学位論文要旨



No 213321
著者(漢字) 萓沼,紀子
著者(英字)
著者(カナ) カヤヌマ,ノリコ
標題(和) 安藤昌益の学問と信仰
標題(洋)
報告番号 213321
報告番号 乙13321
学位授与日 1997.04.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第13321号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 野山,嘉正
 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 吉田,伸之
 東京大学 助教授 菅野,覚明
 東京大学 助教授 長島,弘明
内容要旨

 狩野亨吉の稿本『自然真営道』発見以来、安藤昌益は平等主義、原始共産主義を唱えた江戸期には特異な思想家であると、一貫して捉えられてきた。本論文はそうした半ば定説化した昌益像に、異議を唱えることからスタートしている。従来の安藤昌益研究は、殆どが昌益の身分制批判や「不耕貪食の徒」批判に重点を置いて、社会思想として評価するという近代主義の色彩が強かった。従って、それらの研究では当然の如く、安藤昌益の個としての姿を資料の中から掬い上げるという視点が欠落していた。わたしの研究はとくに新しい資料を発見したというわけではない。むしろ、従来の資料をそのまま用いたものだ。但し、同じ資料でも視点を変えて読むならば、全く異なった昌益像が立ち現れてくることを実証したといってよいだろう。即ち、本稿は歴史学者とは異なった想像力を以て、資料を読み解くことから始めた。

 まず、第一部「安藤昌益の顔」は、昌益の伝記と彼の学問集団を巡る論である。安藤昌益の伝記に関する資料は極めて少ない。現在発見されている資料は、昌益の出身地である秋田県大館市の一関家資料、及び昌益が医師として滞在した八戸藩の日記類を含めた、八戸資料と通称されているもの、それに稿本『自然真営道』などに見られる幾つかのフレイズである。しかし、僅かな資料の中にも昌益像を語って止まない内容が含まれている。

 第一章「八戸門人の横顔」は、八戸藩の宗門改帳の新解釈を導入としている。延享三年と推定されているこの宗門改帳は、上杉修の発見以来、安藤昌益とその家族構成がわかる重要な資料とされてきた。この資料によって昌益の年齢もわかったし、同時に八戸における昌益の住所が十三日町ということもわかった。この商家の立ち並ぶ一等地に、それも持ち家に昌益が住んでいたと見られてきた。だが、わたしはその同じ資料から、昌益の家が大坂屋忠兵衛の邸内に建てられた別棟であると解した。わたしの読みが正しいとすれば、昌益の八戸における位置は大いに変わってくる。大坂屋忠兵衛が自らの邸内に昌益を迎えて、確龍堂という私塾を興した可能性が浮かび上がるではないか。大坂屋は昌益のパトロンということになる。さらに八戸資料を分析すると、昌益の門弟間には重大な分裂があったように見えてくるのである。人間の集団には必ず分裂と抗争が生じる。それは当然過ぎる程、当然なことだ。この分裂を乗り越えることによって、昌益には古いものとことごとく決別し、新しい学問を形成しようという闘争心が芽生えたのではないか。神山仙確を中心に確龍堂に残った者たちが刊本『自然真営道』を出版し、結束を誇るために新たに「転真敬会」を結成したのではないか。その証拠は、稿本『自然真営道』二十五巻「良子門人問答語論」である。その文章構造を分析するならば、そこには昌益集団間の抗争の軌跡から、さまざまな人間模様までが見えてくるのだ。

 第二章「安藤昌益の顔」は、晩年の昌益が故郷の二井田村で、どのように迎えられたかを解き明かしたものである。大館資料と呼ばれている一関家文書の中に、「掠職手記」と通称されているものがある。これによると昌益は宝暦十二年十月十四日二井田村で病死したとあり、門弟たちが彼の死後石碑を建て、その石碑銘に「守農大神」と書いたことから掠職の聖道院の怒りを買い、一大事件となったのだ。従来この「守農大神」の一文を巡って幾多の論議があった。果たして昌益は、自分のことを神と呼んだのだろうか、と。だから、「石碑銘」は昌益が書いたものではないとさえ言われた。だが、わたしの見るところによれば、昌益は自分自身を「守農大神」と認めたのである。はっきり言えば、彼は己を神として祭ったのだ。それも生きながら神と祭ったのだ。それは、石碑銘の後に「宝暦十一年 守農大神確龍堂良中先生 十月十四日 在霊」と記されている意味を解き明かすならば、おのずと明らかになろう。わたしはこの「宝暦十一年十月十四日」こそが、昌益が生きながら神として祭られた日ではないかと推察している。二井田村の門人たちは、昌益を農業指導者として受け止めていたわけではなかった。このことは極めて暗示的であり、重要である。この二井田村事件はたんに昌益の没後、彼の門弟たちと温泉寺や掠職らとの間で起ったトラブルというよりも、宗教争いの様相を呈していたことを認識すべきだ。この事件を通して、昌益の二井田村における位置が、極めて宗教預言者的であったことがわかるのだ。

 第一部終章の「コンプレックスから平等へ」では、安藤昌益の平等思想がどこからきているかを論じた。従来、昌益の平等思想がどのようにして形成されたかを考察する場合、いずれかの学統や古典書籍からの知識にその源を求めようとした。だが、それだけではどうしても解明出来なかった。安永寿延は、寛延年間当時の八戸における飢餓体験が、昌益の思想に決定的影響を与えたと見た。しかし、人間の思想を形成は、そのような外因よりも内因に大いに左右されるものとわたしは解釈する。昌益の場合、それは何か。彼にはコンプレックスがあった。そのことを『統道真伝』の記事をもとに推論した。彼が都会(たぶん大坂)に勉学へ出たことは確かである。だが、言葉のコンプレックス故にいずれかの塾に入ることも出来ずに、独学で『倭漢三才図会』を学んだろうというのが、わたしの推論である。昌益は八戸に現れたばかりの頃は、博識な儒者として鳴らしていた。けれども関立竹一派の攻撃を受けて、昌益は伝統的学問を前面否定する途を選んだのである。昌益は八戸に滞在した半ば頃から、都会への反感を強め、わたしには先生は誰もいないことを高らかに宣言するようになるのだ。これは田舎者コンプレックスを見事に逆転させたことになろう。のみならず、東北の片田舎にこそ人類を救う真理が隠されていると主張するようになった。それが昌益の徹底した平等思想の背景ではなかったか。

 第二部は、安藤昌益の学問の特徴とその背景を論じたものである。

 第一章「奥羽博物学派の成立」は、昌益の学問の特徴が博物学であることを、それも奥羽地方からの視点で自然界を捉えた博物学だということを明らかにした。従来から昌益の学問が博物学的であることは指摘されてきたが、稿本『自然真営道』は博物学から脱出することを目標にしていると見られてきた。わたしは昌益の目指した学問とは、博物学そのものであったと考える。但し、新しい博物学を彼は志向していた。昌益の初めての著作と見做される『暦大意』は、『倭漢三才図会』を「虎の巻」として成り立っていた。昌益は門弟の分裂を契機に、正統的学問の権威から脱出することを決意する。それはまず、中央の学問が地方の実情を知らないという視点からなされた。そのことを彼は自然を知らぬという表現で批判した。それが刊本『自然真営道』の立場である。彼は依然として『倭漢三才図会』の知識に頼ってはいたが、一方では、『倭漢三才図会』を乗り越えようとしていた。それが、畿内や江戸の常識では自然の真実を捉えることは出来ないという、昌益の主張であった。彼は奥羽地方の視点から「転定」=宇宙全体を捉えるならば、正しい自然観がもてることを言い、それこそを新しい博物学として主張する。昌益は東北という地域から物事を見たとき、天下の大知識人たる寺島良安ですら、大きな過ちを犯しているということに気付いた。今まで彼程の博識はいないと考えていた人物とて、何ら畏るるに足らずと、自らの観察眼を以て良安に対抗することが出来た。その自信は『統道真伝』に見えている。やがて、稿本『自然真営道』に結実したものは、『倭漢三才図会』を凌駕した奥羽の博物学だった。

 第二章「安藤昌益と北辰信仰」は、昌益の思想を民俗学的視点から捉えた論である。昌益学の中心は朱子学で成っており、その互性の進退論と言われるものも陰陽五行論を変形させたものであることは、何人も異議のないところである。昌益の宇宙論には北斗七星を天体の中心と捉える見方があるが、それは星占いとして中国の古い文献にある。それらは既に指摘されてきたことである。だが、北斗七星と生物の生殖機能とを結びつけたり、米と人体とを表裏の関係にあるなどと見たりするうさん臭い見解を、昌益はどこから体得したのかは全く解明されてこなかった。わたしはこれらを北辰信仰と穀霊信仰という土俗的民間信仰が、昌益の潜在意識の中で合理化されることによって、「直耕」思想になったことを論証した。東北地方における北辰信仰の水脈を辿りつつ、それが穀霊信仰と結びつくところに東北地方の祭礼の特徴がある。昌益の潜在意識には、このような土俗的なものが内面化されていたのではないか。なぜなら、昌益の思想は合理性を装いながら、実に非合理の世界に生きているからだ。神、魂といった非合理なるものが万物創造の中核にあるとの信念は、昌益の中で情念化され、昌益の学問を突き動かしていると解すれば、第一部で述べた「生き神」の問題にも整合するであろう。八戸の知識人たちから侮蔑を与えられたことこそが、正統派の学問をすべて否定する強い衝動となっていたとすれば、逆に、農民や庶民の素朴な情念を合理化して見せることによって、己の立地点を見出し得たに違いない。彼は庶民の素朴な信仰を合理化していく中核として、北辰信仰と穀霊信仰という農業に最も関わりの深いものを選び取っている。そのように見てこそ、昌益の主張は、東北地方の農民層の思いを代弁するものだと言うことが出来るのである。

審査要旨

 本論文は、『自然真営道』で知られる江戸時代の思想家・安藤昌益(1703〜1762)についての研究で、第一部「安藤昌益の顔」、第二部「安藤昌益の学問と信仰-確龍堂の世界-」の二部から成る。第一部には、第一章「八戸門人の横顔」、第二章「安藤昌益の顔」、終章「コンプレックスから平等へ-安藤昌益の平等思想-」の論考を、第二部には、第一章「奥羽博物学派の成立」、第二章「安藤昌益と北辰信仰」の論考を、それぞれ収める。

 第一部は昌益の伝記と門人についての諸論から成り、昌益を八戸に招いたパトロンを大坂屋忠兵衛と推定し、門弟間に抗争・分裂があったことを指摘して、確龍堂(昌益の私塾)に残った神山仙確らを中心に、結束を誇示するために刊本『自然真営道』が出版され、転真敬会が組織されたとする(第一章)。また、故郷の二井田に戻った晩年の昌益について、二井田の門人にとって昌益は農業指導者ではなく宗教予言者的な存在であったことを指摘する(第二章)。さらに、昌益独特の平等思想の由来を、上方遊学時の都会文化へのコンプレックスからする独学に求めている(終章)。

 第二部は昌益の学問の特質にふれた論で、昌益が寺島良安の『倭漢三才図会』に多大な影響を受けて出発しながらも、奥羽の農耕と自然に対する観察を通じて、都会派の博物学とは違った独特の奥羽博物学を確立していったことを論じ(第一章)、また北斗七星と生物の生殖機能を結びつけたり、米粒と天地と人体が一つの原理に貫かれているとする特異な昌益の思想の中核に、奥羽の土俗的な北辰信仰と穀霊信仰があることを指摘する(第二章)。

 従来の昌益研究は、昌益の思想の平等主義・原始共産主義的な側面に専ら比重を置き、また社会思想家・農民運動家としての昌益像を強調して、その思想の由来を様々な先行学問に求めてきた。それに対して本論文は、昌益の生まれ育った東北の風土を、単なる思想形成の背景ではなく、思想の内実にまで影響を与えた最重要のモメントと見なし、昌益思想の土俗的・民間信仰的側面を明らかにし、新たに民間宗教者的な昌益像を提示したところに大きな意義がある。引用した文書の解釈、博物学の規定等に、やや慎重さを欠く点も見受けられるが、全体として、近代主義に傾いた従来の研究が見落としていた昌益の一面を明確にしたことは評価できる。よって、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当すると判断する。

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