学位論文要旨



No 213320
著者(漢字) 佐々木,健一
著者(英字)
著者(カナ) ササキ,ケンイチ
標題(和) フランスを中心とする18世紀美学史の研究
標題(洋)
報告番号 213320
報告番号 乙13320
学位授与日 1997.04.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第13320号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱井,修
 東京大学 教授 藤田,一美
 東京大学 教授 松永,澄夫
 東京大学 教授 佐藤,康邦
 東京大学 助教授 小田部,胤久
内容要旨

 美学思想の現実とは、それぞれの時代、それぞれの文化圏の人びとが、生きかつ実践している藝術理解である。過去の美学思想を再構成すべき美学史の研究は、この生きられた美学を探究すべきものであり、美的体験の様式史となる。本研究は18世紀の西欧美学を対象とする美学史研究である。その文化圏をフランスを中心とするものとして限定するが、フランスは固有の意味における18世紀美学の中心であった。しかし、世紀後半に高まる次の世紀にむけての新傾向の考察に当たっては、本研究も英国(就中スコットランド)とドイツの思想を視野に入れている。序論では、研究の動機、主題、方法を論じ、本篇の概略を呈示する。

 本篇はプロローグとしての序章、エピローグとしての終章の他に、それぞれ4章と3章よりなる第1部及び第2部によって構成される。序章と終章は、ウァトーとモーツァルトという、それぞれの時期における代表的な藝術家の作品存在に注目し、そこに解釈を加えて、その後の思想動向のさきがけとなる美学思想を全体像のかたちで読み取ろうとするものである(思想的著作は分節の点で優れているが、藝術作品は全体性の表現に優れている)。ウァトーとモーツァルトの選択は恣意的なものではなく、美学思想を読み取るという目的から見て、最適の藝術家と考えられる。すなわち、ウァトーは18世紀の美学を、またモーツァルトはロマン派へと発展してゆく新しい近代精神の美学を、それぞれ最もよく表した藝術家だからである。本論文の中心的な主張の1つは、藝術史的に見て特徴的な時代にはいつも、他の藝術にとってパラダイムとなるような特権的な藝術があり、18世紀のそれが絵画(19世紀は音楽)であった、という点にある。それゆえ、18世紀の入口に立って、この世紀を展望するには絵画作品が相応しく、19世紀への通路において新しい精神を捉えるには音楽作品が、最適である。われわれの意図にとって画家のなかでウァトーが最適であるのは、一方において、その画面が、現実を脱却して夢の世界に遊ぶ強いイリュージョンを生み出すという点において、18世紀固有の美学をよく表現しているとともに、他方では、その没入のさなかに、かれの人物たちは内省的な覚めた意識をのぞかせて、世紀後半に強まる近代的な自意識を先取りして示しており、この世紀全体の美学をよく表しているからである。このように、美学思想は、具体的現実的な(当時の言葉では「自然」な)虚構世界への没入から、精神性霊性の次元への覚醒に向かう。この傾向を最もよく象徴する藝術家がモーツァルトである。かれ自身飛び抜けた天才であり、天才がその精神的な力によって作品に霊的な息吹を与えることを、人びとに教え体験させた。そして、そのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』では、目に見えないものの実在を象徴的表現の力によって示すことに成功し、絵画的世界から音楽的世界への移行をなし遂げた。

 この入口と出口の中間におかれた7章が、思想的テクストを解釈し、そこにこの美学史の動向を捉える理論的部分である。第1部では「没入」の美学が(それを本研究では「絵画をパラダイムとする関心の美学」と呼ぶ)、第2部では「覚醒」の美学が中心的な主題となる。美学史の大きな流れは「没入」から「覚醒」へと向かうが、18世紀前半の美学のなかにも「覚醒」の契機があり、後半においても「没入」の理念は消え去ったわけではない。むしろ、「没入」の美学のなかに「覚醒」の契機が含まれていて、それが変化のダイナミズムを生み出していった、というのが実態であり、本研究はその次第を明らかにしようとする。第1部の「没入」の美学こそ、固有の意味における18世紀の美学と言ってよいが、これには2つの核がある。1つは上述の「パラダイムとしての絵画」であるが、もう1つは作品と体験の相関的な様態を表す「関心」の概念である(’interet’とは作品の「面白味」であり、かつ鑑賞者の「関心」である)。「絵画」と「関心」は互いに結びついており、「関心」による没入の体験を可能にするのが絵画的な描写である、と考えられていた。この2つの論点が第1部の最初の2章の主題となる。更にもう1つ別の要素が、この時代の美学にはある。17世紀の末ごろから既に、関心をかきたてる作品の美的な質に対する関心が高まっていた。問題となる「絵画」性は、物語世界を構築するのが基本的なあり方と考えられていたが、それと同時に、静物画や風景画のように物語性が希薄で、美的な質にその効果の多くを依存する作品への関心が高まり、この問題意識が近代美学の礎石となる。この面での思想は、物語性の強い歴史画についても、その優れた質を説明することになる。代表的な理論としてディドロの「関係の知覚」説をあげ、これを考察するのが第3章の主題である。

 さて、18世紀美学の根底は、キリスト教的な旧秩序の崩壊から、人間中心の新しい文化へと展開してゆく動きのなかにある。関心という概念は「自己愛」の類義語であり、美的体験固有の概念ではなく、人間の生存意欲を示すものとしてこの時代の世界観の根幹を表現している。そして思想史は、これを悪と見て人間だけの世界を絶えざる闘争の場と断ずるホッブス的世界観を克服することを目指して、展開してゆく。関心を肯定する美学もその動向のひとこまである。そして、自立した人間を中心とする新しい文化にあっては、価値の主張は常に正当化を求められる。藝術や美も同様である。そこで、このような快に彩られた没入の体験を正当化する根拠を探るのが、第1部をしめくくる第4章の主題である。その答は、ひとの生き方全般について、この時代の人びとが求めた「幸福」の理念にある。上述のような美的体験は、その快のゆえに、また虚構世界のひととの共生を求めるがゆえに、この時代の幸福概念と符合する。

 第2部は、この没入の境地のなかに忍び込んでくる覚醒と、自覚の要素に注目する。藝術作品の世界への強い没入は、同時に現実世界から離脱することである。関心は「無関心」(脱利害)の動きと結びついている。また、関心の最初の理論家であったラ・モットは、作品の具体層の背後に思想的な統一の焦点を想定し、それを関心の核とすると同時に、この思想的な主題を表現する可能性を開拓し、自ら詩人として実践した(近代的な意味での「テーマ」の概念は、これとともに始めて形成されてゆく)。このような「距離の生起」が第5章の主題である。

 第6章は特にディドロの廃墟画についての思想に注目しつつ、廃墟に対するこの時代の人びとの関心の由来を考察する。廃墟とは、端的に時間の像であり、18世紀の人びとは、その時間を自らの存在を虚無化する力として捉えた。すなわち、ルネサンスの頃から知られていた廃墟を、自らの内省を促す対象として発見したのは、18世紀である。この体験を表すのに好んで用いられた概念が「メランコリー」であり「崇高」であるが、重要なことは、そのとき詩の概念が変貌することである。17世紀までの詩の概念は叙事詩や悲劇をモデルとするもので、詩的であるということは物語的である、ということであった。絵画における歴史画の優位を支えていたのも、このような詩の概念である。変化するとは言っても、いまだ近代的な意味での叙情性に至るわけではない。「崇高」なものとは、まず悲劇や叙事詩のなかに見いだされる「大きさ」である。しかし、廃墟は、悠久の時間を開示しつつ、われわれにものを思わせる。この想像力と思索を刺戟するところへと、詩の理念が重点を移してゆく。その変化は始めはわずかなものだが、やがて具体的世界から思想的精神的な世界へと様相を一変させることになる。このようにして、ロマン派の美学が藝術の本質を見いだす≪精神性としての詩≫の概念が形成されてゆく。

 覚醒と精神性への関心の1つの到達点が「作者」の誕生である。これを考察するのが、第7章(エピローグを除く最後の章)の主題である。既に17世紀のなかから、藝術家への関心は認められる。しかし、18世紀の正統的な美学においては、作品の価値はそれが藝術であることを忘れさせるところにあり、天才のしるしは自らの姿を隠すことにあった(そのような作品が「美しい」と言われたのである)。しかし、作品世界の完結性そのものではなく、その思想的な焦点が注目され、鑑賞者が自意識を高めるとともに、作品世界の精神的な主体としての作者が体験のなかで求められるようになるのは、当然である。その新しい美的体験の様式を、例えばシラーの「近代的」な文学の思想のなかに見いだすことができるし、モーツァルトの天才的な音楽のなかに聴くことができることは言うまでもない。

審査要旨

 美学史の研究の課題とは、個々の時代・文化圏の人々が共有していた「美的体験の様式」を明るみに出すことにある、と規定する論者は、次の相互に連関する二つの仮説、即ち第一に、18世紀ヨーロッパに固有の美的体験の様式が、芸術作品の呈示する虚構世界の内に芸術鑑賞者が「没入」することの内にあり、第二に、こうした虚構世界への没入の内にはそこからの「覚醒」の契機も含まれ、この契機が顕在化するところに19世紀的ないし近代的芸術体験の様式が成立する、という二つの仮説を提起する。即ち、「没入」から「覚醒」への移行の内に、18世紀美学史は展開する、というのである。論者によれば、18世紀の人々にとって没入的体験を典型的にもたらす芸術ジャンルは「絵画」であり、こうした体験は「関心」という術語によって指し示されていた。それに対し、覚醒的体験は鑑賞者が芸術作品によって象徴される「精神的な世界」へとその注意を向けるところに成り立ち、このような体験はとりわけ「音楽」によって与えられる。それゆえに、18世紀美学は、「絵画をパラダイムとする関心の美学」から「音楽」をパラダイムとする「精神性」の美学への展開とみなされる。こうして本研究は、「没入」の契機を論じる第1部と、「覚醒」の契機を論じる第2部とからなり、没入の美学を典型的に具現化したウァトーの絵画と、覚醒の美学を典型的に具現化したモーツァルトの音楽(殊に歌劇『ドン・ジョヴァンニ』)に関する美学的考察が、それぞれプロローグ、エピローグとして置かれる。第1部では、第1章が「関心」の概念を、第2章が「絵画」の概念を検討し、その上で第3・4章は没入の美学の本質が「幸福」としての「共生」にあることを明らかにする。第2部では、第5章が「覚醒」の契機を没入からの「距離の生起」として捉え返し、その具体例としての第6章「廃虚」論を挟み、第7章は覚醒への着目の到達点として、18世紀末における「作者」(即ち鑑賞者によって作品の彼岸に措定される芸術家)の誕生を論じる。

 本研究は論者によるこの10余年の美学史研究の集大成であり、400字詰め換算で1300枚を超える大作である。ウァトー、モーツァルトの作品解釈に即した美学研究は、論者のいう「美的体験の様式史」をいわば直観的・全体的に示している。また、「関心」の主題化はカント以降忘却された18世紀の理論を浮かび上がらせ、「作者の誕生」に関する議論は18世紀における「作者」の不在証明を通して、「作者」を自明の概念とする近代美学への反省を迫る。論者のいう「共生」の社会哲学的含意や、論者が「覚醒」と結びつける「精神的世界」の内実など、さらに検討を要する点もあるが、それらは本研究が提起した新たな問題提起であり、他の論者による今後の理論的応答が期待される。

 以上より、本研究は博士(文学)に値すると判定される。

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