学位論文要旨



No 213315
著者(漢字) 八木,保樹
著者(英字)
著者(カナ) ヤギ,ヤスキ
標題(和) 自我脅威と死の脅威における自尊心と自己直視性
標題(洋)
報告番号 213315
報告番号 乙13315
学位授与日 1997.03.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(心理学)
学位記番号 第13315号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 二木,宏明
 東京大学 教授 佐藤,隆夫
 東京大学 教授 山口,勧
 東京大学 助教授 長谷川,寿一
 東京大学 助教授 丹野,義彦
内容要旨

 アメリカを中心とする心理学では、近年、自尊心(self-esteem)を扱った研究が増大し、自尊心の維持高揚こそ、精神的健康をもたらすという実証が蓄積されている。しかし、自尊心に拘泥することには、競争の激化、心臓疾患や神経症の増大、対人関係の破綻、美徳の崩壊などの悪弊が指摘され、あるいは、自尊心の高い者と低い者とで異なる動機が主張されたり、自尊心の把握は十全とはいえない。本論文は、この現状を鑑み、日本の被験者を対象に、実験社会心理学の手法によって、(1)自尊心の高い者も低い者も自尊心を維持し高揚するように動機づけられている、(2)自己受容や(自我または死の)脅威の緩和において、自尊心は威力を発揮する、さらに、(3)自尊心を補足するものとして、自己直視性を提起し、自尊心の高い者が高い自己直視を共存させた時、自己はより受容され、脅威はより適切に緩和される、という三つの大きな仮説を提唱し、(1),(2)は第I部において、(3)は主に第II部において、検証しようとするものである。

 第1章では、現代のように心理学が重視されるようになった歴史を心理学史と近代精神史から回顧し、自尊心の陰に隠れるようになった自己欺瞞を嫌う実存主義の思想(汝自身を知れ)を整理し、Karl Japsers や Ernest Becker を基礎として、自己を直視し、自己の「ほんとう」すなわち意味・基準・可能性を選択し、実現しようとする志向性である「自己直視性」を提起した。外的基準にしたがって、他者との比較による優越性としての自尊心を高揚させている現代人でも、自己の在り方を自覚的に選択していくこの自己直視性の習慣を修得することによって、望ましい適応に進展すると仮定したのである。第2章では、自尊心と自己直視性を測定する尺度が構成され、各々の概念の妥当性を確認すると共に、同時に構成された自己受容尺度との関係を検討したところ、自尊心と自己直視性とは無相関で、両者は自己受容と正に有意に相関した。自己直視性は、自尊心とは別に、自己受容に至る手段であり、両者共存のとき最も自己受容が高くなった。この、質問紙法による、平時における適応を示す結果を踏まえ、実験によって脅威における適応を取り扱おうとする本論文は、第I部「自尊心の威力」に移った。

 自尊心は、社会生活を送る上での、他者との比較に基づいた優越性という資源である。資源の少ない自尊心の低い者は、脅威を受けると影響が大きく、自尊心を維持し高揚したいという動機にもかかわらず、これ以上の損失を恐れ、大胆な戦略の駆使を躊躇する。したがって、一見、謙虚であるが、常に敏感に、脅威に出会わないように工夫している。しかし、自尊心の低い者でも安心して駆使できる戦略を準備してやると、自尊心の高い者と同様、自尊心に拘泥している姿を同定することができる。第I部では、このような観点から一連の実験を行った。第3章では、コミュニケーションの相手として異性を選択するという状況が設定され、一般に、相手からの拒絶を恐れて、魅力ある異性を選択することを躊躇する自尊心の低い者も、拒絶の脅威を緩和してくれる要因のある場合(相手の魅力に基づいて選択したのではないという言い訳が使えたり、被験者自身が選択したことが相手に伝わらない、あるいは、魅力ある異性が好意を示してくれる場合)には、自尊心の高い者と同様、自尊心を高揚させてくれる魅力ある異性を選択するだろうという仮説を提唱し検証した。第4章では、現代社会における自尊心とは、他者との比較による優越性に基づいていることを検証する実験が行われ、自尊心の高い者は、優越性の獲得に関わるような状況で、顕著に自尊心を維持し高揚するための反応を示したが、自尊心の低い者は、劣等性をこれ以上強調されないことに主眼を置き、他者(実験者)を意識して、隠微な形で、自己の優越性に拘泥した。たとえば、一生懸命練習してあなたの実力を成績に反映させれば、正確な情報が入手できる、という教示のもと、複数の種類の課題を用意し、どの課題の練習を控えるかによって、回避したい内容を同定する実験を行ったところ、自尊心の高い者は、自分の能力が最高水準に属していないかもしれない危険性、自尊心の低い者は、最低水準にあるのではないかという危険性に直面することを回避した。また自尊心の低い者は、将来、最高水準の能力を獲得できるかどうかを査定するという課題について、十分練習しなかった、と回答し、心理的には、自尊心の高い者と同じく、優越性を志向していた。以上、常に安心を求め、事前に脅威に直面することを回避している自尊心の低い者の特徴を、失敗経験による自我脅威において検証しようとしたのが第5章と第6章である。

 自我脅威において自尊心の低い者が示す謙虚さは"偽物"であることを検証するために、失敗を経験することになる課題の選択の有無を要因として設定した一連の実験が第5章で行われた。選択のない状況は、失敗しても、これは強制された課題だ、という言い訳が可能であり、普段から自己を傷つける状況を回避している自尊心の低い者の基本的特徴に合致したものであるため、自尊心の高い者のように責任のなさを自己主張することなく、謙虚な態度を維持できる。しかし、選択のある状況で、脅威が"本物"になったとき、自尊心の高い者は、価値ある者はふさわしい態度を示さねばならないという内的規範に従って、もはや失敗に関連する対象(課題、優越者)の価値減損を行わないのに対し、自尊心の低い者は、回避している脅威の責任を負わされることによって動転し(謙虚さを提示できなくなって)、優越者の価値減損を行った。また、第6章では、自尊心の低い者でも、自己の価値の低さを意識することなく安心して駆使できる戦略として、自己確認、援助行動を提案し、脅威緩和の威力を検証した。自我脅威を受けた後、自尊心の基盤となりうる価値の高い自己の側面を確認し他者(実験者)にも承認してもらった被験者は、自尊心の高低に関係なく、脅威を緩和できた。あるいは、第三者を援助する機会のあった被験者は、自尊心の高低に関係なく、援助の対象が劣等者であり、意味ある貢献をしたと誇れるような場合、多くの援助を行って、脅威を緩和できた。以上、第3章〜第6章の諸結果は、自尊心の低い者も、自尊心の維持と高揚に動機づけられていることを検証するものであり、自尊心(の基盤となりうる自己概念)が脅威を緩和する大きな威力をもっていることを検証するものであった。とりわけ重要な結果は、自尊心の高い者が選択という行為によって、より望ましい形(真に謙虚な態度)で、脅威を緩和するという知見である。この自尊心と選択の共存の意義は、自尊心の基盤を実験的に同定することを試みた第7章の結果からも示唆される。つまり、自尊心の高い女性は、自尊心の基盤となる女性性を獲得しているにもかかわらず、男性性を発揮している同性の男性性の価値を減損したのだが、これは、自らの選択によって自尊心の基盤を選択し、自尊心を高揚させることの重要性を示唆している。さらに、この"自尊心と選択の共存"は、選択の前提となる自己直視性と自尊心との共存の重要性を示唆しているのである。これを受けて、第II部「自己直視性との統合」に移った。

 第8章では、自尊心のみ尊重される現代において自己直視性は弱い存在であることを検証した。自己直視性と密接に関連する断念の実践は、自尊心維持の戦略として機能しがちである(次に成功を経験したときに断念の価値を強調する)こと、さらに、自己確認の実験状況において、自己直視という特性が自尊心を回復するための代償として利用される(自己を見つめられる人間であることを誇ることによって脅威を緩和する)ことが見出された。第9章では、自己洞察を喚起させるエッセイを手がかりに、自己を直視させたところ、複数の指標で、抑圧の解除が確認され、しかも、自尊心を低下させることが見出された。自尊心の低い者が自己を直視すると、自己中心性が強化され、社会的不適応に向かい、人間観が悪化した。抑圧の解除に伴うこの代価に耐えられたのは、自尊心の高い者だけである。つまり、不適応に至ることなく自己を直視するためには、既に高い自尊心を獲得していなくてはならないという知見が得られた。第10章では、まず、青年期の被験者に、死の脅威を喚起させるビデオを鑑賞させた後、脅威を緩和すると想定されたいくつかの対処方法に接する機会を与えたところ、自尊心の高い者は、優越による対処(優越性を追求することで、死を抑圧すること)によって、顕著に、死の脅威を緩和した。同時に、自己直視性と密接に関連する意味による対処(脅威に直面して自己の意味を追求すること)も担うことができ、脅威を緩和できた。ここに自己直視性が共存したとき、意味による対処は最も効果的であった。次に、老年期の者に聞き取り調査を行った結果、老年期において高い自尊心を維持している者は、死の脅威に直面した時、若者でこそ手に入る優越性に基づく対処ではなく、意味による対処を駆使しようとした。自尊心の低い者は、この「移行」ができず、もはや獲得し難い優越性に拘泥し、自己の死を否認した。自己直視性は、自尊心と合わさって、顕著に、意味による対処を志向させ、死の脅威を緩和し、自己受容を高めた。自尊心と自己直視性の共に高い者は、「長生きしたいが、死ぬことは恐くない」という、両者の統合を象徴する理想的な回答をした。このように、自己直視性は、青年期においては、自尊心の代用として使われる弱さがあるけれども、本論文の最も重要な仮説の通り、高い自尊心と共存することによって、より適切に脅威を緩和することができるのである。

審査要旨

 自尊心の維持高揚が精神的健康をもたらすという事実が多くの実証的研究で裏づけられている反面、自尊心に拘泥することは心臓疾患を中心とする肉体的健康を損ね、競争主義に拍車をかけ、対人関係の破綻、美徳の崩壊をもたらすなど、悪弊も指摘されている。

 本論文は、実験社会心理学の手法によって、自尊心の特徴を把握し、自己受容や自我または死の脅威の緩和における、自尊心の威力を確認し、さらに、自尊心の高い者が高い自己直視を共存させた時、自己はより受容され、脅威はより適切に緩和されることを検証せんとするものである。一連の実験と質問紙法による調査研究とを行った結果、自尊心の高い者は、躊躇なく優越性を追求し、自尊心の低い者も、安心を与えてやると、高い者と同じ傾向を示し、共に、自尊心の維持と高揚に動機づけられ、自尊心が自我脅威の緩和に大きな威力をもっていることが明らかになった。注目すべきは、自尊心の高い者は、課題において失敗を経験した場合、もはや失敗に関連する課題や優越者の価値減損を行わず、脅威を緩和する。逆に、自尊心の低い者は、普段回避している脅威の責任を負わされることによって動転し、優越者の価値減損を行ったという事実である。自尊心の低い者が自己を直視すると、自己中心性が強化され、社会的不適応に向かい、人間観が悪化することを示唆する知見が得られた。青年期の被験者に、死の脅威を喚起させるビデオを鑑賞させた後、脅威緩和のための対処方法に接する機会を与えた研究では、自尊心の高い者は、自己の優越性を追求することで、死の脅威を緩和した。一方、老人を被験者とした聞き取り調査では、自尊心の低い者は、優越性に拘泥し、自尊心によって自己の死を否認しようとする結果を得た。

 以上を要約すれば、本論文は多数の被験者を用いた、40の実験と6つの調査に基づく、自尊心と自己直視性に関する社会心理学的研究の成果をまとめた労作であり、自己直視性は自尊心と合わさって、自我脅威と死の脅威を緩和し、自己受容を高めていることを示した点に意義が認められる。自我脅威の部分に比べ、死の脅威に関する部分はやや実証に弱さが目立つが、このことが必ずしも本論文の価値を損うものではない。そこで本審査委員会は,本論文が博士(心理学)の学位を授与するに十分な内容を持つものであると判断する。

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