第13304号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 二村,義八朗
 東京大学 教授 川口,弘一
 東京大学 教授 寺崎,誠
 東京大学 助教授 古谷,研
 東京大学 助教授 福代,康夫
内容要旨

 光合成を行う植物プランクトンは、海洋の生物生産を支える一次生産者であり、その生産力や群集組成は光とともに生育に必須な栄養素の供給によって左右される。窒素及びリンは海洋の一次生産の限定要因として第一に考えられるが、北太平洋亜寒帯域・太平洋赤道域・南極海では、有光層中の硝酸塩及びリン酸塩濃度が高いにもかかわらず、植物プランクトン生物量が少なく、微量栄養素である鉄の不足が植物プランクトンの増殖を律速している可能性が指摘されている。鉄は、細胞内の様々な酵素反応系を通して物質代謝に関与する重要な元素であるが、海水中では難溶性の水酸化物を形成するために極微量しか含まれていない。このため従来の研究では、実験操作中に鉄の汚染が生じ易く、結果の信頼性に問題を残してきた。しかしながら近年、微量金属の汚染を厳密に防ぐクリーン技術が海洋化学の分野でも開発され、鉄の一次生産に対する影響の研究も可能になりつつあるが、未だ生物海洋学的研究に十分応用できる段階ではない。

 本研究では、このような背景の下に外洋における植物プランクトンの増殖を制御する要因として鉄を取り上げ、鉄濃度の変動が外洋の生物生産に及ぼす影響を解明することを目的に、まず植物プランクトン研究のためのクリーン技術の確立を図った。次に外洋域に生育する植物プランクトンの培養株について、鉄濃度に対する増殖特性を調べた。その結果、外洋表層の低い鉄濃度では、増殖が制限され得ることが示唆された。そこで北太平洋亜寒帯域・太平洋赤道域・南極海などの外洋域において現場表層水への鉄添加実験を行い、植物プランクトンの生物量や群集組成に及ぼす鉄の影響を詳しく調べた。更に鉄欠乏が植物プランクトンによる栄養塩の利用に及ぼす影響について解析した。本研究により得られた成果の大要は以下の通りである。

1.植物プランクトン研究のためのクリーン技術

 近年、微量金属に関する汚染を厳密に防ぐクリーン技術が海洋化学の分野で開発され、信頼性の高い外洋表層水中の溶存鉄濃度として、数十〜数百pMの値が報告されている。これらの値は、従来の植物プランクトン培養実験における鉄濃度と比べて3〜5桁低い。そこで本研究では、外洋表層水中の低い鉄濃度を植物プランクトン培養実験において再現するためのクリーン技術と、鉄汚染の状況を把握するための簡便な鉄分析法について検討した。

 まず実験に用いるクリーンルームを整備するとともに、微量金属分析で採用されているプラスチック器具の厳密な酸洗浄法を改良して、空気中の塵埃や容器からの汚染の低減を図った。次に室内実験では、鉄濃度の低い天然外洋表層水からキレート樹脂で重金属を除去した海水に、高純度精製した栄養塩類を添加して作成した培養液を用いた。また船上実験では、非金属製のポンプとチューブを用いた無汚染採水装置を用い、クリーンブース等の中で試料を取り扱った。一方、実験系が鉄汚染を受けていないことを把握するため、近年開発されたキレート樹脂濃縮-化学発光検出法による高感度鉄分析法を導入して、分析に要する試料量と時間を大幅に短縮した。その結果、培養実験系における鉄のバックグラウンド濃度を50pM以下に維持することが可能になり、外洋における植物プランクトンの増殖と鉄濃度の関係について検討するためのクリーン技術を確立することができた。また高感度鉄分析法により、実験系内の鉄濃度を迅速に把握することが可能になった。

2.外洋性植物プランクトンの鉄濃度に対する増殖特性

 植物プランクトンの中でも鉄濃度の低い外洋域に分布する外洋性種は、現場の鉄濃度に適応し、沿岸性種が生長できないような低い鉄濃度でも高い比増殖率を示すことが知られている。しかしながら従来の実験では、鉄のバックグラウンド濃度が高かったため、外洋性種の増殖が制限される鉄濃度については確かなことは分からなかった。そこで、太平洋北西部及び南極海の沖合域から分離した珪藻及びハプト藻からなる17株の単離培養株について、種々の鉄濃度条件下で比増殖率を測定した。実験を行った0.04〜10nMの鉄濃度で、大部分の株は双曲線型あるいはS字型の増殖曲線を示し、かつ外洋表層水の溶存鉄濃度に相当する0.1nM前後では、これらの外洋性種の増殖が制限され得ることが示唆された。しかしながら0.1nM前後の鉄濃度における比増殖率は、植物プランクトンの種類によっても異なった。

3.外洋域における植物プランクトン群集の鉄添加に対する増殖応答

 前節より、外洋表層の鉄濃度では植物プランクトンの増殖が制限されている可能性が示唆されたので、表層に硝酸塩・リン酸塩・珪酸塩などの栄養塩が高濃度で存在する西部北太平洋亜寒帯域・中部太平洋赤道域・南極海オーストラリア区沖合域において、現場表層水に鉄を添加して船上で5〜7日間培養し、植物プランクトン群集の増殖応答について調べた。これらの海域における表層の溶存鉄濃度は0.05〜0.2nM以下と低く、培養実験では外洋性植物プランクトンの増殖が抑制された範囲にあった。鉄を0.5〜1nM添加した実験系内では、クロロフィルaと粒状有機炭素の濃度が、鉄を添加していないコントロールと比較して著しく増加し、植物プランクトンの生物量が鉄添加によって増大した。また表層水に含まれていた栄養塩と添加した鉄の濃度は、植物プランクトンの増殖に伴って減少した。消費された硝酸塩及びリン酸塩に対する珪酸塩の比率(Si/N及びSi/P)は、鉄添加系では小さくなった。

 次に植物プランクトンの群集組成に関しては、西部北太平洋亜寒帯域と中部太平洋赤道域において、現場の群集はいずれも3m以下の藻類が優占していたが、鉄添加によって3m以上の円心目及び羽状目珪藻を主体とする群集が優占するようになった。更に、これら二つの海域における植物プランクトンの比増殖率は、全てのサイズにおいてコントロールより鉄添加系で有意に高く、細胞の大小に係わらず鉄による増殖律速を受けていたことが示唆された。一方、南極海オーストラリア区沖合域では、現場の群集の90%以上が10m以上の円心目と羽状目の珪藻で占められており、鉄添加による群集組成の変化は認められなかったが、クロロフィルa濃度の増加は有意に多かった。これは実験を行った南極海の測点が、周辺海域と比べてクロロフィルa濃度が高かったことなどから、氷山の溶解などによる鉄供給の影響を受けて珪藻の増殖が一時的に促進されていたことによるとも思われる。

 また貧栄養海域である西部北太平洋亜熱帯域において鉄添加実験を実施したところ、現場の3m以下の藻類を主体とする植物プランクトン群集の生物量と組成は、鉄添加による影響を受けず、殆ど変化がなかった。鉄以外の栄養塩による律速と考えられるが、鉄の添加直後に一時的な鉄濃度の減少が認められたので、植物プランクトン群集が鉄の取り込み系を活性化していたことが示唆された。更に、同様な貧栄養海域のインド洋アラビア海でも、鉄のみの添加では植物プランクトンの増殖は認められなかったが、硝酸塩と鉄を同時に添加することによって増殖が著しく促進された。また植物プランクトンが対数増殖を開始するまでの誘導期の期間は、硝酸塩のみを添加した場合と比較して、鉄と硝酸塩を同時に添加することによって短縮された。

4.植物プランクトンによる栄養塩の利用に及ぼす鉄の影響

 北太平洋亜寒帯域・太平洋赤道域・南極海の鉄添加実験では、珪藻の増殖が促進されたにもかかわらず、植物プランクトン群集によって消費される硝酸塩及びリン酸塩に対する珪酸塩の比率(Si/N、Si/P)が、鉄添加系でコントロールの約半分に低下した。この理由として、鉄欠乏状態になると、珪藻細胞内の窒素・リン・珪素含量が変化して、窒素とリンに対する珪素の取り込み比が大きくなる可能性が考えられた。そこで本研究では、2種類の珪藻単離培養株を用いて栄養塩の消費比率に対する鉄濃度の影響について検討した。その結果、鉄濃度が低くて増殖が制限される場合、Chaetoceros dichaeta(10×10〜20m)では、細胞当りの窒素・リン消費量が3.3p mol N/cellと0.34p mol P/cellから1.3p mol N/cellと0.15p mol P/cellに減少するとともに、細胞体積が縮小して単位体積当りの珪素消費量が増加した。Nitzschia sp.(7×60m)では、細胞当りの窒素・リン消費量と細胞体積は変化しないが、細胞当りの珪素消費量が1.8p mol Si/cellから3.6p mol Si/cellに増加した。いずれも消費されるSi/N、Si/P比が大きくなった。これは珪藻が鉄制限を受けながら増殖する場合には、有光層中から硝酸塩・リン酸塩よりも珪酸塩が多く除去されることになり、珪藻の増殖に不利な栄養環境を作りだしているのかも知れない。

 以上、本研究により、外洋表層の低い鉄濃度では外洋性植物プランクトンの増殖が制限され得ることが明らかにされた。そこで実際に外洋表層水に鉄を添加し、植物プランクトン群集の比増殖率や優占種のサイズ組成などを調べたところ、表層に栄養塩が高濃度で存在する外洋高栄養塩域では、鉄添加により植物プランクトンの生物量が増大することが確認され、その影響は特に大型の珪藻類で顕著に認められることが示された。また鉄濃度の増加は、植物プランクトンに消費される栄養塩のうち珪酸塩利用を効率化することが示された。更に、鉄律速の外洋高栄養塩域では、現場の低い鉄濃度により植物プランクトン群集のうち大型珪藻類の増殖が抑制され、栄養塩供給から見積もられる新生産可能量の2〜8割の生産しか行われていないと結論した。以上の知見を基に現在の湧昇域で見られるような生態系構造を敷延化すると、鉄濃度の上昇に伴う一次生産量と生産構造の変化は海洋の魚類生産推定量を約16倍にまで変化させ得るものと思われる。

審査要旨

 外洋の中でも窒素・リン濃度が有光層内で高い南極海などの外洋高栄養塩域では、微量栄養素である鉄の不足が、植物プランクトンの生物量の増加を制限している可能性が指摘されている。しかし外洋表層の鉄濃度は非常に低いため、従来の研究では実験操作中に鉄の汚染を受けることが多く、生物海洋学的な検討が十分出来なかった。

 本研究は、植物プランクトン研究のための鉄汚染を防ぐクリーン技術を確立し、鉄濃度が外洋の生物生産に及ぼす影響を解明することを目的としたものである。

 最初に、太平洋北西部及び南極海から分離した珪藻及びハプト藻からなる17株の単離培養株について、鉄濃度に対する増殖特性を調べた。実験を行った0.04〜10nMの鉄濃度で、大部分の株の比増殖率は双曲線型あるいはS字型の応答を示し、外洋表層の低い鉄濃度に相当する0.1nM前後では、これらの外洋性植物プランクトンの増殖が制限され得ることが明らかになった。

 次に、外洋高栄養塩域である北太平洋亜寒帯域・太平洋赤道域・南極海沖合域において、現場のプランクトン群集を含む表層水への鉄添加実験を行い、生物量や群集組成に及ぼす鉄濃度の影響を調べた。これらの海域では現場の鉄濃度が0.05以下〜0.2nMと低かった。鉄を0.5〜1nM添加した実験系内では、クロロフィルaと粒状有機炭素の濃度が著しく増加した。北太平洋亜寒帯域と太平洋赤道域においては、3m以下の藻類が優占していたが、鉄添加によって主に珪藻からなる3m以上の藻類が優占するようになった。更に、植物プランクトン群集の比増殖率から、これら二つの海域では、細胞の大小に係わらず鉄不足による増殖律速を受けていたことが示唆された。一方、南極海沖合域では、現場の群集が10m以上の珪藻で占められており、鉄添加による群集組成の変化は認められなかったが、クロロフィルa濃度の増加は鉄添加系で有意に多かった。従って、外洋高栄養塩域の表層では、鉄濃度が上昇すると、植物プランクトンの生物量が増大し、その影響は特に大型の珪藻で顕著に認められることが示された。南極海で現場の群集が珪藻で占められていたのは、実験を行った測点が、一時的な鉄供給を受けていたことによるとも思われる。

 貧栄養海域である北太平洋亜熱帯域・インド洋アラビア海においても鉄添加実験を実施したところ、現場の植物プランクトン群集の生物量と組成は、鉄添加による影響を受けず、殆ど変化がなかった。鉄以外の栄養塩による律速と考えられるが、鉄の添加直後に一時的な鉄濃度の減少が認められたので、植物プランクトン群集が鉄の取り込み系を活性化していたことが示唆された。

 外洋高栄養塩域での鉄添加実験から、鉄濃度の上昇に伴って珪藻の窒素・リン・珪素消費量に変化が起きている可能性が示唆されたため、珪藻単離培養株を用いて検討を加えた。鉄濃度が低くて増殖が制限される場合、Chaetoceros dichaetaでは、細胞当りの窒素・リン消費量が半分以下に減少するとともに、細胞体積が縮小して単位体積当りの珪素消費量が増加した。Nitzschia sp.では、細胞当りの窒素・リン消費量と細胞体積は鉄制限下でも変化しないが、細胞当りの珪素消費量が2倍に増加した。従って、鉄濃度の増加は、栄養塩のうち珪酸塩の利用を効率化することが示された。

 以上のことから、鉄律速の外洋高栄養塩域では、現場の低い鉄濃度により大型珪藻の増殖が抑制され、栄養塩供給から見積もられる一次生産可能量の2〜8割の生産しか行われていないと結論した。本研究で得られた知見を基に現在の湧昇域で見られるような生態系構造を敷延化すると、鉄濃度の上昇に伴う一次生産量と生産構造の変化は海洋の魚類生産推定量を約16倍にまで変化させ得るものと思われる。

 このように本論文は、外洋の高栄養塩域では鉄不足により一次生産が抑制されている場合が多いことを示し、当該海域が鉄の供給のみで一次生産を増加させ得て、これにより魚類生産量も著しく増加させ得ることを示した。これは今後の海洋開発に新しい展開を可能にするもので、学術上も応用上も極めて貢献するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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