学位論文要旨



No 213311
著者(漢字) 鈴木,順
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,ジュン
標題(和) ラット心室の興奮特性に関する心電学的研究
標題(洋)
報告番号 213311
報告番号 乙13311
学位授与日 1997.03.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第13311号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅野,茂
 東京大学 教授 高橋,迪雄
 東京大学 教授 唐木,英明
 東京大学 助教授 尾崎,博
 東京大学 助教授 局,博一
内容要旨

 心電図とは、心臓の電気的興奮を体表面に装着した電極を介し眼に見えるように増幅して記録したものであり、心電図の波形には心臓の位置や電気軸、興奮のリズム、興奮発生と消退の全過程に関する情報が反映されている。心機能検査の一手法として、心電図が医学・獣医学および生物学の領域に登場してから約一世紀になるが、この間心電図に関する膨大なデータが世界中で蓄積されている。獣医学領域における心電学的研究も多岐にわたり、対象動物も家畜にとどまらず、実験動物から野生動物まで広い範囲におよんでいる。

 実験動物として優れた特性を有するラットは、これまで広範囲におよぶ実験研究の場で用いられてきたが、今後も大いに利用されるものと思われる。このラットについても心電図に関する研究は比較的古くから行われており、もっとも特徴的な点として生後3週齢以降になるとST分節がみられなくなり、心室の興奮・再分極に関係するQRS-T波がヒトやイヌとは異なることが明らかにされている。一方、心電図のQT間隔は、心室の電気的興奮ならびに興奮消退過程を反映しているため、QT間隔の変化は心室における様々な生理的変化あるいは病態と密接に関連している。例えば、QT間隔が著明に延長するような場合には心室期外収縮あるいは多形性心室性頻拍(torsades de pointes; TdP)に移行する危険性があるとされる。また、頻脈性不整脈の治療において、心室不応期の延長(QT間隔延長)を薬効とする抗不整脈剤の使用が、かえって新たな不整脈を惹起してしまう危険性があることも問題となっている。

 現在のところ、ラットの心電図についてはその解析法や解釈に関する研究が不十分なために、薬効・毒性試験において化合物、特にイオンチャネルに作用する抗不整脈剤の心血管系への影響評価にあたっては心電図検査の適用範囲が限られている。ラットは、心血管系へのアプローチが容易な最小の哺乳動物であり、また、多量の背景データの蓄積も可能であるので、ラット心電図の解析法ならびに評価法を確立することは急務である。

 そこで、本研究では、ラット心電図上のQRS-T波の特徴に着目し、電気生理学的あるいは薬理学的手法を用いて、心室の興奮伝播とその再分極様式に関する知見を深め、ついで、これらの検討結果に基づいて、Vaughan Williamsの分類による抗不整脈剤の4つのclassから、代表的な5種類の抗不整脈剤を選択し、それら薬物のラット心電図への影響を、特に心室興奮伝播とその再分極様式に着目して検討することで、ラットを用いた薬効・安全性試験における心電図検査の有用性を実証することを研究の目的とした(第1章)。

 まず、ラット心室における興奮伝播(脱分極)およびその再分極様式と心電図との関連、心電図T波形成の機序ならびに心拍とQT間隔との関連性について検討を行った。その結果、ラット心室の興奮伝播過程は、ヒトおよびイヌで報告されている成績とほぼ一致した。すなわち、ラット心臓では、最初に心室中隔に興奮が起こり、心内膜、心外膜の順に興奮が伝播することがわかった。また、心表面の興奮伝播は、心表面全体に興奮が伝播する時間はヒトやイヌのそれに比べ約1/3の時間(6〜13msec)であったが、ヒトやイヌにおける報告と同様に、心表面の最初の興奮部位は右心室側で遊離壁中心部、左心室側では心尖部であった。さらに、心室の興奮部位と心電図との関係についてみると、心室中隔から心室遊離壁心内膜の興奮到達が心電図QRS群の前半部分を、心外膜の興奮到達がその後半部分を形成する電位であることが明らかとなった。また、心室における興奮の到達は心内膜の方が心外膜に比べて早く、興奮の持続時間は心外膜の方が心内膜あるいは心室中隔のそれに比べて有意に短いこと、興奮の消退は逆に心外膜の方が心内膜に比べて早く起こることがわかった。このことが、ラット心電図の陽性T波を形成する理由の一つと考えられた。その裏付けとして、心内膜と心外膜の単極誘導電位図の電位差をとることにより陽性T波となることが確認された。以上の結果から、ラット心室の興奮伝播とその消退の特徴はヒトやイヌのそれとほぼ同じであることが明らかとなった(第2章)。

 ついで、心室の脱分極および再分極過程の指標であるQT間隔に着目し、ラット心電図のQT間隔が心拍数(RR間隔)の変化によってどのような影響を受けるかを検討した。まず、無麻酔下で標準第II肢誘導心電図を記録し、種々の心拍数における心電図記録からRR間隔とQT間隔の関係を求めた。また、開胸、人工呼吸下で、右心房を電気的に駆動し、その刺激頻度を変えて、心室各部位の興奮持続時間を測定した。さらに、摘出右心標本を用いて、種々の刺激頻度における心室筋細胞膜電位を記録し、刺激頻度と心室筋細胞膜電位との関係について検討した。その結果、RR間隔とQT間隔の相関を求めたところ、いずれの個体においても有意な負の相関が認められた。すなわち、ラットのQT間隔は他の多くの動物種と異なり、心拍数の増加に伴い延長する傾向を示すことがわかった。心室各部位における興奮持続時間と刺激頻度(400、462、500bpm)との関連については、測定した心室のいずれの部位においても刺激頻度の増加に伴って、興奮持続時間の延長が認められた。したがって、心拍数の増加に伴うQT間隔の延長は、心室各部位の興奮持続時間の頻度依存性の延長と密接に関連することが明らかとなった。

 また、心筋細胞の興奮持続時間(APD50、APD90)は、生体位の実験成績と同様に頻度の増加に伴って膜電位持続時間が延長したことから、心拍数の増加によるQT間隔の延長は心筋細胞の活動レベルにおいても実証された。このことから、ラット心臓の再分極過程におけるイオンチャネルの働きがヒトやイヌと異なっているものと考えられた。したがって、心拍数(刺激頻度)とQT間隔との関係、あるいは心臓の興奮持続時間を取り扱う場合、このような動物種差が存在することを十分に考慮する必要があることが示唆された(第3章)。

 最後に、前章までの成績から明らかとなったラット心電図の電気生理学的特性をふまえ、薬理学的に作用機序が明らかで臨床評価の確立している数種の代表的な抗不整脈剤をとりあげ、薬物に対するラット心電図の反応性を検討した。薬物として、Vaughan Williamsの分類によるClassIaからプロカインアミド、Class Ibからリドカイン、Class IIからプロプラノロール、Class IIIからアミオダロンおよびClass IVからベラパミルを選択した。その結果、臨床用量から中毒量に相当する3段階の投与により、洞房ブロックおよび房室ブロック、QRS群持続時間の延長、徐脈等の心電図変化が観察され、ヒトの臨床上問題となる、薬剤に起因する催不整脈作用の検出がラットを用いても十分可能であることがわかった。

 しかしながら、ラットの成績とこれまでのヒトにおける報告との相違点として、1)ベラパミルによる心拍数増加、2)リドカイン、プロプラノロールにおける持続的なQT間隔延長、3)アミオダロン投与直後の一過性のQT間隔の短縮が認められた。この場合、ベラパミルによる心拍数増加作用は、交感神経の遮断によって消失したことから、この心拍数増加には血圧低下に起因する圧反射が関与していることが明らかになった。また、リドカイン、プロプラノロールによるQT間隔延長作用については胸部単極誘導電位図および心室局所興奮持続時間、心室内伝導時間および心室内伝導速度への影響ならびにラット心室固有心筋に対する影響を調べた結果、いずれも心筋細胞の膜電位持続時間に直接影響を与えるものではなく、リドカインの場合は、刺激伝導系から左右心室壁にかけての興奮伝播が不均衡に遅延したこと、また、プロプラノロールでは、心室全体の興奮伝播遅延が密接に関与していることが実証された。さらに、抗不整脈剤静脈内投与後の血中動態とラット心電図変化との関係を検討した結果、抗不整脈剤投与後の薬剤の体内動態はヒトやイヌの成績とほぼ同様であり、血中濃度の推移は不整脈の発現および心電図測定項目の変化とよく関連していた。また、血中濃度曲線下面積(AUC)と投与量との関係をみると、AUC増加の程度が用量比よりも大きいことから、薬剤が心血管系に直接作用しているものと考えられた(第4章)。

 近年、新しく開発される医薬品については、薬効試験ばかりでなく安全性試験についても十分なデータ集積が必要であり、そのためには実験動物を用いた基礎研究の進展が重要である。医薬品の安全性試験に関わるGLP(Good Laboratory Practice)規制において、循環機能検査は現在のところ義務づけられてはいないが、ほとんどの安全性試験で心電図検査が実施されているのが実状である。心電図検査にあたっては実験動物としてイヌが比較的多く用いられているが、今後はラットについてもその必要性が高まることが予想される。心電図検査は循環機能検査法として、医学や獣医臨床で古くから定着しており、簡単にかつ被験体に非侵襲的に実施できるので、ラットを用いた安全性試験においても、循環機能の情報を充実させるために大いに取り入れる必要がある。

 本研究の成果として、ラット心室の興奮伝播および再分極様式ならびにラット心電図の生理、薬理学的特性の一端が明らかとなった。これは、ラット心電図により薬剤の心臓への影響を評価するにあたって有用な知見を提供するものであり、また、薬効評価や安全性評価におけるラット心電図の循環機能検査としての意義をより明確にすることができたと考えられる。

審査要旨

 生体への侵襲が少なく体表面から容易に記録することが可能な心電図は、心機能検査の有力な手法として医学では古くから活用され、獣医学領域においても基礎ならびに臨床の広い分野にわたって応用されてきている。

 一方、ラットは実験動物としての多くの優れた特性を有するために、医薬品の開発研究や化学物質の安全性試験研究などに汎用されている。しかし、ラットの心電図は、成長に伴ってST分節が消失するなど、人や他の動物とは異なる性質を持っていることが知られており、ラットを用いた循環機能検査に際しては十分な配慮が必要である。

 そこで、本研究では心室の電気的興奮時間を示す心電図のQRS-T波の特徴に着目し、種々の電気生理学的、薬理学的手法を用いてラット心室の興奮伝播と消退様式について精査し、そこで得られた知見を背景に代表的な抗不整脈剤のラット心電図に対する作用を検討することで、ラットを用いた薬効、安全性試験における心電図検査の有用性を実証することを研究目的としている。研究の内容は3部に大別される。

 まず最初に、ラット心室の興奮(脱分極)伝播とその消退(再分極)の様式を詳しく調べるために、開胸下のラット心室表面に近接双極電極を直接装着して活動電位を記録する手法により、心室表面興奮伝播図、心表面興奮到達時間と体表面心電図(標準第II肢誘導)のQRS持続時間の相互関係および心表面興奮伝播速度について検討した。さらに、心室各部位の単極誘導電位の記録から心室内興奮伝播順序や局所興奮持続時間を算出している。

 その結果、ラット心室では興奮は最初に心室中隔に起こり、心内膜、心外膜の順に伝播すること、心表面における興奮伝播の最初の興奮部位は右心室側では遊離壁中心部、左心室側では心尖部であり、心表面全体に興奮が伝播するのに要する時間は6〜13msecであること、ラット心室各部位の興奮持続時間は興奮が先行する心内膜側の方が心外膜側より長いことなどを実証した。それらの結果からラット心室の興奮伝播と消退の特徴は興奮伝播所要時間を除けばヒトやイヌのそれとおおむね同じであることを明らかにしている。

 ついで、心室の脱分極および再分極過程の指標であるQT間隔が心拍数(RR間隔)の変化によってどのような影響を受けるかを調べるために、無麻酔下ラットの標準第II肢誘導心電図の計測、開胸・人工呼吸下で右心房を頻度を変えて電気刺激したときの心室各部位の興奮持続時間の測定、さらに、摘出右心室標本の心筋細胞膜電位における刺激頻度と膜電位持続時間との関係について検討している。

 その結果、ラットのQT間隔は心拍数の増加に伴い著明に延長することを認め、この現象は心室各部位の興奮持続時間が刺激頻度に依存して延長した事実や心室固有心筋細胞の膜電位持続時間も刺激頻度に依存して延長した成績と密接に関連しており、ヒトやイヌの場合と逆であることから、ラット心室筋の再分極過程におけるイオンチャンネルの働きがヒトやイヌとは異なる特性を有するものと推察している。

 最後に、上述したラット心電図の電気生理学的特性をふまえ、薬理学的に作用機序が明らかで臨床評価が確立している数種の代表的な抗不整脈剤をとりあげ、これら薬物に対するラット心電図の反応性について検討している。

 その結果、臨床用量から中毒量に相当する3段階の投与により、ヒトの臨床で問題とされている各種の不整脈が出現し、薬剤に起因する催不整脈作用の検出がラットを用いても十分可能であることを実証している。しかしながら、これまでのヒトでの報告と相違する点として、ベラパミルによる心拍数増加、リドカイン、プロプラノロールによる持続的なQT間隔延長などが認められたので、各種の薬理学的および電気生理学的実験、薬物の体内動態実験を追加して、それらの相違の原因を明らかにしており、このような動物種差がみられる以上、ラットを用いる実験にあたってはラット心室の興奮特性を十分理解して成績の評価を行う必要のあることを強調している。

 以上を要するに、本論文はラット心室の興奮伝播および消退様式ならびにラット心電図の生理学的、薬理学的特性の一端を明らかにした上で、ラット心電図により薬物の心臓に対する影響を評価するにあたっての有用な知見を提供しているもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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