明治維新は、日本史上もっとも大きな政治変革の一つと考えられてきたが、そこに従来とは違った解釈を導入できないか、また維新の研究は世界の他地域における諸革命の理解にどのような示唆を与えるか、それが本論文執筆のモチーフである。 本論文は、主に18世紀末から1868年の王政復古に至る時期、すなわち広い意味での幕末について、政治的側面から分析する。明治期の持続的な変革と制度建設、また経済や社会における長期変動は重要なテーマであるが、ここでは取り上げない。幕末の政治史には長い研究史があるが、なお不十分であり、その影響は維新全体の理解にも及んでいるからである。ペリー到来以前の研究が極めて手薄なのは無論、ペリー以後についても関心が薩長や攘夷運動に集中され、徳川将軍家や公議派大名の研究は軽視されてきた。本論文はその欠落を埋めて解釈上のバランスを変え、さらに日本史の長期展望にも新たな寄与をしようと試みたものである。 本論文は、幕末の日本と維新を通時的・共時的観点から眺めた比較史的考察(第1部第1章、第4部第9章)と、19世紀の対外関係と内政変動を精細な史料分析を通じて解明した部分(第1部第2章、第2部、第3部)の二部からなる。これらは分析のレヴェルが異なり、後者では実証的な事実の確定、前者では時代全体のイメージと分析モデルの提出に重きが置かれる。以下では、第1章から順を追って、内容の要約を行う。 第1部第1章は、日本における「プロト国民国家」の形成について、そのステップとメカニズムを考え、「忘れ得ぬ他者」という概念を導出する。ナショナリズムを国家と住民とを他と差別しつつ一体化しようという運動と定義すると、日本でそれが明確な姿を現し始めたのは近世の初頭であった。戦国大名による重層的支配の一掃、および秀吉による大名連合国家の形成と海賊禁令は、「日本」の領域国家化を招来し、徳川公儀による大名統制と通地域尺度の設定は、国内の統合と均質化の基盤を用意した。ベネディクト・アンダーソンは、日本のナショナリズムは19世紀に「公定ナショナリズム」の形で成立したと考えたが、実際には17世紀に、彼自身の提示する「官吏の巡礼」と「出版資本主義」によって想像空間の均質化が開始されたと解する方が適当である。他方、この二つのモデルは中国におけるナショナリズムの形成を説明できないが、本論は、18世紀日本における国学の分析を通じて「忘れ得ぬ他者」という概念を導き、日本と中国、さらに他の地域におけるナショナリズムの間に共通する意識のあり方を指摘する。すなわち、本居宣長は日本を世界の中心であると主張したが、その口の端から「漢意」批判を行った。そのように、ナショナリズムは常に他者を、否定しようとしても否定しきれない他者を意識しているのである。ただし、ナショナリズムが形成されたと言うには、国家の指導者のみならず、住民の心の中に「忘れ得ぬ他者」が根を下ろしていなければならない。18世紀末の日本ではその条件は不十分であった。本章で「プロト国民国家」、すなわち「国民国家」の原型という表題を使うのはそのためである。 第2章では、前章で成立の由来を確かめた「日本」という政治単位を前提として、18世紀後期から19世紀のアヘン戦争以前の時期における国際環境を概観し、それに対する代表的な外交論として、会沢正志斎の尊王攘夷論と古賀 庵の海外進出論を分析する。その主な所見は、会沢・古賀両者の所論の要約を除くと、次の通りである。1)18世紀後半から東北アジア諸国の相互関係が希薄化する一方、日本ではロシアを始めとする西洋諸国の世界制覇の運動が強く意識されるようになった。2)当時の対外論は、鎖国守旧論・尊王攘夷論・積極型開国論・消極型開国論の4つに分類できるが、この時期には鎖国守旧論が多数意見であった。第5章の大名意見の分析結果にも見えるように、のちそれが消極型開国論に変わったこと、および尊攘論者が積極型開国論との間で揺れ動いたことを考えると、幕末の対外論では対外的な開-鎖の軸よりも内政上の改革-守旧の軸の方が重要であったと思われる。ペリーの来航が寝耳に水であったという通説は全くの誤りであり、日本はむしろ、18世紀末以来西洋と仮想の闘争を繰り返し、予め内外両面にわたる様々な政策のパッケージを持っていたのである。 第2部は開国の決定過程を扱う実証的な論文から構成されている。第3章は、天保末年からペリー来航の前年に至る時期の徳川公儀の対外政策を、オランダ国王の開国勧告と異国船打払令の再公布の二つの問題を通じて分析したものである。この時期の対外政策は、寛政期以来導入された鎖国・避戦・海防という三次元を考慮して論議された。老中阿部正弘は鎖国の維持を目標とし、避戦への配慮をしつつ、打払令の復活によって西洋諸国の日本接近を予防し、さらに万一に備えて洋式海軍の創設を含む海防の強化を図ることを提案したが、天保改革の挫折後増税政策を否定していた海防掛有司は海防支出を嫌って避戦優先を主張し、その結果、ペリー以前においては海防処置はほとんど実行できずに終わった。第4章は、この視点をペリー来航から修好通商条約による鎖国政策の放棄まで延長したもので、和親条約とそれに続く諸条約が通商も通信も含まぬ開港条約であり、その後、幕府は直接の外圧なしに鎖国政策の放棄を決断し、まず友好国のオランダ・ロシアと通商を取り決め、さらにアメリカと通商と国交を定める条約を議定したと解する。いずれも、通説における臆病・怠惰で外圧に一方的に翻弄される幕府というイメージを実証的に否定し、その外見的な無為が、鎖国の可及的維持という基本政策と海防への強い制約、そして情報の周到な分析と判断に基づいていたことを明らかにしたものである。これに対し、第5章は大名の対外意見の変化を、幕府が嘉永6年と安政4年の二度行った対外政策の諮問に対する答申を通じて分析したものである。文書の様式を役職と詰間ごとに分析して、大大名に関しては現存データが統計分析に耐えることを確認した上、嘉永6年には鎖国維持論、安政4年には消極型の開国論が多数意見であることを見出し、大名世論は開国の受容に傾いたが、徳川親藩に開国反対論が根強く、それが安政5年政変の引き金を引いたのではないかと示唆する。 第3部は、開国によって誘発された政治体制の変化に新しい解釈を試みる。従来の学説は、単純化すれば、維新史料編纂事務局の『維新史』のような尊攘運動と公武合体運動の交錯から両者の倒幕への合流へという筋書きか、尊攘運動から討幕運動へという筋書きかのいずれかであった。本論文は、政治課題と主体とを分離し、前者に関しては、開鎖問題、強兵問題、公議問題、王政復古問題、集権化問題の順に争点化したと択え、後者については、幕府、有志大名、尊攘運動家を主要なアクターと考える。そして、従来関心の集中した尊攘運動に関しては論及を避け、逆に研究の手薄であった幕府内部の動向に注意するとともに、有志大名による公議運動の重みを重視する。具体的には、安政5年政変から文久2年8月18日政変までの時期を、幕府有司の強兵改革、有志大名の公議運動、志士の尊攘運動の3者が交錯し、いずれも主導権を確立できない中で幕府の全国支配権が崩壊した時代と択え(第6章)、その後、元治元年に薩摩・越前の公議政体樹立運動が失敗し、幕府と朝廷が和解して「公武合体体制」が成立した結果、公議派が旧尊攘派への連合に動き始め(第7章)、さらに孝明天皇が死去し、開鎖問題に決着が付くと、公議派が割れると同時に幕府も政権独占を断念し、王政復古を名とする薩長と幕朝融合を図る徳川慶喜とがいずれも公議と集権化を企図するようになった(第9章)という筋書きである。この解釈の長期的な含意は、王政復古の重視と否と、また主体の如何にかかわらず、幕末に生まれた政治課題が明治に行われた廃藩置県と立憲政導入の重要な前提条件を形成し、それらの成功を用意したという点にある。 第8章では、幕末の徳川将軍家が創設した洋式軍事部門を対象に、役職と身分の関係の変化を統計的に分析する。その主要な発見は、「家」の格の面では人材登用の制限が緩和したにもかかわらず、「家」内部の身分、すなわち当主・部屋住・次三男・厄介の面では、当主以外の登用制限が強まったという点にある。この事実は、明治民法における家督と長男優先の原則の成立と何らかの関係があるのではないかと示唆される。 第4部第9章は、第2・3部で分析した政治過程をまとめ、さらに明治維新の特徴を近代世界に生じた他の革命と比較しようと試みる。維新は政治体制のみならず、社会の組織を身分を単位とする特権と保護の体系から個人を単位とする自由競争の体系に大幅に変革したが、その過程に生じた死者は著しく少なかった。その要因として、本論文は3つの鍵を提示する。1)近世国家が、二つの中心をもつ二百数十余の「国家」の連合体であったため、解体が容易であり、同時にプロト・ナショナリズムが天皇を中心に構成されていたため、中心の一つが権威を失ったとき、再統合も容易であったこと。2)変革の主体が主に「日本人」の支配身分に限定されており、「外国人」の干渉や庶民の関与が乏しく、ナショナリズム以外のイデオロギーが政治運動に組織されなかったこと。3)近世の政治体制への挑戦がナショナリズムに媒介されたため、上級身分にとっては間接的なものとなり、その強い抵抗を誘発しなかったこと。これらは、主にフランス革命と対比しつつ提出された仮説であるが、他の諸革命と比較するにも有用ではないかと思われる。 |