ヴェーバー研究の新潮流として、近年、ヴェーバー・ニーチェ関係に注目し、その今日的意義を探求しようとする一団が勢力を強めつつある(モムゼン、ヘニス、ポイカート、イーデン、スカッフ、山之内、大林……)。そこで描き出されるヴェーバー像は、同時代への強い危機意識に裏打ちされ、徹底した価値相対主義の洗礼を受けた西洋近代批判の思想家である。彼の見る人類の歴史は、進化の過程などではなく、運命ないし不確実性に支配されている。この事と関連して、特に後期ヴェーバーの著作には、世界史上各地域、各時代の騎士階級への関心が色濃い。騎士階級こそは、運命の「不安定性、不確実性に敢えて挑戦する孤高の独行者」達であった。そしてそれと対をなし対抗関係をなしたのが、不確実なものを確実と言い放つ祭司階級であった。(『マックス・ヴェーバーとインド』、序章、第1章、「後記」。) 「ヒンドゥー教と仏教」は、マックス・ヴェーバーの代表作の一つ「世界宗教の経済倫理」の一環をなしている。「ヒンドゥー教と仏教」の世界インドにおいて騎士階級を探せば、それは当然、クシャトリヤである。実は「ヒンドゥー教と仏教」はその全体が、ニーチェの問題意識を受け継ぎ、バラモン(祭司)対クシャトリヤ(騎士)の対抗を大きな柱の一つとして構成されている。「ヒンドゥー教と仏教」の主役と従来誰しもが考えていたバラモンには強力な対抗勢力が存在したのである。そしてその対抗勢力クシャトリヤと種々の戦線でしのぎを削り、その戦いの果てに、遂にバラモンの支配が確立する-「ヒンドゥー教と仏教」はこの様な語り口を持っている。 クシャトリヤの側からこの対抗関係を整理し直せば以下のようになろう。 クシャトリヤは初め、バラモンのそれとは異なる独自の世界解釈、宿命信仰を奉じていた。後にバラモンによる業=カースト神義論は、クシャトリヤをも包摂するに至るが、騎士階級の気風、騎士的世界解釈も完全に失われたわけではなかった。クシャトリヤは尚もバラモンとインドの精神的覇権を競い続ける。かくして彼等は、正統派の内部でも、クシャトリヤ独自の救済論カルマヨーガの思想(『バガヴァッド・ギーター』)を生み出したし、異端派の主要な運動(特に原始仏教)もまた、クシャトリヤによって創始された。 ヴェーバー=ニーチェ関係を念頭に置き、まず、『バガヴァッド・ギーター』、カルマヨーガについて、もう少し詳しく見てみよう。 「ヒンドゥー教と仏教」中の『ギーター』論は、三つの部分に分けて考えることが出来る。最初の部分でヴェーバーは、『マハーバーラタ』の中に、クシャトリヤがバラモンの世界解釈とは別に独力で築き上げた宿命信仰をたどっている。第二の部分は、『ギーター』論の本論である。ホプキンズ、ガルベの研究に依拠して、ヴェーバーはカルマヨーガの成立の過程をこう考えた。「宿命信仰(ホプキンズ)→バーガヴァタ派による行為・倫理の強調(ガルベ)→宿命信仰の業神義論への合流(ホプキンズ)→カルマ・ヨーガの成立(ガルベ)」。ヴェーバーは更に自らの『ギーター』研究に三つの独自な要素を加えている。第一に「祭司賤民連関対騎士的貴族層」というニーチェから引き継いだ問題意識であり、第二に、カルマ・ヨーガと適合関係にある階層として、クシャトリヤよりも広いカテゴリー「教養ある俗人層」をあげたことである。第三に、第二の問題を踏まえて、バラモンのそれとは異なる有機体的社会倫理を『ギーター』の中に読み取ったということである。第三の部分は『ギーター』の後世への影響を論じているが、そこではクシャトリヤの没落と共に、カルマ・ヨーガが恩寵・バクティの思想との結合を強めつつ有機体的社会倫理を支え続けた様子が主として語られている。 ヴェーバーの『ギーター』論の次のような脈絡も見落してはいけない。 「職業としての政治」で論じられた「責任倫理」は、晩年のヴェーバー思想の到達点と言えるが、それは、ニーチェ思想を受け継いだ、「現代版騎士道精神」とでも呼び得るものである。それは実のところ、「即事的な(sachlich)世界認識に立脚して、意図の実現のために情熱的に献身しつつも、運命の意味を知ることにより、望ましからぬ結果にも挫けぬ品位ある倫理的態度」と定義し得る。カルマヨーガの思想は、クシャトリヤによってその道が歩まれるとき、責任倫理のこうした定義に照らせば、種々の制約(カースト制度、超越的人格神)を伴ってはいるが、責任倫理のヒンドゥー教的対応物に他ならない。おそらく、ヴェーバーの「職業としての政治」での『ギーター』への言及は、従来、彼の並外れた博識の一端を示すものという程度でしか受止められていなかったのではなかろうか。しかし、インドの騎士階級・クシャトリヤの「英雄ダルマの倫理的意味の問題」に関する思索は、予想外の注目を受けているのである。(以上、『バガヴァッド・ギーター』論については『マックス・ヴェーバーとインド』第2章、参考論文「マックス・ヴェーバーの『バガヴァッド・ギーター』論。) 他方ヴェーバーは、原始仏教の中に、バラモンのそれとは異なり、「神的な力の存在とそれへの神秘的な参入」を自らの問題とはしない「騎士階級の現世逃避」を見ていた。 実は、ヴェーバーの原始仏教論は、『力への意志』でニーチェが示したそれと、ほとんど内容的に重なっている。原始仏教は、人間にとって与えられた世界が、いわば、「パースペクティヴ」のもとで構成された不安定で不確実な世界(仏教の無我・無常論を想起)以外では有り得ないことを、ニーチェ、ヴェーバーと共に知っていた(『ミリンダ王の問い』 「車のたとえ」)。その点で、それはむしろ、ユダヤ=キリスト教的世界観を凌駕していた。バラモン的世界観もまた、この点でそれには及ばなかった。しかし、ニーチェ、ヴェーバーの両者が、そうした不安定で不確実な世界に対して、「新たな肯定」を行い、あくまでも現世のうちで、充実した生を全うしようとしたのに対して、原始仏教は、それの否定を選択した。つまり、原始仏教は「裏返しの騎士的世界解釈」とでも言うべきものであった。こう見て来て初めて、従来、単に「ノイズ」程度にしか受け止められてこなかった原始仏教に対するヴェーバーの以下の高い評価の意味も明らかとなるであろう。ここではとくに原始仏教がキリスト教に対して優位に立つ面が語られていることに注意しよう。 「仏教は……此岸的及び彼岸的生の幻想をいずれも誇りと高貴さとをもって軽蔑する知的階層の、しかもさしあたってはおおむね特権的カースト、とくに軍人カーストからなる知的階層の救済論」(「宗教社会学」)であった。「この教えは、世俗的高慢と自己正義とを排斥する。しかしそれはキリスト教的意味での教化的な自己卑下や情緒的人間愛のゆえにではない。むしろ、生の意味に関する男らしい明晰と、『知的誠実』をもってそれから結論を引き出す能力とのゆえに、である」(「ヒンドゥー教と仏教」)(以上、「原始仏教論」については『マックス・ヴェーバーとインド』第3章で論じた。) このようにカルマヨーガと原始仏教は、クシャトリヤの世界観の一定のバラモン化(カースト=業神義論の受入れ)の後に成立した、クシャトリヤの手になる二つのタイプの有力な救済論であり世界観であった。しかし、両者ともに、インド宗教史において、次第に力を失って行く。前者は、カルマヨーガの思想と共に『ギーター』にはらまれていた超越的人格神への信仰の強化発展により、後者は、上座部仏教、大乗仏教への変質により。さらに、前者の過程にバラモンは、決定的役割を果していたし、大乗仏教においても、バラモン的要素は次第に強化されていった。最後に仏教はインドからほぼ死滅するに至り、イスラームの侵入によるクシャトリヤ階級の滅亡とも相俟って、バラモンの支配が確立する。 参考論文「戦闘者ガーンディー」は、『マックス・ヴェーバーとインド』第2章(III)「ガーンディー、『バガヴァッド・ギーター』、ヴェーバー」と共に、「ヒンドゥー教と仏教」研究の成果を、近現代インド思想史の場で活用することによって成立した論稿である。筆者はここで、マハートマー・ガーンディーの思想にインドの騎士階級クシャトリヤの思想的伝統が息づいていることを確認した。「ガーンディーの宗教」の中核部分には、「騎士的エートス」と呼び得るものが存在したのである。 |